つらい目に遭う。困難が眼前に立ちはだかる。運命が牙を剥く。いや、こういう言い方はどこか気取っていてよろしくない。もっと具体的に言ってみよう。足を
だが、こんな困難に直面してもなお旅人たちは言う。「だからこそ旅を続けなければならない」 彼らは随分と殊勝なことを、随分と殊勝な顔つきをして言うのだ。「困難を乗り越えてこその旅だ。旅は続けなければならない。困難あってこその旅だ」 彼らは実にご立派だ。彼らの顔は輝いている。誇りが彼らの中に満ちている。
それでも、私としては「ちょっと待ってくれや」と言いたくなる。私はそこまで立派な人間でもないし、誇りなどというものもとうの昔になくしているから、「旅は続けなければならない、困難あってこその旅だ」と
そう、旅は続けなければならない。しかし、旅をするすべての人間が旅人であるわけではないのだ。このことを認識していない旅人が多すぎる。
私は自分のことを旅人だと思ったことはない。もし、これまでの記述で「私は旅人である」といった趣旨のことを私が書いていたとしたら、それは一時の気の迷いであったか、それともその時に特有の一種異常なテンションのせいでそう言っていただけだと思ってもらいたい。この際だからはっきり言っておく。私は断じて旅人ではないのだ! なぜなら私は旅が好きではなく、むしろ嫌いで、さらに言えば旅を人生の本務と見なしたことがないからである。
私が旅をするのは「仕方なく」だ。そう、仕方なく、取材のために旅をする。旅をせざるを得ないから旅をしている。私にはジャーナリストとして文章を書くという最大の目的があり、旅はそれを果たすための手段に過ぎない。できることなら旅をいっさいせずに、故郷の家の一室に閉じこもってペンを走らせていたい。実際、大厄災前にはこういうタイプのジャーナリストが多かったらしい。仕事場から出ないジャーナリストとは……素晴らしいではないか。私もそんな風にして仕事ができれば良いのだが……やはり大厄災はハイラル史において最悪の出来事だったと言わざるを得ない。
仕方なしに旅をしているような人間であるから、私は旅の最中に困難に出くわすともう旅をやめたくてたまらなくなる。逃げ出したくなる。困難を乗り越えてこその旅? そのとおりだ。そしてあなたは困難を克服し、旅をやり遂げるだろう。旅の最中でもあなたの顔は輝いていたが、旅を終えた今はさらに輝いていて、もう目も当てられない。でも、私は困難なんて
というのは、私の場合、旅の後で初めて「本当の旅」が始まるからだ。文章を書くという長い長い旅が始まる。その前段階に過ぎない単なる旅で消耗しきってしまっては仕事にならない。そもそも、快を求め苦を避けるというのが人間の一般的な性質というものではないのか? ならば、「困難あってこその旅だ」などとのたまう旅人たちはどこかおかしいのだろう。おかしいというのに
それでも困難は尽きない。私がいくら「困難なんてない方が良い。楽に旅をしたい」と駄々をこねても、向こうの方から困難が徒党を組んで全速力でこちらへ走ってくる。この旅にしてもそうだった。マリッタ馬宿を出てから私を見舞った困難を数え上げればキリがない。まるで旅そのものが意志を持っていて、己の理想に沿わない人間の首を
「では、旅に嫌われているのならば、自分から旅を愛するようにすれば良い」と言う人もいるかもしれない。「そうすれば旅もあなたを愛するようになり、困難も減るだろう」と。
その言葉を、ちょっと信じてみても良いと思う。そう思うだけの出来事が起こったのだ。
☆
私が平原外れの馬宿を出発してから、本当に困難の中の困難といえる事態が起こった。
怪我もほとんど回復し、これならば旅を再開できるという確信を得た私は、さっそくその日の朝に馬宿を出ることにした。ここからカカリコ村まではかなりの距離がある。歴史に忘れられたような始まりの台地を取り巻く、高く黒い頑丈な岩壁のすぐ下を通り、街道を東へ向けてひたすら進む。亡霊の
私は馬車に乗りたかった。無駄な体力を使いたくないし、それに馬車の方が安全だ。加えて、馬車の方が起こり得る困難をある程度予想できる。車輪が外れるとか、車軸が折れるとか、馬が病気になるとか、そういう困難は予想可能で対処もしやすい。徒歩だとそうはいかない。これまでの経験上、徒歩だと人間が想像できるありとあらゆる困難が生じる。ここからカカリコ村まで直行する便とまでは言わないが、せめて双子馬宿までの便には乗りたい。
「虫の良い話かもしれませんが、そういう便があったらぜひ乗りたいんですけど」と私は馬宿の店員に訊ねた。
しかし、店員はいかにもすまなさそうな顔をして言った。
