これから私は至極情けない話をしなければならない。そのことを非常に心苦しく思うがために、私は本題に入る前に長々と「平和」について語ることになるだろう。
一言で「平和」と言っても、その平和というものには色々と種類があって、その違いについて無頓着でいると時々手酷い目に遭う。悲劇だの文学だので
私自身はただの一ジャーナリストに過ぎず、哲学者でも文学者でもないから、「平和」について高度な論考を練るなどその資格もなければ能力もないから、「よし、ここはひとつ、大厄災後の世界における平和について考えてやろう」などという気にはまったくならないが、それでも旅をしたり取材をしたりしている最中に「たぶん平和っていうのはこういうことなのだろうな」と思うことがたびたびある。
そう思う時というのは、大抵は敵と遭遇した後、魔物と戦わず、大抵は逃げ出して、なんとか命を長らえた後である。正面切って魔物と戦うなど、思いもよらないことだ。イシロックにさえ負け、背後からの奇襲に失敗し、コズミさんの援護をもらってようやく何とかなるこの情けない男が、兵士や勇者のように堂々と敵と戦い、勝利するだと? 魚が陸地を歩けないのと同じく、ハイリア人がゴロン族のように岩を食べられないのと同じく、ジャーナリストは魔物と戦えない。この事実は厳然としてハイラルの天地の
どうしても戦わねばならない場面に出くわしても、私はこの天地の理に従ってただ敵に背を見せてひたすら逃げてきた。魔物が放出する「ブゴブゴ!」とか「ブヒブヒ」とかいう荒い鼻息が生温かさを伴って私を追いかけ、魔物が手にする
まだ若い頃、いや私はまだ年齢としては若い方に属すると思うが、とにかく若い頃、私は男としてそのことを恥じることがあった。私の出身地である村の男たちは農耕と狩猟で鍛え上げられた肉体を誇っていて、武器さえあれば赤ボコブリンだろうが赤モリブリンだろうが倒してしまうのだが、私は敵を見ると即座に逃げ出してしまうのだから尚更強い恥の感情を抱くのだった。戦う能力がないのは分かっているし、なにより怖いという感情を抑えられないのだから仕方がないとは思っていても、どうしても恥の念が湧いてしまう。
しかしある時、ある本を読んで考えが変わった。その本は、大厄災を遡ることだいたい二百年前に活躍した王国の兵士長ノキクスが書いたもので、題名は『護身術入門』といった。ノキクスは戦う能力を持たない一般人を相手にこの本を書き、旅や狩猟の
ノキクスは、「その手段とはただ一つしかない。それは『逃げる』ことだ」と言明している。「社会的に規定された『望ましい男らしさ』だの、王国民としての義務だの、英雄叙事詩に倣った勇気だの、そういった取るに足らないものがこれまで数多くの貴重な生命を奪ってきた。私ははっきりとここで言っておく。力を持たぬ者がとるべき最善の
私はそれを読んで非常に勇気づけられた。ノキクスは大小百五十回に及ぶ戦闘に参加し、そのことごとくにおいて戦果を挙げ、負傷らしい負傷をいっさいしなかったまさしく「剛の者」であるが、その彼が「逃げよ」と言う。
彼はまた続けて言う。「ある戦闘で、私は所定の地点へ敵を誘引する任務を授けられた。馬に乗って敵に背を向け、逃走を装って走らなければならない。この時ほど恐ろしい思いをしたことはなかった。騎馬ボコブリンの群れが私ただ一騎を追いかけ、矢を射かけてくる。私はそれに反撃することもできない。耳元を矢が掠めるたびに私は全身が硬直するのを感じた。その時は無事に目的地である窪地へと敵を誘い込むことに成功し、伏せていた味方が包囲して敵を殲滅したのだが、戦闘後に私は、自分の全身がアイスロッドによって氷漬けにされたかのようにコチコチになっているのに気が付いた。そして悟った。逃げるということは戦うことよりも恐ろしい。だが、その恐ろしさに立ち向かうがために、逃げることは戦うことよりも勇気のある行為であると言うことができる、と。力を持たぬ者たちよ、逃げることは決して恥ではないのだ……」
