──神と鴉──
仏の顔が三度までしかないのだとすれば、精々ふつうの人間は二度までしかないはずであるし、まして待つことを嫌う早苗さんの顔は一つしかないはずだ。そして、冷静で寛大、なおかつ偉大な私の顔は、四度もある。そう。四度もあるのだ。だというのに、私は苛立ちを隠すことに苦労していた。
「文さん、ひとつお願いがあるんですが」かき氷を食べて、ご満悦の早苗さんは、頭からシロップを被ったことなど忘れたかのように、天真爛漫に笑って、言った。
「妖怪の山に行く前に、少し寄りたいところがあるんですけれど」
「早苗さん」空を見上げる。太陽はまだ高い位置にあるが、それでもだいぶ西へと動いていた。甘味屋の前の大通りも、人の数がまばらになってきている。
「早く行ったほうがいいと思います」
苛立ちを表に出さないように、あえて優しげな声を出す。たしかに、私が彼女の行動にケチをつける筋合いはない。頼み事をしたのはこちらだ。そして、負い目もある。だが、いくらなんでも身勝手ではないか。
「そろそろ妖怪の山に向かいましょう。日が暮れてからでは、色々面倒です」
「まあ、確かにそうですけど」
「また食事ですか? そんなに食べると太りますよ」
「違いますよ!」
「なら行きましょう。善は急げです」
「急がば回れって言葉の方が私は好きですね」
「早苗さん、こんな話を知ってますか」
大人げもなく私は言い、そしてすぐに後悔した。何を熱くなっているのだ。何を焦っているのだ。何を恐れているのだ。私は鴉天狗。落ち着かなければならない。
「昔々、あるところに怠慢な鴉天狗がいました」
「はたてさんのことですか?」
頭を冷やしながら、私は一度息を吐く。質問に答えなかったのは、何のことはない。図星だったからだ。
「その天狗は何をするにもノロマで、集会には遅れてくるし、記事の情報も古いし、トイレも長いんです」
「最後のは許してあげましょうよ」
「そしてある時、彼女の家が火事になってしまいました。が、ノロマな彼女は燃えているのに気づきながらも、中々家から出てこず、結局」
「結局、どうなったんですか?」
「燃え盛る布団で爆睡しているところを救出されました」
早苗さんは苦笑した。何を馬鹿なことを、と私を軽蔑しているに違いない。が、残念なことに、笑えることに、嘘でも誇張でもなく、真実だった。
「あんまりのんびりしてると、早苗さんも痛い目に遭うってことですよ。速さは全てを解決します」
「そんなことないですよお」文さんは早すぎるんです、と彼女はぷんすこと怒る。
「私、こう見えて天邪鬼なんです」
「天邪鬼? 弱小妖怪の?」
「ああ、妖怪の方じゃなくて、性格の方です。昔からそうでした。宿題とかも、やりなさい、って言われたら、やりたくなくなるタイプで」
「なら、やめろって言われたらやるんですか」
「それがですね、やらないんですよ」
「やる気がないだけじゃないですか」
「でも、今は違います!」いきなり早苗さんが叫んだせいで、道行く人間がぎょっとし、こちらを見てくる。が、すぐ目を戻した。ああ、早苗さん、と微笑んでいる。
「今の私は、あの頃と違って、進化した天邪鬼なんですから」ダチョウ倶楽部ですよ、と訳の分からないことを彼女は口走った。
「やめて、と言われたら、しっかりやりますから」
「しっかり、ですか」
「文さんもですよ! やめろやめろって言われたら、やらなきゃ駄目ですからね。暗黙の了解です」
「早苗さん」
「なんですか?」
「妖怪の山に早めに行くの、止めましょうか」
それはずるいですよ、と言う彼女は、それでも、しぶしぶと頷いた。
人里と妖怪の山は決して近いわけではない。それもそのはずで、人間たちにとって、妖怪は天敵に他ならず、その妖怪の中でも凶暴で、強い妖怪が多数存在する妖怪の山の近くに、人間が住み着くはずもなかった。たまに、気狂いな奴が山へと入ってくることもあるが、たいていの場合、白狼天狗ですら気づかない。気づく前に、木っ端妖怪に殺されるからだ。
「でも、さすが文さんですね!」真っ青な空を滑空している中、早苗さんは大声で叫ぶ。それも向かい風に流され、ほとんど聞き取れない。
「あっという間に妖怪の山です。さすが、幻想郷最速!」
急いでいる理由の半分くらいが早苗さんのせいだったが、まあ、それはいいとしよう。いつも通りにこやかで鬱陶しいのも、まあいい。だが。
「早苗さん」
「なんですか?」
「どうして私の背中に乗っているんですか」
赤子のように私にしがみついてくることだけは、我慢ならなかった。
