その声を美しいと思った。
あの時間の牢獄を経てもなお残った微かな記憶。
あの時あの人は私を見て微笑んでいたのだと思う。
もうあの人の顔も覚えていない。しかし私の中の大切な宝物のような記憶。
生まれて初めて優しい声をかけられた。
生まれて初めて「大丈夫」と言われた。
それが私のーー
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
数歩先ほども見えないような暗闇の中に巨大な蛇の顔が浮かんでいる。
蛇は自らの名をカアスと名乗った。
王の探索者フラムトと瓜二つの外見を持った異形の姿。
深淵に飲まれた王達を倒した先にその蛇はいた。
王殺し。
言葉にしてしまえば現実感があまりにない。しかし現実として、結果として私はここに立っている。
蛇の大きな双眼が私を見つめる。
老蛇は世界の成り立ちを語る。
それはきっと多くの不死が求めてやまない答えだろう。
ふと、旅の最中のことを思い出す。
道の途中で色んな人間に会い、色んなものを知った。道半ばで倒れていく多くの英雄たち見送った。
多くの闇を見た。人間の持つ暗い感情故に滅んだ国があった。闇に飲まれた英雄がいた。悲しき怪物となった者がいた。
そしてそのどれもが懸命に生きた結末だ。彼らはきっと私なんかよりもよっぽど必死に生きていた。
──かつて私には人間の正体がわからなかった。私はずっと人間の価値を知りたかった。
でももういい。私はいつからかそう思うようになっていた。
多分それは私が決めることでも目の前の蛇が決めることでもない。
”神”も“世界の真実”もどうだっていい。
いつだって物事はもっと単純だ。
私は蛇を
「愚かな.....神の奴隷となるか.....」
苦しそうに蛇が呪詛を吐いた。
「人は元々闇の存在だ。あるべき姿に世界を戻すだけのこと。何故それがわからん」
それは確かに間違いではないのだろう。
かつてあの子を殺したあいつらも、亡者も、今まで出会った彼らもウーラシールも小ロンドも全て人間の本質が生んだ産物なのかもしれない。そのどれもが醜悪な人の姿だった。
──しかしそうじゃないものもたくさん見た。
それだけではないと信じられる道を知った。
苦痛しかない世界でも光を目に宿し前を向く人間の輝きを確かに見たのだ。
たとえ人間の根幹が闇でも、それに抗う姿こそ美しいと感じてしまったのだ。
そして何より──
「──闇しかなくなった時代では人は笑えない」
頭に浮かんだのは俯き、自らの声を穢れていると言った女性。
その優しさ故に、誰かを送り出すことに苦痛を感じていたことを知っている。
魂が永遠の時間の中に囚われ、人間性に蹂躙され尽くした哀れな聖女のことを私は知っている。
私は彼女が笑える未来をこそ見てみたい。
「この愚か者が....!」
蛇は最後に呪詛を吐き闇に消えた。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
「火を、継ぐのですね」
かつて鐘を鳴らし祭祀場に戻った時、彼女が血の海に倒れているのを見て、心が折れかけるのを感じた。救えなかった命を、己の無力さを痛感したあの忌まわしい記憶が頭を駆け巡ったからだ。
しかし今こうして彼女は生きている。
声を出すことを嫌がる彼女が自ら声を発している。
「貴方は......それで良いのですか」
彼女が辛そうに顔を歪める。
ーーそんな顔をさせたかったわけではないのだがな.......
