第10話
人間なんてものは非常に脆く、弱い生き物だ。
たったひとつのきっかけで心が折れたりもするし、そのまた逆も然り。
精神面において多幸感を感じるものには自制心を保てなくなるし、その脆さを拗らせた人間が非行に走ることもザラにある。
人間が、スマホや煙草を使いすぎるとダメなのに使ってしまうのと原理は同じ。
誰しも心は脆いものであり、心変わりをすることも当たり前なのだ。
俺にとっては激動にも程がある4月は終わりが近付き、桜散りゆく5月が始まろうとしている4月下旬。
花粉症が鬱陶しいことこの上ない4月よりは5月の方がマシである。
何せ花粉症を抑えるために薬をキメる必要がない。
お医者様処方のお薬は花粉症には抜群の効果を発揮するが、代償として睡眠欲を増幅させる。
授業と体調、どっちを取るのかってなった時俺は迷いなく体調を取った。
これも一種の精神面の脆さだ。
俺の心は硝子である。
間違いない。
さて、話は変わるが皆は五月病という言葉を知っているだろうか。
五月病という言葉を分かりやすく単刀直入に言ってしまうと、それは所謂鬱だ。
新しい環境に置かれ、疲れが取れなくなり、無気力や不安感が拭えなくなる症状のことを五月病と人は呼ぶ。
そんな言葉を昨日おやっさんから聞いた時、ふと思った。
『俺って五月病になる要素あるんじゃね?』
ってな。
ゴールデンウィークが近付く素晴らしい4月下旬、俺は追い詰められていた。
その理由は、ゴールデンウィーク後に行われる中間テスト。
転校生という要素は小テストで低空飛行をしていいという免罪符にはなりゃせずに、今日も今日とてアホの未来と共に珍回答を連発していると、担任の先生に大きなため息を吐かれ、職員室に呼び出されたのだ。
そして、職員室に未来と共に行き、先生の前に2人で立つとまたしても担任のため息が聴こえる。
ため息を何度も何度もすることで、俺達に何かを訴えているのだろうか。
「ため息をすると幸せが逃げますぜ、センセ」
「誰のせいでこうなってると思ってるのかな!?」
「俺達?」
「私達!」
「分かっているようで結構だよ!」
それは良かった。
しかし、生徒の不出来ってのはそこまで先生の胃に来るものなのかね。
センセをしたことない俺にはよく分からない。
「今日の授業も面白かったね、翔大!」
「それは未来だけだろ?てか、居眠りしてるお前に授業楽しいとか言われたくない、訴訟」
「でへへ‥‥‥夢の中でライブしてる夢見ちゃったんだ♪」
そうか。
俺としてはそのままライブの中にいて欲しいところだったのだが、そんなことを言ってしまった日には未来のズッ友である所の誰かさんが飛び込んでくることだろうからやめておこう。
それよりも、だ。
「何で俺等って呼び出されてんの?」
「さあ?分かんないよ」
「キミたちの成績に対してだよ!!」
何と。
まさかテストの成績についてだったのか。
俺はてっきり未来と俺が不意に話し出す悪癖について言われてるものだとばかり思っていたのだが。
そうか、成績か‥‥‥と先程帰ってきた化学の小テストの点数を反芻していると、職員室の椅子に座っていた先生が俺と未来を交互に見て、顔を顰める。
「初瀬君、キミは兎に角数学と英語だ。基礎的なものに穴があるってよく先生が言ってるぞ?」
「いや、だって方程式難しいですもん‥‥‥英語も難しいし、和訳とかマジで無理」
