時計塔の… 作:しこ
私はその事象に目を見開くことしかできなかった。友人が淡く光り始めたかと思えば、忽然と姿を消したのだ。あまりにも突然のことだった。反応、ましてや対処などできるはずがなかった。
狼狽え、思考がままならない。ただ、呆然と空気を食むばかり。
何もかもが不可解で理解不能。魔術の残滓は希薄で捉えきれない。これ以上、この現象に対するアプローチを持たない私からすればお手上げという訳だ。
椅子に深く腰掛ける。座り心地は、まあ悪くはない。それなりに良いものを使っているのだろう。背もたれとクッションに見たことのないロゴが入っている。しかし、家にある物の方が遥かに良いものだ。
ぬるくなった紅茶に口つけ、食べかけのケーキを口に放る。
「義兄は……彼処か」
この現象に解答を出せるかもしれない数少ない男は、今は私の指示で倫教を離れている。とても間が悪い。
卓上に鎮座するベルを鳴らす。それからカップの中で中途半端に蟠る液体を仰った。無くなったのを確認してから、ソーサーに置いた。間も無く、呼び鈴を聞きつけたウエイトレスが現れた。
「紅茶と茶菓子を。そうだな……二人分貰おうか」
彼女は「畏まりました」と礼をして部屋から出ていった。
帰ってこれば僥倖。帰ってこなければ───。
「──考えたくもないな」
か細い音が漏れた。あまりにも小さすぎて詳細は聞き取れなかった。
程無くして、注文した品々が届いた。一人しかいない部屋。空いた椅子。薄く怪訝な表情を浮かべながらも追及してくることはなかった。恭しい一礼とともに閉じられた扉。それを確認して、一つ息を吐いた。
紅茶を口に含み、ゆっくりと嚥下する。どこか味気ないそれを味わいながら、物憂げな表情で意味もなく窓の外に視線を向ける。まるで、夫の帰りを待つ妻のようではないか。そう思ってしまえば、くつくつと笑いがこみあげてきた。一頻り笑った後、考えを巡らせる。真実にたどり着かない考察は実を結ばないが、無意味ではないだろう。そう思い込ませる。
「これも美味いな」
「そうだろう。素朴な味が存外紅茶に合うん……だ……?」
耳を疑った。私の耳は幻聴を聞き取るようになってしまったのか。恐るおそる目を開ければ、暗い目を輝かせながら年相応にクッキーを頬張る友人、マリアがいた。聞きたいことが山ほどあるが、思考が硬直し上手く言葉を紡げない。
そんな私を見て首を傾げる彼女は、呑気に皿に盛りつけられた菓子を次々口へ運んでいた。
「ん。食わないのか?」
素っ頓狂なことを言うマリアを目の前に、私は何か叫びたい衝動に駆られた。それを何とか呑み込み、目元を揉み、彼女を見据えた。
それに気付いたのか、マリアは茶菓子をつまむ手を止めた。口の中に残るクッキーを一噛み、二噛みして無理矢理、紅茶で流し込んでいる。不愉快そうに顔を顰めて、それから視線がぶつかった。
「聞かせてくれるんだろう?何があったか」
「勿論。私にわかることなら何でも」
マリアは鷹揚に頷いた。「ただ」そんな言葉を残し、一度、紅茶で唇を湿らせる。
「君が理解できるかどうか、私にはわからない。……ああ、貶しているつもりは無い。仕方の無い事だ」
彼女は、左脚を上に足を組み、鳩尾の前で手を組んだ。どこか格式めいた所作に、私は目を奪われた。
「君は啓蒙を有していないようだから」
ほんの少し、微かに滲む寂寥を孕んだ声色を私は聞き流さなかった。
彼女がいう啓蒙とは、一体何物なのか。少なくとも私が想像し、理解しているそれと乖離しているのだろう。果たしてそれは何を意味し、どのような価値を持っているのか。
「では、語ろうか」
薄い笑みをたたえ、踊るように紡がれる言葉。青白い肌がほんのり赤みを帯びているのが印象的に映った。普段の彼女からは到底想像できない口数。その姿はまるで酒に酔っているかのように見えた。しかし、マリアが酒で酔うことはないらしい。彼女はもっと別のもので酔うのだという。
それが何なのか。はたまた虚言なのか。知る由もない。
私はただ、彼女の語りに耳を傾けるばかりである。そして、聞けば聞くほど理解した。私は友人である彼女について全くと言っていいほど無知であったと。
▲
汽車が揺れる。気が抜ける蒸気音とけたたましい駆動音を劈かせ、ロンドンの駅を出発した。車窓から覗く景色は目まぐるしく変わり、ほんの少し目を離せばそこはもう郊外だった。
じっと車窓を覗いていたら、噛み殺した笑い声が自分の耳に入った。
「物珍しいだろう。しかし、いいのかい?時間は有限だ。聞きたいことがあるのだろう?」
「は、はい」
温かい視線は居心地が悪く、視線を足元へ向けた。磨いた靴は曇りない光沢を放っている。
聞きたいこと。自分がこの汽車に乗った理由であった。
「せ、拙は……マリアさんについて知りたいですっ!」
