やはり俺の青春ラブコメは恋人ができてもまちがっている。   作:ぽぷり

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後編

 葉山と二人で駄弁るなんていう罰ゲームを済ませた俺は、雪ノ下のマンションの部屋の前までやって来ていた。

 高級タワマンということもあり、まずエントランスで一度ベルを鳴らしマンションそのものに入れてもらう必要があり、当然ながら部屋にもインターホンがついている。

 こうも防犯性が厳重だと、何もしてなくても不安になってくる。大丈夫だよね、見た目不審者ってだけで通報されないよね俺……。

 

 ここには前も来たことはあったが、根っからの庶民体質な俺からすればやはり落ち着かない。まず十五階って時点で敷居が高いというか物理的に高いし家賃的にも高いはずだ。

 タワマン内でのカーストは上の階に住んでいる程高いって本当なのかしらん。

 

 そんなことを考えながらインターホンを押して待つこと数秒。

 複数の鍵を開けるガチャガチャという音のあとに扉が開き、雪ノ下が顔を出す。

 

「どうぞ」

「あー、なんだ、お邪魔します」

 

 部屋に入ると彼女お馴染みのサボンの香りが鼻をくすぐる。どうして女子の部屋ってこんないい香りするのん……。

 

 雪ノ下は制服から部屋着になっている。

 白のフード付きパーカーに、丈が長めで緩い感じのパンツ。

 以前に見た部屋着は白ニットにロングスカートというお嬢様風な感じだったが、今日のは普通の女子高生感がある。少し活発めの。

 

「その部屋着、なんかちょっと新鮮だな。そういうのも好きなのか」

「由比ヶ浜さんと買い物行くと、こういうのもって強く勧められて……その、似合っていないかしら……」

「いや、そんなことない。その……凄くいいと思います」

「……そ、そう。ありがとう」

 

 恥ずかしさを我慢しながら感想を言うと、雪ノ下も頬を染めて俯く。

 ……いきなりこんなんで泊まりとか大丈夫なんだろうか……。

 

 雪ノ下は気を取り直すように一つ咳払いをすると、靴を脱いであがった俺に言う。

 

「ご飯にする? お風呂にする? それとも」

「飯。腹減ったわ」

「……人の話は最後まで聞きなさい」

「古典的過ぎんだよそれ……小町の入れ知恵だろ、その頭悪い感じのやつは」

「へぇ、やっぱり分かるのねそういうの。小町さん、『これ言っとけば男はイチコロですよ!』とか言っていたわ」

「あいつは全体的に男ナメすぎだろ……つか、お前も真に受けるなよ。飯や風呂ならともかく、お前でとか言われたらどうすんだよ」

「…………二、三ヶ月程待ってほしいと言ったわ」

「なにその生々しい数字……」

 

 ほんとこういう状況でそういう事言われるとそわそわしちゃうからやめて……。

 雪ノ下も落ち着かないのか何度か髪を撫で付けると、この空気を変えるために少し大きめな声で。

 

「ご飯はもう少しかかるからお風呂先に済ませてちょうだい」

「えぇ……さっきの聞いた意味は……?」

「言ってみたかっただけよ」

「言ってみたかったのか……」

 

 それから雪ノ下に案内されて部屋の一つに入る。今夜はここで寝ることになるらしい。

そしてそこには着替えを始めとした俺のお泊りセット一式がバッチリ置いてあり……。

 

「……これ明らかに俺の家から持ってきたやつじゃん……」

「小町さんが予め用意してくれたの。比企谷くんには勿体ないくらいのよく出来た妹さんね」

「よく出来すぎてこえーよ、俺の人生全部握られてる気がしてくるぞ」

「本人は不本意みたいだけれどね。何度も『返品は受け付けませんので!』と念を押されているわ」

「お兄ちゃんを怪しい商品か何かみたいに言う妹ってどうなの……」

 

 逆に小町に彼氏なんかできようものなら、あらゆる手段を用いて邪魔しようと思ってるのに温度差がありすぎる……。

 そうやってショックを受けている俺に、雪ノ下は溜息をつきながら頭に手を当てて。

 

「十年以上もあなたの世話をしていれば当然の願いという気もするけれど。例えば、もしも葉山くんに妹がいたならばそんな事は思われないでしょうね」

「そういうので葉山出すのズルすぎるでしょ全然反論できねえよ……せめて戸部にしてくれ。あ、材木座とかもっといいぞ。あいつらも妹いたら絶対ウザがられるだろ」

「自分がもう少しマシになるという発想はまるでないのね……あなたらしいけれど。まぁ、そんなあなたを選んだ責任は持つわ。これから何十年だろうと」

「おうよろしく頼む…………え、お前それ何、プロポーズなの?」

「…………それじゃあ、私は料理に戻るから」

 

 思わず聞き返すと、雪ノ下は足早に部屋から出ていってしまった。

 しかし、出ていく時にちらっと見えた耳は真っ赤になっていて、連鎖反応のように俺まで顔が熱くなってくる。

 

 何だよあれ破壊力高すぎだろ……。

 そういう事言うにしても、もっと冗談めかすというか、一色がやるようなあざとくからかうような感じならこっちとしてもまだ対処のしようもあるんだが、ついうっかりって感じだと本気っぽい感じが出てもう何かほんとアレで色々ヤバいから……ダメだ頭バグってるわ俺。

 

 このままでは雪ノ下と顔を合わせることなど出来そうもないので、とにかく風呂入って一旦頭を冷まそう…………つか風呂どこだよ。

 

 

× × ×

 

 

 その後自力で風呂場を見つけて入り、いつもと違うシャンプーの香りに若干戸惑いながらリビングに行くと、ふわっと良い香りが広がっていた。

 香りに誘われるようにキッチンへ行くと、ちょうど雪ノ下が食器に料理を移しているところだった。

 

「鶏肉のトマト煮か」

「……なんだかカンニングされた気分なのだけれど。向こうで適当にくつろいでくれていいのよ」

「いや流石に食器運ぶくらいは手伝うぞ。俺は基本的に養われたいと思ってるが、対価なしに一方的な施しを受けるのは落ち着かないからな」

「前にも聞いたわね似たようなこと……じゃあお願いするわ。熱いから気をつけて」

「おう任せろ。カレーぶちまけて皆から白い目で見られた小学校時代の俺とは違うところ見せてやる」

「一気に不安になってきたわね……言っておくけれど、もし同じことしたら這いつくばって綺麗に食べてもらうからそのつもりでね」

「そういうの上から見下ろすのメチャクチャ似合いそうだなお前……」

 

 そんなアホなやりとりをしつつ、リビングのテーブルに料理を並べていく。

 トマト煮以外にはパン、スープ、サラダなど。一言で言えばオサレ。ウチではまず出てこない夕食だ。

 いや、別に普段のウチの飯に文句があるわけじゃないけどね? 普段のウチでの食事というのはジャンルが違うというか、あれはあれで安心感があっていい。

 

 程なくしてお互いテーブルにつき「いただきます」と手を合わせる。

 早速鶏肉のトマト煮をスプーンですくって食べると、香り付けされた柔らかい肉の旨味がトマトの酸味と絡み、他に盛り付けられたピーマンと相まってこってりとし過ぎない食べやすさがある。

苦手なはずなトマトも全然気にならない。まぁ、あれは生の食感が一番の問題ってのもあるんだが。

 

「……超うめえ。なにお前、普段からこんな美味いもん食ってんの?」

「ありがとう。……普段よりは当然力を入れたわ」

「ほ、ほーん……その、サンキュな」

「いえ、私が好きでやっているから」

 

 そう微笑む雪ノ下の顔を直視できない。

 さらっと好きとか言われちゃうと男ってのは舞い上がっちゃったり恥ずかしがっちゃったり大変なのだ。

 そしてその結果、後々にまで残る黒歴史を作ってしまい、ふとした時にフラッシュバックして転がり回るはめになる。これぞ思春期の罠、若者達は気をつけてほしい。

 

 一方で雪ノ下は何でもなさそうな様子で。

 

「ただ、料理自体は平凡なものだけどね。高級なものも考えたのだけれど、あなたはあまりそういうのは好まないように思えたから。以前に由比ヶ浜さんや平塚先生と料理対決をした時、家庭的な料理について色々語っていたじゃない。適当に焼いた肉とかが家庭の味だとか」

「懐かしいな、よく覚えてんな……まぁ、高級なもん食っても、ずっと庶民の味とマッ缶で慣らしてきた俺の舌じゃ分かんねえだろうしな。でもこれだって俺からすれば特別ってか、普段とは全然違うぞ。肉からすげー良い香りするし。なんだこれ」

「香辛料を使っているのよ。あなたも知っているものよ」

「いや俺そんな香辛料に詳しくないし…………あ、もしかしてあれか、ローリエってやつか。千葉村の時に話してた」

「そう。好きでしょう? ローリエ」

「なんかそれ、別の意味含んでない……?」

 

 あの時はローリエという言葉からロリっ子しか想像できずに、擬人化したらヒットすんじゃねとか妄想してたら、雪ノ下に見抜かれてロリコン扱いされるとか散々だったからな……。

 そんなことを思い出しながら、とりあえずロリコンの方向からは話を逸らす。

 

「ようは月桂樹の葉だろ。俺はそっちの方がピンとくるわ」

「またはベイリーフとも言うわね」

「なにそれ進化するとメガニウムになるの?」

「あなたの方こそ何を言っているのか分からないのだけれど……」

 

 マジか分からないか国民的ゲームなのに……いや雪ノ下はゲームとかやらないか。

 俺の中だとベイリーフといえばアニメ版で某砂利ボーイにガチ恋してた印象が強く残っている。今どうなってんのか全く知らんが。

 タイプでいえば雪ノ下は言うまでもなく氷、由比ヶ浜はノーマル、俺は…………ゴースト辺りか。目が死んでて存在感ない上に、ウェイ勢とかが近くにいると「タチサレ……タチサレ……」って念送ってるしな。

 

 それから色々話しつつ料理をつついていたら、程なくして食べ終わってしまう。

 「ご飯は皆で食べると楽しいし美味しい」とかいう説には長いこと異論を唱え続けていた俺だったが、考えを軟化せざるをえないかもしれない。

 まぁ、学校の昼飯は未だにぼっち飯キメてるけどね? あの定位置で風を受けつつ戸塚が部活頑張っているのを眺めながら食べる昼飯の美味さもかなりのものがある。

 

 やがて雪ノ下は食後の紅茶を淹れてくれ、二人でほっと一息つく。

 

「ごちそうさま。あんま食レポとかそういうのは出来ないが、とにかくすげえ美味かったわ」

「それなら良かったわ。毎日食べたくなる?」

「え……あー、まぁ……でも、ほら、そういうのはまだ早くないですかね……」

 

 こいつ結構攻めてくるな……しかも余裕ある感じならまだしも、言ってる本人も赤くなっちゃってるから余計に妙な空気になっちゃうだろやめろ。

 雪ノ下は手元のマグカップにそわそわと指を這わせながら、こちらを覗いつつ。

 

