──狼と鴉──
今日は椛と一緒じゃないのかい?
いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、萃香様にそう言われたことがある。たしか、自分の家でくつろごうにも、家に上司がいるという状況に落ち着かず、気を紛らわせに、先日尋ねた集会場に行こうとしているときだった。
昨日、新聞大会で他の鴉天狗の新聞を見た際、私は自分の優勝を確信していた。はたての新聞は、彼女にしては珍しく──河童が原因だとは言え──真新しかったが、それでも新聞としては評価に値しない。このまま進めば私の新聞は間違いなく優勝する。が、新しく貼り出される新聞に、もしかすると素晴らしいものがあるかもしれない。今日は、その確認をするつもりだった。
「いつも一緒に出かけていたのに、一人で散歩とは珍しいじゃないか」
だが、その計画も崩れ去ってしまった。萃香様に目を付けられてしまった以上、彼女のご機嫌取りを全力でしなければならない。別に、集会場に行ったところで怒られはしないだろうが、そこまでして行きたいわけではなかった。
今日も腹が立つほどの猛暑日だ。昼時にはまだ早いのに、既に汗ばみ始めている。だからだろうか。あの萃香様に向かい、生意気な口を叩いてしまう。
「椛が私に付き纏っているだけですよ。むしろ、一人で清清しています。萃香さまも、生意気な部下と一緒にいたくはないでしょう」
「まあ、そうだな。生意気な部下は嫌だな」
私と一緒に来ないでください、と暗に言いたかったのだが、当然のように無視してきた。気づいていないのか、それとも意図的に無視をしているのか。前者であってくれ、と心から願う。
「だがな、今日も稽古をする予定だったんだろ? いくら嫌っているとはいえ、あの椛がサボるとも思えなくて」
いつの間にか、呼び方が椛へと変わっている。どうやら萃香様は随分と椛を気に入ったらしい。出会い頭に失神する奴をどうして好意的に見られるのか。疑問だ。
「椛だって白狼天狗ですからね。約束を破っても、おかしくはないでしょう」
「心配じゃないのか? 何かトラブルに巻き込まれているかもしれんぞ」
「トラブル」
妖怪にとっての一番のトラブルはあなたに会うことですよ、と教えてやりたい。
「椛に限って、それはないですよ。あるとしても、こけて怪我をするくらいじゃないですかね」
「それはないだろー」萃香様は、自分の姿を棚に置き「子供じゃないんだから」と朗らかに笑った。
「私もそう思ったんですが、萃香様が妖怪の山に来た日の夜、帰り際にこけて怪我をしたらしいんですよ。情けないにもほどがありますよね」
「それ、誰から聞いたんだ?」
「え、誰って。もちろん本人からですけど」
「怪しいな」
彼女は川岸に近寄り、座り込んだ。軽く川に足を入れただけなのに、大きな音と共に水しぶきが上がる。「あいつ、白狼天狗の割には筋がよかったじゃないか。そこらの鴉天狗よりは強いくらいに。性格も真面目で、武人っぽいし」
「ぽくないですよ」
「そんな椛が、こけて怪我なんてするか? 絶対になんかあっただろ」
「なんかって」
「誰かに襲われた、とか」
私は戦慄していた。椛を心配したわけでも、その襲撃犯の存在にでもない。萃香様が、そんな馬鹿げた推理を披露した、という事実が信じられなかった。
「萃香さま」
「なんだよ。そんなに青ざめて」
「やっぱり、本当だったんですね」
「何が」
「推理小説ですよ」
はあ? と萃香様は首を傾げる。いきなり何を言い出すのか、と驚いているに違いない。私も同じだった。いったい、私は何を言い出しているのだ。
「言ってたじゃないですか。推理小説を読むと疑い深くなるって。まさか、萃香様すら影響を受けてしまうとは」
「どういうことだよ」
