──神と鴉──
深夜に出て行った早苗さんが、防犯ブザーをならしたんですよ。
もし他の妖怪にこう伝えたら、いったい、どのような反応をするだろうか。また早苗が何かをやらかしたのか? と、ある神は言うだろうし、早苗なら大丈夫でしょ、と博麗の巫女はぶっきらぼうに言い放つだろう。私も同意見だ。彼女はトラブルを起こす側であって、巻き込まれる側ではない。防犯ブザーをならしたのだって、何かをやらかしてしまったからではないか、と普段であれば思う。まあ、普段は防犯ブザーなんて持ち歩いていないだろうが、とにかく、気楽にのんびりと紅茶でも飲みながら、早苗さんが大変そうですよ、と話の種にするだけのはずだ。
だが、今回だけはそういう訳にもいかなかった。
「にとりはここで待っていてください」
私は、全身真っ青になっているにとりに、ゆっくりと語りかける。
「椛の面倒をよろしくお願いします」
「椛? どこにいるんだよ」
「あ、ああ。そうでしたそうでした」
早苗さんが来ると聞いて、急いで移動したことを、すっかり忘れていた。別に隠すようなことでもないように思えたが、早苗さんは椛のことについて一切知らないようであったので、隠したのだ。知ってしまえば、絶対に根掘り葉掘り聞いてくるだろうし、自分でも調べるに違いない。別にそれも私にとっての害にはならないが、なぜだか避けたかった。
部屋の一番左奥、来客用の布団がしまわれている押し入れを開ける。普段は使わないからか、埃にまみれている。が、今の椛であれば文句は言わない。バレたら怒られるだろうが、そもそも、バレる日が来るかどうかも微妙だった。
押し入れに敷かれた布団の上で小綺麗な包帯で包まれた椛が眠っていた。のぞき込んだにとりも、すぐに顔を逸らす。嘘じゃなかったんだ、と言葉を零している。
「本当は、文と椛が元気に喧嘩でもしていると思ったんだけどなあ」
「元気な椛だったら、絶対に家に泊めませんよ」
「元気じゃなかったら泊めるんだな」
「だって」
顔が強張った。忌々しい新聞の記事と、それを真に受ける連中の姿が頭に浮かぶ。
「いま、椛を匿うことができるのは、彼女と仲が悪い私ぐらいじゃないですか」
にとりの顔が、また悲しげになった。
最近、妖怪の山で、人知れず悪い妖怪を打ち倒している正義のヒーローがいるらしい。妖怪の山襲撃事件と銘打ったものの、ほとんどの連中は、襲撃事件だとは思わず、そう信じていた。因果応報、自業自得。それはまさに、神の落とす天災のようなものだと、そう思い込んでいる。
だが、実際の神は早苗さんのような純粋な奴らばかりではないし、そもそも神の仕業でもない。が、その思い込みは根強く、それにより、椛の立場は地に落ちていた。彼女は今や、その正義のヒーローとやらに打ち倒され、行方をくらました悪役へと成り下がったのだ。
まあ、もともと椛の立場なんて大したことないのだから、落ちたとしても誤差には変わりないが、それによって私に迷惑をかけるのは勘弁してほしかった。
「いったい、どこまで襲撃犯がしつこいのか分かりませんが、私が椛を匿っているだなんて、思わないはずです。私たちの仲の悪さは筋金入りですから」
「どうして得意げなんだ」
「さあね」
椛の体を持ち上げる。かなり軽くなっていた。一ヶ月近く何も食べていないので、当たり前かもしれない。栄養剤では限界がある。
綺麗に整えられたベッドの上に、乱雑に彼女の体を落とす。腕と足がたらりと落ちるが、骨はくっついたのか、だいぶ自然な動きになっていた。包帯を隠すように、掛け布団をかける。
「優しいんだな」にとりが見当違いのことを言ってくる。「掛け布団をかけてあげるだなんて」
「嫌がらせですよ」
本心で言ったにもかかわらず、にとりはそう受け取らなかったようで、腹の立つ笑みを浮かべていた。が、椛の姿を見て、その笑みを消した。「いつ目を覚ますの?」と分かりきったことを聞いてくる。
「分かりません。早苗さんが、行商からどんな怪我でも治す薬を持ってきてくれれば、今にでも目を覚ますでしょうが」
