──神と鴉──
真夏の人里は、何度来ても慣れることがない。幻想郷に住むほとんどの人間が集まっているせいで、ただですら暑いというのに、彼らの体温が濃縮し、燦々と降り注ぐ日光の熱を増幅させていた。自慢の大きな黒翼を広げ、熱を少しでも放出しようとするも、ただ暑気を吸収するだけに終わる。これだから人間は、と悪態をつきたくなる。妖怪、しかも鴉天狗である私ですら音を上げるのだから、人間にとってもきついだろうに、彼らは意気揚々と人里を闊歩している。まったく、度しがたい。
「あ、文さん! こっちですよこっち!」
人波をかき分けていると、後ろから元気のいい声が聞こえてきた。集合場所である桜の木とは正反対の場所からだ。どうしてそっちにいるのか。考えなくても分かる。どうせ、ご飯屋さんからいい匂いがしたので行きたくなったんです、とか言い出すのだろう。
ぶんぶんと、周りの人に気を遣いつつも大きく手を振る彼女はよく目立った。どうやら人間たちも彼女が私と待ち合わせをしている、と気づいたようで、そそくさと道を譲ってくれる。人の波が途切れ、一本道のようになった。飛んで人の波を避けようと思っていたのだが、その必要もなさそうだ。
「遅いですよ、文さん」
「時間通りですよ。それに、早苗さんがいると目立つので、あまり早く行きたくなかったというのもあります」
「えへへ。そこまで褒めなくても」
褒めてないですよ、と言うも、彼女の頬はにへりと緩んだままだった。とても、現人神とは思えないその幼稚さに、こちらも気が緩んでしまう。初めに会ったときは、いきなり我らが妖怪の山に現れた守矢神社の風祝ということで、警戒に警戒を重ねていたせいか、そのとぼけた様子も演技なのではないか、と訝しんだが、そうではないことはすぐに分かった。彼女は単に、純粋なだけだ。純粋で、うるさい。
「早苗さんって、小鳥みたいですよね」ふんふんと鼻歌を歌う彼女を見ていると、ふとそう思った。
「え、どうしたんですか、会ってすぐに」
「いえ、似ていると感じまして」
「小鳥って、賢いインコとかですか?」
ですよね、と彼女は念を押してくる。たしかに、彼女の滑らかな緑の髪は、インコの毛色にそっくりだったが、性格は似ていない。
「いえ、インコではなく、どちらかと言えばカナリアですかね」
「カナリア?」
「そうです。カナリアって、ずっとピヨピヨ鳴いているじゃないですか。うるさいくらいに。しかも、小さくて儚げで、可愛いんです」
「それ、私が小さくて可愛いってことですか?」
嬉しそうにはにかむ早苗さんに「そうですよ」と微笑み返す。ずっと鳴いていてうるさい、という点が似ていると思ったのだが、好意的に解釈してくれて幸いだ。
「でも、カナリアって、あんま見たことがないんですよね」その、緩んだ顔のまま、早苗さんは首を傾けた。「珍しい鳥なんですか?」
「あややや。カナリアは人間と密接な関係を持っている鳥ですよ。炭鉱のカナリアって聞いたことありませんか?」
「えっと、どうでしょうか」やっぱ、鴉天狗の文さんは鳥に詳しいんですね、と見当違いのことを口にし、顎に手を当てている。
「炭鉱のカナリア。まあ、言葉の意味としては危険を事前に察知するサインといった感じですが」
「危険を察知、ですか」
「カナリアは繊細なんです。だから、炭鉱に連れて行って、カナリアが鳴くのを止めるのを見て、人間は毒ガスの有無を察知していたんですよ。まあ、そんなことしていたら、カナリアはすぐに死んでしまいますが」
「かわいそうですね」
「そうですか?」
早苗さんならそう言うだろうな、とは分かっていたが、私はとぼける。「理には適っていると思いますよ。誰だって自分が大事ですから。危険性を他者になすりつけられるのであれば、積極的にそうするべきです。カナリアは必要経費なんですよ」
「経費で落ちるんですね」
「早苗さんも経費で落ちてくれたらいいんですが」
