──神と鴉──
上司に歯向かうなんて、鴉天狗である私がするわけがなかった。
それがたとえ、自分の気に入らない奴であっても、死んでくれと心から願っている奴であっても、妖怪の山に属している以上、何があっても上司には逆らってはいけない。相手を確実に打ち倒せるのならば逆らってもいいのかもしれない。が、もし万が一失敗してしまえば、上司に逆らったと、皆に知れ渡ってしまえば、さらし者にされた挙げ句、殺されるだろう。面目が丸つぶれになった上司の鬱憤を晴らすがごとく、怒りをぶつけられるのだ。
だから、私は上司の命令には絶対に従うし、逆らわない。それが例え、無言の圧力だったとしても、だ。
「残念ですよ、早苗さん」
私は椅子ごと無様に這いつくばっている早苗さんの腹を、もう一度踏みつけた。
「本当に残念ですよ」
下駄の歯を思い切り彼女の腹へと叩きつける。ぐぅ、とくぐもった声を出した彼女は海老反りに背中を曲げようとした。が、椅子に縛られているせいで、できない。ただ苦しそうにうめき、血を吐き、涙を流すだけだ。
「やめて、ください」
「だから、やめてって、言ったらやらなきゃいけないんですよ。もう何も言わない方がいいです。ほら、言うじゃないですか。口は災いの元って」
そうだ。余計なことを言ってもらっては困る。
「分かりましたか、早苗さん」
今度は、私の声にも反応しなかった。ショックのせいで、呆然自若としている。ためしに顔を軽く蹴飛ばしてみたが、うんともすんとも言わなかった。
あと少しで、早苗さんの心は完全に折れる。大きく足を上げ、彼女の腹を蹴ろうとする。
「その辺にしておけ」
振り下ろす直前、嫌な声が耳元で響いた。早苗さんの服に爪先が当たったとき、私の足は止まった。意図的ではない。その声による恐怖のせいで、身体が固まったのだ。いつの間にすぐ後ろに。まったく気がつかなかった。
「これ以上は守矢との関係に悪影響が出る」
「ですが」
「しつこいぞ、射命丸」その声は、以前よりも迫力があり、恐ろしかった。
「身の程をわきまえろ。ふざけていると殺すぞ」
「申し訳ありません」反射的に死んだフリをしそうになり、必死に耐える。頭を垂れ、地面に膝をついた。早苗さんが視界の端に映るが、目をそらす。
「申し訳ありませんでした、大天狗様」
顔を上げようとするも、威圧感のせいで身体が動かない。こいつが椛を。萃香様をやったのだ。憎き敵だ。だが、だからといって。とても逆らう気にはなれなかった。逆らえば、一瞬でやられる。前回、椛と共に叱られた時には、ここまで恐ろしくなかったはずだ。つまり、彼も私たちと同じで、実力を隠していたのだ。
「率直に訊ねるぞ、射命丸」
微動だにできない私の肩に手を置き、大天狗様は耳元で囁いてくる。
「お前はどうして、守矢の風祝を蹴っていたのだ」
ただの質問だと分かっていても、言葉が詰まる。滑らかに返答しなければならない。そう思えば思うほど舌が震え、声が出ない。大丈夫だ。私は冷静だ、と自分自身に言い聞かせ、その時点で自分が冷静でないことに気がついた。
「どうしてって、それは」
「それは?」
「彼女が、捏造された写真を用いて、大天狗様が賄賂をしていたと触れ回っていたからですよ」
ふうん、と腕を組み、私をまっすぐに見下してくる。今すぐにでも首をはねられるのではないか、と恐怖が走る。逃げ切る自信はあったが、それも、身体が動かなければ意味がない。
「嘘は言っていない、か」
「え?」
「射命丸、お前は嘘を吐くと鼻が少し膨らむのだ。精進しろよ」
私にかかっていた威圧感がふっと緩んだ。肺に空気が入り込み、胸が軽くなる。そこで、やっと私は自分が息を止めていたということに気がついた。
無意識のうちに、自分の鼻を触っている。萃香様といい大天狗様といい、嘘を見抜くのが上手すぎる。もしかして、自分がわかりやすいのではないか、と不安になった。早苗さんを見る。目を閉じ、微動だにしない。気絶してしまったようだ。本当によかった、と心から思った。
「この前のお前の新聞、読ませてもらったぞ」