「そんな薬があれば、永遠亭が黙っていないよ」
「それに、勿体なくて椛には使いたくないですしね」
もし椛が目を覚まさないのであれば、私たちの努力は水泡に帰す。いや、違う。私は椛のためにやっているわけではない。ただの自己満足だ。私のためにやっているのだ。だから、彼女は関係ない。個人的な恨みを晴らすための、私の戦いだ。
カメラを構え、椛の写真を撮る。情けない写真だ。酷く哀愁に帯びていて、見
ているこちらが悲しくなるほどの、残酷な写真。椛を嫌う私ですらそう思うのだから、よっぽどだ。
「それなら、行ってきます」私はそう言い、扉を開ける。それが、にとりに向けたものなのか、椛に向けたものなのかは、私にも分からない。
いつもは寝苦しいほどの残暑なのに、今日は妙に涼しかった。秋が近いのもあるだろうが、それにしても異常だ。額や背中から汗は噴き出してくるものの、体は冷えている。かなり速度を出していて、生暖かい風が体を包み込んでくるのに、その冷たさは消えない。緊張しているのか。それとも恐れているのか。きっと、両方だ。
ぽつぽつと明かりの灯った家が木の隙間から見えるが、数は少ない。妖怪がもっとも活動する時間である夜なのに、木っ端妖怪もどこか落ち着いているように見えた。例の正義のヒーローの影響なのだろうか。悪事をしたと心当たりのある妖怪が、怯え、恐れ、身を潜めている。おそらく、そういうことなのだろう。そしてそれは、腹が立つことに、想定通りに違いなかった。
件の川原へは思ったよりもはやく着いた。時間的にはいつも通りなのだろうが、考え事をしていたせいで、気づけば着いていたのだ。心の整理がつかず、一度その場から退き、辺りを旋回する。そして意を決し、降り立つ。暗くてよく見えない。人の気配もなかった。腹をくくらなければ。にとりですら腹をくくったのだ。
「早苗さん、いますか?」
声をかけるも、返事はない。肝が冷える。最後の最後で予想を、予測を外したのか、と後悔に襲われるも、視界の端に緑色が見え、ほっとする。そして、急いで緩んだ気を整え直した。慎重に足音を忍ばせ、近づく。
暗くて視界が悪いが、それでも早苗さんの姿をじっと見た。と、彼女が椅子のようなものに座っていることに気がついた。どうして川原に椅子があるのか、と戸惑う。近づくにつれ、それがただの椅子ではないと分かってきた。声を出しそうになり、慌てて口を押さえる。こんな物まで用意していたのか、と驚いた。
それは、拷問用の固定椅子だった。
腕と体をビニール紐のような細い何かでくくりつけ、身動きを取れないようにしている。川原にぽつんと椅子が置かれているのは何とも不自然だが、それが残酷さを助長させていた。素直に縛って転がしておけばいいのに。
早苗さんは元気なく椅子に深く座り込んでいる。意識はあるようだが、生気はない。よく見ると、彼女の体は傷だらけになっていた。縛られたまま暴れたせいで、紐が体を切り裂いたのだろう。なるほど。そういう狙いがあったのか。
早苗さんを襲った奴が周りにいないか、と意識を集中させる。させて、舌打ちを零しそうになった。木の影で、こちらをのぞき見ている存在に気がついた。私に気づき、一度は身を隠したのだろう。そして、あえて身をさらした。なぜか。最悪の場合、私も処分してしまえば良いと思っているから。なるほど。やはり、向こうの方が一枚上手と言うことか。最悪だ。
「早苗さん」その存在を極力見ないようにしつつ、私は声をかけた。
「こんなところで、何やってるんですか」
「あ、あやさん」らしくもなく、彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。
「すみません。お使い、失敗しちゃいました」
どうして、この状況でそんなことを気にすることができるのか。明らかにお使いなんかより気にしなければならないことはある。
「いったい、どうしたんですか」