「君の場合は先ず問題を考えようとする関心意欲に問題があると言われているんだがね‥‥‥キミ、この前の英語の和訳で即断即答で『アイ・ドント・ノー』と答えたらしいじゃないか」
そういうこともあった気がする。
しかし、分からないものは分からないのだ。
関心意欲に関してはムラがあるが、目先の問題に立ち向かおうとするだけのやる気はあるはずなんだがな。
だって赤点やだもん。
「‥‥‥じゃあ、聞くけど『春が来た』を英訳するとどうなる?」
「カモン‥‥‥スプリング?」
勘弁してくれ。
英語とか自分の興味のある英単語しか学びたくないんだ。
ついぞ最近Preciousとgrainを学んだばかりなんだぞ?学んだ言葉すらカタコトになってしまう俺に英語の勉強しろとか、死ねと言ってるようなもんだ。
未来を見る。
すると、未来はお腹を抑えてヒーヒー笑ってやがった。
そのやわっこい頬を抓り倒してやろうかと画策したが、この状況でそんな愚行をする程の胆力もないため諦めた。
「取り敢えず、はい。この前の数学の小テスト」
ため息を再度吐かれた担任が差し出した数学の小テストを見る。
中一のおさらいとも称されたそのテストの点数は10点中2点。
正負の計算に俺の持てる精神力の全てを注いだからか、正負の計算以外の問題は全て間違えている。
これが俺の実力だ。
理数系にはてんで理解のない俺の、全てである。
「成程、要は20点だ。後10点‥‥‥10点分の勉強をすれば良いってことですね?」
「どこをどう考えたらそんな発想に至るんだ‥‥‥」
テスト限定でボジティブになる俺のメンタルがそう言っている。
自分を信じなければ、未来は描けないんだ。
おーけー、自分を信じろ。
メンタルくらい前向きでいたい。
「因みに春日は10点中5点だったぞ」
「50点!?」
「でへへ、赤点回避だ!」
「その代わり、国語のテストは赤点だけどな」
「えっ」
その瞬間、未来の笑みは硬直する。
ざまあねえな、未来。
結局俺と未来の成績は変わらない───どっこいどっこいなのだ。
「わっはっは!!」
「キミが笑う事じゃないだろ!?」
ぐうの音も出ない正論である。
所謂団栗の背比べってやつだ。
それに、奴は俺とは違いアイドルを頑張っている。
拘束される時間が多い分、俺とはそもそもの立っている土俵が違うのだ。
いくら友人とはいえ、馬鹿にしすぎた。
自らの成績と共に大いに反省する所存である。
「兎に角、今月末の中間テスト、全教科赤点のボーダー30点以上は取れるように勉強しなさい。今のままじゃ2人とも危ないからね?」
「はい」
「はーい」
出来る限り真面目に取り繕い、取り敢えずはお開きとなった放課後説教タイム。
まさか最上と打ち解けるという奇跡的展開から数日も経たないうちの急転直下っぷりにため息を吐きながら職員室を出る。
「終わったねー、お説教!」
此奴は何故説教されていたのにこんなにも笑顔なのだろうか。
普通に考えたらもう少し事態の深刻性に気が付くはずなのだが。
楽観的なのは構わないが度が過ぎるのも困りものだとは思う。
何事もほどほどが肝要なのさ。
「お前さんはもう少し自分の成績について考えた方が良いと思うんだがな‥‥‥」
「そうかな?」
そういうものだ。
他人のライブに感動するのも構わないが、このまま成績不良にでもなってみろ。
自身のソロライブがパーになる可能性だってあるんだからな?