「どういう意味ですか」
ケラケラと子供のような笑い声を上げたまま、早苗さんは足を進め始める。目的地は分からない。人が多すぎて、立ち止まっているのも迷惑だと思ったのだろう。ゆっくりと着いていく。
「でも、驚きましたよ」両手を頭の後ろに組み、早苗さんは訊ねてくる。
「あの完璧な文さんが、まさか私に相談事だなんて」
「私も驚きです。でも、言うじゃないですか」
「言うってなんて?」
「困った時の神頼みですよ」
「何かあったんですか?」緑の長い髪をなびかせ、脇の開いた独特な巫女装束を翻した彼女は、こてんと小首をかしげた。「なんか文さん。変ですよ。それに、わざわざ人里で話たいだなんて。別に、妖怪の山でもよかったのに」
「たまには、早苗さんと人里を散歩しながら話したいな、って思っただけですよ」
もちろん、そんな感情的な理由ではない。ただ、そう言えば彼女が納得するだろうな、と思っただけだ。案の定、にんまりと満足そうな笑みを浮かべた彼女は、ムフーと鼻息を荒くし、目を輝かせていた。彼女の純粋さを利用したようで、罪悪感を覚える。あとで和菓子でもごちそうしてあげよう。だなんて、思えるほど優しい心を私は持ち合わせていない。
「文さん、実はですね。私、散歩に打って付けの場所を見つけちゃったんですよ」
「どこですか?」
「すぐ近くです。ここから二、三軒ほど奥に行ったところに、美味しそうな食事処があったんです。ほら、いい匂いするでしょ?」
そうですね、と私は満面の笑みで頷く。やはり、私の予想通りであった。彼女は純粋でいい子だが、その分面白みに欠ける。やっぱり、予想通りでは退屈だ。
だなんて、私はもう思えなくなってしまっていた。
「でも、それはもはや散歩ではないのでは?」私の疑問にも、彼女は臆さない。自信満々に、まるで子供が習いたての言葉を並べるかのように「腹が減っては戦はできぬ、って言うじゃないですか」と嬉々として言った。
「散歩は戦じゃないです」
「似たようなものですよ!」
何が似たようなものなのか、さっぱり分からない。きっと、彼女自身も分かっていないだろう。にもかかわらず、彼女は楽しげだ。
「散歩も戦も、三文字ですし。響きも似てます」
「似てないですよ。それに、戦いに必要なのは犠牲ですが、散歩に必要なのは」
「必要なのは?」
「忍耐です」
「どういう意味ですか」頬を含まらせる彼女にカメラを向け、写真を撮る。ふくれっ面の現人神など、珍しくもなんともないが、それでも、よく撮れていた。
「私と散歩をしたら、文さんにもきっといいことがあるはずです。退屈しませんって」カメラのファインダー越しに、早苗さんは抗議する。
「なんていったって、私は奇跡を起こすことができるんですから」
「奇跡って、いったい何ができるのです?」
「当たり籤をひいたりとか、ですかね」
「地味すぎます」
そんなことないですよ、と首を振る彼女は、自分の能力によっぽど自信を持っているのか、青いラインの入った白い巫女装束に手を突っ込み、何やら小さな紙を取り出して、得意げにひらひらとさせた。気になりますか? なりますよね? とうざったらしく言ってくる。
「これ、甘味屋の一食無料券です。以前、大福を買った時に当たりまして。どうです? すごいでしょ」
椛といい彼女といい、どうしてこうも自分の能力をひけらかすことができるのか。きっと、単純だからだ。特に深い意味もなく、自慢したいわけでもなく、褒めてもらいたいだけに違いない。現に、早苗さんは「せっかくなんで、文さんにあげますよ」とむりやり手に握らせてくる。
「仲のいい友達とでも行ってください」
「そうですね、ありがとうございます」
「いえいえ!」
仲のいい友人。いったい私にとって、それは誰に当たるだろうか。頭の中で何人かの顔を思い浮かべるも、どうもしっくりこない。なぜか頭に浮かんだ椛の顔をかき消して、私は握った無料券に目を落とす。いつの間にか手に力が入っていたようで、くしゃくしゃになってしまっていた。
