──狼と鴉──
文さんはまだ半人前ってところですかね。
いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、椛がちょうど哨戒天狗として、部隊長とやらに選ばれたときだ。
まだ寒さの残る初春の頃だった。桜の蕾がはち切れんばかりに膨らみ、今か今かと待ち構え、草原がざわめき立っている。こういう時期には、のどかな花畑に触発されたのか、頭の中まで花畑になり、間抜けなことを言う馬鹿が増えるのだが、例に漏れず、椛も訳の分からないことを口にした。
「私は今日から、哨戒天狗として一人前になったわけですが、文さんの新聞はいつまでたっても、下らないじゃないですか」
「そんなことないですよ」
「ありますって」
一人前の哨戒天狗は上司を唐突に馬鹿にしたりはしない。そう目で訴えるも、彼女は気づかなかった。一人前ではないから気づかないのだ、と内心で毒づく。
「私はずっと努力してたんです。努力して、ようやくこの立場に立てたんですよ。でも、文さんは努力してないじゃないですか。新聞だって、滅茶苦茶なこと書いてますし、ほとんどが自作自演って、酷すぎです」
「努力の賜物ですよ」
「方向性が違いすぎです。バンドマンだったら解散してますよ」
「何ですか、それ」やはり、彼女の頭は花畑になってしまっている。
「さすがに下らなすぎです。おお寒い。急に冬が戻ってきましたよ。そんな下らないことばかり言っているから、いつまでも、半人前なのです」
「私はもう一人前ですよ」
私はわざとらしく鼻で笑った。肩をすくめ、そのまま足下の石を川へと蹴飛ばした。ぽちゃんと小気味よい音が響き、水面に幾重もの輪が広がる。椛の顔が、その川に反射し、いびつに歪んだ。
「椛はまだ半人前ですよ」その、歪んだ彼女の顔に私は語りかける。
「テケテケも驚くほどの半人前です」
「部隊長になったんですよ? 文さんもよく、立場を考えろ、って言ってたじゃないですか。ようやく良い立場になれたんです」
「部隊長ごときじゃ一人前を名乗れませんよ」
椛の真っ白な髪が逆立ち、目が大きく見開かれる。馬鹿にされたと思ったに違いない。正解だ。私は馬鹿にしたのだ。
「部隊長なんて、生きていれば誰でもできますよ。オタマジャクシが蛙になるのと一緒です」
「一緒じゃないですよ。なら、私はどうやって一人前になればいいんですか」
「そうですね」私は腕を組み、両目を閉じた。うーん、と唸り、考え込むふりをする。つまり、実際には何も考えていなかった。私が椛を一人前だと認めることなど、絶対にあり得ない。どうあがいたところで、彼女は不出来で、不完全だ。
だが、そう伝えると、ガミガミとしつこく噛みついてきそうだったので、適当に「勝てばいいんですよ」と返事をした。
「映画とかで見たことありませんか? 弟子がなんやかんやで師匠を打ち倒した後、死にゆく師匠が最後の力を振り絞って『お前もこれで一人前だな』って伝えるという、新鮮味のない陳腐な展開」
「陳腐ではないですけど」
「あれですよ」
「あれって、どれですか」
「椛が一人前になるには、師匠を倒さないといけないんです」
自分で言っておきながら、苦笑してしまう。なんだそれは。師匠だなんて、そんな奴いないじゃないか。きっと、椛も鼻を鳴らしてくるだろうな、とため息を吐く。 が、予想外なことに「なるほど」と妙に真剣な顔つきで椛は笑った。
「なら、私が一人前になるためには、文さんを倒さないといけないんですね」
「え」
「そうと分かれば、特訓しないと」
「あやややや。いつから私が椛の師匠になったのですか。勝手に弟子を気取るだなんて、寒気がするほどおこがましい。椛を弟子にとるくらいであれば、まだオタマジャクシかテケテケの方が幾分かマシです」