「そうかしら? 大学生では珍しくもないでしょう、ルームシェアなんて」

「そういうのって普通は同性だけでやるもんじゃないの……つか、そもそも恋人同士で一緒に住むってそれただの」

「同棲ね」

 

 それを指摘されても雪ノ下は怯むことなく、じっとこちらに視線を送ってくる。

 

「比企谷くんは……いや?」

「……嫌ではない。ただ、なんつーか、気持ちがついていかないっていうか、想像もできないっていうか……まずそっちの親が反対するんじゃないか。特に親父さん。娘が大学入っていきなり男と同棲とか絶対良い顔しないだろ」

「交渉すればいいだけのことよ。今は父さんも忙しいようだから難しいけれど、六月にあなたを紹介する時にそこで……」

「え、待て、なに、紹介? 初耳なんだけど?」

「でしょうね、今初めて言ったもの。父さんにはもう話してあるから大丈夫よ」

 

 なにが大丈夫なんですかねぇ……。

 こともなげに言ってのける雪ノ下に、俺は何も言葉を返せずにただただ固まることしかできない。

 

 いつの間にか自分の知らないところで恐ろしいイベントが組まれていた。

 彼女の父親に挨拶なんてものは男にとって人生でトップクラスの試練とも言え、ラスボスに立ち向かうようなものだ。

 ジェンダー問題が取り上げられることも多くなった昨今では、昔ほどは亭主関白という概念は薄れてきているようにも思えるが、だからといって安心できるほど俺の心は図太くできていない。

 

 頭の中ではどうにか逃れられる手段はないかと、色々な言い訳が浮かんでは消えてを繰り返していたのだが。そこに雪ノ下が小さく微笑みながら。

 

「そこまで緊張する必要はないわ。父は見た目こそオールバックで頭脳派の暴力団組員のようだけれど、母と比べればずっと話も通じるから」

「ねぇそれインテリヤクザみたいな見た目って言ってんの? そんな人に挨拶するの俺? 何か機嫌損ねて沈められる予感しかしないんだけど」

「だから大丈夫だと言っているじゃない、見た目はともかく中身はまっとうな人よ今は。でなければ県議会議員なんて務められるわけないでしょう」

「まぁ、そりゃそうだわな…………え、お前、『今はまっとう』とか言った? 今は? 昔はやんちゃしてましたとかそういうアレなの?」

 

 俺は冷や汗をかきながらそう尋ねるが、雪ノ下は優雅に紅茶を口元に持っていき、その後微笑むだけだ。おいそれで誤魔化せてるつもりか可愛いけど。

 

 マジかよ一気に不安になってきた……そういや建設業とか言ってたか親父さんの会社、確かにその業種にはそっち関係のイメージもあるが……。

俺としては大人と話すこと自体はいいし、むしろ半端に距離が近い同級生なんかよりはマシまであるのだが、怖い大人の人とどう話せばいいのかなんて想像すらしたこともなかった。今からアウト○イジとか観て予習した方がいいの?

 平塚先生相手にふざけたことを言って拳が飛んでくることはあったが、その相手だともっととんでもない物が飛んできそうだ。

 

 …………まぁでも、うちの親父も大概アレだから、他所様の父親をとやかく言える立場でもないんだよなぁ。

 いつかはうちの家族にも雪ノ下を紹介しなければならないのだろうが、その時はまずあのクソ親父のグラサンだけは叩き壊すと決めている。

 

 そんなことを考えていると、雪ノ下は俺の不安を和らげたいのか、どこか優しげな声色で。

 

「そもそも、ウチは父よりも母が実質的な権力を握っているから、いくら父が猛反対しても母が押し切ってくれるわよ。あなたは母に気に入られているし。むしろ逃さないようにと言われているくらいよ」

「えぇ……怖いんだけど……別に逃げないから」

「ふふ、どうかしら。とにかく、同棲に関してウチの問題はないから、あとはそっちね。小町さんにそれとなく言ってみたら、ぜひと言ってくれたけれど」

「だろうな。父親と母親も大賛成というか、厄介払いできて大喜びするぞきっと。これが小町だったら大騒ぎで、特に俺と親父が怒り狂って相手を抹殺するまであるが」

「あなたと小町さんの扱いの差が無慈悲ね…………でも、それなら何の問題もないじゃない?」

 

 そう言って首を傾げて微笑む雪ノ下。

 そんな仕草を見せられたら、大学生になったらと言わず今日からずっと同棲しようぜ! とか調子乗っちゃうから気をつけてね?

 

 俺は紅茶を一口飲んで、一息入れてから。

 

「……ま、それはまた後で考えるってことでいいんじゃないか。まず志望校に受かるかどうかって問題もあるしな俺は。お前はそんな心配はないのかもしれんが」

「あなたも心配ないわ。危ないと思ったら、ここに監禁してでもその頭に詰め込むから」

「だからいちいち発想が怖いんだよなぁ……」

「そうならないように、きちんと勉強しておくように。……でも、そうね、同棲とかは今考えても仕方ないかもしれないわね」

 

 雪ノ下は納得してくれたのか、顎に手を当てて考えつつコクリと頷く。

 そう、俺がそういった事に現実味を感じられないというのは、受験という差し迫ったものがあるというのが大きい。どれだけ大学生活について考えたところで、現時点では絵に描いた餅でしかないのだ。

 もちろん、そういうのがモチベーションになるというのもあるとは思うが。

 

 ……要するに、決して俺がビビってるとかヘタれているとかそういう事ではないわけだ。

 うん、多分。おそらく。いやちょっとそれもある。いや大分ある。だって同棲とか未知すぎるし絶対俺何かやらかすし……。

 

 しかし、雪ノ下はこちらを見つめ、妙に圧のある笑顔で言う。

 

「言っておくけれど、あくまでこの話は保留というだけだから。あなたが受験勉強で頭から抜け落ちても、私は絶対に忘れずにまた持ち出すからそのつもりでね」

 

 どうやら俺には逃げ場などというものは存在していないらしい。

 雪ノ下の親父さんも、こんな感じに囲い込まれたのだろうか……俺ちょっと仲良くなれそうに思えてきたぞ。

 

 

× × ×

 

 

 その後二人で食器洗いを済ませたあと、雪ノ下は風呂へと向かい、俺はリビングのソファーに沈んで大画面テレビでパンさんのアニメを観ていた。

 せっかくのお泊りなのでスマホを弄っているのもアレだと思い、軽い気持ちでパンさん観てもいいかと言ってみたのだが、雪ノ下の食いつきっぷりが凄かった。

 この作品は必ず観るべきだとか、どこのどの描写に注目して観てほしいだとか、挙句の果てには原作を引っ張り出してきて目の前のガラステーブルに並べ始めたり。

 

 いや気持ちは分かるけどね。

 よく好きなジャンルになるとメッチャ饒舌になって引かれるオタクの話なんかがあるし、やはりというべきか俺も昔やらかしたこともあるが、好きなことになると活き活きすること自体は誰にでもあることだろう。

 ただ、普段は大人しい奴が急に活き活きすると気持ち悪いというだけの話なのだ。なにそれ酷い……。

 

 ……それにしても、こうして観ると意外と良いこと言ってんなパンさん。

 某たぬきロボットのような日本の国民的アニメでもそうだが、子供向けだと甘く見てると想像以上に大人に刺さる言葉が出てくることが割とある。

 パンさん、「君より一日少なく生きたい」とか言ってるけど、完全に口説き文句だろツイッターでバズりそう。俺も雪ノ下に言ってみようか、やめた方がいいな絶対。

 

 そんなことを考えながらぼーっと観ていると、ふわっと清涼感のある香りが鼻をくすぐる。

 反射的にそちらに目を向けると、風呂上がりの雪ノ下が飲み物を片手に近くまでやって来ていた。

 シンプルな白い前開きのシャツとワイドパンツというパジャマ姿で、可愛らしい女子高生というよりは仕事のできるOLの休日的な雰囲気が出ている。

 

 雪ノ下は物音を立てずに俺の隣に座ってくる。

 触れ合った肩から伝わる、風呂上がりのためか俺より少し高い体温に胸の中がざわつき、パンさんどころじゃない。

 

 だから俺も物音を立てないように最小限の動きでもって彼女との間に小さな空間を空けた。

 しかし、すぐにその空間は消え去り、再び肩が触れ合う。

 すると俺もまた少し離れる……というのを何度か繰り返していたら。

 

「比企谷くん、さっきから何をもぞもぞしているのかしら。集中しなさい」

「……はい」

 

 いや君のせいで集中できないんだけどね……という主張が喉まで出てきたが、おそらく何も効果がないので飲み込む。

 

 そのままどれだけの間そうしていただろうか。

 気付けば一作が終わっていて、隣では雪ノ下がふっと満足気に息をついてブルーレイディスクを取り出している。

 もしかしてこれから感想言い合うとかそういうノリなんだろうか、誰かさんのせいで全然頭に入ってこなかったんですが……。

 

 雪ノ下はディスクを大切にしまうと、隣に戻ってきて微笑みながら聞いてくる。

 

「どうだった?」

「……あれだな、パンさんは友達多いカースト上位のリア充ってのは分かった」

 

 我ながらもう少し気の利いたことは言えないのかとも思ったが、このパンさんガチ勢に中途半端な誤魔化しなど利かないだろう。

 そして意外なことに雪ノ下はくすくすと笑っていて気分を害した様子はない。

 

「パンさんを観てそんな感想が出てくるのも、あなたくらいでしょうね」

「まぁ、俺が『パンさんかわいい~』とか言い出してもアレだろ」

「それは……控えめに言ってとてつもなく気持ち悪くて気味が悪いわね」

「控えめに言ってそれとか、本気出したらどうなっちゃうんだよ。いや言わなくていいぞつか言うな」

 

 口撃が始まる前に先手を打つと、どこか残念そうにしている雪ノ下。どんだけ俺の悪口言いたいんですかね……。

 代わりにというわけではないだろうが、雪ノ下はくすりと笑みを浮かべて尋ねてくる。

 

「そんなリア充の物語は、ぼっちの比企谷くんにはあまり好ましくなかったかしら?」

「……いや、普通に面白かったわ。あの全体的に緩い感じは癒やされるし、その中でも良いこと言ってるってかメッセージ性もあったし。正直パンさん舐めてた。何だっけか、『さよならを言いたくない相手がいることは幸せ』とか思わず真面目に考え込んじゃったしな」

「有名なセリフね。でも少し意外かしら、比企谷くんは常にさよならを言うチャンスを窺っているイメージだから。隙あらば家に帰ろうとするじゃない」

「んなことねえよ。むしろ、さよならにはトラウマがある。中学時代の放課後、昇降口で同じクラスの気になってた女子に勇気出してさよならって挨拶したことがあった。それで向こうも返してくれたんだが、隣にいた友達に『誰だっけ?』って聞いてたことがあってな。一応俺に気を使ってヒソヒソ声ではあったんだが、もっとヒソヒソ言ってほしかったわ。聞こえちゃってるし」