その本を読んで以来、私は逃げることに負い目を感じることはなくなった。むしろ、これからは確実に敵から逃げられるよう、走り込みやマラソンなどをして脚力を鍛え、非常時に備えておこうと決心をした。そのおかげもあってか「鍛え上げた自慢の脚力」というところまではいかないが、なかなかの逃げ足を発揮できるようになった。リザルフォスにはギリギリのところで負けるが、少なくとも足の短いボコブリンには負けない。
その脚の速さを生かして逃げ切り、敵が見えなくなったところで荒くなってしまった呼吸を整え、また道を歩き始める時に、私は「平和」を実感するのだった。
平和とは、敵がいない状態を指すのではない。この世のありとあらゆる存在が固有の敵を持っているのだから、敵がいない状態などあり得ない。また、敵を倒すことによってもたらされるものが平和であるとも言えない。もしそうならば、敵を倒す力を持たぬ者は、生きている限り平和を味わうことができず、そのような残酷な状況を神々がお許しになるわけがない。敵という観点から平和の概念を構築することはできないのだ。
平和とは、逃げることが許されている状態を意味するのだ、と私は思う。敵や、敵による脅威そのものは、さほど忌むべきものでもない。そういったものから逃げることができない状況、抜き差しならぬ状況、それこそがまさに忌むべきものと言えるのではないか? 常に「逃走線」を引くことができる。望ましくない状況や環境から、自分の勇気と意志で脱出することが許されている状況、それが平和と言えるのではないか?
だから、この状況は非常にマズい!
私は冷や汗をかいていた。腹から低く異音が鳴っていた。出すものはほとんど出してしまったはずなのに、私の肉体の生理的諸機能はなおも何かを出そうとしているようだった。
「こらアカン……」
目の前には、大きな青色のチュチュがいた。音もなく木から落ちてきたチュチュは、ウジュルウジュルと醜悪な音を立て、その巨体をプルプルと揺らしながら、ゆっくりと動いて私へ向かって距離を詰めようとしていた。その体は青白い月光に照らされて怪しく光っていた。生気のない焦点の定まらぬオレンジ色の眼は、私を見ているような、見ていないような、魔物らしいぞんざいな視線を送ってきていた。
小さい頃、私は三人の姉たちとよく「最強議論」をしたものだった。その名前のとおり、「このハイラルで最強の魔物とは何か?」という議論である。私や、イチヨウ姉、フタバ姉がライネルだの、モリブリンだの、ヒノックスだのと名前を挙げる中、ミツバ姉だけは確信に満ちた表情で、語気も強くこう言った。
「最強なのは、チュチュや。間違いあらへん!」
その理由は、こうだった。曰く、ライネルだのヒノックスだのは生息域が限定されており、避けようと思えばいくらでも避けられる。地図にそいつらが
だが、チュチュは違う、とミチバ姉は言う。チュチュはどこにでも現れる。村の畑で野良仕事をしていたり、森に入ってキノコを採っていたりしている時、奴らは不意をついて現れる。木の上から突然降ってくるし、地面から唐突に湧いて出たりする。そればかりではない。トイレにも倉庫にも奴らは現れる。溜め池のほとりで水鳥を眺めている時にも現れるし、馬小屋で飼葉をやっている時にも現れる。そういう神出鬼没な連中を、どうやって避けることができるのか。
「チュチュの奇襲で死んだ人間のほうが、ライネルやヒノックスに殺された人間よりも多い。これは統計的に見ても明らかなことや。人間、不意打ちをされるのが一番苦手やからな。だから、最強の魔物はチュチュや。間違いあらへん。ヨツバ、あんたも逃げ足を鍛えるのはええけど、チュチュ相手だったら
なんということでしょう、その最強の魔物が目の前にいるではないか!