「ええっ!?それは困るよ翔大!!」
「なら少しは勉強にも力入れとけ。お前の場合色んな仲間がいるだろう。時には力を借りて、壁を乗り越えるのもありだぜ」
特に未来には最上っていう頼れる仲間がいるのだ。
成績優秀で通っている最上の力さえあれば未来は十二分に赤点回避が出来るはずだと思うんだがな。
「でも勉強って面倒だよ、翔大はそう思わない?」
「勉強が嫌ってか?」
「寧ろ好きな人がいるのか聴きたいよ───翔大ってもしかして勉強好き?」
「ないです」
「だよねー」
だって珍回答ばっか連発してるもん、と階段をジャンプ1番5段飛ばしで下りていく未来。
運動神経がなまじ良いだけあって、こういうのは得意なのだろうか。
とんだお転婆少女である。
「で、お前さんはこれからレッスンか?」
「うん!いーっぱい、いーっぱい練習しなきゃねー」
「良い心がけだ」
そんな話をしながら、俺と未来は着々と階段を下りていく。
そして、1階まで降りきったところで俺と未来は1人の少女に出会うこととなる。
「遅いわよ、未来」
「でへへ、ごめん静香ちゃん‥‥‥ちょっと成績のことで翔大と一緒に怒られちゃって」
「‥‥‥全く、普段から勉強していればそこまで困る範囲じゃないでしょう」
最上静香。
俺と未来の間柄を友人と形容するのだとしたら、恐らく此奴もギリギリ友人と言える仲にあるであろう、黒髪ロングの美少女。
外見からは想像できぬ胸に秘めた熱き闘志と、アイドルに対しての愚直ぶりに関しては計り知れない物を持っていると思われる、女の子だ。
「‥‥‥初瀬君も、転校して早々テストで大変なのは分かるけど屋上でうつつを抜かす暇があるならテスト勉強をした方が賢明よ」
「へへっ、すんませんね最上サン。どうしても俺の頭が数学を受け入れてくれなくて‥‥‥」
「本当に分かってるのかな‥‥‥」
と、まあ初っ端から辛辣な言葉をかけられている俺氏なワケだが別に辛くはない。
普段─────屋上で会話している時から辛辣な言葉を投げかけられるのには慣れている。
ドMではないぞ、そこは俺を信じろ。
「そ、そんなことよりもそろそろ行こう!レッスンしなきゃ!」
このままの状況でいることに不利を感じたのだろうか、未来は最上の両肩に手を置いて校舎に向けて誘導する。
ファインプレーだが、その聡さを少しでも勉強に使えないもんかね。
「‥‥‥兎に角、勉強はしっかりすること」
「分かってら」
センセイにも何度も言われていることだ。
何度も言われていることをやらないほど阿呆でもあるまい。
「それと」
最後に最上は取り残された俺の方を振り向いて、少しだけ手を振る。
その控えめな様は少し照れくさそうに視線を1度逸らした最上の顔と非常にマッチしていて───
「‥‥‥また明日、初瀬君」
今の気持ち?
そりゃあれだ。
最高ゥ!とでも言わせてもらおうかね。
※
それからのことを事細かに頭で纏める道理はないと言えよう。
こちとら赤点を進んで取りたがるような男でもあるまい。
ワケの分からん教科書なりワークなりを解いてみたのだが一向に事態は好調に向かわなかった。
「‥‥‥」
人間、何かを継続しようとするならば何かしらの成果は欲しいものだ。
例えば、勉強をする事に少しずつ応用ができるようになったり。
模擬試験で、少しずつ点数が伸びていったり。
そんな感じに、やり直すごとに一歩前進したと思える何かが必要だと感じている。
しかし、俺には数学の課題を継続して進歩したというものが一つもないのだ。
一朝一夕の理がまかり通るほど天才ではないのは俺とて理解している。
しかしこのままでは、折角のやる気が霧散してしまうだろう。
ここは、大型連休が始まる前に現状を打開する必要があると感じていた。
「というワケで、だ。俺としてはお前さんに打開策をご教授いただきたいのだが」
「何が『というワケ』よ‥‥‥」
後日、昼休み。
最上を尋ねて屋上へと向かい、案の定そこにいた最上がダンスを終えるまで待ち続けタイミングを見計らい、かねてより聴きたかったことをストレートに協力を煽ってみる。
しかし、感触は悪く最上が困惑の表情を浮かべる。
唐突にも程がある話題提起に難があったか。
どちらにせよ、初回からつまずいたのは確かである。
