時計塔の… 作:しこ
ふと疑問が浮上する。肉を貫き裂いた感触はあった。なのに、どうして目の前の獣は息絶えないのだ。何故、その汚らしい眼光を私
に向ける。
手を抜いた。そんなことは断じてない。己の得物がなまくら。断じてない。ならば、自ずと必然性を孕んだ答えは現れる。
自然と口角が吊り上がるのを自認した。前世という曖昧模糊な存在が拙の耳許で静かに、ざわめくように囁いている。目の前のソレは脅威になりうる、と。
全身が栗毛だった。柄を握る手を翻し、虚空を薙いだ。見事なまでに鮮やかな緋色は、雫となって夜空に飛散する。刃の突先を獣に向け、今一度駆け出す。
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懐に匣と共に忍ばせていた小さな鐘が鳴り始めた。それはいつぞやの昼に不思議な彼女から半ば強引に贈られた古びた小鐘だった。師匠曰く、何らかの魔術的要素が含まれた代物らしいが、それ以上はわからないらしい。師匠がわからないことを拙がわかるはずもなく、今も正体不明のままだ。
そして、平時一度も鳴ることのなかった鐘はどうして今、このタイミングで鳴っているのだろうか。
「─────!!!」
獣の絶叫が耳を劈いた。その声に聞き覚えがあった。現在進行形で対峙している獣のものだ。一体何が。言葉が溢れ、いち早く状況を確認しようと瞑っていた目を開いた。
「アハハハハハハハハハハハハ!!」
見覚えのある後ろ姿。それは不気味なほどに耳触りの悪い絶叫を発していた。幽光が照らす横顔は不細工に歪んでいて、白い歯をむき出しにして狂ったように笑っている。いや、狂ったようにではなく彼女は本当に狂っているのだろう。何度も腕を打ち付けるように振り下ろしている。ぐちゅりぐちゅりと肉を断ち切り、練潰すような気色の悪い音は、静かな夜のせいでやけに鮮明で生々しく耳に届いた。微かに聞こえる獣のうめき声がそこで何が行われているかを容易く想起させた。
「グレイ!今すぐ逃げろ!」
「わ、わかった」
切羽詰まった低い声音はいつにも増して焦っているのが伝わって、呆然としていた頭が少しだけ冷静になった。克明に位置情報を認識する。師匠たちとの距離は百を越えている。師匠の周りには腕利きの魔術師が二人もいるから、通常なら彼の身の安全は保証されているようなものだ。しかし、マリアに対してその保証は不鮮明だった。寧ろ、ここにいる戦力を総動員したとしても勝てるビジョンが思い浮かばない。
彼らに合流しようと息を押し殺し、忍び足で歩く。視線はマリアに注ぎ、一挙手一投足に注視する。彼女の関心が獣に向かってるのを確認して、一気に駆け抜けた。
不意に横目に映った星星とは違う輝きが、彼女の周りを取り囲むように浮遊している。その浮遊物は蝶のような形をしていた。ひらりひらりと宙を揺蕩い、突如として発光を始めた。それが誰によるものか、魔術に疎い自分には検討も付かないが、マリアを意図的に狙っているのは理解できた。もっとも、彼女の手によって大半が消滅し、実害はなかったようだが。
「師匠!どうしてマリアさんがここに?!」
「レディ!それはわからん!」
騒ぎに乗じて、合流できたは良いものの、異常事態にその場は騒然としていた。師匠でさえも冷静さを欠けていた。
「……全滅だ」
重苦しい声色が耳に届いた。老人、オルロックの呟きで、師匠は眉間の皺を一つ増やすことになった。
先の蝶は彼によるものだったようだ。しかし、先の行為はオルロックの独断で行われたようで、師匠は翁に対して小言を述べていた。
この中で最も優れた魔術師はオルロックその人なのだろう。そして、彼が軽くあしらわれたという事実は、並大抵の力量ではマリアに傷一つ負わすことすら叶わない事を示唆していた。
「一体何ですの?!あれは!」
その一部始終を見守っていたルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは声を荒げた。少なくともここにいる全ての人が思っていたことを代弁する一言だった。
この中で彼女を知る存在は自分か師匠のどちらかで、しかし自分は彼女の出自を一切といっていいほど知らない。知っているのは、数年前に彼女の両親が他界したということだけ。自分も彼女のそれに興味が湧いた。