目の前のチュチュは大きかった。チュチュは大まかに大・中・小の三つのサイズに分類されるが、このチュチュは明らかに「大」のカテゴリーに入った。私は、大きいものならなんでも好きだが、この大きなチュチュだけは好きになれそうになかった。
なんとなく、声が私の口から出た。
「あ、あのー……こんばんは……」
当然のことながら、チュチュは無言だった。
私と魔物との間に、長い長い時間が流れたように感じられた。チュチュが木の上から降ってきてから、二年とちょっとくらいの時間が流れたように私には思えたが、実際にはほんの瞬き二回ほどの時間しか経っていない。
逃げる。単なる観念ではなく、身に沁みついた習慣として、私は真っ先にそう考えた。しかし、それはできそうになかった。マモノエキスの過剰服用によって引き起こされた猛烈な腹痛と下痢によって、私は極度に体力を失っていた。今すぐ駆け出しても、チュチュは飛び跳ねて私を押し潰すことだろう。その巨体に似合わず、奴らのジャンプ力は実に大したものなのだ。それに、「奇襲を受けた」という精神的な衝撃が私の四肢から力を奪っていた。ミツバ姉の言うとおり、人間というものは不意打ちに弱いのだ。
逃げることができないのならば、戦うしかない。私は奥歯を噛み締めた。いざ戦闘の覚悟さえしてしまえば、チュチュはさほど手強い相手ではないことを私は知っている。村のじいさんやばあさんでも、畑のクワや畑のフォークを駆使してチュチュを「駆除」している。チュチュの体はゲル状で柔らかく、どんな武器でも問題なく通用する。
「……よっしゃ、いっちょやったるわ」
戦おう。私は決心した。全身の神経が昂り、脳の働きが急速にクリアになるのを感じた。断固として立ち向かえば、きっと勝てるはずだ。
今この時ばかりは「逃走線」の哲学を放棄し、戦いへ身を投じよう! 幸い、私には武器がある。この旅に出る前、マリッタ馬宿でルピーを出してよく
「ない!?」
思わず私は叫んだ。背中には何もなかった。それはそうだ。食後、夜風を浴びて寛ぎつつ日記をつけていた私は、「やっぱりずっと背負ってると肩が凝るわ」と旅人の剣を外して地面に置いていたのだ。腹痛を起こした時、剣を持っていこうなどという考えはまったく起きなかった。
姉弟の中でも特に腕っぷしの強いイチヨウ姉がかつて言った言葉が、脳内に鳴り響いた。
「……武器は肌身離さず持っとくんやで……トイレの時でも持っとくんやで……でないと死ぬで……」
私は叫んだ。
「アカン!」
慌てている私に向かって、チュチュはじりじりと、まるで私をいたぶるかのように距離を詰めてきた。もう一メートルほどの距離にまで奴は迫っていた。奴の目つきは邪悪だった。私たち人間とは根本的に異なる世界に棲んでいる生き物であることが、その目つきからして明らかだった。
他に使えそうな武器はないか!? 絶体絶命のピンチに陥った私は、辺りを見回した。何でもいい、何か武器になりそうなものはないか!? 視線が高速であちこちへ動いた。落ちているのは、どんぐり、どんぐり、どんぐり……そして、木の枝。
「木の枝!」
木の枝は私の目に、あたかも伝説の剣であるかのように映った。それはちょうど私の足元に落ちていた。どうやらチュチュが木の上から降ってきた時、折れて一緒に落ちたもののようだった。長さも手ごろで、青々とした葉をつけているところから見ても強度は充分なようだった。私は素早くそれを手に取ると、間髪を入れずにチュチュへ飛び掛かった。
裂帛の気合いと共に私は
「いてまうど、コラぁ!」
次の瞬間、鈍い水音を立てて木の枝が奴の
「死ねや、死ねや!」
チュチュは殴られるがままになっていた。その目には何も映っていないようだったが、奴が敵の必死の抵抗によって気圧されているように私には思えた。事実、チュチュは殴られたことでやや縮んでいた。奴は少なからぬダメージを受けているようだった。