あの日と変わらない彼女を見て思わず頬が綻ぶ。
それこそが彼女達火防女の救われる道だと言うのに、それをただ笑って送り出せばいいだろうに。
そしてそれができないような人だから私はかつて救われたのだ。
しかしもう決めたことだ。
私は私のやりたいことを見つけた。
そう伝えれば苦虫を噛み潰したような顔をして彼女は俯きながら言葉を発した。今にも泣き出してしまいそうな声だった。
しばしの沈黙が流れる。それはいつものような心地のよい静寂とはまた違う。私も何も言わずただ彼女の言葉を待っていた。
暫くして、黙り込んでいた彼女がその沈黙を破った。
「..........わかりました」
顔を上げた彼女は既に先ほどまでの弱々しい姿ではなかった。
そこにあったのは凛々しくどこまでも美しい聖女の姿だ。
(ああ、そうだ。やっと思い出した。
その姿に私は見惚れた。
遠い過去、私の始まりの記憶が蘇る。
「どうか世界を、みんなを.......救ってください」
綺麗な声だ。世界が形を変えたとしても、変わらず彼女の声は美しい。
私は心が震えるのを自覚する。
これは歓喜だ。心が、体が、私の魂が熱を持つ。これで奮い立たない男はいないだろう。
こんな私がこんな大役を頼まれるとは人生とはわからないものである。
まるで童話の中に出てくる勇者ではないか。
そう考えて少し笑いそうになる。
私のような人間が主役を務めてしまっては些か華がなさすぎる。きっと誰も納得しないだろう。
──しかし、今ここにいるのは彼女だけだ。
なら今だけは、この瞬間はきっと許されるだろう。
「ああ、任せてくれ」
世界を救ってみようじゃないか。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
白い霧の中に男はいた。
眩しいくらいに光を反射するそれは階段の終わりまで続いている。
霧は形を変え、火の時代の始まりより太陽の王に仕えた騎士達の姿を形作りそれらは幽鬼のようにまた霧の中に消えていく。
それはどこか儚く、幻想的だった。
男は階段を降りて進む。
霧を抜けた先にあるのは黄金色に染まる空、そして地を覆い尽くすほどの灰が広がっていた。地面には柱のようなものがいくつも地面に倒れ、小ロンドのような廃都を思い起こさせる。
そんな退廃的な美しさを持つ、しかし恐ろしく色の少ないその地を男は睥睨する。
遠方には今もなお形を留める朽ちた神殿のような造りの巨大な建物が見えている。
そしてそこにいくまでの道中に、奥にあるものを守るように配置されているのは旅の途中で幾度となく対面した黒い騎士達であった。
彼らこそが自らを薪とした王に最後まで付き従った騎士達であり、その威容は衰えることなく今もなお健在だ。
(王を守る最後の砦か)
そして同時に火を継ぐに値するかどうかを見極める試練でもあるのだろう。
男は騎士に向かって歩を進める。
一歩進むごとに色んなことを考える。
あの牢獄から出てロードランに降り立った日からここに至るまでの長い旅のことを。
本当に様々な冒険があった。
その果てに、王のソウルを4つ捧げ、軋む大扉が開いた奥に待ち受けていたのは今まで旅したどの場所でもありえない、異界と呼ぶに相応しい空間。
男はここが
それは最古の神話。
全てのはじまり──“最初の火の炉”に名もなき英雄が足を踏み入れた瞬間だった。
♦︎
灰の舞い上がる地で神殿のような建物を見上げる。
夕焼けのような光が世界を染め上げるその様は実に神秘的だ。
ここを訪れる度に、ただ呆然とその景色を眺めてしまう。
こんなにも太陽は綺麗だったのかと、世界はこんなにも美しかったのだと、ここに来る度に思うのだ。
揺れ動くことが少なくなった感情が、確かに動く音がする。
この景色を見ていたいと思った。
それこそ永久にここにいたいと思うほどに。
しかしそれでも歩き出さなくてはならない。
拳を握る。
疲労はあまりない。体は万全と言えるだろう。
黒騎士達も既に問題にならないほどの力を得た。
そんな自らの体を見て思う。
もう人間性が限界を迎えかけている。
その干からびた姿は言うに及ばず、もともと回らなかった頭も今は部分的にモヤがかかったような不思議な感覚だ。
これが今まで何度も目にしてきた不死者の宿命、不死者の終わりなのだろう。
今まで訪れなかった終わりがようやく顔を覗かせた。
死んだ回数を思えば遅いくらいだろう。
いっそ狂いたくなった時もあったが、そうならなかったことに今ではむしろ感謝している。