「仕方ないじゃないですか」べえっと舌を出し、渋々と息を吐く。
「だって、師匠を倒して、死ぬ直前に『お前は一人前だ』って言われなければならないんですよね。殺しても心が痛まない上司なんて、文さんだけですもん」
「もんじゃないですよ」
「あ、でも」ぽん、と広げた左手の上に拳を打ち付けた椛は、そういえば、と目線を左上にあげた。
「まえ、文さんに勝ったことありましたよね。昔、私と訓練しているときに」
「そうでしたっけ」
「てことは、私はもう一人前ですね。ほら言ってください。お前は一人前だって」
「私はまだ死にそうになっていませんし、そもそも、それはノーカウントです」
「どうして」
「だって、本気を出していませんから。本気の師匠に勝たないと意味ありません」
「文さんが本気を出したとこなんて、見たことありません」と椛は生意気にも、不満そうな顔をする。「そんなんじゃ、絶対に一人前になれないじゃないですか」
「もし一人前になったら、ご飯でもおごってあげますよ」
「メリットが少なすぎます!」椛は情けない声を出した。
そんなんだから一人前になれないのだ、と思わずにはいられない。
この調子では、せっかく持ってきたこれも台無しだな、と私は椛に隠すように翼で隠していたそれを掴みあげる。すると「それ、なんですか?」と椛が訊ねてきた。
「さっきから気になっていたんですけど、宅配便でも始めたんですか」
「始めませんよ」
持っていたのがバレていた気恥ずかしさと、退路を断たれた動揺を隠すために、早口でそう言い、そのまま川原へと投げ捨てる。
「これはプレゼントです」
「プレゼントって、誰の」
「あなたへの、ですよ」
茶色く煤けた麻袋だ。先を縄でくくりつけてあるだけのそれは、確かにプレゼントとは言いがたい見た目をしている。ぱっと見では配達物に見えても仕方がない。 が、椛が驚いたのは、その無骨な袋にプレゼントが入っているということではなく、私が椛にそんな物を用意していた、という方らしかった。
「なんでプレゼントなんか」
「部隊長になったお祝いですよ。ほら、早く開けてみてください」
不安そうな顔になった椛は、恐る恐る袋口のロープを解き、中を覗き込む。そして、え、と戸惑いの声をあげた。私と袋とを交互に見比べ、袋の中の物を取り出す。
「私はてっきり、どっきり箱みたいになってると思ったんですけど」
喜ぶべきか、安心するべきか分からなかったのか、彼女は微妙な顔になっていた。「まさか本当にプレゼントだとは。え。何でですか。何を考えているんですか」
「普段のお礼ですよ」
「なんか怖いんですけど。文さんが剣と盾をくれるだなんて、びっくりです」
最初こそ、おっかなびっくりとしていた椛だったが、罠ではないと分かると、右手に剣を、左手に盾を持ち、こちらに構えた。真顔になろうと努力しているが、頬は緩んでいる。彼女の給料では買えないような立派な武具だ。きっと、私がそんな物を善意でくれると思わず、驚いているに違いない。だが、残念なことに、私はそこまでお人好しではなかった。
「せっかくなんて、写真を撮ってあげますよ。椛の晴れ姿です」
「どうしたんですか。何か悪い物でも食べたんですか?」
「食べてませんよ」
はいチーズ、と一方的に言い、シャッターを切る。椛の顔には少し動揺が浮かんでいたものの、剣を振り上げ、勇ましいポーズをしっかりきめていた。吹き出しそうになるのを、必死にこらえる。
「ばっちりですよ、椛」私は口元を押さえながら、近づく。
「新聞の一面に相応しい写真が撮れました」
「一面にするんですか」
「きっと、人気が出ますよ」
