時計塔の…   作:しこ

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第1話

人には誰しも前世があると聞いた。そして、私も例に漏れず前世があるようで、曖昧模糊とした前世の記憶が脳内をたゆたっている。

病を治すために訪れた都市で悪夢に囚われ、獣を狩る。そんなフィクション。鮮明でないが大筋はあっていると思う。信じ難いがそれが私の前世らしい。

「まあ、どうでもいいか」

私は鏡の前で独りごちた。私は私だ。それ以上でもそれ以下でもない。

鏡の向こうで目があった。吸い込まれる様な灰色の瞳だった。鏡面に映る白い肌と灰色の髪。向こうにいる私はぎこちなく微笑んでいる。不細工な笑顔だ。歪みすぎている。あまりにも見るに耐えなくて目を逸らした。

 

髪を後ろで束ねた。部屋着を脱ぎ、飾り気のない黒い下着の上から外出用の服を着た。くすんだ革のブーツを履いた。玄関から振り返ると、明かりの消えたダイニングが見えた。私が消したから当然か。

「行ってきます」

そう呟いた言葉に反応する人はいない。

 

燦然と陽光が降り注ぐ喧騒に満ち満ちた倫敦の朝。人々の群れは忙しく往来し、道路を走る車は絶えず排気ガスを吐き出している。この街に何か決まった臭いも音もない。すべて雑多に混在していて、原型が何かすら掴めない。ただ、それらは波のように押し寄せ、自分を激しく揺さぶるのだ。

(人が多い)

フードをより深く被った。けれど、酔ったような感覚はまだ残っている。ただ、いくらかマシにはなった。しかし、いつ見てもあの光景は慣れそうにない。そう思いながら、足早にバス停に向かった。

それほど距離は無く、ほどなくして着いた。バス停には十人そこそこの人らが二列になって並んでいた。そこで見覚えのある後ろ姿が目に入った。何時もなら見ることの無い珍しい人。後頭部から一房の灰色とも銀色ともとれる髪を垂らした、細身の女性だった。

(あ…)

彼女の周りだけ空間が歪んで見えた。まるでこの世界に拒絶されているような。彼女の独特な雰囲気や鼻孔を擽る形容し難い香りがそうさせているのかも知れない。これ等は彼女であることのわかりやすい証左であり、だからこそ彼女を見間違えることがないのだ。

彼女は緩慢に振り返った。その仕草さえも神秘的に見えてしまうのは、整いすぎた容姿のせいなのだろう。表情筋の働きが乏しい相貌は、まるで仮面が貼り付けられているようだった。

息を呑んだ。絶世の美貌を目の当たりにしたから、否。ただただ、自分は彼女の事が苦手なのだ。正確には彼女が纏うモノが。冷たくて暗くて恐ろしい何か。彼等の様なモノに近しいのだと思う。それが恐ろしくて堪らない。

暫く無言で立っていれば、彼女の口角が微かに上がったのが見えた。色付きのいい唇は振動し、それから開かれた。

「おはよう」

「おはようございます。マリアさん」

香りが漂ってきた。この匂いを彼女は【月の香】と言っていた。自分は月の匂いなど嗅いだことも、ましてや行ったこともない。だけど、その名前は自然とふに落ちたのを覚えている。

目があった。彼女は微笑んでいた。慌てて逸らした視線は虚空を居抜き、覚束無い眼差しは暫く遊んでから最前列の方に向かった。

けたたましく鳴らされたエンジン音が目の前の道路を何度も通り過ぎている。道路は隙間を見つける方が難しいくらい車で埋め尽くされていた。

一本足で立つ古びた時計の針は五分を過ぎていて、それはバスが遅れていることを示唆している。

秋前に吹き付ける風は薄寒くて、その風から逃れるように顎を引いた。しかし、依然として風は止みそうにない。

 

ある事件がキッカケで師匠はひどく疲労していた。食事も風呂もろくにせず、家に帰れば真っ直ぐソファに突っ伏す生活が数日続いてた。そんな日が続き、日が経ち、いくらか余裕が見え始めた頃の朝。師匠の長い髪を梳っていると、師匠は唐突に喋り出した。