早苗さんがおすすめするだけあって、そのご飯屋は昼前だというのによく繁盛していた。人間は行列を好むとは言うが、ここまで並んでおいしいご飯を食べようとするのか、と衝撃を受ける。首を傾げていると「人は行列がある店を見ると、その店のご飯は美味しい物だと思うらしいですよ」と自分が元人間であるにもかかわらず、どこか人ごとのように早苗さんが言ってきた。「不老不死の法則ですか」と訊ねるも、意味が分からなかったのか、愛想笑いを返される。
予想外だったのは、その行列を待つほどの堪え性を早苗さんが持ち合わせていなかったということだ。
「私、待つのは苦手なんですよね」と怯えにも似た声を出した彼女は「以前、諏訪子さまが、ああ。諏訪子さまっていうのは守矢神社で祭っている神様の一人なんですけど」と分かりきった前置きをしつつ、おずおずと言った。
「私がまだ子供の頃、池の畔で待ってなさいって言われて、でも、諏訪子さまは全然帰ってこなくて。結局、見かねた加奈子さまが迎えに来てくれたんですけど、あれ以来、待つのは苦手なんです」
嘘だ、と直感的に分かった。彼女が待つことを苦痛に感じているのは事実だろう。 だが、そのエピソードは明らかにでっちあげられたものだった。それが、意識的なものか、それとも無意識的に自らの記憶を変えてしまったものかは知らないが、彼女が待つことを嫌う理由は他にあるはずだ。そこまで考えた私は、「へえ、そうなんですか」と愛想笑いを浮かべた。
「ですが、今でも早苗さんは子供じゃないですか」と茶化す。彼女を気遣ったわけではなく、その理由に興味が無かったからだ。記事にならない不幸話など、聞くだけ損だ。
「子供って。こう見えても結構長く生きてるんですよ?」
「あややや。それを私の前で言いますか」
「文さんって、何歳なんですか?」
「女性に年を聞くのは不躾ですよ」
それ、なんかずるいですよ、と不満げな声を上げる早苗さんを置いて、先に進む。人混みをするすると抜け、大通りを右に曲がった。細い路地にまで人間は溢れ、各々が指示をされたわけでもないのに、列を作り、流れを生み出していた。こういった人間の無意識による団結には何度も苦汁を舐めさせられている。まあ、それでこそ人間、といったところか。愚かで無様だが、それでいて強い。
「早苗さん」
足の速度を落とし、美しい緑の髪が鼻にかかるほど近づいた時、私は彼女の耳元で囁いた。人間たちの群列に混じり、一定のペースで直進する。
「なんですか、文さん。散歩にしては人の多いところに来ちゃいましたけど」
「そっちの方が都合がよかったんですよ」
「なんでですか?」
「鴉は人混みが大好きなんです」
もちろん嘘だ。単に、会話を盗み聞きできるような状況で話すには、あんまりな内容だったので、わざわざこんな時間の、こんな場所を集合場所に指定したのだ。 が、早苗さんは深く追求することなく、「そうなんですね」と両手を合わせ、胸の前で叩いた。
「意外です。文さんはほら、皆を置いて一人で先に行ってしまうような印象だったので」
「偏見ですよ。私はいつだって人間と歩みを共にしているんですから」
いい加減、人にもまれて太陽に照らされ続けるのにもうんざりだったので、私はとっとと用を済ませようと、懐から新聞を取り出した。途中、行き交う人々に手をぶつけそうになるが、すんでの所で避ける。新聞に皺がついてしまったら、たまったものではない。
「もしかして、私を呼び出したのは、新聞の勧誘のためですか?」
早とちりした早苗さんが、急にあたふたとし始める。
「嬉しいですけど、たぶん、諏訪子さまが反対すると思うので、その……なんというか」
「違いますよ。勧誘なんかじゃないです。というより、もし守矢神社に新聞の勧誘をするなら、あなたには訊ねませんよ」
「そ、そうですか。よかったです」