「彼女の中ではさよなら以前に初めましてが存在していなかったのね……」

「ちなみにその友達の方は『バカ、同じクラスの…………同じクラスの人だよ!』って俺が同じクラスってのは知ってくれてて、思わずそっちに惚れそうになった」

「どちらにせよ名前は覚えられていないというのはいいのね……好意を抱くハードルが著しく低くないかしら、中学生のあなた……」

 

 呆れ果てている様子の雪ノ下だが、実際男子中学生なんてのは程度の差こそあれど、簡単に女子に惚れる生き物だとは思う。それこそ、消しゴム拾ってくれただけで好きになるまである。

 多感で向こう見ずで様々な失敗もする。そこには後悔ばかりがあって、「あれも良い経験だった」などと美化することもできず、しかしそういった経験が今の自分を作っているのも事実なので全否定することもできない。

 とはいえ、そこから更に時と経験を重ね、傷は古傷となりやがて思い出になるのだろう。俺が今では折本かおりと普通に話すことができるように。

 

「つか、そういう雪ノ下だって中学時代はさよなら言う相手とかいなかったんじゃねえの?」

「あら、私は時々言っていたわよ。男子から告白されて断る時、最後は大体『さようなら』だったから」

「お前のさよなら絶対零度過ぎるだろ……それ悪役が相手をボコボコにしたあとトドメを刺す時に言うやつと同じじゃねえか……」

「ちなみに、相手からさよならが返ってきたことはないわ」

「それ多分、相手は意識がさよならしかけてたんだと思うぞ」

 

 雪ノ下のことだ、おそらく告白を断る時も相手を慮って言葉を選ぶということはせずに、ストレートな拒絶の言葉でもって一刀両断にしていたのだろう。

 まぁ、半端な優しさを見せられるというのも、それはそれで居たたまれないものがあり心にくるのだが、だからといってストレートな言葉なら傷が和らぐというわけでもなく大ダメージには変わりない。

 中には、告られそうな雰囲気を察して実際に告られる前に脈なしだというのをそれとなくアピールして回避するという高等戦術を使う女子もいて、その方法であればその後の関係への支障も最小限に抑えられるのだろうが、もちろん雪ノ下にそんな器用な真似ができるはずもない。そういうのは一色が得意そうな領分だ。

 

 俺は氷の女王に魅せられ散っていった男達に心の中で合掌しつつ。

 

「そういや由比ヶ浜達は帰り雪ノ下と別れる時、結構名残惜しそうにしてるよな。ああいうの見せられると、お前でもちょっとは情のようなもんが湧いたりするんじゃないか?」

「人を感情のない冷徹人間のように言わないでもらえるかしら。私だって、その……今では別れを惜しむという気持ちも少しは理解しているつもりよ」

「お前それ、もっと分かりやすくすればあいつらも嬉しいと思うぞ。まぁ、あいつらはあいつらで、お前のそういうとこはお見通しなんだろうけどな」

「……先程から他人事のように言うけれど、あなたに対しても同じ気持ちは持っているわよ。あなたは全く気付いていないようだけれど」

「え……そ、そう……ほーん……まぁ、なんだ、由比ヶ浜達ならともかく俺とはあまり一緒にいすぎるとうんざりすると思うけどな。ほら、小町だっていつも俺のことで愚痴ってるし」

「小町さんは表面的には嫌がっているようだけれど、口ぶりは随分と楽しそうな印象も受けるわよ。辛辣な言葉は愛情の裏返しというものでしょう。私と同じよ」

「…………あの、雪ノ下さん? なんかこっちがメッチャ恥ずかしくなってきたんで、そろそろこの話終わりにしない?」

「……ダ、ダメよ。あなたの話がまだでしょう」

 

 雪ノ下も同じく恥ずかしいらしく頬を染めてそわそわと髪を撫で付けつつ、こちらにじっと視線を向けて逃さないという姿勢を見せる。

 

「今ではあなたにもいるのでしょう? 『さよならを言いたくない相手』が」

「…………と」

「戸塚くんは禁止」

「こ」

「小町さんも禁止」

 

 先回りして逃げ道を封鎖してくる雪ノ下。

 なんなのこの子、俺のこと分かりすぎでしょ……もはや読心術とかそういうレベル。

 その二人を封じられると既に逃げ道全部塞がれた状態なんですが……。

 

 雪ノ下は瞬きすらせずにこちらを見つめ続けている。

 ……これはあれか、もう腹くくるしかないようだ。

 

 ふっと一息入れる。

 心臓はバクバクと騒がしく、妙な汗まで滲んでくる始末で、声が震えないか心配で仕方ないが。

 大丈夫だ、あの時と比べればずっと。

 

「…………だから、掴んだんだろ」

「え……?」

「離れたくなかったから……ずっと関わり続けたいって、言ったろ……」

「……っ」

 

 ここで雪ノ下も俺の言っていることが分かったようだ。

 目を少し大きくして驚いた様子を見せると、やがてその目を優しく細め、ゆっくりとこちらに体を預けてくる。

 自分の手に、きゅっと華奢な手の感触が伝わり、それを握り返す。壊れないように力に注意しながら、それでも決して離さないように。

 

 きっと俺たちの脳裏には同じ景色が広がっているのだろう。

 国道の上を通る陸橋、下を走る車の白いライト、オレンジ色の街灯。

 その光景は、何年も経って大人になってこの高校生活を思い出す時でも鮮明に瞼の裏に浮かんでくるのだろうと漠然とした予感がある。

 

 出会いもあれば別れもあるというのは、あまりにも使い古された表現で聞き飽きた感すらあるもので、その多くは別れの悲しさを少しでも紛らわすために使われるものなのだろう。

 ところが俺にとって別れというのはむしろ好意的なものですらあり、総武高校を受験した理由も同じ中学の人達と離れたかったからというものだった。

 つまり当然ながら「さよならを言いたくない相手」など誰一人としていなかった。

 

 以前までの俺だったら、パンさんのその言葉を鼻で笑い飛ばし、様々な理屈をつけてそれを否定したはずだ。

 それこそ平塚先生に呼び出され奉仕部に放り込まれる原因にもなった、青春を否定しリア充の爆破予告までした作文のように。

 

 しかし、今の俺は知っている。

 どれだけの理屈や言い訳も通用しない、ただただ自分の中に強くあり続ける想いというものを。

 そしてそれを知ることができたことは、幸せだと言えるのだろう。

 

 

 ――――要するに、パンさん結構良いこと言ってるから皆も観ようぜ!

 

 

× × ×

 

 

 その後もしばらくパンさん鑑賞会にパンさん談義などをしていると、気付けばもう夜も遅くなってきたのでそろそろ寝ることに。

 

 寝室へと向かう俺の両手はパンさんの原作本で塞がっていた。

もうすっかりパンさんマニアに片足突っ込んでる。そのうちパンさん展とか行っちゃいそう。

 でもデートの選択肢としてはそういうのも普通にアリだとは思う。

 

「本当に借りていいのか、これ。大事なもんだろ?」

「大事なものだけれど、あなたと趣味を共有できるのであれば私も嬉しいわ。できれば翻訳版だけではなく原作も読んでほしいけれど」

「いや原作とか読めねえし……」

「あら、読もうと思えば案外読めるものよ。困ったら辞書を引けばいいし。翻訳版はどうしても翻訳家の感性が介在するもので、細かいところで微妙にニュアンスが変わっていたりもするから、本当の意味で楽しみたいのであれば原作が一番だと思うわ」

「なにそれガチ勢過ぎる……ハリ○タなんかは翻訳版が待てずに原作を頑張って読んだって人たまに聞くが、パンさんでそこまでするのはそうそういないだろ……」

「えぇ、そうでしょうね」

 

 どうやら褒められていると受け取ったらしくドヤ顔の雪ノ下さん。かわいい。

 そして同時に満足げな様子でこちらに微笑みかけながら。

 

「でも比企谷くんがここまでパンさんに興味を持ってくれたのは少し意外だったわ。てっきり、可愛い女の子が次々と主人公に言い寄ってきて、都合の良いアクシデントで裸体を晒したりするような物語を好むのだとばかり」

「おい待てお前、それラノベだろ絶対。俺が読んでるの覗いたの? つか複数当てはまってどれか分かんないんだけど」

「恋人の好みを知りたいと思うのは当然でしょう。それに、別に覗いたわけではないわ。小町さんにあなたの好きな本について聞いてみたら『兄はこんなものを読んでますよ』といくつか渡されたの」

「お兄ちゃんのラノベを勝手に渡しちゃう妹ってどうなの……つかそういうの聞きたいなら普通に俺に聞けばいいじゃん……」

「直接聞いてもはぐらかされると思って。私もああいうキャラみたいにすれば、比企谷くんは嬉しいのかしら?」

「やめてくれ……」

 

 正直言うとそういう雪ノ下も見てみたいという気持ちもなくはないが、やはり違和感の方が凄いだろうし、そんなことをさせていると万が一周りに漏れたりしたら俺が社会的に死ぬこと間違いなし。既に割と死んでる気もするが……。

 そういや、俺も一度だけ雪ノ下と由比ヶ浜が着替え中の部屋に入ってしまうという、ラブコメ定番アクシデントに遭遇したこともあったが、一年であれ一度きりだ。やはり現実は厳しい。

 

 とにかく、俺の好みについて微妙な勘違いが生まれているようなので訂正しておく。

 

「まぁ確かにそういうラノベも好きだけど、特にジャンルに拘ってるわけでもないしな。純文も普通に読む。濫読家とまでは言わんが守備範囲広いんだよ。ちなみに人に対する守備範囲はメチャクチャ狭い」

「それはよく知っているわ……けれど、あなたは女子に対しても中々手広い方じゃないかしら。私や由比ヶ浜さん、それに一色さんや川崎さんってそれぞれ全然タイプが違うし、他にも姉さんや平塚先生……は女子ではないけれど」

「ちょっと? 言い方おかしくない? 俺が女子に手を出しまくる最低男みたいになってない? あと最後、お前絶対本人には言うなよ」

 

 奉仕部に入ってから女子の知り合いが増えたというのは事実ではあるが、決してそんなハーレムラノベ主人公みたいな状況ではない……はずだ。

 というか、最近は主人公に優しいヒロインってのが多くなってる感じなのに、俺の周りの女子は俺にキツイ奴ばっかな気がする。

 雪ノ下や川崎は言うまでもなく、一色は隙あらば俺のこと振ってくるし、一番優しい由比ヶ浜ですら時々容赦なくキモいとか言ってくるしな…………あ、戸塚はいつも優しいじゃん! やはり戸塚がメインヒロインだったか……。

 

 そうこうしている内に、部屋の前までやって来る。

 