師匠を横目で盗み見て、視線がぶつかった。師匠は心底面倒くさそうな顔をして説明を拒んでいる様子だった。けれど、自分の視線を皮切りに次々と視線は師匠に集まり、渋々口を開き始める。
「表舞台から忽然と姿を消した古都ヤーナム。その貴族、カインハーストの末裔かつ狩人一派である一人、その事件の唯一の生き証人とまで言えば分かるだろう」
情勢、魔術に疎い拙でも一度は目に、耳にしたことのある単語が羅列された。それは一時期、数多の新聞の一面を飾った大きな出来事で、その中心人物がマリア。その事実を聞いて、自分は目を見開くことしかできなかった。
それを聞いた面々は三者三様の表情を浮かべていた。あるものは驚愕し、あるものは平然と、あるものは恐怖を浮かべていた。
「ええ、理解しましたわ。しかし、それならどうして彼女がここに?招待状を配られた人は全員揃ったと屋敷の者たちはそう言っておりましたわ」
「そんなこと私が知りたいくらいだ。ただ、少なくとも何らかの関係性はあるはずだ。そうでもないと、辺鄙な土地の山奥、ましてや結界が張られている場所にいることに説明がつかない」
一つだけ心当たりがあった。マリアに渡されたあの小さな鐘。それは今尚、鳴りつづけている。しかし、それを指摘するものは誰一人いない。誰も触れようとしないのだからこの音は拙にしか聞こえていないという仮説は容易に立った。
「あ、あの!」
全員の視線が拙に集まった。様々な意思のこもった視線を向けられ、居心地が悪くなった。師匠は驚いているようだ。拙が自発的に、ましてや逼迫した戦況の中で声をあげるとは思っていなかったのだろう。
「どうした。何かわかったことでもあったのか」
「この鐘がずっと……」
懐から件の鐘を取りだし、師匠はそれを凝視する。
「これはあれが君に送ったものだったはずだ。前にも言った通り、魔術的な物ではあるがそれを除けばなんの変哲もない古鐘。それが何か?」
「鳴っているんです」
「鳴る?……まさかそれが鳴っていると言いたいのか?」
拙は頷き、古鐘を差し出した。師匠は受け取ったそれを細部にまで目を凝らし、それから過去と同じ解答に至った。
「多少の魔術的要素はあれど、それを除けば古びて鳴ることも無くなった、鐘だったものだ。レディ、君を疑うわけではないが……。まあいい、それが鳴っていようが鳴っていまいが今はあれの対処を練るべきだ」
師匠は目を閉じ、一つ息を吐いた。
「レディ、いけるか」
その問いに息を呑む。冗談かと、そう思いたかった。けれど、師匠の目はそうは言っていなかった。渋る拙を諭すように訥々と言葉を紡ぐ。
「今はあの獣が気を引いている。しかし、それも長くないだろう。息絶えたとき、あの狂人は誰を標的にする?この中にいる誰かかも知れない。最悪の場合、山を降り人里へ強襲する可能性だってある。一%でも可能性があるのなら、その芽を摘んでおくに越したことはない。わかるだろう」
端から見ても、彼女は理性を失っている。師匠は狂人と称したがまさにその通りだと、共感する。至極最もで、拙は頷くことしかできなかった。
「すまない」
師匠が何に謝罪したか理解できた。拒否権のない拙を哀れんでそう言っているのだろう。誰よりも実利を求めるくせに甘く、そして不器用な人だ。それが師匠の弱点でもあり、美徳でもある。少なくとも拙はその弱点を好ましく思っている。
師匠は、彼等にこの場から離れるように促した。彼等は怪訝そうな表情を浮かべ、渋々従っているようだった。遠目からルヴィアが師匠に何か言っているようだ。しかし、その概要は到底聞こえやしない。
深く、長く、息を吸い、吐いた。彼等が離れたのを確認し、鎌へと変貌したアッドを携え、囁く。
「Gray……Rave……Crave ……Deprave」
そこで、拙の意識は暗転した。
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事の顛末は、不機嫌なライネス・エルメロイ・アーチゾルテから聞かされた。そして、想定外の乱入者。件のマリアから、感想のようなものを聞かされた拙は、一体どうすればよかったのだろうか。訳がわからなかった。
彼女を理解する日が訪れるのはまだ先だと、改めて認識した。
「……そうだな。あれは、そう。太陽だ!太陽のようだった。眩く、どこか懐かしい。あれはとても貴重な体験だった。ありがとう」
「……え」
「では、またね。お姫様を迎えに行かないといけないんだ」