「勝てる!」
この時、私は絶対的な優位を確信していた。このままいけば勝てる! チュチュに勝てるぞ! 狂乱したように私は何度も何度も木の枝を振った。
いや、「何度も」というのは文章上の修辞によるもので、実際には二、三回ほどしかチュチュを殴れなかった。
「死ねや、死ねや! 死ね……やっ!?」
バキッという音を立てて、木の枝がその中ほどからポッキリと折れた。それはそうだ。所詮は木の枝である。ハイラル
ましてや、今までの人生において敵から逃げることを選択し続けてきた私である。どの程度の力加減をすれば折れることなく殴り続けることができるかなど、私は知らなかった。
もう、私の手には何もなかった。他に木の枝は落ちていなかった。チュチュは目玉だけを動かし、呆然として立ち尽くす私を見つめた。ひゅっ、という音が私の喉から漏れた。チュチュの眼光は鋭かった。私を刺し貫くような威圧感をその眼は持っていた。「だからニンゲンは嫌いです」と、そう言っているようだった。
明らかにチュチュは怒っていた。激怒しているチュチュに対して、今や私の方が圧倒的なまでの劣勢に立たされているのを理解した。理解したところで、何もできないのだが。
「何か、何かないか……!?」
私はまたあたりを見渡した。しかし何も落ちていない。あるのはどんぐりだけ。腹部がまた異音を立て、殺気の充満した空間に場違いなまでに滑稽に響いた。その音が、次に訪れるであろう事態を認識させた。チュチュの攻撃。私の死。チュチュから分泌される消化液によって溶かされる私の肉体……いや、私は死んだ後に溶かされるのではなく、生きたまま溶かされてしまうかもしれない。チュチュの体に圧し潰され、体内に取り込まれ、息ができずもがき苦しみながら消化される私……
そこまで考えた時、私は私の精神と思考が極度に混乱していくのを自覚した。突然世界が広くなり、月と星が手に取れるほど近くに見え、サトリ山の山頂が腹に刺さるほどに接近した。脳裏を様々なイメージが高速で駆け巡った。幼少期に慣れ親しんだ川の流れの穏やかなせせらぎ、母が夕食に呼ぶ声、日に焼けた肌をした野良着姿の父、姉たちの声、ハイラル草とガンバリダケとトリ肉を煮込んだスープの匂い、食後の焼きどんぐりの美味しそうな香り……
喉がカラカラに渇いている。零れ出た涙で視界が曖昧になっている。ふらふらとした動きで、私は地面に落ちているどんぐりを手に取った。一つを手に取り、もう二つをゆっくりと拾った。チュチュはなぜか私を攻撃しなかった。追い詰められた私が何をするのか、邪悪な好奇心を抱いて観察しているようだった。
私はチュチュにどんぐりを差し出した。喉からは掠れきった声しか出てこなかった。
「あの……これ、つまらないものですが……お召し上がりください……食後に火で炙って食べると美味しいですよ」
私がそう言い終えるや否や、チュチュは飛び
「だからチュチュは嫌いです」
そう言おうとしたが、口の中はチュチュのゼリー状の体で満たされていて、声は出なかった。チュチュの透明な体を透かして、夜空に月が輝いているのが見えた。小さい頃に、溜め池で溺れた時のことを私は思い出していた。あの時も今と同じように、水面が輝いて見えたっけ……
突然、何か黒い影が月を覆い隠した。黒い影は三日月のように鋭く細いものを持っていた。影が勢い良くそれを振るうと、チュチュは醜い破裂音を立てて爆発した。私は体を圧迫していた何かがなくなり、全身がチュチュの体液によってしとどに濡れるのを感じた。しかし、瞬きするほどの間に私の意識は現世から遠のいていった。
意識を失う前に、私の聴覚が声を捉えたような気がした。それは女性の綺麗な声だった。心底呆れたような調子を帯びているように私には感じられた。
