どさり、と音がする。
北の不死院が作られてから、彼がそこに閉じ込められてからの時間は彼の記憶を摩耗させるには十分なものだった。
自分が何者だったのかも朧げにしか思い出せない。
外部からの刺激のない生活は思考力さえも奪い去り、彼は壊れかけの木偶人形のような緩慢な動作でそちらを見た。
牢獄も長い年月の経過によって朽ち、天井は大きな穴が空いている。
音の出所はその穴から落ちてきた死体のようだ。
再びゆっくりと上を見れば鎧をきた騎士がこちらを覗き込んでいる。
見ず知らずの男だ。くたびれた自分を助ける理由がわからない。彼は回らない頭で考える。
落ちてきた死体には鍵がついている。
この牢獄の鍵だろう。
ここでただ朽ちて行くのだと思っていた。
しかし唐突に訪れた来訪者に何を見ただろう。
ゆっくりと手は鍵に向かう。
指先が触れ、冷たい金属の感触が彼に伝わる。
その鍵を彼は──しっかりと掴んだ。
──運命が動き出した。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
巨大なデーモンが断末魔をあげて倒れる。
戦い方は体が知っていた。
枯れ木のような腕に力が溢れ、自分でも驚くほどに体が動いた。
武器を取り、進めば、先程の騎士が血を流し座り込んでいるのが見えた。
騎士は私に使命を託し倒れた。
こんな私に何を見たのか、やけに満足そうな最期だったように思う。
──それを見て私は羨ましいと思った。
私にはもうそれがないのに、この騎士はそれを持っていた。
満ち足りた最期など誰もが望み、そして何よりも得難いものだろう。
ただ朽ちていくだけのはずだった自分がどういうわけか今こうしてここにいる。
何故あの牢獄から出る気になったのかもわからない。
私には関係ないことだ。別に永遠に牢獄にいてもいいと思っていた。
だが託された。きっと彼の何よりも大事な物を。
借り物でもいい、それに縋ってみよう。そう思った。
♦︎
どこか安心できる場所。そんなことを最初に思った。
そこは祭祀場というらしく、一人のチェーンメイルの戦士と俯き、顔を見せない女が居るのみであった。
こちらを全く見ようともしない女。それが少しだけ気になった。
ふと戦士が話しかけてきた。
使命の話や、世界の話、そしてあの女の話を聞いた。
こちらはほとんど返事をしなかったが、戦士は随分と語るのが好きなようだった。
火継の使命というのはあの騎士の言っていたものだろう。
壊れた世界を治すために誰かがやらなくてはならない仕事だという。
世界が壊れる。それを聞いても私の中に揺らぎはなかった。
壊れるならそれが正しい形なのではないかとも思った。
しかし、託された以上はやるべきだろう。
どこまでも他人事のような、そんな心持ちでのはじまりだった。
街は亡者の巣窟であり、進めど進めど目の中に理性を宿したものはいなかった。唯一正気だと思った商人も半分ほど狂気を孕んだ目をこちらに向けていた。なるほど、世界の終焉というのはこうして訪れるものかと実感した。
そいつらはどれも眼窩は深く落ち窪み、眼球は今にも落ちそうなほどにギョロリとしている。瞳は赤く色づき彼らが不死でも人でもないモノだと教えてくれる。
正気と狂気はここでは紙一重だ。
むしろ狂っていることこそがこの場では相応しく、正気なんてものをここで求めることこそが愚かなのだろう。
彼らは人であった頃と同じように剣を握り、弓を構えソウルを持つものに襲いかかってくる。
そこには善も悪もなく、ただ魂食らいの業がある。
殺して、殺して殺して殺されて、そんなことを単調に繰り返しながら少しずつ進んだ。
死に続ければいつか私も彼らの仲間入りをするのだろう。
ただそれだけ。なんとも単純なものだ。
亡者達は皆幾度の死の先に狂気を得たのだ。
もう彼らは何も考えずにすむのだ。
それが不幸なことだと断ずることが私にはできなかった。
こちらとあちら、そこに明確な差など私には見つけられなかった。
しかし私の終わりはきっとここじゃない。
それは根拠の無い直感のようなものだったが、どこか確信にも似た何かがそこにあった。
♦︎♦︎♦︎
牛頭のデーモンを倒し、祭祀場に戻った。
短い期間に何度も死んだが幸運なことにまだ私も亡者にはならずにいる。
そう簡単には狂えないのだろう、私という人間は。それは牢獄にいる時から知っていた。狂気を望み続けても私は正常だった。