えへへ、と珍しく照れ笑いをした椛は、手に持った剣と盾を裏返し、まじまじと見た。見て、固まった。顔が一気に赤くなり、目が鋭くなる。私は笑いをこらえきれず、噴き出す。らしくもなく、腹を押さえて爆笑してしまった。
「なんですか、これ」椛が酷く情けない声を出す。
「何って、見て分かるじゃないですか。盾と剣です」
「そうじゃなくて、ガラですよ! 河童の仕業ですね! 酷すぎです。うわぁ、なんで気がつかなかったんだろう」
椛の剣と盾を、もう一度見る。それぞれ、大きくキュウリが描かれ『九里の道は河童から』と意味不明な格言じみた文字が彫られていた。あまりに不格好で、使えた物じゃない。ださすぎだ。
「本当は私が使うために、河童に頼んだんですよ。が、にとりに頼んだのがいけなかった。案の定、余計なことをしやがって、使えなくなってしまったので、椛にあげることにしたんです。記事にすれば元も取れそうでしたし」
「こんなの、私だって使いたくないですよ」
「半人前には相応しいですよ。一人前になるまで、使い続けてください」
「いやです」
「まあ、椛は正義感だけは一人前ですけどね」私はカメラをゆらゆらと揺すりながら、鼻を鳴らす。「真面目過ぎるから、こうなるんです」
「真面目なのはいいことですよ。私の唯一の取り柄なんですから」みっともない武具を持ったまま、椛は胸を張った。どうして自分に取り柄があると思い込んでいるのか、理解に苦しむ。
「真面目は大事です。不正をせず、必死に頑張って、真面目にやってきたから部隊長になれたんです。きっと、私が死んでも、受け継がれると思いますよ」
「受け継がれるって、何がですか?」
「犬走椛は真面目だった、という言伝です。一人前の真面目だったってね」
「てことは、一人前の馬鹿ってことですか?」
「なんでそうなるんです」
「馬鹿真面目って、よく言うじゃないですか。馬鹿は真面目。略して馬鹿真面目」
「そういう意味じゃないですよ」
結局の所、彼女は新しい武具を新調したのか、その河童製の剣と盾を一度も使わなかった。もうすでに捨てられてしまったのだろうか、とそれらに思いを馳せているところで、大丈夫か、と声が聞こえた。世界がぐらぐらと揺らぎ、頭が痛くなる。大丈夫か。大丈夫か。いつの間にか、椛の顔がぐにゃりと歪み、彼女の身体から血を噴き出す。お前のせいだ。そう声が聞こえた。誰の声か。誰の声でもない。目を閉じているはずなのに、視界は変わらない。大丈夫か。空から落ちてくる。私は目を伏せる。伏せることすら、できない。
「大丈夫か! おい!」
耳元で大きな音が響き、私は飛び起きた。頭がぐるぐるとし、考えがまとまらない。辺りを見渡し、自分の体を見る。そこで、ようやく先ほどのが夢だったと気がついた。懐かしい感覚と、薄ら寒い恐怖が頭にこびりついている。私は寝ていたのか。いったい、いつの間に。直前に何があったのか思い出そうとするも、上手くいかない。掛け布団を蹴り飛ばし、立ち上がる。私の家だった。なぜかベッドではなく床で寝ていた。
「やっと起きたか」すぐ前から声がし、ぎょっとする。萃香様が、げっそりとした顔で私を見上げていた。「お前は鯉の物真似をしないんだな」
「いま、何時ですか」
「もう朝だよ」彼女は時計を指差す。七時にちょうどなろうとしていた。
「寝過ぎだって」
「私はいつの間に」
「覚えてないのか」
やけに額が傷む。手で押さえると慣れない感触がした。包帯が巻き付けられている。どうして。怪我をした覚えなんてないのに。
「おまえ、倒れたんだよ。まったく、鴉天狗が情けない。そのせいで、私は二人も背負って医者に行かなきゃならなかった」
「二人?」
「椛とお前だよ。空から落ちてきただろうが。血塗れの椛が」