「申し訳ありません。次に双子馬宿までの便が出るのは、一ヶ月先になっています」
流石に一ヶ月も待つわけにはいかない。その間に次号の『ウワサのミツバちゃん』が発刊されてしまう。私の記事が収まるはずだったページは欠落し、代わりに編集部のおわびのコメントが書かれる。「記者の
私が割とすんなり徒歩で行くことを決意できたのは、道づれができたからである。それはバナンナさんだった。彼女は私に言った。
「ヨツバさんはこれからカカリコ村へ赴かれるのですよね? それならば
私は彼女に言った。
「良いのですか? 歩いていくことになりますよ。長い道のりになるでしょうし、魔物にも遭遇するかもしれません」
バナンナさんは平然として言った。
「ご心配には及びませんわ。もともと『このハイラルを思いっきり歩き回ってみたい』と思って始めた旅ですし、それにヨツバさんはクソザコ……ごほん。ヨツバさんは腕力よりも筆力に長けた方ですから、それでしたら戦闘の心得がある私が一緒に行った方が少しは安心でしょう」
私は念を押すように彼女に言った。
「それはとてもありがたいのですが……本当によろしいのですか?」
「ええ、ヨツバさんとなら大丈夫ですわ。いえ、むしろ、私はヨツバさんと一緒に旅をしたいのですわ」
彼女は微笑んで私にそう言った。こんなに素敵なことを女性から言われて喜ばない男がいるだろうか? 私は改めてバナンナさんを見た。紺色のフードの下の顔は柔和で可愛らしく、日焼けしていない白い肌がなんとも美しい。短い黒髪が肌の
私はあっさり決意した。よし、一緒に行こう。
道中必要となる食料を受け取り、一ルピーの間違いもなく支払いを済ませた私は、バナンナさんと一緒に馬宿を出た。朝の空はよく晴れていて、乳の色に黄金が混ざった柔らかな陽ざしが緑の木々に照り映えていた。水溜りからほのかに蒸気が漂っていた。蒸気に混ざって羽虫たちが舞っていた。
馬宿の店員たちが見送ってくれた。
「どうか、道中お気をつけて! いってらっしゃい!」
手を振る店員たちに、私もまた手を振り返した。私が怪我のために横になっている間、彼らは実に良くしてくれた。考えてみれば、けっこう奇跡的なことかもしれなかった。私が短時間で怪我から回復したことを指してそう言うのではない。怪我を癒さねばならない時に彼らと出会えたことが奇跡的なのだ。旅には、困難の他に奇跡というものもまた存在するんだなぁと、
隣にいるバナンナさんも振り返って、店員に向かって言った。
「いってきますわ! ヨツバさんのお
そうだ。奇跡といえば、このバナンナさんだ。私はそう思った。彼女とこうして二人して歩いていけるというのもまた奇跡ではないか? 前にも書いたが、バナンナさんは実に「かわいらしい」人である。美人だ。というよりも、私の好みである。穴のあいた岩にすっぽり
私たちは無言で歩いた。昼間の街道には私たち以外誰もおらず、敵の影も見えなかった。ときおり、草むらから大きなガンバリバッタが飛び出してきた。私にはその羽音が妙に大きく聞こえた。沈黙が私とバナンナさんの間に満ちていた。バナンナさんがどう思っているかは分からなかったが、私はそれで構わなかった。私には沈黙が必要だった。沈黙の中で、私は自分の思いを今一度見つめてみたかった。
惚れっぽい性格であることは分かっている。惚れっぽいのに、その人を繋ぎ留めておくだけの技量も度量もないことも分かっている。それでも私はいつも惚れてしまう。馬宿を出てから、かれこれ三時間ばかり経っただろうか。街道を歩きながらバナンナさんのことを考えていた私は、どうやら自分が彼女に惚れつつあるということを、その時自覚した。
自覚した瞬間、「あっ、やべ」という言葉が口から漏れ出た。「どうしたんですの?」とすかさずバナンナさんが声をかけてきた。「あっ、いえ、大丈夫です。ちょっと小石を踏んだだけですので……」 私は誤魔化した。バナンナさんは私に笑いかけた。「もう……病み上がりなのですから、気をつけないといけませんわ」
このまま惚れてしまおうか? あるいは、惚れつつあるというこの心地良い状態を維持しようか? 私は迷った。一度惚れてしまったら、後は単純である。彼女を愛せば良い。まず、恋人になりたいと彼女に告白する。もし、告白が成功する公算が低いと思われる場合は、
だから、まだ惚れたくない。予想できること、つまり決まりきったことをするのは退屈だからだ。恋というのは、体験したことのない人間には分からないかもしれないが、けっこうルーティンなところがある。恋愛小説にこのことが書かれていないのは問題だろう。
一方で、惚れてしまうかもしれないという状態は退屈ではない。それはいうなれば、