だからこんなものじゃまだ終わらない。
私というどうしようもない人間は戦って戦って見た目がいかに醜悪な化け物になろうとまだ戦うしかないのだ。
戦っている間は難しいことを何も考えないで済む。
だからこそ私は前を向いて歩くことができる。
篝火に還るたびに立ち上がることができるのだろう。
ふと火防女がこちらを見た気がしたが私が視線を送れば下を向きいつものように俯いている。
私はまた歩き出した。
♦︎♦︎♦︎
拠点となる祭祀場に私は戻る。
私は何も言わず、火防女の檻の側に座った。
理由なんてものはない。ただ何となくのことだった。
互いに何も音を発さない状態が延々と続く。
私が何百年と過ごした変わりばえのしない不死院の牢獄と似た静寂だ。
しかしそれとは決定的に違う何かがあった。
奇妙なものだと思う。
戦って、死線を超えた後に感じるここの静寂は不思議と悪いものではなく、私が明日も戦うために必要なものであるようにも思えた。
ここの篝火の火は何よりも暖かい。
他の場所とも少し違うのは守り手である火防女がいるからか。
なんにせよここが私の今の還る場所なのだ。
終わりどころ光明の一筋すらも見えない旅ではあるものの、還る場所があるのだという事実が少しだけ、ほんの少しだけ心地よかった。
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カランカランと音がする。
鐘の音は空気を震わせ地平線の彼方まで広がっていく。
それを綺麗だと思った。
ここまでで何年かかったかのか、もう数えることもやめてしまった。
あの日の騎士を思い出す。
託された使命のうちの最初の一つ。それが終わったのだ。
飛龍も、そしてガーゴイルも倒し、その先にあったのは伝えられた通りの、文字通り巨大な鐘だ。
私と共に戦ってくれた太陽の戦士はもうどこかに消えてしまった。
なんとも不思議な男だった。そして随分と喋るのが好きな男だった。
無言のこちらの反応も気にならないのか彼は自らの夢について語った。
それがあんまりにも楽しそうで、思わずこちらも笑ってしまいそうになった。
そんな自分に気づき驚く。
まだ私にも笑える心があったのか、そんな驚きだった。
不死人に「夢」なんてのもおかしな話だと思う。
私達不死人が未来なんてものをいくら見据えても待つのは闇だけだ。
そんなこと誰だってわかっている。わかっているからそんな言葉は絶対に出てこない。
信じたら信じた分だけ裏切られる。この世界は私達にそんなに優しく出来てはいない。
だから誰も夢を見ないのだ。夢を抱くことは苦痛を生むことだと知っているから。
たぶん、だからこそ魅せられたのだ。
彼の見る世界に。
こんな狂った世界で、こんなにも腐りきった世界で、自分の夢を楽しそうに語ることのできる男の特異性に。
ソラールがあまりにも無邪気に語るような夢を私もいつか見てみたいと思った。
帰る足取りはいつもよりも軽かった。
♦︎
帰った私は火防女に鐘を鳴らしたことを話した。
彼女からの応答は無いがそれでもどこか雰囲気はいつもと違っているような気がする。これは喜んでくれている.....のだろうか。
ソラールの話をするときどこか私の声は弾んでいた。
いつもの私らしくない、といえばそうなのだがどこか気分が良かった。
しばらくすれば道中助けた騎士、ロートレクも祭祀場を訪れた。
この男は少し苦手だ。まだあまり話したこともなく
別に何かされたわけでも無いのだが何故か好きになれそうにも無い。
彼は私を見ると先ほどの礼だといい笑いながらメダルを渡してきた。
その時、兜の奥から除く目と私の視線が交差した。
ゾクリとした。亡者達や悪魔と対峙した時とも違うおぞましい何か。
ソラールとは違う、酷く暗い色をした目だ。こいつはソラールのように未来を見ていない。いや、それどころかこの男は何も見ようとしていない。
酷く荒んだ目だ。
ああ、この男が苦手な理由がやっとわかった。
この男は私とよく似ている。
きっと同族嫌悪というやつだろう。
私はこの男を好きになれそうにない。
♦︎
最下層を攻略している最中、全身を刺で覆った男と出会した。鎧だけではない。驚くべきことに剣も盾も全てが刺で覆われている。
敵か、理性を持った不死か。
それすらもわからない状態のまま男は切りかかってきた。