「ふふ、そうかい。寧ろ、私が知りたいくらいだが、ほかでもない君の頼みだ。全力は尽くさせてもらうよ。……うん、美味い。君ももう一つどうだい?」
「い、いただきます」
「そうするといい」
ライネスに差し出された箱の中身、焦げ茶色の外装に中の赤い区切り。それに収まる精緻で優美なチョコレートを一粒つまみ、口に放る。瞬間、鼻を抜ける芳醇な香り。ラム酒を用いたのだろう。味に深みが出ると同時に、酸味と苦味。そして、最後に少し顔を出す仄かな甘み。複雑に絡み合う味覚の螺旋。形容こそし難いがそれは間違いなく美味だった。
「気に入ってもらえたようで何よりだ。それにしても……いやはや、何から話せばよいのか。マリアの何を知りたいによるが、少なくとも内面的なモノではないのだろう?」
味覚の暴力の衝撃から脱した自分は、その問いかけに首肯した。纏う雰囲気こそ好ましくないものだが、内面は善によっている。付き合いは然程長くないが、ある程度の人となりは知っているつもりだ。
自分は魔術と彼女についてまるで知らない。マリア自身、身の内を語ろうとしない。ふと思い付いた風に、脈絡のない断片的な文節を語るのみ。早い話、彼女が置かれている立場、状況、そして正体を知りたのだ。
「なら、話は早い。ときに、君はあの義兄からマリアについて何か忠告を受けなかったかい?」
何時ぞやの昼頃に師匠は彼女を化け物と呼び、それから関わるなと続けていた。思い当たる節があり、自分は食い気味に頷いた。それを見たライネスはやはり、と小さく零した。
「義兄がマリアを何と称したか知る限りではないが、間違いなく言えることは魔術に疎い君が関わるには少し荷が重い相手ということだ。何、関係を否定しているわけではないよ。客観的な意見として述べているに過ぎない。まあ、魔術に精通している私たちでさえも手を焼くのだがね」
ライネスはやれやれといった風に眉間を揉んだ。数拍の間ができた。自分は二人の似通った忠言の意味を推察していた。
ライネスは甘味をつまみ、目を細めて上機嫌に唸った。
「彼女は時計塔、いや世界中の魔術師にとって最も注視しなければならない存在だ。空ければ何かが起きる、そんな代物だ」
ライネスは語り始める。
マリアの故郷、ヤーナムは独自に発展を遂げた医療の街。謳い文句はどんな病でも完治する。その言葉に嘘偽りはなく、その高い技術を求め、多くの人々が集う場所だ。多種多様な人々が訪れた。患者、医者、そして魔術師。ヤーナムは、神秘にも深く精通していて、街独自の進化を遂げていた。故に、時計塔とは古くから関係があったという。しかし、その実、他所者に排他的な街であった。これまで門徒を完全に閉ざすということは一度もなかった。しかし今回、完全に閉ざされ、痕跡すら残すことなくヤーナムという街は消失した。
「昨日まであったはずの街が忽然と消えるなんて誰が予想できたか。街の中に親族を残した人もいた。その中には名門と呼ばれるような青い血の血縁がいたようだ。その家が手勢を集めて探索を行い、勿論徒労に終わった。そして、何度目かの探索の最中、月が雲に陰る夜、何もなくなった荒野に佇む彼女、マリアと接触した」
その後、マリアは彼らと共に時計塔へ向かい、そこで多くの情報を共有した。そこで一番の疑問は、何故ヤーナムは消えたのか。
「獣狩りの夜が始まった、とマリアはそう言った」
「……獣狩りの夜?」
聞き覚えのない単語に、自分は首を傾げた。獣狩りと云うのだから、狩猟であるのは明確だろう。しかし、ハンティングとは、日中に行われるものだ。それなのに、夜。想像している現象と大きく外れた意味を有しているのは、疎い自分でも理解できた。
「マリア曰く、良く無い事が起きるらしい。それ以上、彼女は語らなかった。兎にも角にも、それが原因でヤーナムは姿を隠し、それを外界に伝える為のメッセンジャーの役割をマリアに託した。彼女は、あの街の王族の遠い血縁だから、その役に不足はなかった」
汽車は進む。車窓から見える光景は緑々とした広葉樹林を映し終え、美しく咲く青い花の花畑を映し始めた。
「後は君も知る通りだ。他にも私たちと親しい理由なんかもあるが些末なことだろう。……さて、この話はこれで終わりだ。君にはまだ話さないといけない事があったのを失念していた」
ライネスは懐中時計を一瞥し、グラスに蟠るワインを飲み干し、そう締め括った。
何故彼女と汽車乗り、郊外へ向かっているのか。社交会の背景を教えて貰うのだ。
自分は頷いた。
「少々巻きでいく。思いの外話し込んでしまったようだ。まあ、要点を掴んでいればそう難しい話ではない」
「が、がんばります」
ライネスは微笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ。
「黄金姫、白銀姫」とは、そんな出だしから難解な講義が始まった。