「比企谷くん、寝る前に歯を磨きなさい」

「え、あぁ、磨くわ普通に。いきなりどうした」

「では洗面台で待っているわ」

 

 そう言って、雪ノ下はさっさと行ってしまう。

 洗面台で待ち合わせする意味は皆目見当もつかないが、そんなとこで雪ノ下を待たせたりしたら俺が一晩マンションの前で待たされるはめになりかねないので大人しく従うことにする。

 

 部屋に入ると、とりあえずパンさんの本は机の上に置いておき、荷物から歯ブラシセットを取り出す。

 寝る前の歯磨きって子供の頃はメッチャ面倒で親に言われて嫌々やってたけど、習慣になるとやらないと落ち着かなくて寝られないくらいになるんだよな。

 そんな両親の洗脳……もとい躾で歯のことでそんなに困ったことはない。ただ、歯は無事でも目とか性格が腐っちゃったんだけど。

 

 洗面台までやって来ると、雪ノ下が歯ブラシ片手に準備万端といった様子で待っていた。

 

「……あー、一応聞いとくけど、別に一緒にしなくても良くない? 小町なんか、俺が歯磨いてる時に洗面台に来ると、『お兄ちゃん邪魔!』ってどかしてくるぞ。まぁウチが狭いってのもあるんだが」

「おそらく小町さんは、比企谷くんに自分の歯ブラシを変なことに使われないか心配なんじゃないかしら」

「おいやめろ。小学生の時女子のリコーダーを誰かが舐めてた疑惑が浮上した時に、何故か俺が真っ先に疑われたの思い出しちゃうだろうが」

「私が言うのもなんだけれど、あなた本当にろくな学校生活送ってきていないわね……」

 

 頭を抑えて溜息をつく雪ノ下。

 ほんとそれな。普段は存在感皆無なのに、たまに目立つことがあると思ったらそういうろくな状況じゃないってのが俺の学校生活だ。高校でも文化祭の時とか散々だったし。

 いや文化祭のアレに関しては自分からそう仕向けたから自業自得ではあるんだが……。

 

 とにかく、この話題を掘り下げても嫌な思い出しか出てこないので、ここで話を戻しておくことに。

 

「それで、なんでわざわざ一緒に歯磨きするん? 自分の完璧な歯磨きを見せつけて、ついでに俺のことをボロクソに言いたいとか? 『あなた歯磨きすらまともに出来ないの? 目や性格はもうどうにもならないのだから、せめて歯くらい綺麗にしておいたら?』とか」

「あなたは私のことをなんだと思っているのかしら。違うわ、私はただ……その……」

 

 雪ノ下は少し口ごもったあと、目を逸らしてこちらを見ないようにしながら小さく答える。

 

「…………こういうの、恋人らしいじゃない。だから、やってみたかっただけ」

「…………お前って意外と俗っぽいところあるよな。タピオカ好きとかもそうだけど」

「うるさい」

 

 ぽかと隣から肩を叩かれる。痛みは全くないが、ただただむず痒い。

 こんなことなら追求しなきゃ良かったわ……歯磨きするだけなのに、そういう事言われると妙に意識しちゃってそわそわする。

 

 それから二人並んで歯磨きを始めると、当然ながら会話もなくなり、辺りにはシャカシャカという歯とブラシが擦れる音だけが響く。

 子供の頃はこうして小町と仲良く並んで歯磨きしたもので、そのあと母親のチェックが入り、俺ばっかやり直しされるとかよくあった。懐かしい。

 

 一通り磨いたところで口を濯ごうと思ったのだが、どうやらコップは一つしかないらしく、それは今ちょうど隣で雪ノ下が使っているところだった。

 ……まぁ別にコップがなくても口濯ぐくらいできるしな。まず雪ノ下が使ったあとに使うってのも、何というかちょっとアレだし……。

 

 そう考えながら水を出し、両手に溜めていたら。

 

「ん」

「……お、おう。サンキュ」

 

 隣からコップが差し出され、思わず反射的に受け取ってしまう。

 え、どうすんのこれ……一度受け取ったら、もう使わなきゃ不自然なんだけど……。

 

 コップ片手に一瞬躊躇し、ちらと隣を窺う。

 すると彼女もこちらを見ていて、目がバッチリと合ってしまった。

 

「使わないの?」

「いや使うけど……その、そんなにじっと見られてると気になるんですが……」

「お構いなく」

「いや構う、メッチャ構うから……」

 

 しかし彼女は俺の言葉を受けても視線を送ってくるのをやめる素振りもない。

 ……仕方ない、もうこれはさっさと済ませてしまうしかないようだ。

 俺はせめてもの抵抗とばかりに、コップを少しだけ回して雪ノ下が口をつけたであろう場所をズラしてから口をつけて濯ぐ。

 

 冷たい水が口を満たすが、一方で体の方は緊張で火照るという妙な感覚に戸惑いながらも、とりあえず平静を装いながら水を吐き出す。

 そのまま自分が口をつけた部分を水で流しつつ軽く拭くと、元の場所へと戻……そうと思ったら、その腕が隣から伸びてきた手によって制止された。

 

「比企谷くん」

「な、なんだよ」

「そんなに私と間接キスするのが嫌なのかしら」

「普通に言っちゃったよそれ……別に嫌ってわけじゃない。つか、お前こそ嫌じゃないのかよ。あそこで素直に口つけたら『比企谷くん、私が口をつけたところを入念に舐らないでくれるかしら気持ち悪いから』とか言われるトラップかと思ったんだが」

「あなたから見た私のイメージがどうなっているのか、一度徹底的に聞き出す必要がありそうね……」

 

 背後から黒いオーラさえ見えてきそうな静かな威圧感を放つ雪ノ下。

 こわい! そういうとこだぞ!

 

「そもそも比企谷くん、以前に一色さんと間接キスしていたじゃない。バレンタインのチョコ作りのイベントの時、味見で」

「見てたのかよ……あれは一色がそういうの気にしないだけだから……」

「でもあなたは相当意識していたのが見ていて分かったわよ。それで、何故一色さんはいいのに私はダメなのかしら?」

「いや一色のはいきなり口にスプーン突っ込んでくる不意打ちだったから避けようがなかっただけだっての」

「……なるほど。不意打ち、ね」

「あの雪ノ下さん? それ攻撃予告?」

 

 腕を組んで何か考え込む雪ノ下に嫌な予感しかしない。

 別に付き合っているんだし間接キスくらいでいちいち騒ぐなという話なのかもしれないが、せめて二人きりの時にやってほしいんだが、その辺は分かってくれてるのかしらん……。

 

 しかし歯磨きなんて毎日やってるものでも、隣に彼女がいるだけでこんなにも違うものなのか。

 確かに男女二人で歯磨きというのは同棲っぽい印象はあるし、ラブコメなんかでも度々そんな描写が出てきたりもするが、正直そのくらいで意識しすぎだろうと思ってた。

 それが今、実際に経験してみた感想としては。

 

 

 あなどることなかれ、歯磨きイベント。

 

 

× × ×

 

 

 歯磨きも済ませて、あとはもう寝るだけ……そう思っていた時期もありました。

 

「……あの、なんで普通に部屋の中まで入ってきてるん?」

「何か文句あるのかしら。ここは私の部屋なのだけれど」

「いやそうだけど……でもここ、今夜は俺が使えって……」

「…………察しなさい」

 

 寝室用のぼんやりとしたオレンジ色の明かりに照らされた部屋で、雪ノ下は俯きながら小さく答える。その両手には枕が抱かれている。

 その姿は、夜中にホラー映画を見てしまった小学校低学年の頃の小町と重なり、要は一緒に寝ようということなのだろう。

 

 しかし、お互い小学生とかなら単なる微笑ましい光景なのかもしれないが、それが交際関係にある高校生同士ともなるとまた別の意味が見え隠れする。

 いや本人にそんなつもりはないだろうし、そんなことを指摘すれば変態呼ばわりされること間違いなしなのだが、もっとこう、こんな夜中に男の部屋にくる意味とか考えてほしい……。

 

 そもそも、ただ寝るだけでもハードルは相当高い。

 

「あー……ほ、本気か?」

「え、えぇ……別に問題ないでしょう、恋人同士なのだし」

「それは……そうかもしれないけどな……」

 

 どうしても歯切れの悪い言い方になってしまうが、彼女は思い直すつもりはないらしく、上目遣いでこちらをじっと見つめ続けるだけで少しも動こうとしない。

 

 ……いつまでもこうしてはいられない。覚悟を決めるしかなさそうだ。

 もちろん俺としても嫌というわけではない。ただ、意識しすぎて気持ち悪がられないか心配なのだ。

いや気持ち悪がられるというのはいつものことだし今更なんだが、この状況だと洒落にならない。

 

 大丈夫だ、落ち着け。

 幸いベッドは広い。一緒に寝るといっても端の方にいけば何とか凌げるはずだ。ベッドから落ちる危険もあるが、俺の人生堕落だらけだし、物理的に落ちるくらい何でもない。何言ってんだ俺、大分頭バグってる。

 

 そうやって必死に頭を回しこの場を乗り切ろうとしていると、不意にピロンと電子音が部屋に響く。

 俺も雪ノ下も自然と音の方へと目を向けると、少し離れたところに置いてある俺のスマホが薄暗い部屋の中で光を発していた。

 

 こんな夜中に俺に連絡する人というのは限られている。

 大方、ウチでお泊り会やってる小町達だろうと当たりをつけつつ、スマホを操作すると短いメッセージが一つ届いていた。

 

『二人ともお楽しみ中ごめんね、上から二つ目の引き出し開けてみて!』

 

 それは半強制的に入れられた『雪ノ下家』というグループチャット内で発信されていた。

 メンバーは俺と雪ノ下ともう一人。つまり必然的にその人が送ってきたことになる。

 

 どうやら雪ノ下はスマホを持ってきていないらしいので、画面を見せつつ尋ねる。

 

「お前の姉ちゃんから何かきたぞ。なんだこれ」

「引き出し……はあれのことかしら」

「つかなんで俺達がこの部屋にいるの知ってんの……カメラでも仕掛けられてんじゃねえだろうな」

「いくら姉さんでもそこまではしないわよ……単に行動を読まれているのでしょう。腹立たしいけれど」

「お前、姉から男に夜這いかける女だって思われてんのか」

「よばっ……言い方に気をつけなさい、私はただあなたと寝たいだけよ」

「お前こそ言い方に気をつけろマジで」

 

 雪ノ下の言い方で何も勘違いしないのは小学生くらいだろう。

 「寝る」もそうだが、「やる」とか「いく」とかいかがわしい物を連想する単語は子供から大人になるにつれてどんどん増えていく。

 いつまでも無垢で綺麗なままではいられない……おとなになるってかなしいことなの……。

 