「……チュチュ相手に命乞いする人間なんて初めて見たわ……しかもどんぐりって……このこともカルサー谷へ報告すべきかしら……? でも、あまりにもバカバカしくて誰も信じないかも……」
完全に精神が闇へと落ちる前に、私は「どうやら助かった」という実感と、「なにか漏らしていないだろうか」という危惧の念を抱いていた。
ありがたいことに、やがてそれらも暗黒へと溶けて消えていった。
☆
次の日の午前、私は揺れる馬車の中で情けない呻き声を漏らしていた。
「ぐおぉお……全身が……全身が痛い……死ぬほど痛い……」
コズミさんが言った。
「無理をしないでくださいヨツバさん! あと少しで平原外れの馬宿へ到着しますから!」
バナンナさんがコズミさんに続いて言った。
「そうですわヨツバさん。無理は禁物ですわ。馬宿に着いたら念のため医者を呼びましょう。湿布とかを貼ってもらって手当してもらえば、きっと良くなりますわ」
私は全身に痛みを覚えていた。徹夜で原稿を書き上げた時と酷似した痛みだった。しかし、その痛みの程度は数倍にも及んでいた。筋肉という筋肉、関節という関節、そのすべてが悲鳴を上げていた。不幸中の幸いというべきか、骨は一箇所も折れていなかったが、それでも痛いものは痛かった。
さっさと柔らかいベッドの上で休みたい。このままでは取材どころではない。私はコズミさんに声をかけた。
「すみません、今、どのあたりですか……?」
コズミさんは答えた。
「ちょうどダライト森林を抜けたところです! そろそろテスタ橋に差し掛かりますけど、急な坂道で揺れるかもしれません。注意してください!」
たしかに、ダライト森林からヒメガミ川にかけての道は急傾斜している。私はそのことを思うと憂鬱な気持ちになった。元気な時でもここを馬車で通過するのには体力が要るのに、全身打撲の今の状態で耐えきれるだろうか? いや、耐えきれないことはないだろうが、これ以上情けない声を上げるのは恥ずかしい。
気を紛らわせるために、私は昨晩のことを話し始めた。
「日記を書いていたら急に腹痛がして、用を足すために木陰へ行ったらチュチュが降ってきたのは朝お話ししたと思うんですけど……たぶん、腹痛がしたのはマモノエキスのせいじゃないかと……用量についてあまり考えずに飲み過ぎたのが原因ではないかと考えてるんです」
バナンナさんが口を開いた。
「本当に驚きましたわ。朝起きたらヨツバさんがいなくなってて、コズミさんと一緒に探したら木の下でぶっ倒れているんですもの。しかも、なぜか手にはどんぐりが握り締められていて……」
いかにも気の毒そうな表情を浮かべてそのように言うバナンナさんに対して、私は乾いた笑みを返した。
「ど、どんぐりですか、そりゃなんででしょうね……はは、ハハハ……」
コズミさんが申し訳なさをいっぱいに含んだ声で言った。
「本当にごめんなさい、ヨツバさん。私、ヨツバさんが襲われているのに気付かずに寝入ってしまって。私、一度寝ちゃうとなかなか目を覚まさないんですよね……」
バナンナさんもやや俯きがちに言った。
「私も迂闊でしたわ。旅の間は決して気を抜いてはいけないと家族の者には言われておりましたのに、馬車の中で惰眠を貪っておりました。その……なんですか、謎の影ですか? それが助けてくれなかったらと思うと……」
私は二人に言った。
「いえいえ、お二人ともどうかそのようなことをおっしゃらないでください……お二人はまったく悪くないです……剣を持たずに馬車から離れた私が悪かったんです……」
それにしても、あの謎の黒い影はいったいなんだったのだろうか? あれが来なければ私は確実に死んでいた。あるいは、あの影は単に私の幻覚によるものだったのかもしれないが、そうであるなら誰がチュチュを倒したのであろうか?