最終的に惚れるのか、それとも惚れないのか、そのどちらに転ぶかは分からないが、この分からないという感じが実に甘美で、
それにしても、どうしてこうも突然、バナンナさんに対して惚れるという感情が湧き上がってきたのであろうか? しばらく私は考えた。そして、それはおそらく私が怪我から回復した直後だからだろうと結論した。
今、私は愛に直面しているのだ。いや、待て。こんな書き方をすると姉から怒られる。「なにが『私は愛に直面しているのだ』や! 気取った言い方も大概にせえ!」 よし、言い直そう。怪我によってマイナスの状態になった私は、今や回復というプラスの方向への運動を始めていて、その方向の先にいるのがたまたまバナンナさんだったのだ。これがバナンナさんではなく馬だったとしたら、私はきっと馬を愛するようになったに違いない。いや、それは流石にどうだろうか……
見方を変えると、バナンナさんは私の回復の象徴でもある。回復の象徴であるということは、彼女を私の中に受け入れた時に私の回復が本当の意味で完了するということでもある。回復が完了したらどうなるか? そうだ、きっと明るい未来が待っている。いや、未来は必ずしも明るくはなく、むしろ暗いものかもしれないが、それを明るい気持ちで生きていくことができる。なぜならその時には私は回復していて、生命力に満ち溢れているからだ。
もしかしたら、その時には旅の困難すらも愛せるようになるかもしれない。旅そのものを愛おしいものとして享受できるようになるかもしれない。おずおずと運命の顔色を窺いながら忍び歩きする必要はなくなるかもしれない。
宝箱が目の前にある。宝箱には鍵が掛かっているが、今や、その鍵を握っているのはバナンナさんなのだ。
よし、惚れよう。私は決断した。だが、先にも述べたように、恋というものを始めるには相手にこちらの好意を知ってもらう必要があり、そのためにはそれなりに下準備をしなければならない。
そのためには、会話をするのが一番だ。古のシーカー族の賢者たちはしかつめらしく「敵の剣ではなく、また自分の剣でもなく、ただ己の舌の
私はこれまで二人の間を包み込んでいた心地の良い沈黙を破り、彼女に話しかけた。
「バナンナさん。もうご存じだとは思いますが私はジャーナリストなんです」
「ええ、存じておりますわ。改めてそうおっしゃっていただくまでもなく」
彼女は私に顔を向け、答えた。優しい目をしていた。これは良い感じに会話が運ぶかもしれない。私は言葉を続けた。
「旅をするにはいささか腕力も胆力も足りていない私ですが、こうしてカカリコ村に行くのは他でもなく取材のためです。取材のため、記事を書くためだったら、私は旅の困難もあえて避けません」
バナンナさんは何も言葉を返さなかったが、じっと私の言うところに耳を傾けているのがはっきりと感じられた。私はさらに言った。
「次に出す雑誌では、ハイラル各地の食について特集が組まれることになっています。あの大厄災から今年でちょうど百年になりますからね。それを記念した特集号なんですよ。面白い記事がたくさん載ると思います。私は納豆について書くつもりでいるんです」
彼女は言った。
「そういえば、平原外れの馬宿でご年配の店員様とそのようなことをお話しになっていましたわね。『ナットー』というのは、それほどまでに素晴らしい食べ物なのですか?」
良いぞ。だんだん彼女が会話に本腰を入れ始めた。私は勇を奮って言葉を続けた。
「まだ納豆そのものを食べたことはないのですが、調べる限りでは本当に素晴らしい食べ物なんですよ。どの書物でも納豆の効能について絶賛しています。ハイラル王国軍の兵士たちや騎士たちは肉ではなく納豆を食べて体を作ったと言われていますし、それに王国軍だけではなく、リト族の戦士たちもゴロン族の力士たちもゾーラ族の神官たちも納豆を好んで食べていたと伝えられています」
バナンナさんは驚きの表情を浮かべて言った。
「まあ、リト族もゴロン族もゾーラ族も食べていたんですの? それなら、ゲルド族は?」
私は答えた。
「おそらく食べていたものと思われます。ゲルド族は体力に優れますが、砂漠には動物が少ない。彼女たちはその優れた筋力を維持するために必要なたんぱく質を、納豆を食べることによって摂取していたと思われます」
彼女は言った。
「でも、砂漠で豆は育たないでしょう?」
私は頷いた。
「もちろん、厳しい環境でも育つ豆とはいえ、水一滴もなしという砂漠では栽培することができません。しかし、ゲルド族は宝石の加工技術がありますからね。加工した宝石を中央ハイラルに売って、その金で納豆を仕入れる。納豆を食べて体力をつけて、また宝石を加工する。そういうサイクルがあったのでしょう。そうなんです、納豆ひとつを取り上げるだけで、新しいハイラルの歴史を描くことも可能なんですよ。納豆によってハイラル全土の流通と経済が回っていたのだという、新しい歴史を書くこともできるんです」