その一言で、記憶が甦っていく。見るも無惨な姿になった椛の姿が鮮明に甦り、同時に吐き気が襲ってくる。えづき、口を押さえる。生気がなくなり真っ赤に染まった彼女の顔を、原型が分からないほど潰れて骨が飛び出した彼女の足を、剥き出しの贓物がぬめりと光る彼女の腹を、思い出してしまう。
「大丈夫か」萃香様が、心配そうに声をかけてくる。彼女のそんな声を、初めて聞いたかもしれない。「どこか痛むのか」
「大丈夫です。それより、椛はどうなったんですか?」
「どうって、お前」
「死にましたか?」
萃香様は、ぶんぶんと首を横に振る。「いや、死んでないよ」
「そうですか」
ほっと胸をなで下ろし、すぐに下ろした胸を元に戻す。私が椛を心配しているなんて、冗談でも萃香様に思われたくなかった。
「それで、椛は今どこに? 病院ですか」
「気づいていないのか」
「気づくって」
「後ろだよ」
後ろ? 後ろがどうしたというのか。ゆっくりと振り返る。振り返り、唖然とした。私のベッドの上で、椛が横になっていたのだ。私が床で眠っていた理由がようやく分かった。
「萃香様」
「なんだよ」
「椛ではなく、私をベッドで寝かせてくださればよかったのに」
「怪我人だぞ。それに、お前も椛が怪我して、ショックを受けていたじゃないか」
「受けていませんよ」
椛を見る。いつの間にか治療が施され、包帯でぐるぐる巻きにされていた。が、真っ白だっただろう包帯も、既に血が滲み、赤く染まっている。腕の位置や足の向きも正しい方向へと直っているが、それでも不自然だった。顔にも包帯が巻かれているせいで、表情は分からない。
「ショックなんて受けていません」私はもう一度繰り返す。同じことを二度言うと、余計に嘘くさく感じると分かっていたのに、それでも言葉は勝手に零れ出る。
「前にも言いましたけど、私にとって椛は、鬱陶しい蚊みたいなものなのですよ。やっと蚊が潰れて、清清しています」
「でも、お前は虫愛好家なんだろ?」
「虫愛好家だなんて」いるわけない。そうだ。そんな奴はいない。馬鹿で、何も考えず、ただひたすらまっすぐな彼女のことを好む奴などいない。どんな下らないことでも真剣勝負にこだわる彼女のことを好む奴などいない。些細な不正も許さないと、反吐が出るほど無意味な正義感を滾らせる彼女のことを好む奴などいない。だから彼女は襲われた。四肢を引き裂かれ、腹をえぐられた。そういうことなのか。
「でも、まあ。許されはしないってよ」萃香様は、私の肩を叩き、言う。
「許されないって、椛の傲慢さがですか?」
「予断だよ」
「え」
「予断は許されない。今は息があるけど、いつ死んでもおかしくない、らしい」
「らしいって」
「医者が言っていたんだ」
だったら、どうして、と私は叫び声を上げそうになる。大きく息を吸い、吐く。落ち着いて言葉を発しようとするも、ひっく、としゃくり上げてしまう。わざとらしく咳払いをし、無理やり口を開いた。
「そんな危うい状況なら、どうしてここに連れてきたんですか。入院させといてくださいよ」
「無駄だからだろ」萃香様は短く、ぶっきらぼうに言い放つ。
「治療をしても意味ないから、入院させてくれなかったんだろうさ。きっとね」
私は医学に詳しくもないし、興味もない。だが、普通に考えて。重篤患者を家に帰すのは、手の施しようがないと病院から追い出すのは、諦めざるを得ないからではないのか。命を、見捨てなければならないからではないのか。
口の中に何か渋い物が上がってくる。視界がゆがみ、慌てて上を向いた。そのまま何も言わず、玄関の扉を開く。
「どこに行くんだよ」そう言う萃香様も、私のすぐ後ろに着いてきていた。
「少し、頭を冷やしてきます」
「私が今から出かけるから、椛の面倒を見てやってくれよ」
「どこに行くんですか?」
「頭を冷やしに行くんだ」冗談めかして彼女は笑い、「なんてな」とすぐに真顔に戻る。「そんなの、犯人捜しに決まってるだろ」