あと少しだけ、もってくれればいい。
私はそれを言わなかったが、多分彼女は気付いていたんだろうと思う。
最後に見たのは泣きそうな、それでいて無理やり笑みを作ったような表情だった。
泣かせてばかりで、結局心から笑わせてあげることはできなかった。
それだけが私の心の中に、しこりのように残った。
今まで散々斬って捨ててきた亡者になることを今更恐れることはないが亡者になってまで使命を全うする自信は流石にない。
ここで決めなくてはならない。やらなくてはならないのだ。
私ではない未来の誰かに使命を託す、そんな不確かなものに期待なんて出来るはずもない。何より私自身がそれを許さない。
あの不死院を出た時とは比べようもないほどに力を付けた自負がある。
悪魔だろうが竜だろうが殺して奪ったソウルは人の枠をゆうに超える力を私に与えた。そしてその中には私が殺した不死者や亡者達のものもある。
だがそれでも頂には届かなかった。
朽ちてなお、燃え尽きてなおその威光をその身に宿す男に私は叩きのめされた。
初めて、不死であったことを心から感謝する。おかげで何度もやり直せた。
しかし正真正銘これが最後だ。
階段を登り建物に入る。
馬鹿げた熱量を体に宿す男と目があった。
何もかも、今まで私が見てきた全ての始まりがこの男だ。
そうだ、全てだ。
そんな男を目の前にして毎回思う。
その威圧感や力は燃え尽きたとしても確かに王の物だ。
それは正しく神と呼ばれるのに遜色のないものであり、だからこそ全てがしっくりきた。
不死の使命も、火防女の業もはじまりはこの男によるものだ。
ほんの少しだけ、なんともいえない感情が顔を覗かせた。
負けてばかりの人生だが、この戦いには勝たなくてはいけない。
勝たなくてはならない理由がある。
──剣が交差した。
♦︎
油断はなかった。しかしそれでも反応が遅れる。
その巨体に見合わぬ疾さで眼前に迫りくる大剣の一撃を受け流す。
馬鹿げた威力だ。
魂を喰らい続け人外の領域に足を踏み入れた。
その力を持ってしても受け流すことがやっとである。
さらにそれでいてなお手には強烈な痺れが残るときた。
人と神の存在としての差をあらためて痛感する。
一撃一撃が重い。神を率いてきた王の剣は矮小な人間の受け止められるものではないと言うのだろうか。
音すらも置き去りにして振るわれた大剣が下方から迫りくる。
ほとんど直感でそれを防ぐも反動で体勢が大きく崩れる。
間髪入れずに剣が力任せに振られた。
崩れた体勢で横なぎのその一撃に反応できたのはほとんど奇跡と言って良いだろう。自分の頭の上スレスレを炎を纏った剣が風切音を上げて通り過ぎていった。
躱したというのにその熱量は私の身を焦がす。
直撃でもしようものならその瞬間には終わりだ。
それを今までに何度も経験している。
燃え残りだと言うのにその力は間違いなく今まで戦ってきた敵の中でも最上位だ。次いで振るわれた第二撃にかろうじて盾を構えることに成功する。
瞬間、天地がひっくり返るような衝撃が私を襲った。
必死の抵抗を嘲笑うかのように、まるでそんなことは関係ないとばかりに剣は振り抜かれる。
私の体が何回も地面を転がり、壁に打ち付けられた。
呼吸すら出来なくなりながらもなんとか立ち上がり剣を構えることに成功した。今のでいくつか内蔵が潰れた。
エストを飲むことで回復する。
グウィンは様子を見ているのかすぐにまた近づいては来なかった。
幸運にもすぐに戦闘不能にはならないで済んだがその衝撃を正面から受けた盾はもはや原型をとどめていない。
施された美麗な紋章の装飾はその姿を歪め元の姿を推測することすら難しい。
剣の纏う炎の熱で溶けている部分もあった。
一撃まともに受けただけで今まで様々な場面で活躍してきた盾が破壊されるのだからたまったものではない。複雑な思いを押し込みまた別の盾をソウルから取り出す。
目の前の相手は文字通りの化け物だ。
それはとうに理解していた事実だが、剣を交えるたびにそれをあらためて実感する。
深呼吸を繰り返し、息を整えてこちらから仕掛ける。
下段を狙った急襲をグウィンは大きく跳躍することで躱した。
上空のグウィンに向けて呪術を放とうとするが、グウィン が投げつけた大剣によってそれは失敗に終わる。
転がりながら回避し、すぐに立ち上がり構える。
奴が剣を拾う前に、着地の瞬間を狙わなければならない。
一回の跳躍で距離を詰めた。
振るわれる拳をしゃがむことで避ける。
