──狼と鴉──
椛さん、前から怪しいと思っていたんですよ。
いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、椛の悪行とやらが多くの新聞で報道され、彼女の信用など元から無かったかのように打ち砕かれたときのことだ。
私はそのことを記事にしようと、たくさんの妖怪に聞き取りをしていた。椛と仲が良かった河童から、彼女と親しかった鴉天狗、そして、彼女を尊敬していた白狼天狗、つまりは目の前の幼さの残る女性の白狼天狗に至るまで、今日一日で各所を巡り、訊ね回っていた。だが、結果は散々だった。誰もが判を押したかのように同じことしか言わないのだ。例に違わず、目の前の彼女も、同じことを口にした。
「たしかに、椛さんは格好良かったですよ。ですが、なんか危うかったんですよね。格好よすぎて嘘くさいというか。そもそも、鴉天狗である文さんに暴言を吐くだなんて、あり得ませんよ」
「まったくです」私は大きく頷く。心の底に浮かぶ落胆を隠し、その通りと頷いた。
「あんな生意気な白狼天狗は、椛くらいしかいませんよ」
「もしかしたら、文さんのことも、金で買えると思っていたんじゃないんですかね」おずおずと、彼女は言った。「なんか、人里の人間も金で買って、自作自演をしていたらしいですし」
「自作自演?」
「妖怪の山に来るよう伝えて、それをいち早く捕まえて、手柄を立てるって、感じでやっていたそうです。酷いですよね」
酷いのはお前の頭の方だ。そんなことをする理由も、利益もないだろうに。そもそも、人間が妖怪の山にひとりで無事にたどり着けるわけないじゃないか。そう思いながらも、私は満面の笑みで「椛らしいですね」と笑った。
「椛ならやりかねません」
「文さんは見抜いていたんですか? 椛さんと仲が悪いとは噂で聞いていましたけど、その本性を見抜いていたんですか?」
「もちろんです」
これもまた、定番の質問だった。白狼天狗や河童、そして鴉天狗ですら、椛と敵対していた私を賞賛し、尊敬してくる。意味が分からなかった。どうして彼女を嫌っていただけで褒められるのか、理解できない。
椛が賄賂をしている書かれた新聞大会の記事はただの切っ掛けに過ぎなかった。子供から小判を奪い取っている写真のせいで、椛は金にがめつく、そして金で全てを解決していた、という雰囲気が漂っていた。普段はまともそうだったが故に、それが裏目に出たのだ。実は裏では、という暴露話は、面白いし、盛り上がる。そして、根拠がないからこそ、信憑性が上がってしまうのだ。巧妙に隠していた、と言い張れば、椛の負の印象が高まる。
「ショックではなかったんですか?」私は、自分に問いかけるように、訊ねた。
「あなた、椛のことを尊敬していたのですよね。そんな彼女が悪党だと知って、落胆しなかったのですか」
「まあ、確かにショックでしたけど」
けど。その一言で、私は次に続く言葉を予想できてしまう。口の中にたまった唾を飲み込む。こみ上げてくる吐き気を、必死に抑えた。
「それより、椛さんを倒した妖怪の方が気になっちゃって。正体が分かっていないんですよね。でも、悪い妖怪を夜な夜な倒しているそうじゃないですか」
彼女の目はキラキラと輝いていた。椛に向いていた尊敬の心が、そのまま、正義の妖怪などという薄ら寒い存在へと持っていかれてしまったようだ。そのせいか、行方不明になった椛の行き先や、生死にすら全く興味を持っていない。少なくとも、私にはそう見えた。
「夜な夜な、ですか。私、色々調べて回っているのですけれど、あなたの言った情報の真偽が未だつかめていないのですよね」
「そうなんですか? あれですよ。集会場にある新聞を読めば、たくさん載っていますよ」
善意で伝えてくれたのだろうから、私は優しく、そうですか、と言う予定だった。だが、口が動かない。
「その新聞が嘘だとは思わないのですか」やっと出た私の言葉は、意図に反し、否定的な言葉だった。「鴉天狗の新聞は嘘ばっかりですよ」
「でも」彼女は椛のような、子供の時の椛のような、屈託のない笑みを浮かべる。
「あれだけたくさんの新聞が言っているんだから、たぶん本当のことですよ」
「不老不死の法則ですか」
「なんですか、それ」
「どんなに意味不明なことを言っても、たくさんの人が、当然のようにそれを言い出したら、信じてしまう法則ですよ」
よく分からなかったのか、彼女はきょとんとし、そして頭を下げた。この白狼天狗には、一切の邪念もない。だというのに、どうして。
湿り気を帯びた、じめりとした風が吹いた。空を見上げる。薄い雲が空を覆い、太陽の光が拡散していた。もうそろそろ、本格的な夏が来る。いつもであれば、新しい季節の到来に喜びの声を上げるところだが、今年に限っては、それもできそうになかった。
「あの、文さん。私、そろそろ出かけてもいいですか」
取材対象を前に、ぼうっと突っ立っていたからか、白狼天狗はたどたどしくそう言ってきた。椛のせいで麻痺していたが、本来の白狼天狗は鴉天狗に怯え、恐縮する存在だと言うことを思い出す。
「ええ。大丈夫ですよ。ご協力ありがとうございました」
ぺこり、と繰り返し頭を下げ、去って行く。彼女も駄目か、とため息を吐いた。何が駄目なのか。記事だ。とても先ほどのインタビューを載せるわけにはいかない。
新聞とは、常に真新しく、革新的でなくてはならない。読者が予想もできない真実を突きつけなければならないのだ。椛に対する罵詈雑言など、もはや真新しくもない。そして何より、椛が取るに足りないだなんてことは、それこそ彼女が生まれたときから私は知っているのだ。改めてそれを書こうだなんて、歴史的文献ですか? と訊ねられてしまうほどに遅れている。たとえ、誰も私が椛について言及することを望んでいるのだとしても。私が椛に対して普段ぶつけているような悪口を、冷たい態度を、そのまま新聞に載せてくれることを、誰もが期待しているのだとしても、私は絶対に書かない。書いてやるものか。読者の期待を裏切らなくて、新聞を名乗れるはずがないではないか。
「あ、あの」
薄くなった雲の隙間から零れ出る日光を避け、木陰に移動しているところで、声をかけられた。先ほどの白狼天狗だ。急いで戻ってきたのか、肩で息をしている。
「忘れ物ですか?」私は辺りを見渡しながら、訊ねた。
「それとも、言い忘れたことが?」
「あ、あの。言いづらいですし、鴉天狗である文さんに、大変失礼なことを言うかもしれないんですけど」
「何ですか?」
「さっき、私が言ったこと、新聞に載せないでください!」
その場でぴょんと飛び上がり、そのまま膝で着した彼女は、おもむろに額を地面にこすり始めた。「どうかお願いします!」
「あややや。別にそんなことで土下座しなくていいですよ。それに、元々載せるつもりもありませんでしたので、大丈夫です」隠す必要も感じず、私は正直に言った。