「……で、どうする? あの人のことだし、俺は嫌な予感しかしないから見なかったことにしてこのまま寝たいんだけど」

「だからといって放置するのも落ち着かないでしょう。比企谷くん、開けてみて」

「いやそれなら自分で開けろよ……」

「もしビックリ箱のようなものだったら心臓に悪いでしょう。比企谷くんなら元々色々悪いから大丈夫そうだし」

「そんな暴論振りかざすお前の方がよっぽど悪いでしょ性格とか……まぁいいけどさ……」

 

 これ以上言い合っても埒が明かないので、溜息をつきながら指示された引き出しに近づく。

 雪ノ下もすぐ後ろに近づいてきていて、俺の服の裾をきゅっと握って肩越しに恐る恐るといった感じで見守っている。

 そんな彼女の様子は可愛らしく、それだけでこの無茶振りも許せてしまうのだから俺も大概チョロいな……。

 

 俺はゴクリと一度生唾を飲み込むと、意を決して取っ手を掴む。

 そのまま手に力を込め、一気に引いて開ける。背中では雪ノ下がビクッと体を震わせたのが伝わってきた。

 こういうのはゆっくりといくよりも、一気にいった方が精神的にまだマシだ。

 

 どうやら中は雪ノ下が危惧していたようなビックリ系のものではなかったらしく、小さな正方形の何かが――――。

 

「…………」

 

 無言でそのまま引き出しを閉めた。

 

「比企谷くん? 中身は何だったの? よく見えなかったのだけれど」

「雪ノ下、世の中には謎のままにしといた方がいいこともあるんだぜ」

「そんなことはないわ」

「あ、バカっ……」

 

 某キッドさんのカッコイイ名台詞を全否定して引き出しを開けてしまう雪ノ下。

 そしてそのまま何の躊躇もなく正方形のそれを手に取り、しげしげと眺める。

 

 部屋に物音一つしない静寂が広がる。

 ……なにこの辛い沈黙。気分は処刑を待つ死刑囚。

 今なら戸部のあの馬鹿騒ぎですらありがたいと思えるくらいだ……俺、今度からもう少し戸部に優しくするよ……。

 

 少しして、雪ノ下の口が開く。

 

「……これなに?」

「は?」

 

 えー知らないんですか雪ノ下さん……いや一応良い所のお嬢様だし、そういうこともあるか……。

 まぁ、ここで「始めて見たー!」とかテンション上げられて中身とか取り出されても困るんだけど。一色とか小町とかやりそう。

 あと戸塚も見ても分からなそうな気もする。そういう無垢な戸塚も可愛いが、分かった上で顔を赤くする戸塚も絶対可愛い。どう転んでも可愛いとかやはり天使……。

 

 そんなことを考えて半ば現実逃避のようなものをしていたのだが、雪ノ下は俺のことを見たまま首を傾げて答えを促している。

 え、これ俺が答えなきゃいけないの……?

 

「……黙秘権を」

「認めないわ」

「横暴だ、弁護士を呼べ弁護士を!」

「はぁ……言いたくないならいいわよ。スマホ取ってくるわ。由比ヶ浜さん達もまだ起きているでしょうし、写真撮って聞けば……」

「おいやめろ。マジでやめろ」

 

 それを手にしたまま部屋を出ていこうとする雪ノ下を慌てて止める。

 そんなもん撮ってアップされたりしたら、彼女自身も後で相当アレな思いをするのは確かだが、何よりその後の俺に対する扱いとか想像したくもない。

 

 雪ノ下は腕を組んでこちらをじっと見る。

 「それなら今ここで教えなさい」とその姿勢から嫌というほど伝わってくる……これはもう逃げられないっぽいですね……。

 こんなことなら最初にさらっと言っとけば良かった、引っ張ったせいで余計に言いづらくなってんじゃん……。

 

「……ム」

「え?」

「いや、だから、それ…………コンドームだよ……」

「コンドーム…………っっ!?」

 

 最初は首を傾げて俺の言葉を反芻していた雪ノ下だったが、その意味を把握した瞬間、顔を真っ赤に染め上げ、手に持っていたそれを思い切り投げつけてきた。俺に投げんな俺に。

 そして彼女は手を擦りながら、恨みがましい目つきで俺を見る。いや俺のせいじゃなくて君のお姉さんのせいだからね……あと別にばっちくないからこれ、気持ちは分かるけど……。

 

 つか、陽乃さんもわざわざこの為にこんなもん買ったんだろうか。暇さえあれば妹やその周辺にちょっかい出しまくってるの見るに、彼氏とかはいないっぽいが……。

 中高生の間では罰ゲームでコンドームを買わせるってのもあったりするが、あの人の場合は何も気にせず普通に買っちゃいそうだし、その姿もオトナな女みたいなアピールにさえなりそうなのだから強い。

 ちなみに俺がそういう罰ゲームをするはめになったというわけではない。そもそも罰ゲームで遊ぶような友達がいなかった。コンビニで立ち読みしていると、たまにそういう輩を見かけるだけだ。

 俺自身が女子間での罰ゲームの対象にされたことならあるが、思い出すと心の古傷が開いて死にたくなっちゃうからやめておく。

 

 雪ノ下はまだ赤い顔のまま、ちらとこっちを覗いながら。

 

「……使うの?」

「使うわけねえだろ……」

「なっ……つ、使わないでするなんて、ケ、ケダモノ……」

「おかしい前提がおかしい。しないから。しないから使わねえんだよ……」

 

 雪ノ下も動揺して相当頭おかしいことを言い出しているので、もうさっさとそれを元あった場所にしまっておく。臭いものに蓋だ。

 しかし、それにも雪ノ下が口を挟む。

 

「ちょっと待って、そんなものをそんな所にしまわれても困るのだけれど」

「それはお前の姉ちゃんに言えよ……じゃあどうすんだよ」

「……あなたが持っていればいいでしょう。そういうのって普通は男子が持っておくものではないかしら……」

「い、いや待て、俺がこんなもん持ってるのもおかしいだろ」

「大丈夫よ、あなたはそんなもの持っていなくても元々おかしいから」

「何が大丈夫なんですかね…………はぁ、分かったっての」

 

 有無を言わせない雪ノ下に、粘っても無駄だと悟り、さっさとそれを荷物の中にしまう。

 こういうのは財布の中に入れておくというのも聞いたことはあるが、流石にそんなところに入れる気にはならない。

 気分的には、うっかりすると社会的に死にかねない危険物を抱え込んでしまったような感じだ……一刻も早く処分したいが場所はよく考えなければならない。ウチのゴミ箱に捨てて万が一母ちゃんとかに見られたら死ぬしかないからな……。

 

 ともかく、これで一段落ついたからようやく眠れる……と思ったのだが。

 どうやら雪ノ下の中ではまだこの話は終わっていないらしく、まだ顔を赤く染めたままでこちらを覗いながら尋ねてくる。

 

「あの、比企谷くん。申し訳ないけれど、今日はそういうことをするつもりはないから……まだ早いと思うし……」

「わ、分かってるっての、いちいち言わなくていいから……。それに別に謝る必要もない。俺だってもともとそんなことする気なんて全然ないし……」

「…………全く期待されていないというのも、それはそれで何か釈然としないものがあるわね。あなたもしかしてイン」

「おい何言おうとしてんのちげーわ。じゃあ何だよ、押し倒せばいいの? 『押すなよ? 絶対押すなよ?』ってやつなん?」

「比企谷くんに私を押し倒せると思っているの? 忘れたのかしら、私、合気道強いのよ」

「じゃあどうしろと……お前ホントめんどく」

「なに?」

「何でもないです」

 

 口からほとんど出かかっていた言葉は、雪ノ下の氷の眼差しによって押し戻されてしまう。怖すぎでしょ……仮にも彼氏に向ける目じゃねえだろ……。

 もうこれは多少強引にでも話を切り上げて、さっさと寝てしまった方が良さそうだ。

 

「まぁとにかく、何もしないから安心しろ。おやすみ」

 

 一方的にそれだけ言うと、ベッドの端の方に潜り込み、外側を向いて寝る体勢に入る。

 

 この状況ですぐに寝られるかと言われれば極めて難しいと言う他ない。

 ただ、実際に寝られるかどうかというのは大した問題ではなく、重要なのは周りから寝ていると思われることだ。

 中学時代の修学旅行の夜なんかはこれで凌いできた。要は教室での寝た振りと同じだ。「寝ている」という言い訳を用意しているのだ。

 

 別に雪ノ下と一緒に寝るというのが嫌というわけではないし、むしろその逆とも言えるのだが、とにかく気まずい。

 これは俺がコミュ障のぼっちだからという理由だけではないはずだ。普通に考えて同い年の女の子と一緒に寝るとか誰でも緊張するだろうし、あの葉山だって経験したことないんじゃ……え、もしかして俺、あのリア充の最先端を走る葉山より先に進んじゃった?

 

 ……気付けば遠い所まで来ちまったな。

 

 そうやってバカなことを考えていればその内自然と眠れるんじゃないかという淡い希望を抱いていたりもしたのだが、そんなことでバクバクと高鳴る心臓を誤魔化すことなどできず、今までどうやって寝てたんだっけとか思ってしまうくらいに寝られる気がしない。

 もしかしなくてもこれは完徹コースなんじゃ……と不安になっていると。

 

 ごそごそという音と共に、掛け布団の中に新たな空気が入ってきたのを背中から感じる。

 

「お、お邪魔します……」

 

 か細い声が聞こえてきたが、返事をする余裕は既にない。

 心臓の音は更に大きく速くなり、耳の奥からもドクドクと血流がよくなっていく音が響いてくる。全身の触覚が背中に集中しているかのように、背後での僅かな動きにも敏感に反応してしまう。

 

 それからしばらく、物音一つしない完全な静寂が訪れる。

 しかしそれはあくまで部屋の中での話であり、俺の内面は相変わらずの大騒ぎで一向に収まる気配がない。

 

 ……雪ノ下はもう寝てしまったのだろうか。

 当然ながら振り返って確かめるなんてことはできないのだが、寝ているのであればそれでいい。お互いに起きていてそわそわしているなんてのが一番気まずいパターンだ。

 とはいえ、俺の方はこんなにも大変なことになっているのに、彼女の方からは全く意識されていないというのも、それはそれで何とも言えない感じが…………俺も大概面倒くせえな。

 

「比企谷くん、起きてる?」

 

 いきなり背後から声をかけられて思わずビクッと体を震わせてしまう。

 もうその反応が答えのようなものなのだが、無駄な抵抗だと分かりつつも無言を貫いておく。

 それでも構わず、彼女は言葉を続ける。

 

「ねぇ、起きているでしょう?」

「…………」

「……なるほど。そうやって寝た振りを続けて、私が寝たところを見計らって襲うつもりなのね。比企谷くんらしい姑息な企みね」

「んなわけあるか。お前は俺のことどんだけクズ男だと思ってんだよ、流石にそこまでじゃねえわ」

「えぇ、そうね。あなたはそこまで積極的なことはしないわね。やるとしたら、私の寝顔を盗撮して楽しむとかかしら」

「まずその寝ている女子に何かやらかすってところから離れない? ねぇ?」

「あなたが寝た振りなんてしているのが悪いのよ」

「……あ」

 