彼女、マリアという人物を知らない人はこの時計塔に居ないと、居たらそいつは情報に疎い阿呆だと師匠は言った。最初は何を言っているのか、真意がまるで掴めなかったが、シワを深めた横顔からは、悪い意味が多分に含まれている事柄なのは想像に難くなかった。

師匠が重々しく囁いた言葉が脳裏にこびり付いている。

「レディ、あれは正真正銘の化け物だ。近づかない方がいい」

眉を顰めながら師匠は呟くようにそう言った。何度考えてもよくわからなかった自分は、物事の真意を理解せず有耶無耶なままに頷いた。

師匠は短く息を吐いた。呆れていたのか、それともこれから波の様に訪れるであろう厄介事に対してだろうか。草臥れた背中は、その両方を物語っているように見えた。

「馬鹿なグレイがわかるわけ無いだろ!イッヒヒヒヒ!」

懐に隠すように携帯した(アッド)が喧しい笑い声を上げながら自己主張を始めた。自分が馬鹿なのは紛れも無い事実だが、今この匣に言われるのは何故だか癪に触った。懐から笑い声の主を取り出して、上下に何度も何度も揺さぶった。(アッド)は間抜けで情けない声を上げながら「やめてくれ」と降参の意を叫んでいたが、それは無視した。暫く続けていれば、完全に伸びた(アッド)を見て、腕を止めた。

ずっと考えて、少しずつ噛み砕いて、漸く師匠が言いたい事のほんの少しを理解して、恐る恐る口にした。

「師匠の言った化け物は、拙にはあまりよくわかりません。ですが、師匠が思っている程あの人が恐ろしい人には思えないです。苦手ですが…」

そう言って、彼女を思い出して背筋に寒いものが走った。師匠は「そうか」と短く言って、ソファーの上に横になった。折角、梳いた髪は紺色の地の上で川のように広がっていた。

ソファーの背もたれ越しから手が見えて、それは玄関の方を指していた。帰ってもいいということなのだろう。

「お休みなさい」

朝にあまりにも不似合いの言葉を投げ掛けて、ダイニングへ続く扉を閉めた。

玄関を出た。外は白んで見えるほど明るく、まだ春を感じさせる花の香りが鼻孔を擽った。六月。夏はもう訪れている。

 

空は曇天に覆われていた。鈍色の空は今にも泣き出しそうで、微かな雨の臭いが鼻孔を擽っている。ありふれた日常は、直に憂鬱さを帯びた露に濡れるのだ。

私は左手に黒い傘を携えていた。家から持ってきたものではなく、恰幅の良い花屋の女店主に押し付けられた物だ。傘を凝視すれば形が少し歪で、開いてみれば芯が曲がっていた。

彼女は返さなくていいと言っていた。これを見るにどうやら廃棄に困った物らしい。良く言えばお下がり、悪く言えば廃品を受け取ったようだ。ごみの日は何時だったか。フラットの壁に貼り出されていた、古びたポスターを思い出しながら、私は靴裏で石畳の地面を叩いた。

 

時計の分針が二十近く動いた頃に、ポツポツと冷たい雨が降り始めた。パラパラとさした傘は鳴き始め、そして絶えず鳴き続けている。地面は暗く彩られ、それ以外は淘汰されていた。

スラーを訪れてみたものの、特に用などなかった。退屈だったから。ここに来ればそれが和らぐような気がして足を運んだが、宛ては外れたようだ。こんな雨の日だ。今日好き好んで外出する人は少ないだろう。現に外を歩く人は疎らにしか見えない。

近くで車輪が軋む音と水を弾く音が聞こえた。そして、それは遠ざかる事なく、甲高い音を立てて止まった。

宛が外れたというのは、取消そう。今日は実に充実した一日になるようだ。

「やあ、我が友人よ」

目の前の金髪の少女は、馬車の窓枠から顔を覗かせながら、私を見下ろしている。私を映す蒼い透き通った瞳は、心底楽しそうに細められていた。

「何か用でも?」

聞くまでもなかったが、一応礼儀として聞いた。彼女はかぶりを振って、色付きと形の良い唇を動かした。

「いや、得には。独特な雰囲気を感じて、それでつい。ところで今から新作を食べに行くんだが一緒にどうだい」

断る理由が皆無だった。私は肯定の意を示した。馬車の扉が開かれた。少女が霞むような光が目に入った。傘で遮り、目をしばたたかせ、傘を取り払った。そして、私は乗り込んだ。