「そうなんですか。よかった」おずおずと立ち上がった彼女は、心配そうに、「でも、大会に提出する記事は書けるのですか?」と聞いてきた。余計なお世話過ぎる。
「何とかなりますよ。何か面白そうなことあったら、教えてください」
「だったら、にとりさんとかどうです?」
「にとりがどうしたんですか?」
教えてください、とは言ったものの、まさか返答があるとは思っていなかったので、驚いた。「にとりって、河城にとりのことですよね」
「そうですそうです。何でも、妖怪の山武闘大会のことについて、賭け事をたくさんしていたらしいんですが」
「ですが?」
「椛さんが不戦敗だったので、なんかもう勝ちが確定したとかで成金みたいになってました」
「あやや。なるほどなるほど。情報提供ありがとうございます」
下らないな、と素直に思った。河童が賭け事で勝って、得意げになっている姿など、何も面白くない。そこからの転落劇だったらまだ絵になる。いっそのこと、私が奪ってやろうか。
それでは、と今度こそ去って行く白狼天狗に手を振り、カメラを構える。と、一つの疑問が浮かんだ。訊ねようかと迷ったが、白狼天狗相手に躊躇する理由も思いつかず、「あの、一つ聞きたいんですが」と声をかけた。白狼天狗はぴたりと止まり、顔だけでこちらを振り返る。
「さっき、新聞に自分の発言を載せてほしくない、と言っていましたが、何か理由があるのですか?」
「あ、ああ」彼女は自分の体を抱きしめ、少し顔を青くした。
「ほら、もし椛さんにバレたら、怒られちゃうじゃないですか」
「え?」
「椛さん、怒ると怖いんですよ。どうせなら、お金で頬を叩いてほしかったんですけど、椛さんは目で刺してきますから。今思えば、びた一文やらないぞってことだったのかもしれませんね」
それでは、と私の返事を聞かず、彼女は去って行く。私はその姿を、ぼうっと見つめていた。自分の上司のことを、幼子から金を奪う奴と軽蔑しているくせに、他の妖怪と同じく、椛のことなど、もはや死んだものとして扱っているくせに、それでも彼女は椛が帰ってくると思っているのか。そして、自分が椛の部下であり続けると、そう思っているのか。だったら、もう少し、椛に好意的な発言をすれば良いのに。いや、むりか。今の妖怪の山で、椛の肩を持てば、それこそ同類扱いされかねない。実際にされるかは分からないが、そう思ってしまうような状態になっているのは確かだった。
私は椛の姿を頭に浮かべる。そして、付随するかのように萃香様の顔が浮かんだ。彼女は、襲撃犯をぶっ飛ばす、と意気込んでいたが、その割には連絡が遅い。彼女であれば、その日のうちに、「椛と同じ目に遭わせてやったよ」と意気揚々と帰ってくると思っていたのだが、未だ音沙汰はなかった。
萃香様に任せておけない、というわけではないが、私は椛を襲った襲撃犯を探そうと試みていた。たかが白狼天狗を一匹屠っただけで、英雄扱いされているのが気に入らない。その化けの皮を剥がし、カメラに収めてやろうと、そう思ったのだ。だが、手がかりがない。何か無いかと必死に頭を回すも、思い浮かぶのは椛のアホ面だけだった。彼女がもっとしっかりしていれば、私もこんな苦労することも、あんな新聞が大会で猛威を振るうこともなかったのに。萃香様の賄賂疑惑と、彼女の妖怪の山武闘大会での健闘という二枚看板が消えたのは、私にとって痛手だった。
「妖怪の山武闘大会、ね」
いまだ出場者は出揃っていないらしいが、それでも優勝候補は椛で間違いない、と言われていたらしかった。詳しくは知らない。が、白狼天狗を中心とした参加者では、それも仕方がないだろう。椛の実力は折り紙つきだ。そんなこと、誰だって、分かっているはずなのに、それすら金で買ったと信じることが出来る愚鈍さが羨ましいくらいだった。
だから、河童の賭け事でも、大半の連中は椛に賭けた。そういうことだろう。調べずとも、にとりが大儲けをした理由が分かる。
が、少し引っかかりを覚えた。喉奥に引っかかった小骨のように、ささやかに疑問が主張してくる。一度気になってしまえば、そればかりが頭に浮かび、疑問が疑惑へ、そして確信へと変わっていった。汗が垂れる。あり得なくはないな、と思えた。気づけば、私は大空へと飛び上がっていた。太陽はいつの間にか薄い雲に再び覆われている。その雲を吹き飛ばす勢いで、私は飛んだ。が、当然、雲はそんなことでは微動だにしない。
幸運なことに、目的の妖怪、河城にとりはすぐに見つかった。というより、ちょうど私がぐるりと大まかに妖怪の山を一周し、見当たらないなと焦っていると、元いた場所、例の川原にいたのだ。入れ違いだった。飛んで火に入る夏の虫ならぬ、飛んで川に入る夏の河童だな、と意味不明なことを考えていると、いきなりにとりは川に飛び込んだ。いったい何をしているのか。もしかして、私の存在に勘づいたのか、と一瞬焦るが、すぐに理由は分かった。分かってしまった。馬鹿らしくて、ため息が出る。
彼女はなぜ川に飛び込んだのか。川上からキュウリが流れていたからだ。それを捕ろうと、必死に泳ぎ、手を伸ばしている。キュウリのために体を濡らす、といった彼女の言葉に嘘はなかった。そこまでキュウリが好きなのか。そもそも、どうしてキュウリが魚のように川を流れているのか。すべてが謎だが、今はどうでもいい。 にとりに気づかれないよう、慎重に近づく。彼女はキュウリをやっとのこと捕まえ、満足げに頷いていた。いつもの、青いリュックサックを背負い、川原へと戻ろうとしている。隙だらけだった。
急降下し、リュックサックを地面へと叩きつける。反動でにとりの体が浮かび、足が宙に浮いた。突然の事態についていけていないのか、にとりの表情に変化はなかった。
「おっと」浮いたにとりの足を右手で掴み、捻る。空中で一回転した彼女の太ももを強く踏みつける。
「痛い痛い痛いタンマタンマまって!」
にとりはバタバタと、陸に打ち上げられた小魚のように無様にもがく。いったい、どういう状況に自分が陥っているかは分かっていないようだが、体に走る痛みで、誰かに襲われている、ということだけは分かったらしく、「ごめんささい。許して! お金もあげるって!」と、命乞いを始めた。
「この世に生まれてきてごめんなさい!」と訳の分からない謝罪すらしている。
「そんなに喚かなくても大丈夫ですよ」私はゆっくりと、諭すように声をかける。
「殺しはしないので、安心してください」
「その声は文だよな。落ち着いてくれ。とりあえず、痛いから、離して」
「あやややや。私は落ち着いていますよ。鴉天狗はいつだって冷静なんです」
にとりの足にかける力を強める。「折れる折れる!」と喚くにとりに、私は慈愛に満ちた声をかけてあげた。
「にとりの方こそ、落ち着いた方が良いですよ。私は優しいですから、体を引きちぎったり、四肢を全部逆の方に折ったりはしません」
「まって」
「正直に答えてくれれば、無事に返してあげますよ」
「答えるって、私が何をしたんだ」
「妖怪の山武闘大会についてです」