話は終わり、とばかりに、大天狗様は言った。声もいつもの調子に戻っている。どこか腹立たしく、傲慢さに満ちた顔を向けてきた。
「珍しく、真新しくもなかったな。余計なことを書くよりは百倍マシだが」
「お褒めいただき光栄です」
「お前はどう思う?」
「どう、とは」
「例の襲撃犯は、いったい誰だと思う」
背筋が凍った。どうしてそんなことを聞いてくるのか。もしかして、好機ではないか? それとも、あえて誘い出そうとしているのか。考えが頭の中でぐるぐるとし、混乱する。
「あの、いいと思います」
混乱のあげくに出た言葉は、自分でも驚くほどに抽象的なものだった。え、と自分で自分の言葉に驚く。いいと思うって、いったい何がだ。
「いいと思うって、何がだ」
当然、大天狗様も同じ疑問を抱いたようで、訊ねてくる。本当に何なんでしょうね、と同意したかった。この鴉天狗は、いったい何を言いたいのでしょうね。
「襲撃犯が誰であっても、いいと思うんですよ」
苦しみ紛れに、私は言葉を絞り出す。
「ほら、やっぱり格好いいじゃないですか。悪い奴らをバッタバッタと倒していくなんて正義のヒーローみたいで。だから、私はそれが誰であっても歓迎しますよ」
そんな正義のヒーローは存在しないと、私が一番分かっていた。あれは、大天狗様が、ご自身に歯向かった奴を保身のために倒していただけで、それがどういうわけかヒーローの仕業だと言われているに過ぎない。そんなことは分かっていた。
だから、大天狗様が、「正義のヒーローとは我のことだ」と胸を張った時、驚きのあまり、変な声を出してしまった。そして、すぐに冷静になる。そうだ。私の中では、椛を襲った襲撃犯は、それすなわち賄賂をしていた奴、という図式が出来上がっていた。だが、よくよく考えれば、そもそも賄賂の話自体が秘密中の秘密で、一般的には広まっていないのだった。
「射命丸。お前にだけ特別に教えてやろう。犬走とかいう金にがめつい白狼天狗を打ち倒したのも、その他の悪どい妖怪を倒していたのも、我だ」
金にがめついのは間違いなく大天狗様のほうであるし、悪どい妖怪というのも間違いなく大天狗様のことだ。そもそも、その他の妖怪とやらが、本当に実在するのかどうかも怪しい。彼の一挙手一投足が鼻につく。あれほど強かった恐怖や威圧感も、怒りのせいか霞んでいた。だが、逆らってはいけない。そう肝に銘じるも、反射的に怒鳴り声を上げそうになり、戸惑う。
「お前が、その守矢の風祝の暴走を止めたことの報酬として、教えてやる」
「は、はい」
「我が悪い妖怪を打ち倒していたのは、真に妖怪の山の秩序を守るためだ。そして、こうしてお前にその事実を告げているのも同じなんだよ」
だからどうした、と冷めた気持ちで見ていると、「以上のことを記事にしろ」と言ってくる。はい、と一旦は返事をした後に、「はい?」と聞きなおしてしまった。
「たしか、新聞大会はまだやっているだろ。ぎりぎりな。そこで、我のことを記事にしてもいい、と言っているんだ。きっと、正義のヒーローの正体が我だと書けば、優勝間違いなしだ。そうだろ?」
「たしかに、そうかもしれないですね」
へらへらと笑みを浮かべながら、私は頷いた。なるほどなるほど、と。
これで、新聞大会のからくりが分かった。どうしてあそこまで、一斉に椛の悪口についての記事が出てきたのかが、分かってしまった。
きっと、今のように、大天狗様が鴉天狗に伝えていたのだろう。お前だからこそ教えてやる。実は、犬走椛という白狼天狗は、このような悪事をしていたらしい、といった感じで、情報を与えていたのだ。鴉天狗とすれば、たしかに魅力的なネタであるし、そして何より、大天狗様に書いてくれ、と暗に言われている中で、それ以外の記事を書く勇気のある奴などいない。自然と歯ぎしりをしてしまい、咄嗟に「やった」と小さく拳を握った。さも、喜びのあまり口をかみしめてしまった、といった感じで頬を緩める。だが、それだけでは不安で「さすが大天狗様です」と口を開いてしまった。
「あの愚劣な椛を退治するだなんて、さすがですよ」
「そうだろ?」
