時計塔の… 作:しこ
独自解釈?です。間違いあると思うんですけどお手柔らかにお願いします。
『美しさ』とは。
そう問われたとき、私はひどく困惑した。
月。夜明けの空。赤く輝く宝石。
思い浮かぶものはいくつもあった。
しかし、目の前の老女が望んでいるのは、そうした答えではないのだろう。
深い皺に縁取られた双眸が、じっとこちらを見据えていた。好奇心とも期待ともつかない、奇妙な熱を湛えた眼差し。長い年月を経て尚、何かを追い求め続ける者の目だった。
不意に脳裏へ浮かんだ。
あれほど美しいものを、私はほかに知らなかった。
▲▲▲
月明かりが差し込んでいた。
岩窟の天井には大きな裂け目があり、その向こうに星空が覗いている。水を含んだ岩肌は鈍く光り、足元には浅い水が広がっていた。
どこからか、女の啜り泣く声が聞こえる。
私は水を蹴って走った。
冷たい飛沫がブーツの中へ入り込んだが、構ってはいられない。岩窟の奥にうずくまる娘を、どうにか慰めてやりたかった。
近づくにつれ、その姿が明らかになっていく。
娘は、ひどく大きかった。
私の背丈など容易に超える巨体。青白い肌に、幾重にも折り重なった奇妙な肢体。人の姿とは似ても似つかぬ、異形の娘だった。
けれど、私は恐ろしいとは思わなかった。
月光を浴びたその身体は、淡く透き通るように輝いていた。水面に映る星々が揺れるたび、娘の輪郭まで揺らいで見えた。
なんと美しいのだろう。
しばらくの間、私は声をかけることさえ忘れていた。
やがて我に返り、娘を呼んだ。
一度、二度と声をかけたが、反応は無かった。
ただ、啜り泣いている。
何を失い、何を嘆いているのか。
私には分からなかった。
岩窟には、絶え間なく滴る水音と娘の悲しげな声だけが響いていた。
「──星の娘」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
老女の手が止まる。
持ち上げかけたティーカップが宙に留まり、やがて、かすかな音を立ててソーサーへ戻された。
「ほう」
その一言に、これまでとは違う響きがあった。
「星の娘、かい」
老女は私を見つめ、それから、ゆっくりと口元を緩めた。
「面白いねえ。実に面白い」
何がそれほど面白かったのか、私には分からなかった。
しかし、この答えはどうやら彼女のお気に召したらしかった。
目の前の老女は、恩人あり、友人であり、油断出来ない相手でもあった。
「あんた、社交会に興味はないかい?」
「……社交会」
「そうさ。貴族連中が着飾って、互いの腹を探り合う場所だよ」
随分と身も蓋もない説明だった。
老女はそんな私の顔を見て、愉快そうに笑う。
「まあ、たまには面白いものも見られる」
彼女はそこで言葉を切った。
「とびきり美しいものがね」
その声には覚えがあった。
美しさについて問われたときと、まるで同じだった。
私は二つ返事で誘いに乗った。
老女はしたり顔で笑った。
その深い皺の奥で、どのような思惑が巡っていたのか。私の知るところではない。
ただ、いつにも増して機嫌が良さそうだった事だけは確かだった。
▲▲▲
舞踏会というものに縁がなかった。そもそも礼服を着る機会がなかった。
鏡の前で袖口を整え、襟元に指を差し込んでみる。黒い礼服に白いシャツ、首元にはきっちりとタイが結ばれていた。
どうにも窮屈だ。
「似合っているじゃないか」
背後から声がした。振り返れば、老女が扉に凭れ掛かっていた。
その世辞を何とも言えない顔で返した。
「少なくとも、いつもの格好よりはずっといい」
「あれは動きやすいから」
「社交会で獣を追い回すつもりかい?」
それも良い。そう思った。
老女は私の襟元へ目をやると、曲がっていたタイを少し直した。
「今夜はくれぐれも、お行儀よくするんだよ」
「はい」
「本当かねえ」
疑わしげな目を向けられた。
それほど信用がないのだろうか。
「ああ、それと」
部屋を出ようとした老女が、ふと思い直したように振り返った。
「今夜、あんたが美しいと思うものを見つけても、むやみに口にするんじゃないよ」
「なぜです?」
「魔術師というのはね、自分の欲しいものを他人が持っていると知れば、それだけで腹を立てる生き物なのさ」
ひどい言い草だった。しかし、否定はできなかった。
私は頷いた。
「そうしておくれ」
老女はそれを見て、満足そうに頷いた。
「まあ、退屈だけはしないだろうさ」
▲▲▲
双貌塔イゼルマ。
美を追い求める魔術師たちの一族。
黄金と白銀。
相反する二つの美を、魔術の果てに完成させようとする者たち。
馬車の中でライネスから聞かされた話は、壮大であると同時にひどく不可解なものだった。
美しいものを造る。
それ自体は、別段珍しい願望ではない。
彫刻家も、画家も、詩人も、似たようなことをしている。
しかし、彼らの目指すものは少々違うらしい。
「人間の身体を、魔術の到達点にするんだよ」
ライネスは窓の外を眺めながら言った。
「肉体を整え、血を選び、世代を重ねる。美という概念そのものに、形を与えようというわけさ」
「それは、大変そうですね」
「……君のの感想はいつも妙なところに落ち着くねえ」
「そうでしょうか」
「普通は、傲慢だとか、冒涜だとか、そういう感想を抱くものだよ」
私は少し考えた。
「ですが、美しくありたいと思うのは、悪いことではないのでは」
「ほう?」