私とさほど背丈が変わらぬ女性が、全体重を私に預け、肩に手を回してくる。たしかに早苗さんは子供っぽいが、ここまでとは。
「文さんの翼、すべすべしてて気持ちいいですよね」
「気持ち悪いですよ。というより、降りてください」
えー、と不満そうな声を上げ、顔をすぐ横へと近づけてくる。長い緑の髪が視界にチラチラと入り、気が散る。
「でも、私は文さんほど早く飛べませんから、こっちの方がいいですよ」
「確かにそうですが」
「でしょ? 私だって、何も考えずに、いきなり文さんの背中に飛びついたわけではないんですから。ちゃんと考えているんです」
「それで? 本心は?」
「相棒の背中に乗って敵地に乗り込むのって、格好良くないですか?」
「格好よくないし、相棒でもないです」
私の言葉が聞こえなかったのか、それとも聞く気が無いのか、早苗さんは続ける。
「それに、ほら、人の上に立つような存在になりたいんですよ、私は」
「はい?」
「やっぱり神様はみんなを引っ張っていくリーダーにならなきゃ駄目だと思うんですよね。諏訪子様や加奈子様みたいに。ですから、こうして文さんの上に立って」
「座ってるじゃないですか」無茶苦茶な言い分にため息が零れる。
「それに、どちらかと言えば、今の早苗さんは人の上に立つ、というよりは、おんぶに抱っこと言った方が正しいかと」
「せめて、人の上に座っていると言ってほしいです」
「どういう意味ですか、それ」
「あれですよ。今からお前を倒すぞっていう意思表示です」
「え?」
「悪いことをしたお前を倒すぞっていう。ほら、漫画とかでよく見るじゃないですか。主人公が倒れた人の上で座っているって感じで」
「早苗さんは誰も倒していないし、それは悪役側の行動っぽいと思います」
「たしかにそうですね。それに『人の上に座る』って、よく考えたらださいです」
妖怪の山が近づいてくる。哨戒の白狼天狗が遠目で私に一礼するのが見えた。軽く右手を挙げ、その上を通り抜ける。目的地は決まっていた。例の、河川のほとりだ。早苗さんも、そこで私がよく休んでいるのを知っているようで、特に何も言わなかった。今では、あそこは実質的に私専用の休憩所と化している。よっぽど無鉄砲で愚かな妖怪以外は、私を恐れてやってこない。そこで休んでいる時、私は疲れのせいで苛立っていると、誰もが知っているからだ。思い込んでいると言ってもいい。早苗さんも含めて、だ。
だが、今日は珍しく妖怪の姿があった。私に気づくやいなや、「おーい!」と大きな声で呼びかけてくる。川原にいるのかと思ったが、なぜだか彼女は川の中央付近で立ち泳ぎしていた。いくら河童でも、服を着たまま水に入るのはやりすぎだ。
「遅くなってすみませんね」ゆっくりと地に足を降ろしながら、私は謝った。衝撃を吸収しきれなかったせいで、早苗さんが「ぐえぇ」と蛙の潰れたような声を出す。さすがに申し訳なくなり、謝ろうとしたが「いやー、楽しかったです」と屈託のない笑みを見せてきたので、「それはよかったです」と返事をかえた。
「いいわけないだろ!」叫び声を上げたのは、川に浸かりっぱなしの河童、河城にとりだった。水色のコートを翻しながら、ジャバジャバと泳いで向かってくる。
「来るのが遅いよ。間に合わないかとヒヤヒヤした」
「あやややや。申し訳ないです。少し、野暮用が重なりまして」
「どうせ、美味しいご飯でも食べてたんだろ?」
「いえ、そんなことはないですよ」
美味しくないご飯を食べていたのだが、これは言わなくてもいいだろう。と思っていると、「そうですよ。美味しいご飯を食べていました」と早苗さんが満足げに口にした。にとりが目で刺してくるが、無視する。あれを美味しいとは口が裂けても言えない。
「間に合ったのでいいではありませんか。急がば回れって言いますし」
「待ち合わせの時間はもう過ぎてるぞ」
「待ち合わせ?」と早苗さんはきょとんとする。「文さん、にとりさんと待ち合わせの約束をしてたんですか?」私とにとりを交互に見つめながら、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。「だったら、そう言ってくれればよかったのに。さすがの私も急いで向かいましたよ」
「さすがのって」にとりが苦笑する。私もつられて笑ってしまった。こほんと咳払いをし、場を整える。
「別に言ってもよかったのですが」私はにとりに目配せをした。
「約束ってのは、当人だけの秘密にしておくべきかな、と思いまして」
「秘密の約束……なんか、格好いいです!」
「早苗さんは、格好いいって言えば、何でも許してくれそうですね」