「いや、なんだ‥‥‥勉強のやる気をなくしそうでな」
「昨日今日で?」
「進歩が見えないもんでな」
「それはちょっと堪え性が無さすぎじゃないかな‥‥‥」
や、もう本当にぐうの音も出ない。
しかし、こうなってしまった以上俺のやる気が下降線を辿り続けることになるであろうことも事実。
ここは、早いうちに何とかしようと行動した俺を褒めて欲しいね。
テスト勉強すらままならない状況をずっと続けるワケにはいかない。
俺とて、危機感やら焦燥感だって一入に持っている。
懇願し、今回の件に対しての誠意を見せる必要があるのだろう。
「頼む」
「嫌。ここで手を貸したらテスト勉強の意味がないから」
「そこを何とか頼む!俺にはお前が必要なんだよ!」
「いッ‥‥‥言い方!」
「言い方!?」
お願い───懇願の仕方が不味かったのか。
頬を少しだけ朱に染めて、俺を睨みつける最上。
いや、本当になんなんだコイツ。
「‥‥‥そもそも、進歩が見えないって言うけれどたった1日で苦手教科が何とかなる訳がないでしょう?」
「繰り返し問題を解いても内容が分からないのは致命的な退歩だぞ」
「それは初瀬君の主観でしょう。大勢の人は、たったひとつの問題を完璧にする為に複数回の努力をするものなの」
む。
なかなか言うではないか。
しかし、最上の言っていることもド正論でありいつものように言い返すことが出来ない。
学力の差という見えない壁が俺の減らず口を防いでいるのか、反抗する為の言葉が浮かんで来ないのだ。
「地道な努力こそテスト勉強のコツよ。それすらも出来ないなら、初瀬君はこの先勉強のみならず色んなことで躓く。テスト勉強は頭を鍛える為だけのものじゃないの」
最後に、ド正論をかまされ俺の心に宿る火は完全に霧散する。
今回ばかりは最上の言うことが全面的に正しい。
堪え性もなければ、協力を煽るのも早過ぎた。
全て、俺の不手際が招いたことにも関わらず最初から他人の力を借りようとしたのだ。
実に情けない男だ、俺という人間は。
「そうさな‥‥‥少し早とちりが過ぎたかもしれん」
「本当よ、勉強なんて一日一善。なんでもすいすい進められたら、毎日努力している人の立つ瀬がないでしょう」
「ぐうの音も出ませんわ、あっはっは」
まあ、あーだこーだ言われたが結局のところ俺に足りなかったのは地道な努力だったワケだ。
それが分かっただけでも充分である。
空元気にも等しい笑い声を上げて、最上を見る。
すると、先程まで直立不動で説教をしていた最上が再度イヤホンをかけ直し、後ろを向く。
その先には、やはり空が広がっており雲こそあるものの青空が限りなく広がっている。
転校してから変わることのないこの多幸感溢れる景色に少しだけ心を奪われていると、不意に最上が何かを呟いた。
「‥‥‥ちゃんと努力して、それでも駄目なら協力はするから」
「え?」
何か言ったか。
「と、兎に角!簡単に諦めることは止めること。分かった?」
「わ、分かったよ‥‥‥」
けど、心が折れることがあるかもしれない。
継続をするためには、目に見える努力が必要だと思ってたクソ野郎だ。
お前のお陰で立ち直ることは出来たが不安なものは不安だし、折れてしまう可能性も無きにしも非ずだろう。
だから、聴きたいんだ。
「本当にダメになりそうだったら、お前を頼っても良いかな?」
「‥‥‥そもそも、協力しないなんて一言も言ってないでしょう」
言ってないな。
だが、安心してくれ。所謂言質ってのを取っただけだからな。
「そっか、手伝ってくれるのか」
「ええ───尤も、ちゃんと勉強していたらの話だけれど」
「やりますよ‥‥‥赤点絶対嫌だからやるに決まってますよ」
「どうだか、少なくともそれは昨日職員室に呼び出されてた成績不良者の言うことじゃないわね」
「上げて落とそうとすんの止めてくれませんかね、泣くよ俺?」
そこから先、昼休みが終わるまで会話らしい会話はなかったが万策尽きた時の救助を最上がしてくれるってだけで俺のぐらついていた心は随分とおぼついたように感じた。
バックに最上がいる、友人が居てくれるってのはここまで落ち着くものだったのかね。
あかん、癖になる。
友達ってのも、良いもんだなと思った瞬間である。