にとりが息を呑んだ。今まで、理不尽な、といった感じで強気に出ていたのに、急に静まりかえり、カタカタと小刻みに震え始める。何のことか、と惚けることすらしない。それは、もはや認めたと同然じゃないか。嘘でしょ、と叫びたくなる。
「聞きましたよ。妖怪の山武闘大会でも賭け事をしていたらしいじゃないですか」
「そりゃ、するでしょ」小さな声で、ぼそぼそと言う。「しないわけない」
「大半の河童は椛に賭けたんですよね。でも、お前は違った。なぜですか?」
にとりは答えない。ただ、ばたつかせていた腕をだらりとさせただけだった。
「優勝候補である椛に賭けなかったのには、何か明確な理由があったんですよね。にとり、言っていたじゃないですか。勝負ってのは絶対に勝てると分かっている時しかやっちゃいけないんだって」
にとりは力なく、こくりと頷いた。自然と手に力が入る。彼女が金にがめつく、そして人を欺くのに長けていることは知っていたが。まさか。
「そして、こうも言ってましたよね。ただ勝つよりも、ずるして勝った方が楽しいじゃないか。ズルは正義だよって、馬鹿みたいに」
ずるして、妖怪の山武闘大会の賭けに勝つ。ずるとは何か。大半の河童が椛に賭けた中、確実に勝つ方法とは何か。私ならどうする。勝負という不安定な要素を信じるか。いや、信じない。信じなければ、どうするか。
優勝候補を事前に潰す。大会に間違っても参加が出来ないように、棄権させるようにする。そうすれば、絶対に賭で負けることはない。だから、椛をあんな目に。そういうことではないのか。
つまり私は、にとりが椛を襲った襲撃犯ではないのか、と疑っているのだ。
「だから、あなたは手を打った。ズルをした。確実に負けない方法を思いつき、実行に移した。そういうことですよね」
「そうだよ」あっさりと、にとりは認める。
「でも、そこまで怒らなくてもいいじゃないか」
「え」
「文にとっては、大したことではないでしょ」
掴んでいたにとりの足を離し、一歩退く。いてて、と足をさすりながらも、よろよろと彼女は立ち上がった。にとりの顔を見る。痛みに顔をしかめているが、それでも、邪気はない。いつも通りの、生意気な顔だ。
彼女の言うとおりだった。椛がどうなろうが、私の知ったことではない。たとえ、全身が打ち砕けようが、皆に嘲笑され、馬鹿にされ、彼女の築き上げてきた誇りと立場が、下らない新聞によって一瞬で水泡に帰そうが、私に何の不都合もない。むしろ、願ったり叶ったりではないか。やっと、鬱陶しい部下の子守から解き放たれ、自由に新聞作成に打ち込める。だから、私が動揺する必要なんてない。その通りだ。
「だけど、それでも駄目なんですよ」
「駄目って?」
「たしかに、椛がどうなろうが、私には関係ありません。だけど、やり方が気に入らないのですよ」
「やり方?」
「いくら何でも、やりすぎですよ。にとり。私はあなたのことを買っていたのですが、そこまで落ちぶれていたとは。残念でなりません。たかが賭け事のために、友人を犠牲にするだなんて、見損ないました。私は別に構いませんよ。椛がどうなろうが、知りません。ですが、このままだと妖怪の山の風紀に関わります。今の異様な雰囲気を断ち切らなければならない。それに、記事にもなりますしね」
「どうしたんだよ、文。落ち着けって」
「だから、私は落ち着いていますよ。落ち着いていないのはあなたです。まさか、賭け事のために、椛を殺そうとするなんて」
「は?」
「馬鹿げています」
「待て待て待て。話が見えない。馬鹿げているのはそっちだよ」
にとりの顔に、血の色が戻っていく。バタバタと手を振ってはいるが、先ほどのような、闇雲なものではなかった。
「なんで私が椛を殺さなきゃならないんだ」
「椛を倒せば、賭けで勝てますよ」
「そこまでしないよ。というより、椛に返り討ちに遭う確率の方がずっと高い」
「なら、あなたはどうやって賭けに勝とうとしてたんですか」
「文だよ」彼女の口にしている言葉の意味が分からず、呆然とする。私? 私が何だと言うのか。
「はたての新聞読んだんだろ? 本人から訊いたよ。そこには文も映っていたじゃないか」
「それが何か?」
「おかしいと思わなかったのか? 妖怪の山武闘大会の記事に、どうして自分が載っているのか、と」
「知りませんよ」
「出場するからだよ」
出場する。にとりの声はまだ恐怖のせいか震えていたが、それでもしっかりと聞き取れた。聞き取れたからこそ、私は呆然とする。そして、段々と理解できてきた。何をか。私が失態を起こしたことを、だ。
「文の許可を取らずに、勝手にエントリーしたんだ。極力秘密裏にね。だから私は椛に賭けなかったんだよ。さすがの椛も、文には勝てないだろ?」
「そんなことが許されると?」
「だから、はたての新聞でも、すごく小さく載せておいたんだよ。一応載せないと、後でクレームが来ると思ったから」
「私からのクレームは予測していなかったんですか」
「していたさ。だから、文がいきなり襲ってきても、ああ、ついにバレたなって思ったんだよ。なのに、どうして私が椛を殺さなきゃいけないのさ。常識的に考えなよ。いくら、私が賭け事が好きだからって、親友を殺したりしないし、河童の力じゃ無理だ」
訊きたいことはたくさんあった。が、とりあえず。にとりが襲撃犯ではないと知り、ほっとする。冷静に考えれば、たしかにあり得ない。賭け事のために、友人を殺すなんて、ギャンブル依存症でも稀だろう。それに、臆病なにとりが、そんな大それたことをするわけない。どうかしていた。なぜ、そんな結論に至ったのか、と自分を自分で罵る。
「やっぱり、文は椛が絡むと面倒くさいね。天邪鬼くらいに」
「椛は関係ないですよ。ただ、記事に出来そうだなと思っただけです。というより、私も言いたいことがあるんですけど」
「何さ」
「なに勝手に私を武闘大会に参加させているんですか」
にとりを勝手に襲撃犯扱いしていたことを誤魔化したかったこともあり、私は強い口調で訊ねた。彼女を非難できる立場でないことは重々承知していたが、だからこそ、問い詰める。「さすがに身勝手すぎます」
「それは私に言われても困るなあ」
「どういう意味です?」
「私は別に、文を妖怪の山武闘大会に出してくれだなんて誰にも頼んでいないし」
「じゃあ、誰が頼んだんですか」
「椛らしいよ」
予想外の返答に、言葉を失う。「椛って、あの椛?」と訊ね直してしまう。
「そうだよ。文の嫌いな椛だ」
「どうして。どうやって」
「武闘大会のチラシの裏、あれ申込書になってるんだけど、そこに文のサインがあったから、許可したらしい。椛本人に聞いたら『まさか書いてもらえるとは』って驚いていたよ」
「あれか」
記憶をたぐり寄せ、埋もれていた情景を思い浮かべる。たしかあれは、椛が訓練してくれ、と頼み込んできた時だったはずだ。彼女は最初から、私を出場させようとしていたのか。まんまとサインしてしまった自分が情けない。あの椛に一本取られた、という事実が歯痒くて仕方がない。これも、金の力でした、と言い張ってしまいたいくらいだった。