「常識的に考えてくださいよ。椛がこけて怪我する可能性と、誰かに襲われた可能性、どっちが高いかなんて一目瞭然じゃないですか」
「襲われた可能性か?」
「こけた可能性ですよ。いいですか。今の妖怪の山は、昔みたいに無鉄砲に喧嘩をふっかけてくるような、そんな妖怪はもういないんですよ。鬼の皆様みたいに豪胆じゃないんです」
「それもそうか」
つまらなくなったなー、と手元にあった石を川に投げこんな萃香様は、顔だけでこちらを振り返った。茶色の髪が顔を覆い、表情が読み取れない。が、何となくほくそ笑んでいるような、そんな気がした。
「なあ、賭けをしてみないか?」その体勢のまま、彼女はいきなりそう言った。
「賭け、ですか」
「最近、流行ってるんだろ? 河童から聞いたよ。確かに賭けは楽しいからな」
「その河童は無事でしたか?」
「無事だったよ。無事、気絶した」
可哀想に。いきなり鬼に話しかけられ、文字通り泡を吹く河童の姿が頭に浮かぶ。臆病な彼らにとって、萃香様はあまりに強大すぎる。
「でも、賭けるって、いったい何を賭けるんですか? 河童の精神力とか?」
「椛についてだよ」
さも当然かのように、彼女は淡々と言った。
「椛が怪我をしたのは本当に誰かに襲われたからなのか、それともこけただけなのか。これで賭けようじゃないか。私が勝てば、今日の晩ご飯は魚にしてくれ。文が勝ったらカレーでいい」
それは、もはや賭けではなく、萃香様の食べたい晩ご飯をただ選んでいるだけだ。まあ、無茶ぶりされるよりは百倍マシなので、「いいですよ」と頷き、そしてすぐに「いいですけれど」と少し首を横に傾けた。
「でも、椛本人はこけたって言ってたんですよ? 襲われたのだとしても、どうやって確認をとるんですか」
「それは、まあ」考えていなかったのか、しどろもどろに萃香様は答える。
「本人に聞いてみて、嘘かどうか見極めればいいだろ」
「そんなことできるんですか?」
「たぶん」
そこは断言してほしかった。
「まあ、椛なら分かるだろ。鬼に嘘を吐くほど勇気があるように見えないし、それに」
「それに?」
「あいつ、嘘を吐くときだけ右の眉がぴくりと動くんだ。だから、たぶんわかる」
にわかに信じがたく、怪訝な表情が漏れ出てしまう。本当に推理小説に影響されすぎたのではないか、と心配になった。疑心暗鬼な鬼など、聞いたこともない。
「お前、信じていないな?」そんな表情をしていたからか、萃香様にあっさりと心を見抜かれてしまう。慌てて「信じてますよ」と否定するも、彼女は不機嫌そうな顔のまま、ため息を吐いた。
「文、お前も嘘を吐いちゃ駄目だよ。いくら私と旧友だからって、許されないこともあるんだぞ」
「私は嘘なんて」
「お前、昔から嘘を吐くと、翼が少し右上に動くんだよ。分かりやすい。やっぱ、お前は変わらないよ」
「それ、本当ですか?」
「何だよ、信じないのかよ」
「い、いえ。信じますけど」
「あ、また動いた」
冗談かと思い、自分の翼を見る。少なくとも私の目では動いたかどうか判然としなかった。彼女は本当に、そんな些細な挙動を見抜いているのか。あり得ない、とは思えなかった。鬼の動体視力をもってすれば、不可能ではない。鬼が嘘を見抜く、という噂は知っていたが、こんな物的な根拠によるものとは思わなかった。
「なら、椛の額に落書きしたときに、私が嘘を吐いたことも気づいておられたのですか」
「え」
「あの時、萃香様には『犬』と書いたと伝えましたけど、実は『鬼』って書いたんですよ。他意はなかったんですが、少し言いづらくて」
「え、ああ。うん」
「気づいてなかったのですね」
ばつが悪そうに頬を掻いた彼女は、誤魔化したかったのか、不自然に姿勢を伸ばし、