なぜ、こんな見え透いたお世辞ですら受け入れられるのか、理解できない。
「やっぱ、凄いですね。私も前々から椛については腹が立っていたのですが、まさか、いともたやすく。しかも」
もしかすると、私は浮かれていたのかもしれない。これで、大天狗様の信用を得られたと、憎き相手の信用を得られたと、そう勘違いしていたのかもしれない。だから、つい、口が回る。このままだと口を滑らせるぞ、と分かっていながらも、止まらなかった。
「しかも、あの萃香様まで退治してくださるだなんて」
空気が凍った。大天狗様は無言で、じっとこちらを見ている。聞こえてくるのは、早苗さんのうめき声だけだ。
「お前、萃香様に会ったのか」大天狗様は、訥々と訊いてくる。
「どうして私が萃香様を倒したことを知っている」
「あやややや」
「お前、もしかして聞いたな?」
「聞いたって?」
「賄賂のこと、知っているだろ?」
どう反応していいか分からなかった。何のことですか、と惚けるべきか、それとも、それがどうしたのですか、と受け流すべきか、分からない。いや、本当は分かっていた。惚けるか、受け流すかするべきだったのだ。だが、できない。たしかに恐怖もあるし、威圧感はますます強くなっている。が、それでも腹底に溜まった怒りが破裂しそうだった。どうして、私はここまで怒っているのか。
「知ってますよ」気づけば、私は私の意思に反して、勝手に話し始める。
「大天狗様の賄賂の件は知っていますよ」
「ああ、そうか」
予想に反し、彼は平然としていた。てっきり、血眼になって責めてくると思っていたので、拍子抜けし、頭が冷めていく。と、同時にチャンスだとも思った。何の? 何のチャンスか。
もちろん、大天狗様に取り入るチャンスだ。
「でしたが、私は別にそれが悪いことだとは思いません」
ほう、と大天狗様は息を吐いた。嘘ではない、と小さく呟いて、後ろ手に隠していた剣をしまい込んでいる。息を呑む。返答を間違っていれば、危なかった。
「たしかに、私は萃香様からお話をお伺いしましたよ。大天狗様が賄賂をやっていたことを。ですが、それだけで大天狗様への信用は揺るぎません」
「そうか」
「私、こう見えても長生きなのです」
胸が高鳴る。期待と希望が溢れかえってきた。先ほど浮かんだ怒りなど、どこかへ消え去ってしまっている。私はただ、自分の思い描く未来に向かって、突き進むだけだ。
「もしよければ、私を使ってくれないでしょうか」
「使う?」
「大天狗様の、いわば悪い噂を消す作業をお任せいただけないでしょうか」
今まで賄賂を知っていることを隠し通していた怪しい部下の誘いを易々と受け入れるはずがない。けんもほろろにそう断られ、首を切られることも覚悟していた。が、大天狗様は考え込んでいる。これが、本心からの願いだと伝わったのだろうか。
「いいだろう」
しばらく経ったのち、大天狗様は勇ましい声でそう叫んだ。
「射命丸文。お前を信用しようじゃないか」
「よろしいのですか?」
「お前が取り入りたいと言ったんだろ」大天狗様はその場に座り込み、少し警戒を緩め、隙を見せた。殺そうと思えばできたかもしれないが、もちろん、手を出したりはしない。
「それに、言ったろ? 我には嘘が見抜けるんだ。萃香様直伝で教わったんだよ。お前が何か企んでおったら、すぐに分かる」
「はあ」
見抜けていないじゃないか、と言いそうになるのを我慢する。優秀な手駒が入ったからか、大天狗様は機嫌が良かった。ここまで急激に信用されると、逆に怪しく感じてしまう。が、どうやら本当に私のことを信用して下さっているようだった。椛は賄賂について知っただけで殺されたのに、私は殺されない。なぜか。
「射命丸、お前、そこの風祝と仲良かっただろ」
訝しんでいることがバレたのか、どこか晴々とした顔で、大天狗様は笑った。
「上司の悪口を言う友人をそこまで痛めつけるとは、見上げた根性じゃないか。それに、だ」
「それに、何ですか?」
「犬走は、不正を許すタイプではない。そうだろ? 我の賄賂を糾弾しに来たに決まっている」