何がよかったのか小一時間ほど問い詰めたいが、これ以上、話を逸らしたくなかったので、我慢する。
「この新聞、もちろん私が作ったのですけれど、この記事の内容について何か心当たりがあったりしませんかね。次の記事を書くために、情報を集めたくて」
「心当たり、ですか」
「些細なものでも構いませんよ。例えば、これを読んで挙動不審になった奴がいた、とかでも」
「うーん」
顎に手を当て、考え込んでいる。自然と歩む速度が遅くなり、後ろの人間と危うくぶつかりそうになっていたが、彼女は気づいていないようだった。
「心当たり……ですか。でも、本当に心当たりのある人がいたら、すでに名乗り出ているような気もしますけどね」
「なぜです?」
「だって」
私の新聞をばさりと広げた彼女は、ある一点を指差した。そこにはでかでかとした文字で『妖怪の山に異変! 襲撃事件相次ぐ!』と書かれている。私の考えた完璧な見出しだ。
「最近は人里でも、ずっと話題になってたから、何か知っている人はもう名乗り出てるんじゃないかなって思ったんです」
「確かにそうですね」
「ほんと、怖いですねえ」
口ではそう言っているが、早苗さんはどこかのんびりとしていた。そういえば、と私は思い出す。今日の新聞は、いつもよりもなぜか捌けた。内容自体はとある事情により、あまり気に入っていない物にしたのに、だ。
きっと、人間達にとって、妖怪の山が遠い存在だからだろう。対岸の火事は、見てる分には面白い。絶対的安全圏から悲劇を眺めるのは、何しも勝る娯楽だ。なぜだか腹が立つ。そして、腹が立つ自分にますます腹が立った。
「でも、早苗さんは対岸ではない」
「え、どうしました?」
「い、いえ」知らぬ間に声を漏らしてしまい、うろたえる。まさか、この私がこんな初歩的なミスをするだなんて。相手に感情を悟らせてはいけない。覚り妖怪をすら欺かなければ、鴉天狗は務まらないのだ。
「あれですよ。早苗さんが落ち着いているみたいだったので、驚いたのです。妖怪の山で無差別に妖怪が襲われているんですよ。怖くないんですか?」
「まあ、怖いですけど」ふふっと笑う彼女は、とても怖いと思っている様子ではなかった。「身内にもっと怖い神様がいますから。それに、そんじょそこらの妖怪に負けるほど弱くないですし」
「そうですか」
「それに」
にっかりと笑った彼女は、胸を張り、立ち止まった。今度こそ後ろの人間にぶつかり、戸惑いの声が聞こえる。が、早苗さんはどうやら人里でも愛されているらしく、おやまあ、といった感じで、その人間は脇へと避けていった。
「それに、その襲撃事件で襲われているのって、悪いことをした妖怪だけって聞きましたよ。私、実はいい子なんです。だから、そんなに心配していません」
止まり続ける私たちを避け、人間たちが進む。風が吹いた。湿り気を帯びた、嫌な風だ。悪いことをした妖怪だけ襲われる。早苗さんは確かにそう言った。私は新聞にそのようなことを書いた覚えはない。もちろん、そういった情報は入手していた。すでに人里にも広まっているのだろう。だが、そんなことは書くわけにはいかない。死んでも書くものか。
「早苗さん、興味はありませんか」
内から湧き上がる悲痛を隠し、微笑みながら訊ねる。幸運なことに、彼女は何の違和感も抱いていないようで「何にですか?」とほんわりと聞き返してくる。
「ほら、異変ですよ、異変。解決しようとは思わないんですか」
「ああ、そういう」再び足を進めはじめた彼女は、うーんとうなり声を上げた。
「まだ異変ってほどではないんじゃないですか?」
「え」
「だってほら、妖怪が他の妖怪に襲われることなんて、特に珍しくもないですよね。たしかに妖怪の山で起こることは珍しいですけど、ただそれだけです」
「それは」
「文さん達にとっては一大事かもしれないですけど、幻想郷では普通だと思いますよ。だから、霊夢さんも魔理沙さんも動いていないんだと思います」