もしかすると……ふと、ある予感めいたものが私の頭の片隅に閃いた。私は横目でバナンナさんを見た。彼女は馬車の外へ目をやっていた。美しい横顔だった。
いや、あえて考えまい。私はその予感めいたものを無視することにした。
その時、車輪が小石を踏んだのか、馬車が大きく上下に揺れた。私は奇声をあげた。
「あうーるっ!?」
コズミさんが叫ぶように言った。
「ああっ! ごめんなさい!」
バナンナさんが心配そうに言った。
「相当痛むようですわね……マモノエキスをお飲みになるのはいかがかしら?」
私は息も絶え絶えに答えた。
「い、いえ……マモノエキスはやめておきます……」
バナンナさんの提案は非常に魅力的だったが、それでも私はマモノエキスを飲む気にはならなかった。飲めば間違いなく腹を壊すだろう。今度こそ内臓が溶けてなくなってしまうかもしれない。
いつの間にか馬車が傾いているのが分かった。どうやら坂道に差しかかったようだった。
それに伴って、私の思考力も力を取り戻した。私はノキクスの本について考えていた。
ノキクスは「逃げること」の重要性を説いていたが、彼がまた「決して逃げてはならないもの」についても述べていたことを私は思い出した。
ノキクスは言った。「敵からは逃げても良い。だが、痛みからは逃げてはならない」
なぜなら「痛みは肉体的にとっては悪そのものであるが、精神にとっては善をもたらすことがあるから」である。それはたしかにそうだ。今回のこの件にしても私の肉体は酷く痛めつけられたが、この痛みによって悲惨な経験が貴重な教訓へと転化したのだから、一概に痛みを悪と言うことはできない。
むしろ、痛みもなくあの出来事を切り抜けたのだったら、私は今後も同じようなミスを犯すに決まっている。剣を手放したこと、用を足す時に油断したこと、チュチュ相手になら武器があれば勝てると思い込んだこと……
そのいずれもが命取りの要因になるところだったが、幸運なことに私は生き延びた。少し痛い目をみなければ人間は、
人生は一つの
逃げ続けてばかりでは平和には辿り着けないのか? いつでも逃げられるということが平和の前提条件ではあっても、逃げること自体は平和を意味しないのか? こう考えると、私の平和に関する考え方も今後は修正しなければならないようだ。尤も、今は体が痛すぎてこれ以上何も考えることができないが……
馭者台から私を気遣う優しい声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか、ヨツバさん。まだ生きてますか? 死んでませんよね?」
私は答えた。
「……大丈夫ですよ。死んでいません。私の
いかん、ここで「
「なんですって!?
バナンナさんも慌てたように言った。
「コズミさん、急いで下さいまし! あまり思弁的でなさそうな顔をしているヨツバさんが
ピシッと鞭を入れる音が響いてきた。馬車はぐんと増速して坂道を駆け下り始めた。大地震に見舞われているかのように馬車が揺れた。私は狼狽した。そんなに急いでもらわなくても、私はまだ死にはしない。
「い、いえ、バナンナさん……『
私はまたもや奇声を上げたが、コズミさんたちは馬車を速く走らせることに必死なようで、馬車の振動によってもたらされる痛みに悶える私に気付くことはなかった。
ここに至って私は観念した。この痛みを甘んじて受け容れよう。呪文を唱えるように、私はブツブツと独り言を漏らし始めた。
「耐えるんや……この痛みに耐えれば、俺は新たな試練の証を手に入れることになる……試練の証を集めたらキレーなねーちゃんたちのいる世界へ行けるんや……」
もはや自分自身、何を言っているのか分からなかった。だいいち、試練の証ってなんだ?
いつの間にか、頭の中ではミイラたちが舞い踊っていた。ミイラたちは見るも無惨なほどに痩せ細っており、なぜか布をかけて顔を隠していた。「ホイホイ」だの「ホリャホリャ」だのと奇怪な掛け声を発しつつ、ミイラたちは軽やかなステップを刻んでいた。
ミイラたちの顔の布には、涙目の図柄が施されていた。私はそれをどこかで見たことがあった。ミイラたちの踊りが三回繰り返された頃、ようやく私はそれが何であるか気が付いた。これはシーカー族の印だ。涙目の紋様だ。
それまで踊り狂っていたミイラたちが一斉に動きを止め、私を見つめた。そして、いかにも荘厳な口調で言った。
「来たれ……カカリコ村へ……汝は彼の地にて秘密を得るであろう……」