決まっていなかったが、客観的に考えて、そう捉えてもおかしくはない。椛は、そういう奴だ。腹立たしい、正義の味方だ。
「だが、お前は違う」
大天狗様の表情は変わらない。相変わらず、気に食わないにやけ面だ。だが、心なしかほくそ笑んでいるようにも見えた。
「お前みたいな、打算的で陰湿で、そして非情な奴は、かえって計算できる」
「日頃の行いのおかげですか」
「そうだな」
つまりは、真剣勝負とやらにこだわるような単細胞な椛よりも、それこそ、悪役っぽい私の方が賄賂という悪事に寛容だと、そう思っているのか。なるほど。確かに、その通りかもしれない。
「当然ですよ。大局を見据えて、妖怪の山の利益になることをしなければ、ここまで生きてこれてません」
そうかそうか、とその後ろになでつけられた黒髪を撫でた大天狗様は「その礼だ。ひとつ褒美をやろう」
「褒美、ですか」
「前金だと思ってくれていい」
「なら」
私はおずおずと頭を下げ、言った。
「真実を教えていただけませんか」
「真実?」
「椛を倒したのは、彼女が悪事を働いたからではなく、賄賂の事実を知られてしまったから。そうですよね」
「どうしてそんなことを言わなければならない」
「ジャーナリストは、記事にできなくとも、真実を追い求めてしまうんですよ」
そういうものなのか、と頷いた大天狗様は、「そうだ」と何の躊躇もなく言った。
「我の賄賂を犬走に知られたから、口封じをしたのだよ」と平然と言う。あれだけ苦労していたものが、こんなに簡単に手に入っていいのか、と驚く。
「それがどうかしたのか」
「別に、椛を打ち破ったことに異存はありませんが、その後の対応は必要だったのでしょうか。あの後、椛は数々の悪行をしたと、多数の新聞に書かれておりましたが、あれも大天狗様の差し金ですよね」
「そうだが、何だ。犬走の肩を持つのか」
「いえ」
そうではありません、とはっきりと言う。正真正銘、こればかりは本当の、心の底からの本心だった。
「ただ、無意味に思えまして。生死を彷徨うほど、しかも闇討ちで襲ったのならば、そのまま放置しておいた方が露見する危険性も減るのではないでしょうか」
「分かってないな、お前は」
大天狗様は、ふんと鼻を鳴らし、嘲笑してくる。どうして嘲笑われたのか理解できなかった。
「ただ倒すだけでは、勿体ないだろ」
「勿体ない?」
「焚き火と同じだよ。お前の新聞で焚き火をするのと一緒だ。どうせ倒すのなら、犬走が悪事を働いたということにして、それを我が成敗してやったと民衆に思わせた方が、効率がいい。言っただろ?」
「言ったって?」
「いらん情報を漏らさんようするついでに、我の機運も高める。一石二鳥ならぬ、一ゴミ二鳥だな」
返事をすることができない。感情を顔に出さないように、必死にこらえる。
それはつまり、椛はゴミだと言うことなのか。大天狗様が今まで上げていた武勲は、そのようにして生み出されていたものだったのか。数々の疑惑が頭を覆い尽くす。身体が固まり、動くことができない。落ち着かなければ。冷静になれ。大天狗様の言っていることは正しい。まったくの正論だ。椛がゴミであることなんて、よく知っているだろ。出来損ないの白狼天狗がどうなろうと、たとえ、勝手に尊敬していた上司にぼろくそに言われようと、私の知ったことではない。私のあげた武具を長年使い続けていたとしても、どうでもいいじゃないか。親しみを感じる必要はない。そもそも、椛は私を水とするならば、油のような存在じゃないか。絶対に混じり合うことなく、それでいてしつこく、くどい。そのはずだ。
そのはずなのに、どうしてだろうか。今までため込んでいた不満が、収まりそうになかった。
「大天狗様」
私はいつの間にか立ち上がっていた。折り畳んでいた翼を広げ、懐からカメラを取り出す。そして、私の急な挙動に呆気に取られている大天狗様に見せつけるように、懐からキュウリを取り出した。武闘大会でにとりが渡してきた奴だ。
「やっぱ、キュウリには塩ですよね」
こちらを見つめる大天狗様の目に、少しの疑惑がさす。それは、とても魅力的に思えた。