「犯人って」
「椛をあんなにした犯人だよ。決まってるだろ。それとも何か? お前はあれも、着地に失敗して、こけた怪我だとでも言うのか?」
「い、いえ」
「それに、目星はついている」平然と彼女はとんでもないことを口にした。
「だから、そいつをぶっ飛ばせばいいだけだ」
「目星って、誰ですか」
「言わないよ。私が何とかするから、文は椛の面倒を見ておいてくれ」
妙に突き放す言い方をした萃香様は、そのまま勢いよく飛び立ち、あっという間に姿を消した。別に、追いつこうと思えばできなくもないが、そこまでする意味も、元気もない。椛は誰かに襲われたのだろうか。萃香様は目星はついていると、そう言っていた。だったら、私は。いや、関係ないはずだ。椛がたとえ誰かに痛めつけられようと、殺されかけようと、私が首を突っ込む理由はない。そう分かっているのに、胸の中の鬱憤は晴れない。
おずおずと自室へと戻り、ベッドで眠る愚かな部下を見下ろす。
「まったく、情けないですね」
彼女の肩を軽く叩く。腕がベッドから落ち、だらりと垂れ下がった。元の位置に戻そうと手を握る。包帯越しにもかかわらず、氷のように冷たい。
「上司の前で安眠を試みるだなんて、いい度胸じゃないですか」
そう笑うも、椛はうんともすんとも言わなかった。
私は家を出て、集会場へと向かった。
萃香様に椛の面倒を見てくれと頼まれてはいたが、医者ですら匙を投げた彼女の面倒の見方なんて分かるはずもなく、そもそも、どうして私が椛の面倒を見なければらないのか、と馬鹿らしくなり、逃げ出すように家を飛び出した。見るも無惨な椛の姿を直視しできなかったというのも、理由の一つだ。
集会場に来た理由は特になかった。とにかく、日常に戻りたかった。私のよく知る、予想通りの世界に戻りたかった。だから、新聞であふれるここに来た。
だが、ここでも予想を裏切られることになる。
「文は美学が強すぎるんだよ」
聞き覚えのある、腹立たしい声が聞こえた。驚くが、昨日今日と驚きの連続が続いたせいで、顔には出ずにすんだ。無視して進もうとするが、肩を掴まれる。仕方がなく、振り返った。
「久しぶりですね、はたて。いつぶりでしょうか」
「この前会ったばっかじゃん」
「そうでしたっけ」いつものように返事をしようとするも、言葉がたどたどしくなる。にっと頬を吊り上げ、無理やり笑う。「美学が強すぎて分かりませんでした」
「何よそれ」
いったい、はたては何をしに来たのか。彼女の新聞はすでに掲示されている。
よっぽどのことがない限り家から出ない彼女が、気まぐれにここに来たとは思えない
「もしかして、私の新聞の偵察に来たんですか?」
「え?」
「ですが、残念なことにまだ出来ていないのです。ファンには申し訳ないですね」
「謝らなくていいよ。そんな奴いないから」
そうじゃなくてさ、と彼女は目を泳がせる。「他の連中と同じだよ」とはたてらしくなく、同調圧力に屈するかのようなことを言った。
集会場を見渡す。先日来たときより、はるかに妖怪の姿は多い。鴉天狗も、河童も、それどころか白狼天狗すら数え切れないほど来ている。哨戒任務に支障が出ないのか、と心配になった。嫌な予感がする。
「他の連中って、ここに来ている妖怪達のことですか?」
「それ以外ないでしょ。まったく、度しがたいよ」
「はたてに言われるとは、可哀想ですね」
「他の連中にじゃない。私自身に言ったんだ」
背筋が凍った。はたての顔に目を注ぐ。先ほどまで楽しげだったのに、急に真顔になった彼女は、低く、平坦な声を出した。はたてが自虐するなんて、あり得ない。
「こう見えて、私は自信があったんだ。周りに流されない自信がさ。でも、今回ばかりはさすがに、ね」