「秘密とは何ですか?」
そう私が問いかけると、ミイラたちは困ったように互いに顔を見合わせた。しばらく沈黙した後、彼らはまた口を開いた。
「来たれ……カカリコ村へ……秘密は無数の糸を引いているであろう……なんかこう、ねばねばとした糸を……」
そうだった。私はカカリコ村へ、納豆の秘密を探りに行かねばならなかったのだ。私が謎に包まれた納豆について取材して記事にしなければ、ハイラル一の総合情報雑誌『ウワサのミツバちゃん』のページに穴が開くことになる。
使命感が、私を現実世界へと引き戻した。
「書くんや、記事を……仕事をするんや……!」
馬車は高速で走り続けた。私は痛みに苦悶し続けた。傷に気を遣われてゆっくりと進むより、こちらの方がむしろありがたかった。
時刻は正午を回り、午後に入っていた。ヒメガミ川にかかるテスタ橋を渡り、一時間ほど走った後、ようやく馬車は平原外れの馬宿へ辿り着いた。その頃、私は体力を使い果たして虫の息になっていた。着くや否や、コズミさんとバナンナさんは馬車から飛び降りて馬宿の入口へと走り、中へ向かって大きな声で叫んだ。
「急患です! 急患です!」
「怪我人がおりますの! 手を貸してくださいまし!」
二人の必死な声を聞いて、馬宿の中から店員たちが出てきた。
「なんだって、急患!?」
「大変だ、はやくベッドへ運べ!」
こういう時のために馬宿協会は普段からしっかりと備えているようで、店員たちはどこかから担架を持ってきた。素早く私を担架に載せると、店員たちは馬宿のベッドに運んで私の体を横たえさせた。それは一晩四十ルピーもする、ふかふかベッドだった。
えらい
「酷い全身打撲だ。何にやられたんだ?」
「大きなチュチュに圧し潰されたんです」
「え、チュチュに……? 今時チュチュにやられる人がいるとは……」
「いずれにせよ、はやく手当てをしなければ……」
「この薬はどうだ? 以前、宿泊客から手に入れた薬なんだが。酷い臭いと色だが効き目がある」
「それ、マモノエキスじゃないですか! ダメですよ、この人はそれを飲んでお腹を壊したんですから……」
「じゃあ、今から新しい薬を作ろうか? 料理鍋は火にかけられているし、ちょうどマックストカゲも買ったばかりだ……」
「しかし薬が煮えるまで時間がかかるな。それまでどうしようか……」
突然、野太い声が会話の波の中へ割って入った。
「オラに任せるゴロ!」
私はその声の主の方へ、努力して頭を向け、目の焦点を合わせた。そこには岩の塊があった。岩の塊は生き物のように動いていた。それがゴロン族であることに気が付くのに数秒かかった。
ゴロン族は胸をドンと叩き、自信満々という顔つきをして言った。
「オラ、故郷のゴロンシティでボイコンのじいさんからゴロン式マッサージの講習を受けたゴロ! ゴロン式マッサージはすごいゴロ、なんでも治しちまうんだゴロ! このマッサージなら、ゼン・シンダ・ボク? とかいうのにもきっと効くゴロ!」
私は全身の血の気が引くのを感じた。ボイコンのじいさんのマッサージだと!? あれは以前、ゴロンシティを訪れた時に受けたことがある。たしかに、山道を登って疲れ果てた体にはよく効いたが……
あれは……ものすごく痛い。死ぬほど痛いのだ!
店員たちが口々に叫んだ。
「それはいい! 早くそのゴロン式マッサージとやらを彼にやってくれ!」
「善は急げだ!」
「はやくはやく!」
そんなものをされたら、今度こそ痛みで死んでしまう!
やめてくれと声を上げる前に、周囲の人々はすでにそのゴロン族を私のもとに導いていた。次の瞬間、ゴロン族が私をベッドから軽々と持ち上げ、すぐさま固い床に下ろしてうつ伏せにして寝かせた。床の木材の匂いが妙に私の鼻腔をくすぐった。
ゴロン族は真剣な声で言った。
「じゃあ早速始めるゴロ! 少し痛むかもしれないけど、頑張って耐えるゴロ!」
なんで木材がこんなに香るのか? ああ、最近床を張り替えたんだな。私が現実逃避をした瞬間、ゴロン族が強烈な指圧を私の背中に加えた。
凄まじい痛みが全身を駆け巡り、私は数秒後に脆くも気絶した。
続きを書こう書こうと思っているうちに二年が経っていました……本当にお待たせいたしました。二年ぶりだと作品の雰囲気を思い出すだけで一苦労です。
ちなみに逃走線の哲学についてはドゥルーズを参照してください。ハイラルにドゥルーズがいるのか知らんけど……
次回もどうぞお楽しみに!
※加筆修正しました。(2023/06/16/金)