「そういえば、地球って丸いらしいよ」と意味不明なことを口にしていた。唇を尖らせ、口笛を吹き始める。が、実際はふしゅうと空気が抜ける音がするだけだった。あまりに分かりやすすぎる。
「ところで萃香様」気まずくなった私は、彼女のご所望通りに話題を変えた。
「一つ聞きたいことがあるのですが」
「おお。なんだ」
「以前おっしゃっていた、賄賂の件っていったいどうなってたのですか?」
話が逸れる好機だったからか、それとも元々触れてほしい話題だったからか、ぴょんと飛び跳ね、目を輝かせて振り返った。その顔には、よくぞ聞いてくれた! と書いてある。
「いや、色々探ってみたんだけどね。中々に笑えないことになってたよ」
「笑えないこと、ですか」
「多分、私に情報を伝えてくれた奴は、本当に風の噂で知っただけだったんだよ。妖怪の山のお偉いさんが賄賂をしてるんだって、と言われたら、あり得るかもなって思うだろ。そのくらいの、世間話の一つだったんだ」
「だった、ですか」
彼女の嬉しそうな口ぶりが、どこか不穏に感じられ、私は狼狽える。にこやかに話をしているだけなのだが、不安がふつふつと浮かび上がってくる。彼女のその笑顔は、強敵と喧嘩をしているときと同じだった。
「そう。だったんだよ。だが、調べれば調べるほど、濃くなっていったんだ」
「濃くって、何がですか」
「闇だよ」背筋が冷たくなる。曖昧な彼女の言い回しが、余計に神経を逆撫でた。
「私って、こう見えて隠れて行動するのが得意でさ。人気のない草原から、天魔の家まで調べてみたんだけど、まあ、うん。分かったことと言えば」
「言えば?」
「とても新聞にはできないってことだけだね」
「何ですか、それ」酷くもどかしい終わり方をする彼女が嫌みに見え、腹が立ってくる。「そこまで言って、それはないですよ」
「いいか。世の中には知らない方がいいこともあるんだよ」
「鬼が豆に弱いこととか、ですか」
「知らない奴いないだろ、それ」
それ以降、何度追及しても、彼女は答えてくれなかった。のれんに腕押し、ぬかに壁、萃香様に正論、だ。これでは新聞大会の記事にできない。また、一からネタを探さなければならなくなった。
うなだれていると、「まあ、いいじゃないか。お詫びに、一つ面白い話をしてやろう。男と皿の話だ」と萃香様が笑いかけてくる。どうして自分の小話がお詫びになると思っているのか。その傲慢さを少しでも分けてほしかった。
ますます深く項垂れた私などお構いなしに、萃香様は楽しそうに言う。
「むかし、ある人間が、こんな実験をしたらしいんだ。男に一枚の皿をプレゼントして、これは三銭の価値があると伝える。その後で、別の奴が、そのプレゼントをもらった幸運な男に、その皿を、十銭でもいいから売ってくれ、と頼むんだ」
「言うほど幸運ではないと思いますけれど」
「まあ実験だからな。それで、だ。その幸運な男は、無料でもらった三銭の皿をどうしたと思う?」
「売ったんじゃないんですか?」
「十二銭なら売るって突っぱねたんだ。実際に十二銭出すと言っても、やっぱり気が変わってと言って、結局売ることはなかった」
「へえ」
「つまり、だ。私が何を言いたいかと言えば」
「人間は愚かと言うことでしょうか」
「それもある」と彼女は肯定した上で「自分が手に入れたものは、価値があると勘違いするんだ。それが物だったら高価であると思うし、情報だったら、それが正しいと信じる」と続けた。
「実際に価値があるかはどうでもいいんだよ。ただ、自分が苦労して手に入れたものは、価値があると思わないと、やっていけないんだ」
「でも、その男は無料でもらったんですよね。苦労していないじゃないですか」
「してたんだよ、きっと。人は誰だって苦労しているんだ」