 うっかり普通に受け答えしてしまっていた。

 雪ノ下からの暴言に対してはもはや反射的に答えてしまうように体ができてしまっているようだ……なんだこの既に調教されちゃってる感は、地味にショックなんだけど……。

 

 思わず溜息を溢しつつ、流石にもう寝た振りは無理があるので、諦めて普通に言葉を返すことにする。

 

「で、どうしたんだよ。寝られないのか? 何だったら寝る前のお話でもしてやろうか。昔は寝る前に小町に怖い話をしてキレられたあと親にも説教くらったもんだ」

「結構よ。わざわざそんな話をしなくても、既にすぐ近くにお化けのようなものがいるもの」

「奇遇だな、俺も近くに禍々しいものを感じるぞ。たぶん雪女だな」

 

 お互いに散々なことを言い合っているのだが、自然と口元が緩んでしまうのだからおかしなものだ。

 こんなのは同じベッドで横になっている恋人同士の会話としては確実に間違っているのだろうが、だからこそ俺達らしいとも思える。

 どうせ寝られないなら、いっそこのまま話し続けるのもありかもしれない。先程からのやり取りでむず痒い雰囲気も緩和されたし……とか思っていたら。

 

 背中から、自分のものではない別の体温が伝わってきた。

 

「っ……お、おい、雪ノ下?」

「……雪女はこうやって寄り添って相手を凍えさせたりするらしいわよ」

「むしろ熱くなってきたんだけど……」

「ふふ、それは妙ね」

 

 雪ノ下は楽しげに笑っているようだが、こっちはそれどころじゃない。

 女子からの軽いボディタッチで惑わされ死地へと向かわされた男は数知れないだろうが、雪ノ下雪乃は本来何人たりとも触れさせないというような空気を纏った女子だ。

 そんな彼女からの接触というのは、より破壊力がある。

 

 そもそも、これは軽いボディタッチどころではない。

 普通に引っ付いてる。背中全体から彼女の細身の形やら何やらが色々伝わってきてとにかくヤバい。何がヤバいって何もかもがヤバい。

 ダメだ熱くなりすぎて頭オーバーヒートしてるわ。

 

「比企谷くん、女子とくっついて寝るのは初めて?」

「……いや、小さい頃は小町と一緒に寝たもんだ。最近は全然寝てくれなくなっちゃったけど」

「いくら何でも高校生の兄妹が一緒に寝ていたらどうかと思うけれど……それにしても、こういう事を聞かれて妹を女子にカウントする辺り、やはり比企谷くんって筋金入りのシスコンね」

「うっせ、妹いるお兄ちゃんは大体皆シスコンだ。ソースはラノベ」

「そのソースは信用できるのかしら……でも、困ったわね。何か一つでもあなたの初めてをもらいたかったのだけれど」

「……初カノ、じゃダメなのか」

 

 返事はすぐに返ってこなかった。

 つい流れで深く考えずに言ってしまったが、今結構気持ち悪いこと言ったな俺……どうしよう、雪ノ下の次の言葉が恐ろしい。こっから延々と罵倒されるんじゃないだろうな。

 

 しかし、少しして発せられた彼女の声は、驚くほど弱々しいものだった。

 

「…………それだけじゃ足りない。ごめんなさい、私、面倒くさい女なの」

 

 こつんと、背中に頭を押し付けられる感触が伝わってくる。

 先程までの楽しげで挑戦的な調子は影を潜め、その声は彼女に似合わずどこか気弱で不安の色が滲んでいる。

 少し体を捩って彼女の方を見ようとするが、頭を押し付けてきているのでその黒髪しか見えない。

 

「自覚はあったけれど、こうしてあなたと付き合うようになって思っていた以上に自分の面倒な部分を実感することが多いわ。比企谷くんと他の女子との間であった事とか、どんな些細なことでも対抗心を持ってしまうし、嫉妬してしまうの」

「……それはお互い様だ。俺だってお前と葉山の昔の話とか聞いてるとモヤモヤするしな」

「それでも、あなたはここまでしたりはしないでしょう。こうして私の部屋にあなたを泊めたのも、元は由比ヶ浜さんに対抗してのことなのだし」

「……俺は」

「分かっているわ、本当に何もなかったということくらい。でも、頭では分かっていても気持ちがついてきてくれないの。由比ヶ浜さんは私の大切な友人。それでも、比企谷くんとのことでは何一つとして譲りたくない」

 

 ぎゅっと、背中を掴む力が強まる。

 

「由比ヶ浜さんの部屋で比企谷くんと彼女が二人きりでいた。私とあなたとではまだそういった経験はなかったのに。その事実そのものにどうしても納得できなくて、ここまでして何とか納得しようとしているの。私はあなたと一晩を共にした、だから何も気にする必要はない……と」

「…………」

「ろくに説明もしないでこんなに振り回してしまってごめんなさい。……比企谷くんは私の面倒くさい所も良いとは言ってくれたけれど、こんなことをいつまでも続けていたら、いくらあなたでもいつかは愛想を尽かすわよね。これから直していくから……」

「雪ノ下」

 

 俺が寝返りを打ち彼女と向き合うと、向こうは意外だったのか顔を上げて目を大きくする。

 至近距離で交わる視線。互いの息遣いすら肌で感じられる程のこの状況は、普段であれば羞恥心に耐えきれなかっただろう。

 

 しかし、今の俺はそんなものは気にならない。

 気まずさやら羞恥心なんかよりも、もっと優先すべき事柄が確かに存在するからだ。

 彼女から送られる真っ直ぐな視線を受け止め、俺は言葉を紡ぐ。

 

「流石に許容できないと思ったらちゃんと言う。そういうのは言葉にしないと拗れまくるってのは嫌というほど分かったからな。だから、あれだ……あんま気にすんな。別に何も直す必要はねえし、俺に気を使って自分を変えるとかそういうのはやめろ」

「……本当にそう思ってくれてる? あなたこそ、気を使わなくてもいいのよ」

「使うか。つか、お前の面倒くささはよく分かってるし、このくらいは全然想定内だ。俺を甘く見るなよ」

「それは慰められているのか判断に困るわね……」

 

 雪ノ下は微妙な顔をして不満そうだ。

 とはいえ、落ち込んだ女子を慰めるなんてのは俺の最も苦手とする事の一つなので多少は目を瞑ってほしい。俺は葉山みたいな気を使えるリア充じゃない。

 ただ、普通の女子であれば気を使えないというのは致命傷になりうるが、雪ノ下に関してはむしろ何の解決にもならない慰めなど必要としていないだろう。

 

 だから俺は、雪ノ下の不安が全くの杞憂であることの根拠を並べていくだけだ。

 

「大体、今日のことだって迷惑だなんて一言も言ってないぞ。普通に引いたり恐怖を覚えることはいくつかあったが」

「それはつまり迷惑という事じゃないの?」

「違う。そういう所があってこそ雪ノ下雪乃だと、俺は思ってる。迷惑って言うなら、自然なお前を見られなくなる方が俺にとっては迷惑だな」

「…………なにそれ嬉しくない」

「そもそも、人間生きてるだけで色々と迷惑かけるもんだしな。特に俺やお前みたいなクソ面倒な人間はな。そんな面倒なやつ同士で付き合ってんだから、そういうのをいちいち気にしててもキリがない」

「だから、あなたは本当に…………もういいわ、ばか」

 

 ぽかと胸元を叩かれるが、痛みは全くなく、それどころか暖かみさえ伝わってくるようだった。

 そんな彼女に頬の緩みを抑えられなくなり、口元には苦笑が浮かぶ。

 とはいえ、これだけで済ませてはいけないだろう。以前までだったら良かったのかも知れないが……今はもっと伝えたい言葉がある。

 

「――今日は楽しかった。それだけでその他諸々のことは気にならん。それに、なに……お前に振り回されるのだって、その根底に、あー、そういう想い、とかがあるなら……むしろ嬉しい……しな」

 

 途中までは淀みなく言えたのだが、段々と自分の言葉の気恥ずかしさに押し潰されそうになり、歯切れが悪く声も小さくなってしまう。締まらねえ……。

 濁してはいるが、要は「俺のことが好きで色々やらかしちゃうんなら全然オッケー!」みたいなことであり、俺らしくないなんてのは痛いほど分かる。

 

 しかし、それを言い出せば、そもそも俺がこうやって男女交際というやつをしている時点で俺らしさなんて吹き飛んでいるわけで。

 そしてその変化を好ましいものと自分自身で捉えているのだから、こういった面も新たな自分らしさだとアップデートするべきなのだろう。

 

 雪ノ下は意外そうに少し目を丸くしたあと、小さく笑みを溢して。

 

「あなた、楽しかったの? 全然そんな素振り見せていなかったじゃない。私ばかり楽しんでしまったと思っていたわよ」

「……これでも普通に楽しんでたわ。分かりやすくはしゃぐの得意じゃないんだよ。まず、俺がそこらのリア充みたいにぎゃーぎゃー騒いでたらなんかアレじゃん……」

「…………確かに。たまに戸塚くんのことでは分かりやすく上機嫌になっていることはあるけれど、気味が悪い通り越して気持ちが悪いものね、あなた……」

「言いすぎでしょ……普通にひでえ……」

「大丈夫よ。あなたがどれだけ気持ち悪くなっても、私は受け入れられるから。そういう気持ち悪さがあってこそ比企谷くんよ」

「それフォローしてるつもり? むしろ追い打ちにしか思えないんだけど?」

「あら、あなただって私について似たようなこと言っていたじゃない。私の面倒くさいところも良いとか何とか」

「…………あー」

 

 なるほど、さっきの意趣返しか。相変わらず負けず嫌いというか何というか……。

 でも俺が雪ノ下に言った「面倒くさい」という評価と比べて、俺に対する「気持ち悪い」ってレベル高すぎじゃないですかね……。

 思い返せば由比ヶ浜、小町、一色って知り合いの女子には大体キモいとか言われたような気がする。女子はすぐキモいキモい言うけど、それ普通の男子には大ダメージだからもうちょっと自重しようね? 気になってる子に言われた日には軽く死んじゃうよ? 女の子は繊細とかよく聞くが、男の子だって繊細なんだよ?