敵ならば殺すだけだ。私の意識は瞬時に戦いのものへと切り替わる。
何十回と打合い、結果は私の勝利で終わった。悪態をつきながら男が消えていく。結局やつがなんだったのかわからないままだったが、お互い不死の身だ。また会うこともあるだろう。
地下に住み着いた竜の末裔を殺し、さらに探索を続ける。
そしてそこで病み村という村を見つけた。
まだ入っては無いがその瘴気は私でも躊躇するようなものだった。
一旦祭祀場へと戻り情報を集める。
チェインメイルの戦士も病み村についてはあまり知らないようだった。
あの男──ロートレクもそれは同じだった。
結局のところいつもの通り自ら先に進むしかない。
腐った肉の匂いと汚水の匂いが充満する地下水道を通りさらにそこから地下へと潜る。
一切の日の光すらも届かぬ、瘴気に覆われた魔境へと私は足を踏み入れた。
住民のすべてが病に侵され苦痛の声が響く。
どこもかしこも地獄だがここは特別醜悪な地獄と化している。
入るなりより一回り以上大きな体格の亡者に襲われた。
ここをこれから歩いて回ると思うと気が滅入る。
♦︎
病み村の探索はそう悪い事ばかりでもなかった。
私はそこで師を見つけた。
新たに術を覚えていくことは楽しかった。
場所は最悪だったが着々と力がついていくのがわかった。
何より師は私に色々なことを教えてくれる。
この世界の歴史、そしてそこにいた人たち、かつての村人、そして弟子。
中には下水で私が戦った棘の騎士の話もあった。
それらの話をする師の口元はわずかに緩み、いつもより柔らかな空気を纏っていた。師の話を聞くことは楽しい。私の知らない誰かの話をする師の優しい声がなんとなく好きだった。
祭祀場で火防女に話すエピソードが増えた。
そんなことを考えてしまう。彼女は何も言わないがそれでも私は良かった。
こういうのも悪くない。そう思えた。
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カランカランと、前にも一度聞いた音が鳴り響く。
数十年ぶりに聞いても、鐘の音はやはり美しかった。
私は二つ目の鐘を鳴らした。
クラーグを殺し、やり遂げた。
失くしたはずの心が痛むのを感じた。
だがそれ以上に達成感が胸に広がった。
あの日騎士に託された使命の、ようやく半分だ。
もう今までに死んだ数も殺した数も覚えていない。
しかしこんな何もない私が成したのだ。抱いたのは初めての感情だった。
きっと彼女なら喜んでくれると思った。思えば祭祀場の面々ともそれなりに長い付き合いになったものだと思う。
私は祭祀場へと向かう足を早める。
祭祀場へと続く階段を降りてゆき、最初に感じたのは強烈な違和感。
火が消えている。どんなときもそこにあったあの火が。
ドクンと心臓が跳ねた。嫌な予感がする。汗が頬を伝い落ちていった。
その音すらも聞こえてしまいそうなほどの静寂がただ気味が悪かった。
彼女のいる檻に向かって走った。
──そして見たのだ。
彼女が檻の中で自らの血の海の中に沈んでいるのを。
先日会った時はまだ生きて動いていた。そうだ、つい先日までそれは火防女だった。私が暖かいと感じた火はもうそこにはなかった。
それが今はもう動かない。私のように蘇ることもない。
そこにあるのは魂の抜けたただの抜け殻だった。
それがわかった時私は言いようもない痛みを感じた。
頭が、胸が痛い。
割れるように、直接揺らされるように。
酷い気分だ。ああ、こんなことが前にもあった。
──これはきっと呪いだ
消したいとどれだけ願っても消えてはくれない地獄の記憶が頭を駆け巡る。
おおよそ全ての記憶が消耗し薄れていってもまだ残る
地獄のようだ。そうか、私はまた守れなかったのか.....
何が変わっただ。何がやり遂げただ。
浮かれていた。
結局のところ私という人間は何も変わっていない。
いつだって失ってから気づく。同じことを繰り返しているのだ私という人間は。借り物のナニカに縋って、自分の物など何もない。
人から貰った熱を自分の物だと勘違いして生きている。そして救えた者など誰一人いない。
滑稽だ。本当に、笑ってしまうほどに──
私は膝をついた。
──そしてそこで見つけた。
抜け殻になった彼女の中に、
血の海の中で、汚れることなく黒く輝く物体。
──黒き瞳は真っ直ぐにどこかを見つめていた。