私はそう言ったが、根拠などどこにもない。割と口からでまかせを言っている。だが、会話などというものはそういうものだ。むしろ、女性の気を惹くためにする会話においては口からでまかせに喋り続けなければならない。私はまた言った。
「太古の昔、シーカー族は優れた機械技術を持っていました。それを
バナンナさんが相槌を打ってくれた。
「なぜですの?」
私は言った。
「それは、納豆の製造法が失われるのを王国が怖れたからなのです。シーカー族の機械技術は捨てることができても、発酵技術を捨てることはついにできなかった。それほどまでに納豆は王国の人々の生活にとって欠くべからざるものとなっていたのですよ」
彼女が感心したような声をあげた。
「へええ……私、まったく存じませんでしたわ」
興が乗ってきた。私はさらに調子に乗って言葉を続けた。
「話によればあの謎の武装組織、イーガ団もシーカー族と分離独立する時に納豆を……」
「嘘をおっしゃってはいけませんわ。イーガ団は腐った豆など食べません」
バナンナさんは即座に私の言葉を中断させた。その言い方には有無を言わさないほどの断固たる響きがあった。私はちょっと声量を落して言った。
「あの、その……イーガ団が納豆を作る方法を持ち去ったかどうかは分かりませんが、まあそれほどまでに納豆というのは素晴らしい食べ物だったのです。栄養学的に見ても、経済的に見ても、歴史的に見ても」
「お話を聞く限りでは、きっとそうなのでしょうね」
バナンナさんが答えた。その口調は冷静そのものだった。良かった。彼女は言った。
「でも、そんなに素晴らしい食べ物が、どうして今はまったく食べられていないんですの?」
「それはすべて大厄災のせいです。あの厄災ですべてが失われましたから」
私がそう言ったその瞬間、彼女の目つきが鋭くなったように思えた。しかし、気が付いた時にはもう、彼女はいつもの穏やかな表情に戻っていた。私はさらに言った。
「詳しいことはカカリコ村に行って取材しなければ分かりませんが、私は納豆がこの荒廃したハイラルを救う食べ物であると信じています。畑で作ることができますし、製造法は単純で、コストもかからない。栄養が豊富で、病気になりにくい体を作りますし、病気そのものにも効く。怪我にも効く。そう、言うなれば……」
私はいったん言葉を切った。それは次に続く言葉の効果を高めるためであった。私は言った。
「納豆は腐った豆ではなく、この滅亡したハイラルの世界を救う勇者なんですよ!」
どや、決まったやろ? 言葉がばっちり決まったという誇らしい気持ちと共に私はバナンナさんの顔を見た。
だが、彼女の顔は蒼白になっていた。
元から美しい白い肌をした彼女であったが、今はさらに白くなり、ほとんど皮膚の下に流れる血液まで見えそうなくらい透き通っていた。
あれ、おかしいな? こんなはずやないんやけど……私の
私の頭脳は高速で働き始めた。いったい何がいけなかったのだろうか? 食という主題が悪かった? いや、これまでのところバナンナさんは食について嫌悪感を示したことはなかった。それなら、納豆が悪かった? いくらスーパー・フードとはいえ、腐った(正確には発酵した)ものについて
疑問がぐるぐるとサークルを描いて私の脳内を駆け巡った。どう取り繕ったものか必死に考えているうちに、バナンナさんの方が口を開いた。
それは冷え冷えとした、ぞっとするほど低い声だった。
「ヨツバさん。ナットーが滅亡した世界を救う勇者とおっしゃいましたね?」
「ひゃい!」
私の声はひっくり返って奇妙に甲高くなっていた。バナンナさんは言った。
「その言葉はすべての点で間違っています。まず、この世界はまだ滅んでいません。むしろ、救済と発展の途上にあるのです」
「はい?」
救済と発展の途上? なんだか妙なことになってきた。しかし私は「はい?」としか言えなかった。彼女はさらに言葉を続けた。
「滅んでもいない世界が救われる必要はありません。仮に世界が滅んでいたとしても、それを救うのは勇者ではありません。むしろ、勇者こそがこの世界を滅ぼした張本人とも言えるのですから。
「はい!」
なんだか穏やかではないことをバナンナさんは言っていた。どうして彼女は勇者をそこまで憎んでいるのだろうか? 私は必死になって考えた。もしかしたら、彼女の先祖か誰かがあの大厄災の時に悲惨な死を遂げたのかもしれない。それに勇者が深く関係しているのかもしれない。だから彼女は勇者を憎んでいるのだろうか?
