――丑御前。
源頼光の口から出てきたその少女の名は、とても久しい物だった。数年前、恩がある寺を救ったときに俺に懐いてくれた雷神の娘。迷い込んだ妖怪達に平等に優しさを与える彼女との思い出は今も覚えているし、俺の中でも大切な物ばっかりだ――だが、おかしい。どうして、源頼光からあの娘の名前が?
もう聞く事がないだろうと思っていた名前を聞かされた俺は、動揺しながらも、返事を返すために口を開いた。
「……あぁ、覚えているぞ。だが、なんでオマエがあの娘を――」
なんであの娘を知っている? そう言葉を続けようとしたが、その言葉は急に抱きついてきた目の前の彼女に遮られた。凄まじい力で抱きつかれ、体が悲鳴上げなにやら骨が軋むような音が奥底から聞こえてくる。
離そうと抵抗してみるが人間に化けてるとはいえ鬼の俺より力が強いのか、引き剥がすことは出来ず、無駄な時間が過ぎていく。
「覚えて……いるのですね」
引き剥がすことに集中している俺だったが、頼光の泣く声を聞いてそっちに意識を持っていかれた。その言葉と共に弱まる力。俺に任せるように体を委ねてきた彼女を今度は支えながら、小さく零れていく彼女の言葉に耳を傾けた。
「よかった。貴方は忘れていなかったんですね。私を、覚えててくれていたのですね」
「私をって、源頼光……オマエは丑御前なのか?」
改めて彼女の事を見る。
よく見て気づく。彼女には、確かに当時の面影があったのだ。艶のある黒髪に、少し垂れ目の優しそうな眼差し。記憶の中の彼女と殆ど一致するその特徴に、彼女が丑御前だという答えを出す。
――――でも、一つ言わせて欲しい。これは気づかなくても無理はないだろう。だって、あの優しかった彼女が、妖怪絶対殺すウーマンになってるなんて分かるわけがない。
「なあ丑御前……いや、今は頼光か?」
「どちらの名前でも構いません、貴方の呼びやすい名前でお願いします」
「なら、丑御前。なんで最初に会った時に、自分の事を伝えてくれなかったんだ?」
いや、伝えようとしてくれたのか? 一応付いてきてくれと言っていた気がするし……でも仕方ないだろう、最強の神秘殺しに付いてこいと言われて、付いていく馬鹿なんかいないし。
「…………あの時は、その、ですね。急に貴方の気配がしたので気が動転してしまいまして」
いや、それもおかしい。あの時の俺は変化したし、気配なんか漏れる訳がない……と、思いたい。本当に漏れていたのならば、俺の変化って意味が無い物になってしまう――というか、本当に意味が無いかもしれない、だって渡辺綱にもバレていたし。
「あの……どうして落ち込んでいるのですか?」
「いや、ちょっと自分の変化の腕が低すぎて悲しくなっただけだ……なあ丑御前、俺の気配ってのはどんな物なんだ?」
「えっと、とても暖かくて、私の奥底が震えるような感じです」
どんな気配なんだよそれは……暖かいのはよく分からないが、奥底が震えるようなっていうのは、多分火之迦具土神の心臓のせいだろう。雷神の娘で、神性を持っている彼女だからこそそんな事を感じられるんだろうが、それだと綱が謎だよな、アイツの気配はただの人間の物だったし。
「ありがとな、なんとなくだけど分かった。それで、丑御前。俺に何か用があるのか?」
「あ、忘れていました。あの出来ればでいいのですが、私達の仲間になってくれませんか?」
「悪いがそれは無理だ」
丑御前の頼みに俺はそう即答した。
俺には既に大江山に沢山の仲間がいる。彼奴らを裏切る事なんか出来ないし、俺も人間の世界で生きようとは思わない。彼女の仲間になってしまえば、数多くの同胞を殺すことになってしまうし、京の都の面倒くさい貴族達の相手をしなければならなくなる。まあ、それがなくても仲間になることなんかないがな……。
「……そうですか、なら、一週間だけでもいいので時間をくれませんか?」
「まぁ、それぐらいならいいが……」
一週間ぐらいなら山を空けても問題ないだろう。普段から山の仲間達は好き勝手にどっかに遊びに行ってるし、偶には俺も出ても良いよな。久しぶりに会った丑御前の頼みだし、断るのは悪いし。
俺の答えに満足したのか、一回断られて悲しそうな顔をした彼女は一転して満面の笑みを浮かべた。
「なら、早く京へ向かいましょう! さぁさぁ!」
テンションが爆上がりしているのか、俺の事を引っ張りながら屋敷の外に連れて行こうとする丑御前。そういえば昔、寺でこんな事あったなぁ、とそんな事を思いながら俺は屋敷の外に出て行った。
夜半の都にヒョーヒョーと気味の悪い、鳥のような声が響いている。
空は雲に包まれて、雷鳴が轟き雲の影には巨大な獣の姿が浮かんでいる。その獣の尾は
「楽しめそうだ」
そんな言葉を残して、空に霧散し消えていった。