「そんな、私の意思に反したエントリーなど、無効ですよ。私は棄権します」
「え、ちょっと。それは困る」
にとりは、襲われたショックから立ち直り、落ち着いてきたところだったが、また顔を青くした。「話が違う」
「話?」
「椛が言ってたんだよ。『文さんは、絶対に参加しますよ』って」
いったい、何を根拠に椛はそんなことを。本人に訊ねたいが、できない。後で眠っている彼女に悪戯してやろうと決意する。まあ、眠っているというよりは、死にかけていると言った方が適切かもしれない。
「まったく、椛はどうして私を武闘大会に出そうとしたんですかね」
彼女なりの悪戯だろうか。それにしては回りくどい。
「彼女は優勝を目指していたはずですよ。私が出てしまったら、障害が増えるだけじゃないですか」
「だよなー。でも、本気で挑もうとしていたのは確かだよ」
木陰へ足を進めたにとりは、そこに敷かれていた布をめくりあげた。どうや
ら、私が彼女を発見するより前にここにいたらしく、背負っていたリュックサックも同じく置かれていた。流れていたキュウリを見つけ、川に出たところを私に発見されたようだ。布の下には、見覚えのある、けれども予想外の物が置かれていた。どうしてこんなところに。
「手入れを任されていたんだ」にとりは、ふふんと自慢げに鼻を鳴らす。
「まだ壊れていないのは、私のおかげなんだからな」
それは、剣と盾だった。椛がいつも使っているものだ。たしかに、以前見たときよりも塗装がしっかりとされ、錆も消えている。
「なんか、この大会が晴れ舞台って言ってたんだよ。この剣と盾を使う、最後の舞台だってね」
「新しいのに変えるのですかね」
「そのつもりだったんじゃないか?」
だからか、と私は息を吐いてしまう。間が悪すぎる。もし、椛が装備をしっかりと調えていれば、あそこまで一方的にいたぶられはしなかっただろうに。
これは記事に出来るだろうか、と一応写真を撮っていると「これ、文がプレゼントしたんだろ?」とにとりが言ってきた。
「椛は押しつけられたって言ってたけど」
「え?」
「ほら、以前、私に頼んだじゃないか。剣と盾を作ってくれって。九里の道も一歩からって、書いてあったあれだよ」
覚えている。たしかに、あのダサい剣と盾は椛に押しつけた。だが、目の前のそれと、記憶の中でのダサい武具とは大きく異なっていた。
にとりの持っている剣と盾を触る。形や色、全てが変わっているが、手触りは同じだった。よく見ると、赤い椛の塗装の下に、わずかにくぼみがある。新たに金属を流し込んだのか、つぎはぎのようになっていた。間違いなく、例の下らない格言じみた言葉のあとだ。
「やっぱ、椛は馬鹿ですね」
ふっと息が零れる。何の息かは自分でも分からなかった。わざわざ、上から色を塗り直して、文字を強引に潰してまで使わなくてもいいじゃないか。そこまで金に困っているわけでもないのに。愚かだ。まったくもって、下らない。
「にとり、一つ聞きたいのですが」
「なんだよ」
「椛が、何のためにこの大会に出るか、言っていたりしませんでした」
一瞬、怪訝そうな顔をした彼女だったが、ああ、とすぐに頬を緩めた。
「なんか、妙なことを言っていたよ」
「何を言ったんです?」
「この大会で夢を叶えるんだって言ってたな。ドリームだって」
夢。ドリーム。緩んでいた記憶の袋から、椛の声が聞こえてきた。私は耐えきれず、噴き出してしまった。腹から湧き出る笑いが収まらず、その場に座り込み、腹を押さえる。
「お、おい」にとりは困惑して、変な声を出した。「なんだよ。夢って、なんなんだ」と私を揺さぶってくる。それでも、笑いは止まらない。なんて馬鹿で、間抜けで、下らないのだろうか。椛らしい。口を閉じ、笑い声を出さないようにするも、すぐに決壊してしまう。
「あややや。なるほどなるほど」
「何がなるほどなんだよ」
「そんなにご飯をおごってほしかったんですか、椛は」
椛がなぜ、こんな回りくどいことをしてまで、私をこの大会に出場させようとしたのか、分かってしまった。彼女は一人前になろうとしていたのだ。あんな冗談を真に受けるだなんて、どれだけ馬鹿真面目なのか。
「一人前になるには、どうしたらいいか分かりますか?」
「なんだよ急に。大人になる、とかか?」
「師匠を倒さなければならないんですよ」私は、かつての椛の姿を思い浮かべながら言う。「本気の師匠に勝たないといけないんです」
私にそう言われた彼女は、そんな戯れ言を信じてしまった彼女は、考えた。足りない頭で、必死に考えたのだ。師匠を倒す方法を。つまり、本気の私を倒す方法を。
「力士は強敵を土俵に引きずり込む、ですよ」
「なんだよそれ」私の呟きに、にとりは首を傾げていた。「暗号か?」
「椛の言葉ですよ。イワナみたいなレアな奴は、なんとかこっちの戦場に引きずりあげないとって。あくまで真剣勝負のために、正面切って、本気の勝負をするためですって、言ってたじゃないですか。アホ面で馬鹿みたいに」
「どういうことだよ」
「椛は、本気の私と戦うためだけに、わざわざ私を出場させようとしたんですよ」
文さんは面倒くさいんですよ。うんざりとした、椛の言葉が頭に響く。『本気を出さないくせに、中途半端に負けず嫌いだから、衆目を浴びている場では本気で勝ちにいくじゃないですか』
なぜ椛が、優勝賞品を担保にしてまで、私に訓練を頼んできたのか。本番で私を倒したかったからだ。相手を研究しておきたかったから。そうに違いない。そこまでして、私に勝ちたかったのか。そこまでして、私に一人前と認めてもらいたかったのか。なぜ。どうして。そんなのは、もう分からない。まさか、私を尊敬していたのか。あり得ない。あり得ないはずだ。
笑いが止まらない。笑いすぎて、目に涙が浮かぶ。膝にひびを入れながらも、それでも彼女は出場しようとしていた。なぜか。私を倒すためだ。一人前だと認めてもらうため。本当に、そんなので私が一人前と認めるかどうかなんて、分からないじゃないか。やはり、どう取り繕おうが椛は馬鹿だ。けれど、もはや彼女の望みは叶わない。絶対に叶わない。たしかに彼女は努力していた。腹が立つほど、憎らしいほど日々訓練し、血反吐を吐いて訓練に勤しんでいた。だが、そんな些細なことは、理不尽に崩れ去ってしまった。ざまあない。笑えるじゃないか。白狼天狗なんて、どんなに頑張ろうが、認められない。そういうことなのか。目に浮かんだ涙が零れる。もう既に笑いは止まっていたのに、それでも溢れたのだ。
「私の夢は」
私はくるりとその場で回り、ピンと指を立てた。
「上司をぎゃふんと言わせることです」
なんだよそれ、と乾いた笑い声をあげるにとりに顔を背け、こっそりと顔を拭った。それでも、世界は薄暗いままだ。
もし、相手に落ち度があった場合は、徹底的に追求すべし。