彼女はさらに言葉を継いだ。
「そして、もし世界が、ある食べ物によって救われるのだとしたら、それはナットーなどという腐った豆によってでは断じてありません」
バナンナさんは俺を見つめた。見つめたというより、視線で私を刺していた。彼女の目は
「で、では、それはなんですか……?」
彼女は大きく息を吸い込んでから、口を開いた。
「世界を救うのは、バナナですわ!」
それから彼女は一気に捲し立てた。
「バナナこそがこのハイラルを動かしてきた歴史的な原動力、すべての人間を巻き込みつつもすべての人間を救ってきた存在なのですわ! バナナは不動の動者、第一原理、真理なのです! バナナはすべての道、すべての手段、すべての光にして闇、ものごとのあらゆる側面をなしつつもあらゆる本質を形成するものです! これまで生きてきたすべての戦士たち、すべての賢者たちはバナナの恩恵に浴していたからこそ偉業を成し遂げることができたのですし、歴史に名を残さないカスみてぇな貧民共もバナナがなければ露命を繋ぐことすらできなかったのです! バナナはありとあらゆる土地でありとあらゆる種族に珍重され、日々の喜びをもたらし不可欠の栄養を提供する大いなる恵みとして崇められてきました。しかしバナナの数は限られており、バナナを手に入れるために無数の戦いが起こりました。ハイラルの歴史において、ほとんどすべての戦いがバナナを巡って勃発したものだったのですわ! そうですとも! 換言すればバナナがハイラルの歴史そのものなのですわ! しかし愚かにも人々は次第にバナナの恩恵を忘れ、むしろバナナを悪魔の食べ物として忌み嫌い、バナナを食する者を迫害するようになりました。ですが、バナナを食べないことには人は真なる意味での救済に与ることはできないのです! バナナは救いです! 魔王は、厄災は、いえ、
そこまで一気に言うと、彼女は荒い息をして呼吸を整えた。数秒経って、彼女は私に言った。
「要するに、バナナだけがこの世の救いなのですわ。お分かりいただけましたか?」
「い、いえ……」
私が曖昧な口調で、しかしはっきりと否定の意を示すと、バナンナさんは「やれやれ」という風に首を振った。彼女は私から目線を外すと、街道の向こうにある森の方へ何かを探すように目を泳がせ始めた。
やがて、彼女は言った。
「ヨツバさん。ナットーの記事なんて書くのはやめて、バナナについて書かれてはいかがかしら? バナナこそがこの世を救うという記事を書いてくださったら、私からたんまりとお金を差し上げますわ。その記事を喜んで読む人がたくさんいることを、私は知っています。書けば、ヨツバさんは一躍人気記者になれますわ」
「それはできません」
バナンナさんの狂気は恐ろしかったが、それだけは受諾するわけにはいかない。金をもらって特定の意見に与するような記事を書いた瞬間、私はジャーナリストではなくなる。これだけは譲ることができない。
彼女は暗い目をしたまま、また言った。
「どうしても書きたくありませんか? ルピーは払いますわ」
私は答えた。
「書きません」
彼女は冷たい声で言った。
「なぜですの? バナナの記事を書きさえすれば良いんですのよ?