幻想郷。八雲紫がつくりあげた妖怪の楽園。忘れ去られた者たちの行き着く果ての世界。妖怪の楽園とはいうものの、弱小妖怪たちは日々殺し、殺され、存在を消していく。なるほど。確かにそれは珍しいことではない。ごく普通の、悲しむべきでもない一般的なことだ。だが、天狗は弱小妖怪ではない。
「早苗さんは知らないと思いますけれど」
私はさも、とても悲しいです、という表情を作り、うつむく。声を小さくし、消え入るように言葉尻をすぼめる。
「その、襲われた妖怪の中に、天狗も含まれているんですよ」
「え?」
「同胞の天狗が襲われるだなんて、私は悔しくてたまりません」
歯をぎしりと噛み、拳を握る。もちろん演技だ。悔しくなんてないし、悲しくもない。そのはずだ。なら、私はいま何をしているのか。記事のため。そう。記事のためだ。だから仕方ない。そう思い込む。
「私たちは毎日、怯えて過ごしています。次は私の番かもしれない。もしかしたら、今まさに友人が襲われているかもしれない。そう思うと、食事も喉を通らなくて。不安で不安で仕方がないんです」
ごくりと唾を飲む音が聞こえた。早苗さんがおろおろとしているさまが目に浮かぶ。現人神とはいえ、所詮は元人間。お人好しで、浅はかで、単純で、そして救いようのないほどに暖かい彼女を動かすことなんて、椛と会話するより簡単だ。
「私も色々調べてはいるんです。ですが、中々うまくいかなくて。このままでは、妖怪の山は不安と絶望でどうにかなってしまうかもしれません。ですから」
がばりと顔を上げる。赤い天狗帽が落ちてしまうのも気にせず、いや、内心では気になっていたのだが、まったく意に介していませんよ、といった風に足蹴にして、早苗さんの両手を掴む。
「ですから、どうか解決に協力してくれないでしょうか。頼れるのは早苗さんだけなんです」
一瞬、ぽかりと口を開け、呆然としていた早苗さんだったが、すぐにぱぁと顔を輝かせた。ぎゅっと手を握り返し、身体を寄せてくる。大きな瞳にうつる私の顔は、たしかにほくそ笑んでいた。
「任せて下さい!」人里中に響き渡るほどの大声を出し、えっへんと胸を張る姿は、年端もいかない幼子のようだった。
「文さんに頼まれては、不肖、この東風谷早苗。全力で尽力いたします!」
「なんですか、それ」あまりにらしくない言い回しに、思わず素で返してしまう。
「似合わないですよ」
「え、そうですか? 格好いいじゃないですか。クールですよ」
そもそも、早苗さんとクールという言葉が不釣り合いで、対極に位置するように思えた。どうやら本人もそう分かっているようで「私って、格好いいってあんま言われないんですよね」と悲しげに俯いている。
「だから、ほら。誰かに頼み事をされた時くらい、格好良く引き受けたいじゃないですか」
「だからって、それは格好悪いですよ」
「格好いい言葉って、どんなのがありますかね」
「キュウリでも洗って出直してきな、とか」
「格好悪いですよ」
ですよね、と頷きつつ自分の顔に手を当てる。歪みはない。いつも通りの微笑みを浮かべられている。大丈夫だ。と自分に言い聞かせる。私は冷静だ。
何にせよ、早苗さんの協力を得ることはできた。ほっと内心で息を吐く。妖怪の山で起きている異常事態を打破できるのは、早苗さんだけだ。あなたしか頼ることができない、という言葉に嘘偽りはなかった。
狭い路地で立ち止まって話し続けていたからか、あれだけいた群衆の姿は消え去っていた。単に、鴉天狗である私に恐れをなして、逃げ去っただけかもしれない。
伝えたいことはそれだけだったので、人里での散歩を切り上げて、妖怪の山へと戻ろうと空を飛ぼうとした瞬間、早苗さんに手を掴まれた。ぐいっと引っ張られる。見た目では想像できないほどに強い力だ。
「今から妖怪の山に戻ってもいいんですけど」