間違っても、子供には教えられないような理屈だが、厳しい世の中を生きていく中で、悲しいかな、大人というものは自然とそのように物事をとらえてしまう。敵対している相手は当然ながら、身内や友人、挙げ句の果てには上司にすら、隙につけ込み、利益をふんだくらなければならない。厳しい妖怪の世界では、そうしなければ生きていけないのだ。もしかすると、人間たちでも同じかもしれない。
「それで、いきなり私を犯人扱いした文は、どう責任を取ってくれるのかな?」
だから、にとりのその要求は真っ当なものであるし、受け入れるべきものだ。そう頭では理解していたが、それでも身体は勝手に拒絶してしまう。
「あややや。いいじゃないですか。正義のヒーローと勘違いしてしまっただけですって」
「いきなりヒーローを組み伏せる奴がいるか」
「私、悪役側なので」
「どちらにしろ、人違いなんだから責任は取ってくれよ。そうじゃないと、皆に言いふらすぞ。文が椛が襲われたことに怒って、私を殴ってきたって」
「それは勘弁してほしいですね」特に、椛が襲われたことに怒って、という部分が駄目だ。私が怒っているのは、椛が襲われたからではない。単に、ムカつくだけだ。
「でも、本当なのかよ」にとりは広げていた剣と盾を拾い、リュックサックに詰めた。よっこらせ、と持ち上げながら、神妙な顔つきで訊いてくる。
「椛が襲われて大怪我だなんて、想像もつかない」
「知らなかったのですか?」
「椛が大会を棄権したことは知ってたけどね。ずっと、椛の剣と盾の補修をしてたから。というより、正義のヒーローってなんだよ」
いつの間にかポケットからキュウリを取り出し、突きつけてくる。
「貧しい人々にキュウリを配り歩いてるのか?」
「それはただの不審者ですよ。そうじゃなくて、妖怪の山で悪さをする妖怪を、バッタバッタと倒しているって噂の妖怪のことです。椛も、そいつにやられたと」
「椛が? なんでさ」ぐいぐいと頬にキュウリを押しつけてくる。あまりにしつこいので、囓ってやろうと思ったが、噛みつく直前でにとりは手を引いた。キュウリを食べられそうになったからか、それとも椛に対する思いからか、彼女はむすっとしたまま言葉を続ける。
「そいつは悪い奴を倒しているんだろ? 椛はどっちかって言えば、むしろ正義だろ。悪事を毛嫌いするような」
「でも、今そう思っているのはごく僅かですよ」
「なんでさ。椛の頭の固さなんて、みんな知っているだろうに。まだ、鬼に喧嘩を売られたって言われたほうが現実味がある」
「何でもかんでも鬼のせいにするのはよくないですよ。気持ちは分かりますが」
「きっと、最近キュウリの値段が高いのも、服の乾きが悪いのも、鬼のせいだ」
さすがにそこまで責任をなすりつけてはかわいそうだとは思ったが、本当にそうかもしれない、と信じそうになってしまうのが、鬼の恐ろしいところだ。
「そんなことができるのであれば、鬼を頼れば何でも解決できそうですけどね」
「鬼に会うっていう前提がきつすぎるよ。私だったら舌を噛むね」
「諸刃の剣って奴ですか」
にとりなら、本当に舌を噛みかねないな、と思った。
深く息を吐いたにとりは、鬼という言葉を一刻も早く頭の中から押し出したかったのか「結局、どうして椛が悪い奴だってことがまかり通ってるんだよ」と早口で訊いてくる。
「私の知らない間に」
「新聞ですよ」
私はそこで、新聞大会の異様な状況をにとりに伝えた。つまり、無数の新聞がこぞって、椛の悪評と闇討ち妖怪の勇敢さを書き連ねている、ということを、少しばかりの誇張と私の偏見を織り交ぜながら、話した。
「なるほどねえ」にとりはさして驚いた様子もなく、へー、ふーん、と興味なさそうに頷いている。
「その、誰もが新聞を見て、信じてしまっているんですよ」
「でもさ、おかしくないか?」
「おかしいって」むしろ、おかしくないことが一つもなかった。
「文はさ、新聞を書いているから分からないかもしれないけど、こんな短期間に、たかが鴉天狗の新聞だけで、あの椛に対する印象がここまで変わるとは思えない」「でも、現に変わってしまいました」
集会場につどっていた白狼天狗の姿を思い浮かべる。それだけで、吐き気がした。彼らは熱心に新聞を読み、しきりに首を縦に振り、そして眉根に皺を寄せていた。椛があんなに酷い奴だなんて、と。椛が示してきた生き様は、高々あんな下らない紙切れに敗れ去ったのだ。
「一枚の新聞でなく、無数の新聞が同じことを書いていたのですよ。それはもう、真実だと思いこんでも仕方ないですよ」
「そうか?」にとりは妙に譲らず、首を捻る。
「鴉天狗の新聞なんて、信じる奴の方が稀だろ。きっと、他の要因があったんだ」
「他の要因?」
「もっと別の角度から、椛が悪い奴だっていう印象操作が行われていた、とか。それとも、元々椛が嫌われていたか、とかかな」
「後者の方がまだあり得ますね」
「いや、ないよ」にとりは即答した。有無を言わさず「それはない」と言ってくる。
「椛の悪い噂なんて、聞いたことないもん。文の悪い噂なら流れてくるけどね」
私は黙り込むしかなかった。たしかに、その通りだ。私と椛が一緒にいるところを誰かに見られると、大抵、椛に同情を孕んだ目つきをやり、曖昧な笑みを浮かべて去っていく。どうせ、上司に理不尽に叱られる部下、だとしか思っていないのだろう。あながち待ち合っていないが、理不尽ではなく、真っ当に叱っているのだから、文句を言われる筋合いはない。
しかし、にとりの言った「別の角度」とやらが何か、と言われても、思い当たる節がなかった。あるとすれば、やはり、新聞の件だけだ。
「私がにとりを疑ったのには、賭け事以外にも理由があるのですよ」
「あ、そういえば責任」
聞こえていたが、頭を回すことに精一杯です、といった表情を作り、無視する。
「実はですね、その馬鹿げた新聞の中に、写真を用いているものがありまして」
「まあ、新聞だからね」
「そこに、椛が少年から金を奪い取っているものがあったんですよ」
「はあ」
私は天秤にかけたのだ。椛が少年から実際に金を奪った可能性と、あの写真が、にとりの手によって作られた、偽物の写真である可能性とを比べた。比べて、後者を選んだ。あんな都合のいい、そして非現実的な写真が実在するとは思えない。
「にとり、前に新聞の写真を捏造していたじゃないですか。はたての新聞ですよ。合成、でしたっけ。あんなことができるのは、にとりだけだと思いまして」
「私がそんな写真を作るわけないじゃないか」
美学がないよ美学が、とにとりは突っかかってくる。また美学か、と呆れる。そんなもの、ドブに捨ててしまえばいいのに。まあ、私は捨てないが。
「それに、合成なんて、河童じゃなくても、やろうと思えばできる。現に、はたてだって、ほとんど自分でやっていたんだし」
「私にもできますかね」
「できると思うけど、やり過ぎるなよ」
「大丈夫ですよ。やってもいない悪事をでっち上げる時にしか使いませんから」
椛のことが念頭にあったからか、微妙な笑顔を浮かべたにとりは、その表情のまま「もしかすると」と指をピンと立てた。