即座に立ち上がりグウィンの体を蹴り付け、その反動で距離を取り、同時に私は二度目の大火球を放った。
放たれた巨大な火球がグウィンの右側頭部を焼いた。
確かな手応えがあった。グウィンが身悶える。
訪れた完璧な好機に、私は渾身の力で斬り付けた。
ボトリ、とグウィンの左腕が落ちた。
初めての目に見える損傷。
そんな成果に一瞬心が沸き立った。
だからこそほんの少しの油断があったのだろう。
──そしてその油断はあまりにも致命的だった。
グウィンの残された右手が燃えるのを見た。
避けられない、盾で受けることも叶わない。
それをやけに冷静に頭の中で判断している自分がいた。
濃厚な死の気配を感じ、限界まで引き上げられた知覚によってゆっくりと近づいてくる腕を見た。尋常ではない腕力によって体が締め上げられる。
私を掴む手の炎が異常なまでに熱を持つ。
引き剥がせない。それだけの力の差があった。
そしてグウィンの手の中の炎が限界まで膨れ上がった瞬間、
──世界が爆ぜた。
♦︎
「この祭祀場もずいぶんと寂しくなりましたね」
たまねぎ頭の女騎士──ジークリンデが呟く。
返事はないが構わず続ける。
「戦士の方も呪術師の方ももう...。イングウァードさんも人探しに行くと言ってどこかに居なくなってしまいましたし.......」
今残っているのはもう火防女とジークリンデだけだ。
そしてその彼女も故郷に帰らなければならない。
ジークリンデの旅は終わったのだから。
帰る前にここに来たのは最後に彼に会いたかったからか。自分でもわからない。
どちらにせよ、それももう叶わないが。
祭祀場を、篝火をずっと見守ってきた火防女のことを見つめる。
彼女は口を噤んで自分の服を握りしめている。
「彼のことが気になりますか?」
彼女からの返事は帰ってこないが、火防女が自らの声を嫌っていることは知っていたので反応がないことについては何も思わない。だが安直にかけて良い言葉ではなかったかと反省する。
「.......すみません。不躾な質問でした」
初めて彼に会った時のことを思い出す。
父を、ジークマイヤーを探して不死でもない常人の身でロードランに訪れ、白竜の元で囚われた。それを救ってくれたのが彼だった。
彼のおかげで父に母の言葉を伝えることができた。
父は少し抜けた人だった。それでもとても誠実で、優しくて、誇り高い、自慢の父だった。
そんな父が最後の探索に行くといい、再び会えたときにはもう既に心を失っていた。
殺した感触が今でも手に残っている。
何度も何度も殺した。もう二度と起きて来ないように。
父はやがて動かなくなった。
その時感じたのは悲しみと、それ以上にもう父は苦しまなくていいのだという安堵だった。
娘の私が終わらせてあげることができて良かった。
今はそう思う。
だから彼には感謝している。
彼は動かなくなった父をじっと見ていた。
あの時彼は何を思っていたのだろう。
不死はいずれ亡者になる。でもそれは救いでもあると思うのだ。
何度も何度も死んで、苦しみ抜いた者に与えられる一つの救済がそれなのではないだろうか。
この世界は辛くて、苦しくて、でも死ぬことも出来なくて。亡者になってからも死んで、やっと安らかに眠れるのだ。
でも彼は違う。
普通なら諦めてしまうような敵を目の前にしても、普通の不死ならとっくに狂ってしまうような死を超えても、彼は
それがどれだけ辛いことなのかも私にはわからない。
彼は──
「──初めて見たとき、彼は空っぽで、まるで人形のようだと思いました」
その言葉は檻の中から聞こえた。それはジークリンデは初めて聞く火防女の声だった。
火防女は今も下を向いたまま続ける。
空っぽで、絶望を抱えていて、ほかの誰よりも熱をもたない人。
それが最初の印象だった。
いつからか必ず戻ってくる彼を待ち望んでいた英雄と重ねた。
彼が解放してくれる人なんだと。
でもさらに時間が経って彼の本質を見た。
彼はどこまでも弱い人間だった。過去の傷から逃げて、それでも完全には捨てられず足掻くそんな不完全な人間だった。
「..........それでも彼は諦めることをしませんでした。どんなに辛くても、どんなに恐ろしい敵が相手でもいつだって彼は越えてきました」
「そんな彼が、皆を救ってくれと言う私に、任せてくれと言いました」
彼女はその時初めて火防女の顔を見た。
その瞳には確かな熱が宿っていた。
声を出すことに慣れていないのに一度に喋ったからだろう。少し苦しそうになりながらも火防女は言葉を紡ぐ。