何が彼女をそこまで「格好いい」という言葉に執着させるのか。さっぱり分からない。分かりたくもなかった。
「でも、なんでにとりさんと待ち合わせしてたんですか?」早苗さんは、格好いいと言った時の嬉しそうな表情のまま首を左に傾けた。「にとりさんも、襲撃事件の犯人を捜してるんですか?」
「違いますよ」にとりが何かを言う前に、慌てて口を挟む。「彼女はまあ、二つの目的で来てもらったのですが」
「二つ?」
「一つは早苗さんにとっても大事だと思います」
「おい」にとりが顔を寄せ、しかめっ面で囁いてくる。「どういうことだ」
「いいじゃないですか。先払いですよ」早苗さんが「先払い?」と今度は右側に首を傾げた。目を合わさず、聞こえないふりをして言葉を続ける。
「大丈夫ですよ。私を信用してください。そうじゃなきゃ、真実に」
「分かった。分かったよ。おお、怖い怖い」にとりが大げさに肩をすくめる。茶化しているように見えるが、その実、本当に恐怖しているのは明らかだった。誤魔化そうとしても、無駄だ。
「あれだね。やっぱ、文は椛が絡むと面倒くさいね。天邪鬼くらいに」
「暴言は止めてください」
「文さん文さん。私は進化した天邪鬼ですよ」早苗さんは胸を張った。
「褒めてください」
「それ、本当の天邪鬼の前で言わない方がいいですよ」と早苗さんのおでこを指で弾き、私は注意する。「絶対に馬鹿にされます」
「分かったよ。言うよ」にとりは渋々と項垂れた。
「言うって、天邪鬼にですか?」
「違うよ。私がここに来た理由だよ。それを今から言うんだ。正直にね」
いつの間にか、にとりの服は乾ききっていた。あんなにびしょ濡れだったのに。何らかの細工をしているに違いない。その、不思議な服をぱさりと広げ、にとりは、
ぽつぽつと言葉を零し始める。
「最近、妖怪の山が何かと物騒なのを知っているかい?」
「知ってます知ってます!」早苗さんが声を上擦らせる。「人里でも話題ですよ」
「私は、その被害者なんだよ」
「え?」
「深夜、一人で川辺をうろついていたら、いきなり襲われたんだ。怖かったよ。本当に殺されるかと思った」
彼女は、どこぞの役者のように、ふらふらと立ち上がり、私たちに背を向けた。そのまま川辺へと歩いていく。
「私もなかなか腕には自信があったんだけど、とても敵わなかったね。あっという間だったよ。いきなり切りつけられて」
彼女は例の、あり得ないほど速乾性の服をまくりあげ、太ももを露わにした。綺麗に包帯が巻かれており、少し血がにじんでいる。撥水性のようで、表面には水滴が浮かんでいた。
「いきなり組み付かれてさ、闇雲に暴れて、何とか川に飛び込んだんだよ。さすがに、水中までは追いかけてこなくて、助かったんだ」
「何か悪いことをしたんですか?」珍しく真剣な顔つきな早苗さんは、どこか不安げな声を出した。「襲われるのは悪いことをした妖怪ばかりだと聞きましたが」
「早苗さん、逆におたずねしますが」らしくない彼女の態度のせいで、私もかしこまってしまう。「河童が、この河城にとりが悪事をしていないと、本気で思っているのですか?」
「いや、まあ。うん。なるほど」
「否定してくれよ」
「日頃の行いを考えてください」口を尖らせるにとりに、私は冷たく言い放つ。
「普段から相手の信用を得ようと、積極的に行動しないからこうなるんです。嫌いな相手に対しても、腰を低くして、さも貴方のためにって感じで行動するのが、信用されるコツですよ」
「文はいつも私に対して頭が高いじゃないか」
「低くしてこれということです」
早苗さんを見習ってください、と私は考え込んでいる現人神を指差す。
「いつも素直だからこそ、誰も早苗さんが嘘をつくだなんて思わないんですよ。日頃の行いの成果です」
「それは違うだろ」
「え」
「早苗はさ、私ですら、考えていることが分かるからね。日頃の行いとか、そういうのじゃなくて、分かりやすいんだよ」
「そんなことないですよ」私は否定する。
「そんなことないです」早苗さんも、むっとしながら首を振った。
「こう見えても、中学生の頃は口が堅いって有名だったんですから」
「口が堅くても、顔が柔らかいからなあ」
「どういう意味ですか」
「顔に出るんだよ。何を考えているか、よく分かる。さとり妖怪入門編だ」
「じゃあ、私がいま、何考えているか、当ててくださいよ」
目元に皺をぐっと寄せ、口を真一文字に結んだ早苗さんは、両手の人差し指を立て、自分の顔を指した。せっかく結んだ口の端は、すでに解けかけている。あまりの愚行に、頭が痛くなる。分かっていた。早苗さんが嘘をつかないと思われているのは、日頃の行いのおかげではない。嘘を吐いても、すぐにバレてしまうせいだ。だからこそ、私は彼女を探偵役に選んだのだと、思い出す。