「写真の少年が、実際に金を椛に奪われた、とか言ったりしてるんじゃないか?」
「え?」
「誰かから、それこそ金を貰っていたり、脅されたりして、言ってるかもしれない。証言人がいたら、ぐっと信憑性は高まるだろ。まして、子供の言うことなら尚更」
「そんなことしたら、親が黙っていないと思うんですけど」
「まあ、そうだね」
結局のところ、椛が誰に襲われたのかも、どうして陥れられているかも、分からなかった。分かったことと言えば、実際に椛が社会的にも身体的にも死にそうになっている、という事実だけだ。
ずっと河原にいてもよかったのだが、ただ黙って何の変化もない箇所にいることが、どういうわけか落ち着かず、「聞き込みにでも行ってきます」と私は半ば無意識でにとりに手を振っていた。
「とりあえず、にとりが襲撃犯ではないと分かったので、満足です」
「文は一人で聞き込みしないほうがいいよ」
「なんでですか」
「私ですら疑われたんだったら、多分、全員が怪しく見えると思うよ。文は病的に疑い深いからね」
「そんなこと」
「それに、やけに熱心じゃないか」
はじめ、にとりが何を言おうとしているか分からず、困惑する。私が記事作りに熱心なのはいつものことで、別に取り立てて言うほどのことでもない。だが、意味ありげに目を寄越す彼女を見て、その意図に気がついた。
「そんなに椛を襲った奴のことを許せないのかい?」
「馬鹿な」
「やっぱり、文と椛が仲良くできるかって賭けは、私の勝ちで間違いないな」
「間違いですよ。私はただ、記事を書きたいだけです。いつも通りですよ」
「いつも通りかあ?」
「いつも通りですよ」
「いつも通り、行き詰まっているわけだね」
猪口才なことを言うにとりの口を翼で覆う。少し口をもごもごとさせ、身じろぎしていた。
確かに、私たちは行き詰まっている。有力な情報も、そもそも事態の全体像すら見えていない。だが、私には奥の手があった。行き詰まった現状を無理やり打破してくれる切り札の存在を頭に思い浮かべる。
「では、行きましょうか」私は翼でにとりの身体をぐいぐいと押した。
「お、おい。行くってどこに」
「諸刃の剣のところですよ」
私は笑顔で、彼女の口を引っ張った。
「舌を噛まないで下さいね」
まさか、と青ざめるにとりの手を引っ張る。目指すのはもちろん、萃香様のところだ。
神出鬼没って言うけど、あの言葉、気に入らないんだよね。
萃香様はよく、こんなことを言っていた。
「どうして神は現れる前提なのに、鬼は没しないといけないんだよ。鬼差別だ」
きっとそれは、人間たちの切実な願いだったのではないでしょうか。つまり、神には来て欲しいけど、鬼にはいなくなってほしいという願いだったんですよ。そう内心で思ったが、口にしなかった。
「まあ、鬼の目にも涙なんて諺よりは百倍マシだけどな。私たちをなんだと思っているんだ。鬼だって、泣く時は泣く。鬼出神没じゃなきゃ嫌だよーってね」と意味不明な言葉を続ける萃香様の目には、もちろん涙なんて浮かんでいなかった。
「これが、鬼出神没って奴ですか」
けれど、今になって、ようやく彼女の口にしていた言葉の意味を理解した。鬼出神没とはつまり、来て欲しくない時には必ず現れるくせに、いざ捜すと全く見つからない、という意味だったのだ。
空を飛んでいるからか、強めの風が髪を撫でてくる。だが、本格的な夏を思わせるじめりとした風は、不快感しかもたらしてくれなかった。
たしかに、妙だとは思っていた。椛を襲った犯人に心当たりがある、と出て行ってから、丸一日経っている。昨日の夜、全身包帯まみれの椛と二人きりで萃香様の帰りを待つだなんて、地獄もびっくりの状況を作り出した彼女は、てっきり、妖怪の山のどこかで、未だに犯人を甚振って遊んでいるのだろう、と思っていたのだが、にとりと共に妖怪の山を探し回っても萃香様は一向に見つからなかった。
「もう帰ったんじゃないのか」にとりは、半ば投げ遣りに言う。
「きっと、疲れて帰っちゃったんだよ」
「帰るって」
私の家にですか。それとも博麗神社にですか。そう訊ねようと思ったが、できない。何となしに下ろした視界の端に、気になる物が見えたのだ。
私たちはちょうど妖怪の山の中腹辺り、木々がもっとも鬱蒼としていて、視界が悪いところに来ていた。こんな何もないところに萃香様はいないだろうし、そもそも彼女が暴れれば木々はなぎ倒されているはずなので、詳しくは見ていなかった。だが、その木々の一つから、見覚えのある角が見え隠れしている。枝かとも思ったが、それにしては大きい。それに、とても自然の物とは思えないほどに捻れていた。
「にとり、あれ」
「あれ? どれだよ」
「中央の楓の木から出ている角、あれ萃香様の角ですよね」
返事はない。返事をする間もなく、にとりは背を向け、逃げようとしていた。服を掴み、強引にたぐり寄せる。
「一人で行ってくれよ!」
「いいじゃないですか。私たちは一蓮托生です」
「嬉しくない!」
騒ぎ出したにとりの手を引っ張り、ゆっくりと地面へと下りていく。周りに他の妖怪の姿はない。弱小妖怪が隠れていてもおかしくないような場所なのに、だ。
木々の青々とした葉をくぐると、日光が遮られ、急激に薄暗くなった。ガサガサと何本かの枝が引っかかり、鬱陶しい。
ねじれた角のような何かは、上空で見ていたときよりも探しづらく、細い枝と同化し、ぱっと見ではどこにあるのか分からなかった。が、にとりが必死に逃げようと足を進めている反対側に進んでいると、ちょこんと木の幹から捻れた角が、本物の枝のように生えていた。安堵と恐怖の入り交じった微妙な感情に襲われる。
ゆっくりと近づいていく。別に、萃香様は理性を持たない畜生じゃないのだから、普通に行けばいいのだが、それでもつい身構えてしまう。にとりなんて、ガクガクと小刻みに震えていた。いつぞやの椛を思い出す。
と、緊張しすぎていたせいか、にとりがバランスを崩し、手前の木に突っ込んだ。大きなざわめきと共に、無数の葉が降ってくる。何をやっているのか、と呆れる。
「誰かいるのか」
どこからか、鋭い声が聞こえた。無意識的に体が震える。特に理由も無いのに、その場に跪き、許しを請いたくなった。どうやらそれは私だけではないらしく、にとりは目を閉じ、涙を流している。何も泣かなくてもいいのに、とは言えない。その声は萃香様のものだったからだ。しかも、かなり怒気が含まれている。
「あややや。私です。射命丸文です」
そう声をかけるも、角は動かない。ただ、声には変化があった。「何だよ、文かよ」とどこか気の抜けた萃香様の声が響く。
「びびらせるなよ」
「帰りが遅いので、お迎えに参りました」
「お迎えに参ったって、ヤクザじゃないんだから」
とりあえず近う寄れ、とどこか弾んだ声で言ってくる。鬼なんてヤクザみたいなものではないか、と言いたくなるのをこらえ、死にそうになっているにとりの頬を叩き、正気に戻す。
「再会を期して酒でも飲もうじゃないか」