だから、お前も頑張れ。彼女はそう締めくくった。今の話を聞いて、頑張れるわけがない。むしろ、気力が幾分か減ってしまった。
「どこかで、何か目新しい事件でも起きればいいんですけどね」
「なんなら、今から起こしてやろうか。お前の家を壊すとか」
「止めてください。そういうのじゃなくて、もっとこう、インパクトがあるようなことが起きればいいんです。センセーショナルで、同情を呼んで、なおかつ目を惹くような」
「季節外れの赤いモミジとかどうだ」ちょうど私たちの間に振ってきた一枚の葉を指差し、彼女は笑う。「センセーショナルで、同情を呼ぶぞ」
「いったい誰の同情ですか」
「ああ。こんなに早く色づいてしまうなんて。人生苦労されたのねって」
「白髪と同じ扱いにするのはどうかと思います」
それに、人生ではなく葉世だ、と指摘しようと思ったが、止めた。あまりに下らない。もういっそのこと、伊吹萃香の名言集と評して、普段の会話をそのまま載せてやろうか。いや、だめだ。それはもう新聞ではなく、独白録になってしまう。
「まあ、上を向いて歩けば何とかなる」無責任なことを言った萃香様は、有言実行とばかりに上を向いた。私も、まさか本当に上を向けばなんとかなると思ったわけではないが、彼女につられて空を見上げた。そうしなければ、怒られるような気がしたせいでもある。
真っ青な空は、私たちを侮辱するかのように、陽光を送り込んでくる。太陽の光が目を刺し、視界が一瞬奪われる。目を閉じてもなお残像が消えない。何度か瞬きをするうちに、段々と視界が戻っていった。
最初は近づいてくるその影に気がつかなかった。視界の端に僅かに黒い物が見えた。まだ視力が戻っていないかと目を擦るも、その影は消えない。それどころか、ますます大きくなっていった。
「お、おい」
萃香様が戸惑いの声を上げ、ようやく影が現実のものだと気がついた。何かが落ちてくる。咄嗟に私はカメラを取り出していた。萃香様は、落下物を受け止めようと両手を広げている。
ばさり、と一際大きな音と共に何かが萃香様の手の上に飛び込んでくる。いや、何かだなんて誤魔化さなくても、私には何が落ちてきたのか、はっきりと見えていた。が、認めたくなかったのだ。意味が分からず、うろたえる。幻覚じゃないかと、もう一度目を擦った。
落ちてきたのは、全身を血で真っ赤に染めた椛だった。
状況が飲み込めず、私たちは唖然としていた。音が消える。視界がきゅっと狭まり、世界が暗くなる。
椛は微動だにしなかった。元々真っ白だった椛の肌も、服も、髪も、すべてが真っ赤に染まっている。四肢は真逆へと折れ、皮だけで繋がっているのか、落下の衝撃でぷらぷらと揺れていた。顔は歪み、ぶくぶくと血の泡が口から噴き出している。腹は破れ、黄土色の内臓が剥き出しになっていた。生きているのか、死んでいるのか。それすら曖昧だ。
「なんなんですか」
ぽつりと零れた私の嘆きに、答えてくれる存在はない。ぽたり、と音がする。萃香様の手を伝い、椛の血がしたたり落ちていた。
「なあ、文」
幾重の死体を見たはずの萃香様の声も震えている。泣き笑いのような表情で私を見上げ
る彼女は、鬼の四天王とは思えないほどに焦燥していた。
「こいつは、記事にいいんじゃないか」
「え?」
「季節外れの赤い椛。センセーショナルで、同情を呼ぶぞ」
明らかに取り乱している萃香様は、カメラを構える私を見て、心底不安げに目を伏せた。そしてそのまま、ぼんやりとした目で「今日の晩ご飯はカレーだな」とぽつりと呟く。私は何も返事をすることができない。血塗れの部下へとカメラを向け、ボタンを押す。プリントされた部下の顔が目に入り、自然と押す力が強くなる。
カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。