「いえ。行商の人が見当たらなかったんで、叫んだんですよ。私が客ですよって」 そう口にしている最中にも、背中から視線が突き刺さる。いったい、どういった目的で私に威圧感を与えているのか、分からない。どこまで知っている。いや、私がどこまで知っていると、知っているのか。
「そうしたら、ですね」途中で、ゴホゴホと早苗さんは咳き込んだ。喉の奥を切ったのか、吐血している。外傷がない。ということは、助けを求めるために、ずっと叫んでいたのか。叫んで疲れて、それでこんなことに。
「そしたら、いきなり後ろから襲われて。抵抗したのに、あっけなく負けちゃいましたよ。殴られかけたんですけど、急に止めて。それで椅子に縛られたんです」
なぜ、そのまま殴らなかったのか。早苗さんの後ろにある守矢神社を恐れたのか。それもある。私が来たことに気づいたからか。それもあるだろう。だが、きっと。見極めたいのだ。本当に腹が立つ。まんまと陥れられた早苗さんにも、そして、私自身も気に入らない。
よく見ると、彼女の緑の髪も少し黒ずんでいる。白い肌は赤く滲み、爪先は剥がれていた。それよりも酷いのは、彼女の顔だ。本人は気づいていないようだが、唇は腫れあがり、目元は真っ赤になっていた。川原に顔面をぶつけたせいで、泥が傷跡に入り、化膿しかけている。
「でも、文さんが来てくれて、襲ってきた奴はどっかに行ってくれました。本当にありがとうございます」
「そうですか。それは一安心ですね」翼が右上にあがらぬよう気をつけながら話す。
「ですが、残念ながら、安心はまだできませんよ」
「え?」
「私は別に助けに来たわけじゃありませんから」
翼を一度、大きく羽ばたかせ、早苗さんと距離をとる。危機的状況から逃れられると安心したからか、早苗さんは体をぐでんとさせていた。強張った頬を必死にほぐし、緩めている。安堵が彼女を抱きかかえている。早苗さんはきっと、私の部屋に戻って、酷い目に遭いましたよ、と笑い飛ばし、いやいやとキュウリ鍋を食べるつもりなのだ。だからこそ、拘束されているのに、こんなにも希望に満ちた顔をしている。それはとても美しく、可憐だった。
だからこそ、私はその顔を崩さなければならない。
「早苗さん」
自分が解放されると信じてやまない彼女は、可哀想に背中を伸ばし、紐を切り易くしていた。私はその紐を掴み、そして離す。それでも彼女はその体勢をやめない。
「私はこれでも優しいので、ヒントをあげたつもりだったのですが、残念です」
「ヒント? いつの間にクイズ大会が始まっていたんですか?」
そう笑う彼女の顔にも、幾分か元気が戻っていた。
「たしかに、ホラー映画とかでよくありますけどね。捕まって、クイズされるの」
「そうですね」私は適当に返事をし、気を引き締める。背中の翼が、無意識のうちにバタバタと暴れ始めた。
「では、問題です。子供が一番守らなければならないことって、早苗さんは何だか分かりますか?」
「ええ、本当にクイズをするんですか。それより、紐を切ってください」
「答えは、怪しい奴に着いていってはいけない、ですよ」
月の光が、真上から降り注ぐ。空を見上げると、満月が憎らしく光っていた。照らすのであれば、もっとマシな奴を照らしてほしいものだ。
「では、怪しい奴ランキング一位の妖怪はなんでしょうか」
「えっと」
「鴉天狗ですよ。そんな妖怪の家に、鍋につられてノコノコ来るなんて、酷い目に遭っても文句言えませんからね」
急にどうしたんですか、と間延びした声で訊いてくる。が、私は無視した。
「もう少し、早苗さんは警戒心を持ったないといけません。人を疑うことを覚えたほうがいいです」
「文さんが疑いすぎなんですよ」
私は捕まっている早苗さんの懐をまさぐった。薄いビニールの感覚がし、それを一気に引き出す。写真だ。見覚えのある、写真だ。
「これが噂の写真ですか」
「噂?」
「白狼天狗や河童に聞き回っていた、曰く付きの写真かと聞いているんです」