「今回ばかりって、何かあったんですか?」
「まさか、知らないの?」
「だから何の話ですか」
「それは、いや。百聞は一見にしかずって言うし、見た方が早いよ」
「見るって何を」
「新聞を」
私は肩に置かれたはたての手を振り払い、踵を返した。怖かったのだ。真面目なはたてほど、不気味なものはない。
追ってくるはたてを振り払いたくて、早足で人混みを掻き分けていく。こんなにも多くの人が新聞大会に来たことなんてなかったはずだ。いったい何があるのか。
遠目で見ただけでも、掲示されている新聞の数が異常なほど増えていることが分かる。昨日の二倍くらいだ。その新しく貼られた新聞の前には、どこも人だかりができていた。そのうちの一つ、もっとも人を集めている新聞へと足を進める。
「最悪だよね」すれ違いざま、見知らぬ河童の声が聞こえてきた。「私、武闘大会の優勝者、彼女だと思って、賭けたのに」
大会? 例の武闘大会がここまで注目されていたのか。不思議に思いつつ、新聞を見る。見て、息が止まった。今度こそ、驚きを顔に出してしまう。目の前にある現実を理解できなかった。見間違いではないか、と目を擦る。まだ夢を見ているのではないか、と頬をつねる。だが、現実は変わらない。薄々、予想はできていた。やけに白狼天狗の数が多い理由も、そして、センセーショナルな出来事にも、心当たりがあった。だが、だからといって。これは予想外だ。
『極悪白狼天狗、金で買った部隊長の地位。犬走椛、退治される!』と大きな見出しが目に入る。
「退治」
私の前にいた白狼天狗を強引に退け、新聞にかじりつく。長々と様々な情報が
書かれているが、そのどれもが荒唐無稽で、一笑に付すべきものだった。
つまり、犬走椛は極悪人だった。だから、名も知られていない、力ある正義感の強い誰かが、彼女は人知れず退治した。そういうことらしい。
「なんですかこれは!」
すぐ後ろにいたはたてに掴みかかる。そんなことをしても無意味なのは明らかだ。だが、こうでもしないと気が休まらない。
「この記事はなんなんですか!」
「私だって知りたいよ。それに」
「それに、何だというのですか」
「他の新聞も、大体似たような内容しかない」
はたてを突き飛ばし、他の新聞を見ようと歩く。どういうことだ。いったい、どこの馬鹿がこんな記事を。でっち上げるにしても、酷すぎる。こんな嘘と分かるものを作っても、どうしようもないではないか。椛が極悪人? 金で買った立場? なんだそれは。下らない。
人の波を強引に進み、新聞を見る。椛の悪口が書いてある。進む。見る。悪口が書いてある。進む。見る。悪口が書いてある。進む。見なくとも、悪口が書いてあると分かった。床を蹴る。拳を握り、自分の頭を強く叩いた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。どうして私が動揺する必要があるのか。
集会場の端、一番奥にある新聞は、文字ではなく、大きな写真が掲載されていた。目が留まり、足も止まる。動くことができなかった。はたてが何か言ってくるが、耳を通り抜けていく。
写真には椛が映っていた。真っ白な短い髪も、その印象的な赤い瞳も、間違いなく椛のものだ。だが、浮かべている嫌みな笑みに見覚えはない。顔の半分に影がかかった彼女は何かを踏んでいる。よく見ると、それは子供の白狼天狗だった。土下座する少年の頭を踏みつけ、右手で剣を振り上げている。左手には一枚の小判が握られていた。額に書かれた犬という文字ですら、影のせいで恐ろしく見える。写真の左下には、『病気の親への薬を買うための金を強奪する犬走椛』と不穏なフォントで書かれている。
「なに、これ」しんと静まりかえった集会場に、私の声はよく響いた。