「やっぱり、にとりの言う通りですね。前言撤回します」
「文さんまで! だったら、いま、何考えているのか当ててくださいって」
「そうですね。『今日の晩ご飯は何かな』とかですよね、どうせ」
「どうせって」語気を強めた早苗さんだったが、すぐにしょんぼりと頭を下げた。図星だったのだろう。夕方近くの時間帯で、急に何かを考えろと言われた場合に、大抵の人が考える話題を伝えただけなのだが、単純な早苗さんは、その『大抵の人』という枠内に入っていたらしい。やはり、分かりやすい。
「まあでも、早苗さんのそれは、いいところですよ」
項垂れた早苗さんを励まそうと思ったわけではないが、私は彼女に笑いかけた。「単純とは、つまり、素直だということです。もし、何か疑わしいことがあっても、早苗さんの表情を見るだけで判断できますから。顔が柔らかい嘘判定機です」
「それ、褒めてないだろ。何だよ顔が柔らかい嘘判定機って」とにとりが突っついてくる。
「そんなことないですよ、私は褒めています」
「というより、文が誰かを褒めたところを見たことがない気がするね」
「あやややや。にとりは嘘が下手ですね」
げえ、と嫌そうな顔をしたにとりは、未だにむっとしている早苗さんを見て、ちらりと私に目を移した。「子供っぽいなあ」とまたもや早苗さんを煽り始める。
「早苗はやっぱ子供っぽいよ」
「そんなことないですよ」
「ある。でも、文と同じように言えば、それも早苗のいいところだよ」
「どういいんですか?」
「子供は大人から色んな物をもらえる」
にやりと微笑んだにとりは、ポケットから、小さな黄色い何かを取り出した。丸っこいすべすべとした物体から一本のひもが飛び出し、先に輪っかがついている。
「これは私の発明品でね。何か緊急時に、この輪っかを引っ張れば、居場所が私に伝わるようになっているんだ。警報音も鳴るから、威嚇にもなる。これを早苗にやるよ」
「防犯ベルじゃないですか!」早苗さんは叫び声を上げた。さも、怒っています、と言ったように頬を膨らませているが、目元は緩んでいた。その、防犯ベルとやらを受け取り、しげしげと見ている。
「いやー、懐かしいですね。私も昔、つけてましたよ」
「人間の間では有名な物なんですか?」
「子供はみんな持ってましたね」
なら早苗さんが持っていても違和感はないな、と呟くも、幸運なことに聞こえていなかったようで、早苗さんはふふんと鼻を鳴らし、膨らませていた頬を元に戻していた。
早苗さんを見て満足げに頷いたにとりは、腕に巻かれた時計に目を落とした。針がキュウリで表されている。すでに四時前になっていた。いつの間に。せっかく急いできたのに、結構ギリギリになりそうだ。
「そういえば、にとりさん。文さんと私が来たとき、間に合うかヒヤヒヤしたって言ってましたけど、いったい何に焦っていたんですか」
「ああ、それは」にとりは、懐から何かを取り出し、早苗さんに渡そうとした。と、その時、するりと一枚の写真がこぼれ落ち、ひらひらと足下に落ちる。濡れないようにするためのビニールに入ったそれを、早苗さんは何の戸惑いもなく拾い上げ、見た。
「あの、これ」
「おおっと!」にとりは、やけに滑稽な叫び声を上げ、写真を取り上げようとした。が、早苗さんが一歩下がり、避ける。没収を諦めたかのように、にとりは頭を下げ、代わりと言わんばかりに、一枚のチラシを渡した。例の、妖怪の山武闘大会のチラシだ。今から、私が参加する大会のチラシだ。が、早苗さんはそれに見向きもしなかった。にとりの写真を鋭い目で見ている。
「その写真のことは忘れてくれよー」目を細め、私を睨みながら、にとりは淡々と、言った。頬が心なしか赤くなっているような気もする「足を突っ込むなよ」
「文さん、私、すこし野暮用ができました」にとりに嫌な笑みを返した早苗さんは、どこか神妙な顔つきのまま、無理やり頬をつり上げた。
「なので、すみませんけど、ちょっと一人で調べてきます。大丈夫ですよ。約束通り、異変の解決に関することです」
「いったい、どこに行くんですか?」
「秘密です。まあ、強いて言うのであれば」口先で人差し指を立て、その場でくるりと回った彼女は、すでに歩き出していた。
「私、やめろって言われたら、やりたくなるタイプなんですよ。進化した天邪鬼なんです」
去り際に早苗さんは、こちらを振り返った。にんまりとした太陽のような笑みに、ほんの少しの悪意がさす。それは、とても魅力的だった。