「だから............だから私は彼を信じます」
そう言って微笑んだ火防女の表情は、同性のジークリンデでさえ見惚れてしまう程に美しかった。
きっと本心からの言葉なのだろう。ずっと見てきた彼女だから言える言葉だった。
最後に声を聞かせてしまったと謝る彼女に慌てて頭を上げさせる。
(火のある世界とはどんな世界でしょう)
不思議とジークリンデはそんなことを考えていた。
彼女は火の照らす世界を知らない。不死も亡者も存在しない世界を生きたことがない。もしそんな世界があるのなら、見てみたいと思った。
「もう少しだけ、ここにいてもいいですか?」
その問いかけに火防女はうなずくことで返した。
♦︎♦︎
幻覚を見ていた。
色んな記憶が何回も何回も現れては消えた。
どれも地獄のような光景だった。
もう立ち上がらなくていい。こんなにも自分は頑張った。どこかで自分自身がそう言っているようだった。
もとよりただの凡人だ。
最初から人が神に勝てるはずもなかった。
言い訳なら幾らでも浮かんでくる。
心地の良い眠気が襲う。そのまま身を任せればどれだけ気持ちが良いことだろう。
(..........まあ、そんなわけにもいかないよなあ)
しかし、彼は震える足で立ち上がった。
気絶していたのは1秒か、数秒か、それとももっと長くか。
暗闇に沈んでいた意識が再び戻ってくる。
負けられないんだ。この戦いだけは勝たなくてはいけないんだ。
そう思えばどこからか力が湧いてくる。
腰のエスト瓶を掴み、口元に持っていく──直前に彼は吹き飛ばされた。
「ガッ...ア......!!!」
瓶の中身が飛び散り地面を濡らす。
壁まで吹き飛ばされ、なんとか受け身を取るがダメージは甚大だった。
(ああ、クソ、これはまずいな)
血を失いすぎた。
体は思うようにいうことを聞かない。
頭がくらくらする。
もはや現実と夢の区別すらもつかないほどに朦朧としている。
だがそれでも立たなくてはならない。寝てしまっては全てが意味をなくしてしまう。
エストは正真正銘残り1つ。
震える手で最後のエストを飲みほす。
(彼女は私を信じていると言った)
意識が飛んでいたわずかな時間に見たもう一つの幻。
彼女は微笑んでいた。
それは都合のいい夢だったのかもしれないが、それでも彼女の笑顔を裏切るわけにはいかないだろう。
「惚れた女に格好悪いところは見せられない、か」
何百年越しの恋だ。思わず笑いがこみ上げる。
否、恋と呼んでいいのかもわからない稚拙なものだ。
だが幼い頃から抱いたこの思いの深さは本物だ。
ふと、脳裏に浮かんだのは随分前の記憶。
イザリスの廃都で、負けるとわかっていて挑んできた男もそう言って虚勢を張って見せた。
あの時の男の気持ちが今ならわかる。
諦められないのだ。たとえ自分の迎える結末がどんなものか分かっていても、そんなことはどうでも良くなってしまうのだ。
ああいった人間の浮かべる瞳に宿った熱の何と美しいことだろう。
それを狂おしいほどに求めたこともあった。
この旅はそんな熱を見たからはじまったのだ。
戦う理由が、意味がある。それの何と幸福なことか。
あの時と状況は全くの逆になってしまった、と苦笑する。
今度は私が挑戦する側だ。
自らを奮い立たせ、正面の敵を見据える。
彼我の力量差はは比べるべくもない。
100回戦えばきっと99回は負けるだろう。
そもそも勝ち目などないのかもしれない。
当たり前だ。ただの人間が神に挑もうとすることこそがおこがましいのだ。
だがそれでも。それでも諦め切れないのが人間なのだろう。
千に一つ、万に一つであろうとも、それが億が一であろうとも、全てをかけるのには十分に思えてしまう。
少なくとも私が見てきた彼らは、誰も彼も皆諦めの悪い者達ばかりだった。
だからこそ愛おしいのだ。彼らこそが人間なのだ。
あの時の、刺の鎧の男もこんな気持ちだったのだろうか。
(ああ、これはなんとも──いい気分だ)
ソウルから新たな盾を取り出し、同時に
歩いてくるグウィンも左腕を失い満身創痍だ。
決着は近い。
近づいてくるグウィンに向けて彼は剣を振る。
フェイントも駆け引きも何もない馬鹿正直な一撃だ。グウィンはそれを半身ずらすことでかわす。
躱しながら放たれた蹴りを彼は大盾で受ける。
ついで彼は不安定な姿勢のグウィンに向けて全力で剣を振り抜いた。
その一撃はグウィンの体に吸い込まれ、しかし深くまでは行かずに止まる。
剣を止めたのはグウィンの纏う装飾品だった。