目を閉じ、ふんふんと犬のように鼻先を立てた早苗さんは、一軒の建物を指差した。先ほどまで人でごった返していたからか、地面は足跡やゴミで滅茶苦茶になっている。が、その建物の方がよっぽど滅茶苦茶だった。周りの小ぎれいな家とは違い、酷く古びている。壁は剥がれ落ち、瓦は割れ、そもそも建物自体が傾いているようにも見えた。なぜ崩れていないか不思議なくらいだ。
「ここでご飯を食べてからにしましょう」
「え」
「ほら、ご飯ですよ。さっき、食べ損ねたじゃないですか。ここなら並んでいませんし」
当然だ。こんな店に並ぶ奴などいない。というより、店だということにすら気がつかないだろう。よく見ると、確かに扉の前にはご飯処と書かれたのれんが垂れている。それも案の定汚れており、逆に客を遠ざけたいのではないか、と疑うほどに不気味だった。
「文さんもお腹すいているでしょ? 私はもうペコペコです」
「そうですか」
「やっぱ、異変解決前にはたくさん食べておかないと」
「私は遠慮しておきます」
ええ! と早苗さんが大袈裟な声を出した。目を丸くし、口許に手を当てている。目の前にご飯処があるのに、食べないなんてあり得ない。そう言いたいのだろう。
「私はここで待っていますので、ひとりで行ってきて下さい」
「なんでですか。一緒に行きましょうよ」
「なら、こうしましょう」
私は指を立て、ぷりぷりと湯気を立てる早苗さんに笑いかけた。
「早苗さんが中に入って、出されたメニューが美味しければ、私も入ります。そうでなければ、違うところで食べることにしますよ」
「なんでですか!」酷いです、と呻く彼女は、それでもなぜか笑顔だった。
「そんなの必要ないですよ。二人で食べればどんなものもおいしく感じますって」
「私はそんな特異体質ではありません」
というより、こんなボロボロの店に入ろうとすること自体が信じられなかった。恐れ知らずというか無鉄砲というか。まだまだ青臭い人間だということか。
「でも、早苗さんは似ているじゃないですか」
「似ているって、何にですか?」
「カナリアですよ」
ぼんやりと笑う早苗さんの目の前で、ピンと人差し指を立てる。翼を一度大きく羽ばたかせ、下駄で地面を軽く小突き、言った。
「誰だって自分が大事ですから。危険性を他者になすりつけられるのであれば、積極的にそうするべきです。カナリアは必要経費なんですよ」
「それ、私が人柱にされるってことですよね」
さあ、と首を傾げていると、早苗さんは結局、私を無理矢理その店へと引っ張り込んできた。案の定、外見通りの内装で、料理だってお世辞にもおいしいものではなかった。それでも、出されたしゃびしゃびのカレーを頬張る早苗さんは満足そうに「おいしいですね」と屈託のない笑みを浮かべていた。本心からの笑みだ。私では浮かべられないような、無邪気な笑み。
「ほら、やっぱり二人で食べればどんなご飯だって美味しいんですよ」
「早苗さんは」
彼女はきっと、信じているのだろう。人間や妖怪は、本質的には善良で、世界は煌びやかに輝いていると信じている。なんて単純で愚かなのだろうか。彼女といると、そう思えてくる。彼女は私にはあまりに眩しすぎて、潔白すぎている。子供ですら忘れてしまった希望を、彼女はまだ持っているような、そんな気がした。
「早苗さんは、やっぱり似てますよ」
「似てるって、何にですか?」
「ゾウリムシ」
「失礼すぎます!」
「大丈夫、褒め言葉ですよ」
そうなんですか、と頬を緩めた早苗さんを見つめる。薄暗い店内の中で、彼女の暖笑だけがぽわりと浮かび上がる。カエルの髪留めをさわりながら、カレーを頬張る彼女は太陽のようだった。私たちを平等に照らし、陰なんて知らないとばかりに無理やり明るくするような、そんな笑顔が私の身体の中に入り込み、凍り付いた心を強引に暖かくしてくる。
解けた氷水が零れないようにと上を見ながら、私は自分の胸辺りを軽く小突いた。
私の心に、暖かい光が射す。それはとても魅力的に思えた。