「まあ、そうですけど」彼女は不思議そうに首を傾げる。私が何を言い出すのか、と困惑していた。彼女が口を開く前に、続けて言う。
「この奥にいる天狗が賄賂をしている、そう言うことですよね」
「え、ええ」
「それで、この写真こそがその証拠である、と」
あえて、襲撃事件の犯人だ、と早苗さんが豪語していることには触れなかった。触れる必要もないし。そうしてしまえば、ボロが出てしまいそうだったのだ。
「どうしたんですか、文さん。なんか変ですよ」早苗さんは無理に笑いながら声を絞り出してくる。「はやく、助けてくださいよ」
「よくないですよ、早苗さん」
私はつとめて笑顔で言った。早苗さんの言っていたことを思い出す。私は怒ると、笑顔で暴言を吐くといった、あれだ。
「常識的に考えてください。賄賂なんて、こんな白昼堂々と行われるわけないじゃないですか。こんな写真インチキですよ」
「でも、現に私は今、その人に」
「たかが守矢の小娘のくせに、調子に乗るなと言っているのです」
ビニールから写真を取り出した。怒りを込め、ビリビリと破る。微妙な笑顔のまま固まる早苗さんを無視し、木っ端微塵にする。
「何やっているんですか」早苗さんの声に怒りはなかった。ただただ困惑している。
「どうしちゃったんですか、文さん」
「天狗に対する明確な敵対行為です。到底許されることではありません」
「え」
「偽りの写真を用い、妖怪の山の秩序を破壊しようとする明確な反逆行為ですよ。信じていたのですが、残念です。これだから能無しの守矢は厄介なんだ」
カメラを取り出し、パシャリとシャッターを切る。そのまま私は言葉を続けた。
「そうですね。では、最後のクイズとしましょうか」と三文役者のようなくだらない台詞を吐く。
「さて、今から私は何と言うでしょうか」
言うって、どういうことですか。早苗さんは不安げな声を出す。が、黙っている私が恐ろしかったのか、無理に笑って、口を開く。
「アイラブユーとか、ですか?」
「そんな訳ないじゃないですか」
自分でも驚くほどに、その声は冷たい。平坦で、生気が宿っていなかった。顔に手を当てる。いつも浮かべていた微笑みは消え去り、表情筋が死んだかのようにぴくりとも動かない。笑えない。まったくもって、笑えない。
「答えは、ですね」
「何ですか?」
「人の上に座る、ですよ」
早苗さんの腹付近めがけて、右足を突き出す。気の抜けた早苗さんは、避けるそぶりすら見せず、そのまま鈍い音がした。椅子ごとひっくり返り、ごほごほと咳をしている。唇を切ったのか、血が流れていた。
「やめてください」混乱と動揺が収まらないのか、目を日開きながら、小さな声を出す。その目には、まだ親愛が浮かんでいた。笑えない。
「文さん……やめて」
「暗黙の了解ですよ」
「え?」
「言ってたじゃないですか。やめろって、言われたら、しっかりやらないといけないんですよね」
鳩尾を狙い、かかとを落とす。内臓を押し潰す嫌な音がした。私と早苗さんとを切り裂く音だ。もう二度と、私は彼女の笑顔を見ることはできないのではないか。そんなことは分かっていた。彼女の笑顔など、大したものではない。
「努力をしてください」
倒れた早苗さんの髪を引っ張り、つかみあげる。自身と椅子の重さのせいで、頭皮がめきりと剥がれる音がした。悲鳴が聞こえる。声にもならない、哀れな悲鳴だ。
「さあ早苗さん。絶望する努力を」
今度は椅子を蹴飛ばす。よっぽど強く固定されているのか、彼女は不自然な格好のまま転がっていった。左腕の関節が外れたのか、ぷらりとだれさがる。
「あ、文さん」
早苗さんは突然の出来事に目を丸くし、うずくまっている。そのまん丸になった目には、薄く涙が浮かんでいた。
「助けてください」涙を流しながら、彼女は言う。「食べ物こぼしのよしみで」
「早苗さん」
「なんですか?」
「やっぱり、早苗さんは可愛いですね」
早苗さんの小さなうめき声に、わずかに嗚咽が混じった。
彼女の綺麗な緑色の目に、絶望の色が差す。それはとても魅力的に思えた。