 

 ただ、まぁ、彼女が普段の調子に戻ってくれたのだから良しとしよう。

 正直なところ、俺レベルになると彼女からの罵倒ではもう心が削られることもなく、そこからの掛け合いを楽しんじゃってる部分もあるし……何度も言ってるが、決してマゾとかそういうわけではない。

 

 雪ノ下は観察でもするかのように俺のことをじっと見つめながら。

 

「でも私が言うのも何だけれど、あなた本当に感情の機微が分かりづらいわよね。小町さんは分かっていそうだけど」

「そこは単純に共有した時間の問題だろ。お前のことだって、俺よりお前の姉ちゃんの方が知ってるだろうしな」

「どうかしら。あの人に関しては怪しいところもあるわよ。私にそこまでの興味があるのかしら」

「いや何だかんだ妹のこと可愛がってるだろあの人。その表現が相当歪んでるだけで」

「あなたと同じなのね」

「おいちょっと? 俺は正しく妹を愛してるだろ一緒にすんな。妹を狙う危険分子の排除方法とかもう十通り以上考えてんだぜ。まぁ大志のことなんだけどよ。ネックは姉なんだよな」

「ごめんなさい、あなたは妹以前に根本的なところから何もかもが歪んでいたわね」

 

 もう手遅れの人間を見る、哀れみさえ含んだ視線を至近距離からぶつけてくる雪ノ下さん。

 どうしてこんな反応されなきゃならないんだ、俺はただ妹を害虫から守りたいだけなのに……。

 

 やがて雪ノ下は何を思いついたのか、どこかからかうような笑みを浮かべると。

 

「では、私に手を出そうとしてくる男子がいても、あなたは気分を害したりするのかしら?」

「……お前の場合は、むしろ言い寄ってくる男共が全員再起不能になりそうで心配だわ。お前の言葉の切れ味は俺みたいに切られ慣れてる奴じゃねえと一発で致命傷だからな」

「人を辻斬りみたいに言わないでくれるかしら。それに、彼女よりも相手の男を心配するなんて彼氏としてどうかと思うのだけれど。……まったく、私はあなたに手を出そうとする女子がいたら、それ相応の対処をいくつも考えているのに」

「相応の対処って何だよ怖すぎるんだけど……俺が大志を排除するのには散々なこと言ってくれたくせに、お前も大差ないだろそれ……」

「あなたと一緒にしないでくれるかしら。彼氏に纏わりつく虫の排除は彼女としてごく普通のことでしょう。それに、あなたと違って私は法には触れないように上手くやるから安心して」

「何も安心できる要素がないんだよなぁ……」

 

 この子ほんとに何やっちゃうのん?

 こうしてベッドの中で、俺に手を添えちゃったりして微笑みかけてきてるのは凄く可愛いんだけど、言ってる内容が怖すぎてどう反応して良いのか気持ちが迷子になっちゃうんだけど……。

 

 そんな俺の様子が伝わったのか、雪ノ下は小さく咳払いをすると。

 

「もちろん誰彼構わず処理するわけではないし、きちんと調査はするわ。例えば由比ヶ浜さんを初めとした身近な人達に関しては、多くの場合はあなたの方に非がありそうだし。その場合は、処理対象があなたに移るだけよ」

「えぇ……処理って俺何されんの……振られるとかじゃないの……?」

「振らないわよ。私、あなたとは長い付き合いをしていきたいと思っているもの。その為に、多少あなたのことを追い詰めるような行為をしてしまったとしても、それは決してあなたのことが嫌いになったわけではないという事は理解していてほしいわ」

「お前それ、DV男の言い訳みたいになってるからね……?」

 

 そういや以前にこいつ、小町発案の「嫁度対決」とかいう頭悪い勝負の時、「夫が浮気してる疑いがある時、どうする?」みたいなお題に対して「追い詰める」とかいう超怖い回答してたな……。

 その時はただただ雪ノ下の未来の旦那に同情したもんだが、今ではもう他人事じゃないんだよなぁ……いや、もちろん浮気とかするつもりなんてないけどね?

 とはいえ、どこからが浮気でどこまでがセーフかなんてのは個々人の感性によってまちまちな部分もあり、雪ノ下雪乃に関してはその基準が通常よりも厳しいという可能性が十分考えられるので異性と関わるような時は特に注意が必要になるだろう。

 

 以前までの俺だったら女子どころか人と関わる機会自体が少なかったのでこういうのも要らない心配ではあったのだが、奉仕部という性質上どうしてもその機会は多くなってくる。

 まぁそもそも、こうして雪ノ下と付き合うことになったのも奉仕部に入ったことが大きなきっかけなんだが。

 

 雪ノ下はドン引きしている俺の反応が気に入らないのか不満げな表情で。

 

「なによ、彼女が言い寄られても全く心配しないあなたよりは、私の方がまだまともだと思うのだけれど」

「いや待て、それはあれだ、お前はそんじょそこらの男にどうこうできるわけないと思ってるからな。ただ、流石に葉山みたいなのが近付いたら俺だって焦るというか、どうにかしたいとは思うわ。実際、その、年明けにお前と葉山の噂が流れた時とか……アレだったし……」

「……え、あれ気にしてくれていたの? ……で、でも、全然そんな素振り見せていなかったじゃない……」

「見せられるわけねえだろ、勝手に彼氏面してる痛い奴みたいじゃん……。まぁ、葉山の奴には気付かれて笑われたんだけどな……」

「…………私は、その、そういうのもっと見せてくれた方が嬉しいわ。えっと、大切にしてもらえているという感じがして……」

 

 雪ノ下は顔を逸らしながらそんなことをぽしょぽしょと呟く。

 その声はとても小さいものだったが、俺の胸の中に直接入ってきたかのように、その鼓動を何段階も早くする。

 

「そ、そうか…………あー、そういや、わざと他の男と仲良くして彼氏に嫉妬させる女子っているらしいが、お前も意外とそういうタイプなん……?」

「っ……そ、そこまではしないわよ。でもあなた、付き合ってもあまり変わらないじゃない。相変わらず肝心な所では何考えているのか分かりづらいし」

「それは、その……悪い。ただ、人の根っこまで染み込んだもんってのは変えようと思っても中々変われないもんでな…………それに、お前に対しての想いは共感やら信頼やら安心やら尊敬やら色々なもんが混ざってて、他の人よりも出しづらいってのがある」

「えっと……どういうこと?」

 

 雪ノ下は頬を染めながら、上目遣いにこちらを見る。

 そんな表情や言葉を向けられて冷静でいられるはずもなく、あまりにもむず痒い空気に思わず反射的に顔を逸らしてしまう。

 そして彼女の問いに対する答えというのも、口に出すというのは中々に勇気のいるものだ。自分の中の深い所にあるものを言語化して伝えるというのは、いつだって生半可なことではない。

 

 ……とはいえ、彼女からの真剣な眼差しから逃げるわけにもいかない。

 俺は小さく息を吐いて出来るだけ心を落ち着かせ、声が震えないようにしながら、再び彼女と向き合う。

 

「これは自分でも上手く言葉にできないんだが…………お前のいつも真っ直ぐで妥協せずに物事に向かう姿勢は素直に尊敬できるし正直格好良いとも思う。実は結構人のこと考えてくれるし優しかったりもするんだが、それを上手く出せない不器用なところとか、猫やらファンシーグッズ好きなところなんかは、なんつーか、か、可愛いっていうか……」

「かっ……!?」

「お前とバカな言い合いしてるのも妙な安心感あるし、ずっとこうしていても飽きないとか思っちゃうし……強そうに見えて案外脆いところもあるから目を離せないし普通に心配だし……誰にも渡したくないって独占欲とか、お前のことを何でも知りたいっていう好奇心とか…………あの、も、もういいか? メッチャ恥ずいんだけど……」

「え、えぇ、そうね。その、わ、私もちょっと……」

 

 俺の方は顔が熱くなりすぎて頭の中が真っ白になりそうな程なのだが、雪ノ下の方も相当に恥ずかしいらしく、俺の胸元に顔を埋めて決してこちらから見えないようにしている。

 でもその隠れ方、こっちは更に恥ずかしくなっちゃうんだけど、何とかならないですかね……心臓のバクバクとかメッチャ聞かれてそう……。

 

 そんな俺の焦りなどよそに、雪ノ下はその状態を崩さないまま話し始め、くぐもった声が聞こえてくる。

 

「そんなことを想う相手というのは、私くらいなのかしら……?」

「……こんなグチャグチャな気持ち、他の人間に対しても持ってたらとっくに頭がパンクしてる」

「ふふ……そう。つまり、少しは特別扱いしてもらっているのね、私」

「…………まぁ、そりゃ、好きだからな」

 

 

 雑談のついでのように出てきたその言葉は、この場の時を止めるには十分すぎるほどの力を持っていた。

 

 

 自然と息を止めていた。

 口から出た言葉は決して戻すことはできず、たった一言が物事を大きく変えることだってあるのは今までの人生で身に染みて分かっていることだ。

 分かった上で、俺はそれを口にすることを選択した。

 

 俺としては彼女への気持ちをそんな一言で表したくないという想いはあった。

しかし、彼女が同じ言葉を俺に伝えたとき、そんな俺の意地なんか軽く崩れてしまった。

 本来俺はあやふやな気持ちで言葉を紡ぐほど散漫な生き方はしていないのだが、どれだけ理屈をつけても否定できない想いが存在することを知っている。

 

 ただ、俺も彼女に伝えたい、伝えなくてはならない。そう思った。

 

 …………とはいえ、こういった言葉というのは、然るべきシチュエーションで真っ直ぐ向き合って伝えるものであり、間違ってもこんな雑談のついでのように言うものではないということは分かっている。

 ただ、そこは俺の中にまだ微かに残っていた意地の残滓ともいうべきか、せめてもの抵抗だ。……いや、うん、恥ずかしいだけです。ヘタレでごめんね?

 

 雪ノ下はしばらく身動き一つ取らなかったが、やがてゆっくりと顔を上げた。

 至近距離からこちらを見つめる彼女は柔らかい微笑みを浮かべながら一言。

 

「やり直し」

 

 えぇ……俺の渾身の告白バッサリいっちゃったよこの子……。

 

 というか、雪ノ下家の皆さんはどうしてこんなにも笑顔が怖いのん?