「なんですか。どうして。これはいったい!」
あの椛がこんなことをするか。するわけがない。あの腑抜けには、そんなことをする勇気も気概も根性もない。そんなの、少し考えれば分かるはずだった。だというのに、誰もが冷静に、吐き気がするほど落ち着いて見ている。
「ショックですよね」
茫然自失としていると、近くにいた白狼天狗が声をかけてきた。萃香様が山へ侵入してきたと、私たちに伝えに来た白狼天狗だ。
「まさか、あの犬走さんがこんなことをするなんて」青ざめた表情のまま、彼女はとうとうと言葉を続けた。周りの連中も、どこか頷いているように見える。気のせいであってくれ、と願うが、そうではないことは、私が一番分かっていた。
「失望しましたよ。でも、自業自得ですよね」
「自業自得? 何がですか」
「新聞に書いてある通りです。犬走さん、正義のヒーローに退治されたんですよね。悪いことをたくさんしていたから」
「せいぎのひーろー」鸚鵡返しに言葉をなぞった。言葉の意味がよく理解できない。
「悪い奴を人知れず倒してる妖怪がいるらしいですよ。どの新聞にもそう書いてありました。初めて知りましたけど、そういう良い妖怪もいるんですね」
「あなたは、何も思わないんですか」
「え?」
「上司がその胡散臭い正義のヒーローに倒されて、何も思わないんですか?」
「だって」白狼天狗は不思議そうに首を傾げる。
「子供を脅して、金を奪い取るのは駄目ですよ。退治されても文句言えないです」
何の疑問もなく言う白狼天狗を見て、ぞっとする。周りを見る。どいつもこいつも、一切の悲しみを浮かべていなかった。ショックを受け、動揺しているものの、涙を見せる奴はいない。椛がどうなったかなんて、心配している奴はいない。いるかもしれないが、顔には出せないような、そんな空気になっている。あのはたてですら、その空気に従ってしまうほどに。
「笑えますね」私の声は、自分でも驚くほどに淡々としていた。本当に、笑えるじゃないか。彼女の今までの努力は、人生は、こんなものだったのか。いったい彼女は何のために真面目に訓練をして、部隊長になったのか。なんのために、皆のために奔走し、頼られる白狼天狗になったのか。真剣勝負ですよ、と生意気なことを言う椛の顔が頭に浮かぶ。
アハハ、と笑い声が聞こえた。いったいどこからか、と耳をそばだて、そしてすぐに気づく。笑っているのは私だ。押さえようとするも、腹の底から笑いが噴き出してくる。
滑稽だったのだ。何者かに襲われ、蹂躙された挙げ句、知らない間に椛自身が一番嫌悪していた、卑劣な妖怪だと見なされているだなんて、笑えずにはいられない。傑作じゃないか。ざまあない。まったくもって。
「愚かだ。虫唾が走る。椛に相応しい末路ですよ」
彼女の信用は、たかがこの程度のものだったのか。その通りだ。椛のことを好む奴なんていないに決まっている。そうだ。そんな奴はいない。馬鹿で、何も考えず、ただひたすらまっすぐな彼女のことを好む奴などいない。どんな下らないことでも真剣勝負にこだわる彼女のことを好む奴などいない。些細な不正も許さないと、反吐が出るほど無意味な正義感を滾らせる彼女のことを好む奴などいない。
『きっと、私が死んでも、受け継がれると思いますよ』椛の言葉が頭に響く。
『犬走椛は真面目だった、という言伝です。一人前の真面目だったってね』
「前から半人前とは思っていましたが」私は懐からカメラを取り出し、周りの群衆へと向ける。そして、そのままシャッターを切った。
「まさか、一人前の馬鹿にすらなれないとは思いませんでしたよ」
カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。