「努力することも、誰かに認められたいと思うことも、別におかしなことではないと思います」
「ならば、そのために人の一生を費やすことは?」
今度は、すぐに答えられなかった。
ライネスはそれを見て、小さく笑った。
「ま、今夜は実物を見るといい」
馬車が緩やかに速度を落とした。
窓の外に、二つの塔が見えてきた。
▲▲▲
絢爛、という言葉がある。
金銀を惜しみなく使った装飾、天井から垂れる硝子細工のシャンデリア、磨き抜かれた大理石。そこに燭台の火が幾重にも映り込み、広間は夜半であることを忘れさせるほど明るかった。
弦楽器の調べに合わせ、色とりどりのドレスが翻る。
踊る者。談笑する者。壁際で葡萄酒を傾けながら、人々の行き交う様子を眺める者。
給仕たちは銀盆を手に客人の間をすり抜け、立ち止まった婦人の耳元では、小粒の宝石が蝋燭の光を受けて揺れていた。
この場に招かれた者たちの多くは、時計塔に籍を置く魔術師である。
笑顔の裏にあるのは家門の思惑か、それとも研究成果を巡る打算か。親しげに杯を掲げている者たちも、ひとたび研究や派閥の利害が絡めば、同じ顔でいられるとは限らない。
今宵の主催者であるイゼルマにとっても、この夜は特別なものだった。
美の探求に心血を注いできた一族が、その研鑽の果てに辿り着いた成果を披露する。
黄金姫と白銀姫。
彼女たちの姿を一目見ようと、名のある魔術師たちがこの地を訪れているのである。
自分は、フードを深くおろして用心深く周囲を観察する。トリムマウのトンデモ発言と比べれば、周りの様子は安心して観察できる。
「…………」
目深に被ったフードの下から、人々の様子をそっと窺う。
賑やかな場所は苦手だ。
人が嫌いというわけではない。けれど、誰もが当たり前のように笑みを交わし、次々と言葉を重ねていくこの場所では、どう振る舞えばよいのか分からなくなる。
手持ち無沙汰になった指が、外套の裾を弄んでいた。
曰く、見の姿勢をとっていたライネスは、口元にグラスを運んだ。所作一つ一つに慣れを感じた。
こうした場所での立ち居振る舞いは、彼女にとってごく自然なものなのだろう。時折こちらへ向けられる視線にも動じず、むしろ誰が自分を見ているのか確かめる余裕さえある。
自分には到底真似できそうになかった。
外界と布一枚で遮られたフードの中で、道中に語られた話を回顧する。
黄金姫と白銀姫。
人の身に究極の美を宿すため、イゼルマが代々その研究を重ねてきたという二人の娘。
自分の顔を隠すフードに触れた。
美しくなることを望む人はいる。
けれど、自分の意思とは関係なく、誰かの理想とする姿へ変えられてしまうとしたら。
それは果たして、幸福なことなのだろうか。
「……グレイ?」
「あ、いえ」
顔を上げると、ライネスがこちらを見ていた。
「考え事かい?」
自分は曖昧に首を振った。
ライネスは何か言いかけたが、結局、それ以上は尋ねなかった。代わりに、手にしたグラスを軽く揺らす。
「まあ、今から難しい顔をしていても仕方ない。義兄上がいれば、さぞ長ったらしい講義でも始めてくれたんだろうが」
師の姿を思い浮かべた。
眉間に皺を寄せ、仏頂面で魔術の講釈を垂れる姿は、容易に想像できる。
きっとライネスは、それを聞きながらいつものように師をからかうのだろう。
そんなことを考えていると、不意に鼻先を何かが掠めた。
自分は顔を上げた。
葡萄酒の甘さ。焼き菓子の香ばしさ。婦人たちが纏う香水の、少し鼻につくような濃厚な香り。蝋燭の煤と、磨かれた床に塗られた蝋の匂い。
幾つもの香りが入り混じる広間の空気に、ほんの微かに、別のものが混じっていた。
もう一度、息を吸う。
間違いない。
彼女の匂いがした。
それを言葉で説明するのは難しい。
冷たく澄んだ夜の空気に似ている。けれど、冬の冷気とも、雨上がりの石畳とも違う。
故郷の墓地で夜を明かしたとき、白い墓石に降り積もっていた月明かりにも、彼らに似た何かにも。
よく知った彼女のものだ。
「……あ」
思わず声が漏れた。自分は人々の間へ目を凝らした。
踊る男女の向こう。銀盆を手にした給仕が横切り、そのさらに奥。見覚えのある姿があった。
黒い礼服を着た人物が、老女と歩いている。
普段とは随分と違う装いだった。
髪も丁寧に結われ、襟元には一点の乱れもない。いつもの姿を知る者なら、少しばかり面食らうかもしれない。それでも、すぐ分かった。
「……マリアさん」
ライネスが振り向いた。
「今、何か言ったかい?」
自分は広間の一角へ目を向けたまま、そちらを示した。
「……あちらに」
「どれ」
ライネスが人波の向こうを覗き込む。
ほどなくして、その顔に愉快そうな笑みが浮かんだ。
「おやおやこれは珍しい。まさか、あのマリアがねえ」
しばらくその姿を眺めていたライネスは、とうとう堪えきれなくなったらしい。くつくつと喉を鳴らした。
「見たまえ、グレイ。あの格好。どこぞの貴族の令息と言われても、私は驚かないよ」
自分は返事に迷った。
確かによく似合っている。
それは間違いないのだが、普段のマリアを思い浮かべると、何だか不思議な心持ちがした。
「……お似合いです」
「だろう?いや、面白い。本人はどんなつもりで来たんだろうね」
ライネスは改めて、遠くにいるマリアへ目を向けた。その隣に立つ老女にも、ちらりと視線を移す。やがて口元に、何かを企むときの笑みが浮かんだ。