「再会って、そんな大げさな」
私はそこで、おや、と思った。どことなく違和感がし、落ち着かない。その違和感の正体に気がついたのは「おーい、はやく」と萃香様が催促してきたときだった。
その声がしたのは、ここからやや西側、低地からだった。目の前にある角と、萃香様との位置が一致しない。
おそるおそる、その角に手を伸ばす。と、想像以上の軽さに驚愕とする。萃香様の角ではなく、本当に枝だったのか、とその時は思っていた。こんなに似ている枝もあるのだなあ、と感心してすらいた。
だから、地面に寝そべっている萃香様を見つけたときも、私はそれが彼女だと、すぐには理解できなかった。
ぬかるんだ地面に大の字で寝転ぶ彼女の目は閉じられていた。遊び疲れて眠ってしまった子供のように、肩で息をしている。赤色のワンピースが汗で湿っていた。萃香様の声がなければ、私は本当に子供だと勘違いしただろう。なぜか。
彼女の頭に生えていた角が、根元から折れていたからだ。
「どうしたんですか、萃香様」そのあり得ない事態に、私は滑稽なくらいに動揺した。「萃香様の角って、鹿みたいに生え替わるのですか」
「そんな訳ないだろ」萃香様は微動だにせず、口だけで答える。
「油断したんだよ」
「油断?」
「ここまでで酷くやられたのは三百年ぶりだ」
にとりが悲鳴を上げた。萃香様に恐れをなし、その恐怖が限界を迎えたのかと思ったが、違った。
「血が」
「ち?」
「萃香様、血が出てますよ」
そんな馬鹿な。私はにとりの妄言を笑いとばし、彼女を宥めようとした。が、できなかった。あの鬼が血を流すだなんて、絶対にあり得ない。鴉天狗が束になって襲いかかろうが、右手一本で振り払えるほど強大な彼女が怪我をするだなんて、信じられなかったのだ。世界が滅んでも、鬼だけは無傷でいられると本気で思っていたのに。
「豆にやられたんだよ」
萃香様は、寝転んだまま口を開く。一見して、血なんて流れていないように見えたが、やっと気づいた。彼女の服が濡れていたのは、汗のせいではない。血のせいだ。赤い服ではなく、血で真っ赤に染まっているだけだった。
「あいつ、私が賄賂について調べているの、気づいてやがったんだ。それで、こんなことを」
「いったい何があったんですか」
知らず知らずのうちに、私はカメラを取り出していた。シャッターを押そうと、ボタンに手を近づける。
「やめろ」
が、萃香様がぴしゃりと言ってきて、その指は止まった。
「撮っちゃ駄目だ」
「あややや。失礼しました。さすがに無礼でしたよね」
「そうじゃないよ」萃香様は首を振り、そうじゃない、と繰り返す。
「いいか、よく聞け。私を倒せるような妖怪に、お前らが勝てるわけない」
「え?」意味が分からなかったのか、にとりが震える手で私の肩に手を置いてくる。「鬼って倒せるの?」
「豆だよ。豆。鬼は節分の豆に弱いって、常識だろ?」
「でも、そんな簡単に萃香様が倒されるだなんて」
「一万」
え、と今度は私が声を零した。何を意味する数字なのか、分からなかった。
「あいつは、私たちが地底に封印されてから、ずっと鬼に効果のある物を集めてたんだよ。莫大な霊力が込められた豆とかをな。おそらく、博麗の巫女のも混じってたはず。懐かしい感じもしたし霊夢のもあったかもしれない。それが全部で一万」
「それは、一万個ってことですか」
「いや」彼女は首を振ろうとしたのか、小さく身じろぎした。が、全く動けていない。「普通の鬼なら、一万回死ぬほどの威力だったってことだ」
冗談でしょ、とは言えなかった。萃香様をここまで怪我させるには、それほどのことは必要であるはずだ。だが、現実的ではない。普通の鬼を一万回殺せるほどの豆などを、いったいどこの誰が集めたというのか。そもそも。
「鬼に手を出すだなんて、どれだけ命知らずなんですか」
私は萃香様の目の前だというのに、そう叫んでいた。「気が狂ったとしか思いませんよ」
「どういう意味だよ」萃香様は、力なく言う。「私はそんなに陰湿じゃない。仕返しだなんて、考えないさ」
「そうじゃありませんよ。鬼に喧嘩を仕掛け、もし負けたりしたら、生きて帰れませんよね。というより、実際に萃香様は生きて返さなかったじゃないですか」
「昔の話だよ」
「でも」
「それに、勝つ自信があったんだろ。それか、勝たなければならなかったのか」
とにかくだ、と萃香様は戸惑う私たちに向かい、はっきりと言った。
「お前達は関わらない方がいい」
「いったい、何にですか?」
「椛を襲った犯人を捜しているんだろ?」
にとりが、ひぃ、と声を上げた。余計な詮索をするな、と叱られていると思ったのか、それとも、萃香様に図星を当てられ、それだけで恐縮したのかもしれない。
「あいつには手を出さない方がいい。碌な目に遭わない」
「でも」
「いいか。これは忠告でも、お願いでもない。命令だ。手を出すなと言っているんだよ。もう、調べるのを止めろ」
そこで、彼女はゴホゴホと咳をした。口元が血で濡れる。汚ないな、と愚痴るその声も、どこか細い。
「私は、案外お前のことを気に入っているんだよ」
「え?」
「そんな奴が犬死にするところなんて、見たくないんだ」
「犬死にするのは私ではありませんよ」
「じゃあ、誰なんだ」
「椛です」
萃香様の顔が強張った。実際に変化があった訳ではないが私にはそう見えた。喋るのも本当は辛いだろうに、気丈に振る舞っていたのか、苦しげに息を整えている。
萃香様は、何かを言おうと口を開いたが、もごもごとさせ、黙り込んでしまった。体力的な限界が近いのか、それとも言葉を発したくないのか、おそらく両方だ。
彼女の足下に新聞が落ちていると気がついたのは偶然だった。萃香様の血で所々赤くなっているそれが、ちょうど吹いた風で巻き上げられたのだ。目の前でゆらゆらと揺れるそれを掴み取る。とって、驚いた。驚きのあまり、すぐ後ろのにとりに勢いよく見せてしまう。目の前で、かつての上司が瀕死になっているのに、だ。
「これですよ! 以前、にとりにも言ったじゃないですか。集会場に貼ってあった例の新聞です」
「例のって」
「椛が少年を脅してるっていう、あの写真が載った新聞ですよ」
あー、と呆れ声ともうめき声ともとれる音を発した萃香様は「貰ったんだよ」と無理やり笑ってみせた。「集会場の壁に落ちてたからな」
「壁に落ちてるってなんですか。貼ってあったんですよ」
今頃その新聞を作った天狗は泣いてるだろうな、と同情を覚えるが、それよりも、喜びの方が勝っていた。胸が空くような気持ちとはこのことだ。
「これ、たしかに合成かもね」にとりは、新聞の写真をじっと見つめていた。集中しているのか、鬼の前だというのに、ため口になっている。
「影とか光の加減が不自然だよ。こりゃ素人の仕業だ。頑張ってはいるけどさ」
「分かるんですか?」
「まあね。プロだから」