 

「まさかここまでとは…」

金髪碧眼の少女、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは恍惚に浸っていた。彼女の頬は緩みきっていて、この時ばかりは年相応の顔を見せている。それをなしたのがケーキなのだから、可愛らしい。何時もこうであればもっと可愛げがあるのに。口の悪さ、尊大な態度、サディスト気質さえどうにかすれば、気品のある令嬢なのだが、それが矯正されることはないのだろう。

「ん?食べないのかい?」

一口大のタルトに手を付けったきり、紅茶以外何も口にしない私に向けて言ったのだろう。決して、菓子が口に合わなかった訳ではないという旨を慌てて弁明した。ただ…、それに続く言葉を聞いて、少女は目を丸くして、それからくつくつと笑い始めた。

「舌がびっくりした、のか。いや何、笑ってなどいないよ。ほんの少し可愛らしいと思ったのは事実だが」

ライネスは紅茶で唇を濡らして、フォークは食べかけのケーキに向かった。何のケーキだったか。確かベリーのケーキだった気がする。断面から赤か赤紫かの色が見えたからそうなのだろう。

「そんなに見つめられると食べ辛いんだが…」

「すまない」

苦笑するライネスに短く言って、私は琥珀の水面に視線を落とした。微かに揺れる湖面から白い湯気が立っていて、それが投影された私の顔を有耶無耶に歪ませていた。カップを手に取れば、震動は水面に伝播し、何を映しているのかわからなくなった。

他愛ない談笑はそれほど多くはなかった。私は会話が得意ではない。それに、ライネスはライネスで敢えて核心を残しているかのような含みのある言い方をするのだから。私でなければ話は弾んだのかも知れないが、私であれば続くものも続かない。

──カランカラン

唐突に音が聞こえた。聞き覚えのあるような、特段希少ではない音色。フォークが皿を叩く音でも、カップがソーサーに当たる音でもない。ならばこれは。

「ところで話は大きく逸れるんだが──」

──カランカラン

ライネスの言葉に被せるように、また鳴った。反響するこの音色は一体何なのか。あと少しでわかるような気がするのに、そのあと少しが果てしなく遠い。

「どうかしたのか?」

──カランカラン

今までよりも強く、それは鳴り響いた。幾重にも共鳴した()の音は、周りの音を掻き消した。

ライネスは端正な顔に驚愕の色を浮かべている。口が忙しく動いているが、鐘の音しか聞こえない。彼女の慌てている様子は、新鮮だった。しかし、その様子も次第に見えなくなっていく。

夕から夜になるように、緩慢に視界は黒に侵食されていった。瞼の裏のような世界は、いつ終わるのだろうか。目を何度瞬かせても場面は、変わることはない。

暗がりの世界はいつ終わるのだろうか。この先に待っているのは終点か或いは虚無か。道理から逸脱した現象だ。そのどちらともあり得る。打開の術を持たない私は、これから訪れるであろう事象を甘受しなければならないのだ。

また、鐘が鳴った。それが何かしらの合図だったのだろう。視界が少しずつ白んでいった。そして、完全に闇が消し去った後、瞳に映ったのは先程と比べ物にならないくらい明るい夜だった。

「ここは」

─どこだ。鼻を通る臭いが続く筈の言葉を断ち切った。鼻につく獣の臭い。嫌というほど嗅いだ嗅ぎなれない臭い。黒い獣が見えた。おぞましい形相の醜い獣だった。吐き気がするほどに歪んでいて、それでいて懐かしい。

必要でないものだ。道理を外れた醜いものだ。害なすものだ。だからこそ殺さなければならない。私はその為にあるのだから。

抜刀した。耳心地のよい擦る音を聞き届け、月下にそれは晒された。月明かりに照らされた刀身は妖しげに煌めいている。銘は──。かつて、棄てられた武器のなれの果て。

さあ。

私は構えた。

狂乱と血に塗れた獣狩りが始まる。

始まりの合図はいつも大地を蹴る音だった。

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