 笑ってるのに、異論反論その他もろもろは認めないとでも言いたげな圧力をひしひしと感じる。

 

 とはいえ、俺としても相当頑張った上での一言だったので、そんなに簡単にやり直せるわけもない。

 いやほんと、精神力的なアレをメッチャ消費したから今。ゲームにあるような必殺技と同じだ。連発できるものではないわけで。

 

「あー……ま、また今度な……?」

「…………」

 

 彼女から絶対零度の視線を送られているのは痛いほど分かるが、全力で目を逸らして回避し続ける。

まるでメデューサを相手にしている気分だ。誰か鏡持ってきて鏡。あ、この相手だと鏡使っても可愛い顔が映るだけじゃん何それ無敵か。

 

 避けるわけにはいかない場面もあるというのは、奉仕部での一年で学んだことではあるが、だからといって全てに真正面からぶつかっていく必要もないだろう。

たまには逃げたっていいじゃない。たまにじゃねえな。

 

 そのまましばらく無言の攻防戦……というか俺の防衛戦が続いたが、やがて雪ノ下が溜息をついて。

 

「……まったく。仕方ないわね、とりあえず今日はそれを口にしただけ許してあげるわ」

「寛大なご配慮に感謝いたします……」

「でも勘違いしないでね、これはあくまで保留というだけの話だから。いずれ必ずきちんと言ってもらうわよ」

「あー……まぁ、その内なその内」

「本当に分かっているのかしら……言っておくけれど、有耶無耶になんてできないから。私、こう見えて根に持つタイプなの」

「見たまんまなんだよなぁ……」

 

 先延ばしでしかないというのは分かっている。

 ただ、それも決して悪いことではないはずだ。人というのは時間の流れと共に様々なことを経験し、少しずつ変わっていく。変わらないものもあるが、変わっていくものの方が多い。

 だから、雪ノ下へ抱く想いは変わらずとも、その表現の方法というのは変わっていくのだと思う。今は無理でも、いずれ、きっと。

 

 …………いや、どうなんかな実際。

 まぁ、顔見て好きとか言うくらいなら何とかなりそうな気もするが、たまに街中で見かけるバカップルみたいに公衆の面前で堂々とイチャつきまくるとかは一生無理な気もする。俺達の場合は別にそこまでする必要はないと思うが。

 

 ともかく、これで話も一段落ついた。

 現在時刻は知らないが、もう夜も遅いというのは何となく分かる。

 

「……じゃあ、そろそろ寝るか」

「待ちなさい。あなたが永眠する前に私も言いたいことがあるわ」

「永眠はしないけどね? 今ここで俺が永眠したら、お前が重要参考人だからね警察的に」

「心配しないで、私は必ず無実を証明してあなたの分まで強く生きていくわ」

「いや心配だわお前の倫理観とか…………で、言いたいことってなんだ?」

 

 一応聞いてみるが、さっきの俺の言葉からの流れで何となくは予想はつく。

 思えばプロムのあと、雪ノ下から好きだと言われた時も、こんな感じに勿体ぶって言われたのだった。

 あの時は完全に不意打ちだったので、とてつもなく動揺してしまったものだが、くると分かっていれば…………いや、それでも緊張してるわ、メッチャ心臓バクバクいってるし……。

 

 ……しかし、しばらく待ってみても、なかなか彼女からの言葉が届いてこない。

 

 どうしたのだろうかと疑問を浮かべていると、彼女は無言のまま一度俺の胸元をきゅっと掴んだ。

驚いて思わず彼女の顔を見ると、暗い部屋の中でも分かるくらいに頬を紅潮させて、じっとこちらに視線を送り…………その顔が、次第に、近くに――――。

 

「んっ」

 

 その彼女の小さな声は、すぐ近くで聞こえているはずなのに、どこか霞がかって聞こえた。

 耳だけではない、その一瞬で五感全てが機能を鈍らせてしまったかのように、ふわふわと空に浮かんでいるかのような感覚が全身を包む。

 

 いや、正確には違った。

 五感の中でも唯一、触覚だけは、唇に伝わる瑞々しさと熱さを脳に強く伝えていた。

 

 少しして彼女は離れ、紅潮した顔で微笑み、告げる。

 

「私も、あなたが好きよ八幡」

 

 返事など、出るはずもなかった。

 口にはあの感触と熱さが未だに残り続けていて、その熱が脳の稼働を著しく鈍らせる。

 相変わらず五感は口の触覚だけに全リソースを割かれていて、それ以外から伝わる感覚は一向に脳で処理されない。

 

 そのまま、どれだけそうしていたのだろうか。

 やがて近くから聞こえてきた小さな声によって、ようやく俺の体が正常な働きを取り戻し始める。

 

「……あ、あの、そうやって無言でいられると、その、色々と気まずいのだけれど……」

「…………い、いや……そう、言われてもな……」

「えっと…………お、おやすみなさい」

 

 雪ノ下はこれでもかと言うくらい顔を赤くして目を泳がせていたが、やがて耐えきれなくなったのか反対方向を向いて寝る体勢に入ってしまった。

 

 もう、本当に勘弁してほしい。

 顔はこれまで感じたことがないくらいに熱いし、心臓は暴れすぎて不整脈とか起きないか心配になってくるレベルだし、まるで寝られる気がしない。

女子と同衾して一睡もできない男というのはアニメや漫画などではよくある展開だし、それを見るたびに「大袈裟だろ」などと思っていたのだが、俺が馬鹿だったようだ。

 

 つか、これもあれか、次は俺からしなきゃいけないとかそういうのなんだろうか。

 「好き」の一言言うだけでもこんだけ精神摩耗させてんのに、次は名前呼びの上にキスとかどんだけハードル爆上げしてくれちゃってんの……。

 

 ノルマを一つ解消したと思ったら、また増える。

 それは何も交際関係だけの話ではなく、何もかも上手くいっている状態というのは恐らく永遠に訪れることはなく、俺達に関しても常に何かしらを抱えて付き合っていくことになるのだろう。

 ただ、彼女と関わり続けていく上でのことであればどんな事でも好ましいなどと思えてしまう俺は、以前までとは違う方向に拗らせてしまっているのだと思う。

 

 

 結論を言おう。

 俺の彼女が可愛すぎる。

 

 

× × ×

 

 

 次の日。

 

 二人で雪ノ下のマンションを出ると、もう頂点近くまで達した日光が眩しく思わず目を細める。

 案の定あのあとは中々寝付けずに、ようやくウトウトとしてきたのは外が明るくなってきてからだった。

 その結果、普通に朝に起きることなど出来るはずもなく、朝帰りならぬ昼帰りになってしまったというわけだ。

 

 隣を歩く雪ノ下もいつもの凛とした空気はどこへやら、未だ半覚醒のぼーっとした状態だ。

 彼女のそんな様子は珍しいので普段だったら眺めていたいとか思ったのだろうが、今はこっちも似たような状態なのでそんな気力も湧いてこない。

 

 そのまま大した会話もなく歩いていると、すぐに我が家に着いてしまった。

 

「ただいま」

「おじゃまします」

 

 その声に反応して、リビングからドタドタというやたら騒々しい足音と共に我が妹が姿を表す。

 部屋着ではあるが、普段と比べてそれなりの物を着ているのは、昨夜ウチでお泊り会をした由比ヶ浜や一色がまだいるからだろう。つか玄関に靴あるしな。

 小町はニコニコとやたらと好奇心の強い笑みを浮かべて。

 

「おかえりー。雪乃さんも『ただいま』でいいんですよ?」

「え、あ、そ、その……」

「いいから、そういうのいいから。俺達メッチャ眠くてそういうの相手する余裕ないから」

「……ほう。寝不足」

 

 小町が何かろくでもないことを考えているような気がするが、構ってやる気力もない。

 そのままさっさと自室へと戻って寝なおそうと思ったのだが、小町の腕が行く手を阻む。

 

「寝るなら荷物は置いてって。洗濯物とか入ってるでしょ、小町がやっといたげる」

「お、悪いな」

「いいよいいよ、その代わり後でじっくり色々聞かせてもらうから。あ、雪乃さんはどうします? 兄と一緒に寝ます?」

「っ……ゆ、由比ヶ浜さん達はどうしているのかしら」

「二人はリビングでお菓子作――」

 

 小町がそう言いかけると、パタパタという軽い足音が聞こえてくる。

 

「ゆきのんヒッキー、やっはろー!」

「どーもー、お邪魔してます……ちょ、結衣先輩、顔についてますって」

 

 リビングから出てきた由比ヶ浜と一色はエプロン姿で、なるほど確かにお菓子作りの途中といった感じだ。小町と一緒に来なかったのは、作業の途中で手が離せなかったのだろう。

 とはいえ、それでもなるべく早く迎えようとしてくれたのだろう、由比ヶ浜なんかはエプロンだけではなく頬にまでクリームをつけたままで、一色がそれを指で拭って食べていた……自然にそういう事できるのってすげえな。流石は陽キャ。

 

 すると、そんな俺の内心を見透かしているのか、一色はにやりと不敵な笑みを浮かべて。

 

「あれ、もしかして先輩、結衣先輩の頬のクリーム食べたかったんですか?」

「ふぇっ!?」

「お前ほんとそういう冗談やめろ……洒落になってないから……」

 

 由比ヶ浜は顔を赤く染めているが、こっちは青くなるしかない。

 原因は主に隣からの強烈な冷気にある。

 

 とにかく、これ以上ここにいても三度の飯より恋バナ好きな女子達の餌食になること間違いなしなので、さっさと退散することにする。

 これが逃げるは恥だが役に立つってやつか。多分違うな。俺それ観てねえし。

 

「じゃあ俺もう寝るから。おやすみ」

「え、ちょ、帰ってきて早々何ですかそれー! どれだけ寝てもどうせ目は死んでるんですから別に寝なくていいじゃないですかー!」

「何その理論……目は死んでても他は普通に生きてるんだよなぁ……」

「ま、まぁまぁいろはちゃん、ヒッキー疲れてるみたいだし……」

「むー、仕方ありませんね。それなら雪乃先輩から根掘り葉掘り聞きますか」

「なっ……ね、ねぇ、比企谷くん。この状況で私をここに残されても困るのだけれど……」

 

 きゅっと袖を握って逃すまいとしてくる雪ノ下。

 これが一色なんかなら適当にあしらって逃れることも可能だが、雪ノ下からこんな縋るような目で見つめられると、言い訳並べて逃げることには自信のある俺でも思わず言葉に詰まる。

 

 そしてその一瞬を突くように、

 

「……ねぇ、お兄ちゃん? ちょっと言いにくいんだけどさ」

 

 妹のその言葉に俺達はそちらに視線を向けて……そのまま固まった。

 

 

「あー、こういうのはさ、妹としては生々しすぎて反応に困るから、財布とかに入れてくれると小町的には助かるかなーって……」

 

 

 気まずそうに視線を逸らしつつ苦笑いを浮かべた我が妹の手には何かが握られている。

 それは小さな正方形の何かなのだが、この空間を支配できるほどの圧倒的な存在感を放っている。

 

 ……そういや、昨日適当に鞄の中に突っ込んだままだったわ……。

 

 雪ノ下雪乃は一瞬で顔を真っ赤に染め上げ俯いてしまい。

 由比ヶ浜結衣はきょとんと一拍置いたあと、やがて見る見る内に頬を紅潮させ「わ、わー」と小さな声を零し。

 一色いろはは獲物を見つけた肉食獣かのように目をキラリと輝かせ、勢いよくこちらを向く。

 

 俺はというと、ただ静かに目を閉じた。

 これから巻き起こるであろう質問尋問その他もろもろの言葉の奔流に備えての精神統一……というわけでもなく。

 そんなことをしても、次の瞬間には女子高生の持つ莫大な好奇心という怪物に飲み込まれてしまうことは分かりきっているのだが。

 

 俺はとりあえず、これからのことに関しては考えるのを止め、こう強く思った。

 

 ああ、やはり。そう、やはり、だ。

 季節が変わっても、学年が変わっても。

 彼女ができても、その関係が進んでも。

 

 

俺の青春ラブコメは――――。

 




これで終わりです
最後まで読んでいただきありがとうございました

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