別に、写真合成のプロではないはずだが、指摘するのはやめておいた。にとりの後ろから新聞をのぞき込む。こんなにも嫌みな顔をする椛なんて、見たことがない。あったかもしれないが、少なくとも覚えてはいない。腹の奥底から、自分でも消化できない怒りがふつふつと湧いてきて、目を逸らす。が、逸らした後ではっとし、また目を戻した。嘘だと分かっていながらも、見ているだけで嫌悪感を抱く写真をまじまじと見つめる。動悸が激しくなる。文は疑い深い。にとりの言葉が頭に響く。もしかして、今回も勘違いではないか。内なる自分が警告してくる。根拠なんて、ほとんどない。私の偏見ではないか。だが、一度考えてしまえば、そうとしか思えなくなる。それに、訊ねるだけなら問題ないはずだ。
「萃香様、ひとつ訊きたいことがあります」
「なに」ない、とも聞こえる曖昧な言葉を吐いた萃香様に近寄り、新聞を見せる。
「この新聞の写真についてです」
「それが何だ」
「椛の額に、犬と書かれていますよね」
萃香様の口が動いた。それがどうした、と言ったようにも見えたが、か細い声は私の耳にまで届かない。
「おかしいじゃないですか」
「おかしい?」
「私は椛の額に、鬼って書いたんですよ。萃香様にも、そう伝えたはずです。でも、この写真には犬と書かれています。ほら、おかしいじゃないですか」
「おかしくはないでしょ」返事をしたのは萃香様ではなく、にとりだった。いくら大怪我をしているとはいえ、鬼に詰め寄る私を見て、肝を冷やしているのだろう。「おかしくないって」とどこか焦りながら言ってくる。
「そもそもが合成された、偽物なんだから、おかしくはないでしょ」
「そうじゃないんですよ、にとり」
頭の中で、カチャカチャと無数に散らばったパズルがはまっていく。そのパズルが、はたして本物なのかは分からない。が、一度組み上がったそれを、意味なく壊すほどの勇気を、私は持ち合わせていなかった。
「そもそも、私が椛の額に落書きをしていると知っている妖怪は、ごく僅かしかいないんです。もしかすると、実際に椛の額に書かれたものを見た奴がいるかもしれませんが、だとしたら、鬼と写真に合成するはずです」
そうだ。椛の額に書かれた文字が犬だと、そう思い込んでいた妖怪は僅かしかいない。私が咄嗟についた嘘を知っていたのは、目の前で倒れている萃香様と椛自身。
そして。
「そして、大天狗様くらいしか、いないんですよ」
そうだ。萃香様と椛が大天狗様に会いに行った時、椛の額の落書きについて暴露された、と椛が怒っていたではないか。犬と書かれたと大天狗様にまで知られてしまったと、子供のようにヘソを曲げていた。
「萃香様が、やけに調べるのを止めろって言うのは、そういうことですよね。私たちのような、妖怪の山の支配体制に組み込まれた只の鴉天狗や河童が、大天狗様に逆らったらどうなるか。火を見るより明らかだから、止めた。止めて、ご自身でどうにかしようとした」
して、返り討ちに遭った。たしかに、大天狗様ほどの立場があれば、豆や鬼に対する兵器を無数に持っていてもおかしくない。鬼がいなくなってから、妖怪の山の上層部が、また鬼による支配が来ないように、と対策するのは当然に思えた。
「でもよ、文」
萃香様は、先ほどのか弱い声なんて嘘かのように、はっきりと言う。
「なんで大天狗が、わざわざ木っ端の白狼天狗を倒さないといけないんだ」
そもそも、私の言葉を否定しない時点で、それが真実だと言っているようなものではないか。そう言いたいのをぐっと堪える。
「萃香様って、賄賂について色々調べていたんですよね」
「それが、椛と何の関係があるんだよ」
「賄賂をしていたのは大天狗様だったんじゃないですか? そして、大天狗様は、それが露見することを恐れていた。そうですよね?」
根拠も証拠も何もなかった。萃香様がしらばっくれてしまえば、これでこの話は終わりだ。あの大天狗様を疑うだなんて、とにとりに馬鹿にされるだけだろう。だが、私は知っていた。鬼は嘘を吐かない。つまり、それが真実だった場合に、否定することはできないのだと。
そして案の定、萃香様は何も言葉を発さなかった。疑惑が確信へと変わっていく。
「だから、新聞に載せるのを止めろ、と私に注意したんですよね。鴉天狗の新聞を確認している大天狗様に、私が何かを知っている、と思われてしまってはいけないから」
「だから、何だよ」萃香様は、ぶっきらぼうに鼻を鳴らす。往生際が悪い。
「椛と賄賂と、何の関係があるんだ」
では、なぜ椛はあんな目に遭ったのか。真面目で純粋な彼女が、どうしてあんなおぞましい姿へとなり果ててしまったのか。いったい、それは誰のせいなのか。考えなくとも分かる。悲しむ理由なんて何一つないのに、きゅっと胸の奥が詰まった。「私が口を滑らせたんですよ」
「え」
「萃香様が大天狗様と話をしていた、と椛から聞き、早とちりをして、賄賂のことを、椛に言ってしまったんです」
「だから、それが」
「真面目な椛が、そんな重要なことを小耳に挟んでしまえば、どうするか、想像に難くないですよね」
私は空を見上げる。も、青々とした楓の葉が視界を覆い尽くすだけで、太陽の光など、まったくなかった。それでも、さも眩しいかのように、私は手で目元を覆い、こっそりと拭った。
「レタスですよ」
「レタスって」
「白狼天狗は些細なことでも上司に判断を仰がないと駄目なんです。つまり、椛は大天狗様に、賄賂について、馬鹿正直に伝えに行ってしまった」
大天狗様はさぞ焦っただろう。千里眼を使い、賄賂に関する何らかの事情を見抜かれてしまったのではないか、と戸惑ったはずだ。戸惑って、実力行使に出た。
お前のせいだ。どこからともなく、声が聞こえる。お前が余計なことを言ってしまったから、椛はこんな目に。
「そういうことなんですよね、萃香様」
返事はない。ばつが悪そうに頬を掻こうとしてのか、手がピクリと動かしている。
「そういえば」
ふっと息を吐き、萃香様は笑う。その笑みは、鬼らしくない卑屈なものだった。
「そういえば、地球って丸いらしいよ」
唇を尖らせ、鳴らない口笛を吹き始めた萃香様を前に、私とにとりは顔を見合わせていた。椛を襲ったのは大天狗様だと、確信してしまったのだ。この、何とも絶望的な状況を受け入れることができない。大天狗様あいてでは、どうしようもないじゃないか。きっと、どんなに大天狗様が憎くても、私は彼を目前にすれば、媚びへつらい、取り入ろうとしてしまうだろう。鴉天狗としての性だ。それに逆らってまで、椛についての記事を書く勇気はあるか。ない。あるわけがない。
「それより、お前らさ」険しい声で、萃香様は声をかけてきた。絶対に足を突っ込むなよ、と忠告してくるのかと思ったが、違った。
「私の心配も少しはしてくれよ」
「え」
「とりあえず、病院に連れて行ってくれ」
ああ、と声を漏らす。心配をしていないわけではなかった。ただ、鬼に情けをかけるのか、と怒られそうに手を出せなかっただけだ。
血塗れの鬼を担ぐのには抵抗があったが、やるしかない。なぜなら私は鴉天狗だから。上司に刃向かうなんて、鴉天狗である私がするわけがなかった。