殺される。私はそう直感した。惚れた女性に殺される。それはまだ許せる。だが、惚れた女性であろうとも私の記事を変えさせることはできない。私は口を開いた。
「バナナの記事は書きません!」
「はっ!」 バナンナさんは鼻で笑った。「そうおっしゃると思っていましたわ。だから、私は別に残念ではありません。ところで、あちらをご覧になってくださいまし」
彼女は手で森の方を指し示した。見ると、大きな赤い影が二つ、三つ動いていた。痩せているが高い頭身、長く伸びた角、鋭い牙、豚のような鼻……赤モリブリンがそこにいた。その手にはボコ槍を持っていて、森の中を歩き回っていた。赤モリブリンは、まだこちらに気付いていないようだった。
今やバナンナさんの全身から濃厚なまでの殺気が漂っていた。私は氷漬けになったようだった。逃げた方が良いのは分かっていたが、足は動かなかった。惚れた弱みというやつだろうか? いや、違う気がする……
突然、バナンナさんが叫んだ。
「おーい! 知能低劣な魔物どもー! ここに美味しい肉がありますわよー!」
モリブリンたちが一斉にこちらへ顔を向けた。魔物たちは大きな体躯を揺らしてこちらへと駆け寄って来た。バナンナさんはまた口を開いた。
「ヨツバさん。今、ルピーをいくらお持ちですか?」
「しゅ、取材費とポケットマネーを合わせて、二千ルピーほどありますが……」
馬鹿正直に私がそう答えると、バナンナさんは口の
「それだけあれば、バナナを百本は買えますわね。ご安心くださいな。三十ルピーほど残して差し上げます。もしかしたら、そのルピーでモリブリンたちに命乞いができるかもしれません。バナナではなく腐った豆の記事を書く記者の命の値段なんて、三十ルピーでも高いぐらいですが。では、ちょっと向こうを見てくださいな」
彼女は指をさした。それに従って体の向きを変えた直後、私の後頭部に強烈な一撃が加えられた。目が眩み、暗黒の世界の中で無数の火花が明滅した。頭蓋骨が砕けたかもしれない。もし頭蓋骨が砕けたなら、きっと私の脳髄が外に出ることになるだろうが、はたして私の脳は何色をしているのだろうか?
そんなズレたことを私は考えていた。
☆
肩を叩かれる感触がした。次に、肩を掴んで揺さぶられるのを感じた。私の意識はすでに現世へと帰還していたが、私は目を開けたくなかった。強烈な異臭がした。炎天下に放置していた生ゴミのような臭いがした。ブゴブゴという低い鳴き声が聞こえた。私が普段から最も聞きたくないと思っている鳴き声のひとつだった。また肩を掴まれた。揺さぶられている。痛い。骨が折れるかもしれない。この馬鹿は、加減というものを知らないのか?
私はまだ目を閉じているべきだろうか? 死んだふりをする。そうだ。それが良い。そう思ったが、思った瞬間に私の
まず、陽の光が網膜を焼いた。しかし、私の視覚はすぐに機能を取り戻した。私の目の前に大きな赤い何かがいた。それは三体いた。赤モリブリンだった。真ん中の一体と、私の目がばっちり合った。
私の体は勝手に動いた。私は腰のポーチに手を伸ばし、中から革のカード入れを取り出して一枚を手に取ると、訓練されたうやうやしい態度でモリブリンにそれを差し出した。私は言った。
「はじめまして、私はヨツバと申します。雑誌『ウワサのミツバちゃん』の記者をしております。これ、お名刺です……」
モリブリンは一声叫ぶと、腕を振って私の手から名刺を叩き落した。左右のモリブリンはボコ槍を振りかざして雄叫びを上げていた。私も負けじと絶叫した。
「ぎゃああああっ!! 誰か助けてーっ!!」
その次の瞬間だった。
突然、天から無数の矢が降り注ぎ、そのすべてが真ん中に立つモリブリンの頭部に命中した。地響きを立ててモリブリンが地面に倒れ、濛々とした砂埃が巻き起こった。矢を受けたモリブリンが黒ずんで風化し、黄色っぽい砂埃もまた晴れたその時、私はひとつの小さな影が、残った二体のモリブリンに立ちはだかっているのを見た。
微風に靡く美しい金髪が、私の目を惹いた。
「あっ……」
咽喉から掠れた声が出た。私の体は勝手に動いた。先ほどモリブリンに叩き落された名刺を拾い、汚れを払ってから、私は革のカード入れへとそれを戻した。
うん。名刺は大切だからね。
未だにはっきりとしない意識で、私はそんなことを考えていた。
そろそろティアーズオブザキングダム発売ということでわたくし興奮で眠れません!
※加筆修正しました。(2023/06/17/土)