千載一遇の好機は不発に終わる。
後に残るのは攻撃後の致命的な隙だけだ。
彼の剣はグウィンの体に縫い止められている。
──しかし、攻撃に転じようとするグウィンの目に映ったのは剣を投げ捨て、煌々と燃える炎を手に宿した男の姿だった。
人が最も隙を生むのは自らが攻撃をする瞬間、またはその直後だ。
そしてそれは神であっても同じことだ。
神代の炎にも似たそれは人間の呪術師が産んだ新たな業。
〈大火球〉。呪術王ザラマンの二つ名でもある至高の炎が熱を放ち──投げられた。
これ以上ないほどに虚をついた一撃。
常人ならばひとたまりもないだろう。
──そう、それが常人であるのならば。
満身創痍の身でありながら、それでもなお太陽は落ちなかった。
「ォオオオオオオオ!!」
声のような、呻くような、悲鳴のような音をグウィンが発する。
完全には躱し切れず身を焦がしているものの、既に剣は構えられている。
グウィンは残された右腕で、大剣を振り抜いた。
「ああ、本当にさすがだ。──
買い被りも侮りもあるはずがない。それができるのが目の前の男なのだから。
彼は黒いタワーシールドを構えた。
それは最初の攻防の焼き写しだ。
盾は一撃で破壊され吹き飛ばされたあの一撃。
今回もそうなる筈だった。
──しかし待っていた結果は全くの別物だった。
大盾はその重さから動きを阻害する。常時であるならば軽量である盾を使ってきた。
だが今の体力ではどちみち機敏に動くことなどできるはずもない。
霞む目では相手の動きをろくに追うことすらもできない。
であるのなら、いっそ
先程発動した呪術の名は〈鉄の体〉。
使い勝手は悪く、防御力は上がるが動くこともままならなくなる諸刃の剣。
だがそれも動けない状況ならばなんの問題もない。
大火球も何もかも全てはこの状況にするため。
グウィンはどんな攻撃でも反応し、反撃する。
それができてしまう。
だから待った。この瞬間を。
目で追うことも動くことができなくとも奴が片腕で、攻撃のくる方向が分かっているのならば反応できる。
最後の最後は小細工なしの真っ向勝負だ。
グウィンの一撃が大楯に突き刺さる。
空を割るような轟音が響き渡り、尋常ではない衝撃が彼を襲う。
だがそれでもこの盾は壊れない。
古都に倒れた英雄の盾は、炎の中にあっても溶けることはない。
彼は踏みとどまった。
内臓はその衝撃に揺らされ口からも耳からも血が吹き出す。
それでも彼は立っていた。
身体中の骨は折れ、目はもう本来の意味を成していない。
それでも彼は立っていた。
これ以上にない反撃の機会。
グウィンの剣は彼に縫い止められている、先ほどとは真逆の状況。
だが反撃の余力がない。
腕が上がらない。
──その時指にはめた黄金の指輪が焼けるような熱を持った。
体が軽くなる。失っていた視界が戻ってくる。
ほんの一瞬、指輪のかつての持ち主である、黄金の騎士を幻視した。
最後にかけられた言葉が再び呼び起こされる。
(ああ、わかっているとも。私は今度こそ──)
先程まであった炎と剣戟の轟音はなりを潜め、いっそ不気味なほどの静けさが場を支配した。
永遠を感じさせる一瞬の静寂。
長き戦いの中に生まれた刹那の空白。
──小さな脈動と共に、最後の呪術が発動した。
♦︎
呪術師は火を畏れる。
畏れを忘れたものはその力に飲み込まれ、闇の中に消えるだろう。
炎を畏れ、敬うことから術は生まれるのである。
そんな呪術の中にあって、その術は特に禁忌とされた。
人の身には過ぎた力とされたからだ。
クラーナも、ザラマンも、火を畏れた。
もちろんその弟子であるカルミナも。
しかし、彼は畏れの中に違うものを見出した。
師であるザラマンから受け継いだそれは彼の中で一際大きく育っていた。
そこにあったのは純粋なまでの炎への情憬。
飽くなき探求とその先に、カルミナが見つけた彼だけの炎。
故にそれは生まれた。
その術は人が生み出した業。
神でも魔女でもない。他ならぬ人が産んだ呪術。
炎への憧れから生まれ、畏れを内に宿しそれは完成した。
その呪術の名は〈内なる大力〉
炎をその身に取り込み一つとする呪術の究極。
──呪術師は火を畏れる。
──けれど、力の代償に畏れを受け容れたとき
──それは畏れではなくなるのだ
人が紡ぎ編み出した一つの到達点がそこに顕現する。
ドクン、と心臓の大きく跳ねる音がした。
♦︎♦︎♦︎
その時、世界がそれを感じた。
全ての人間が同時に知覚したのだ。一つの時代の終わる瞬間を。
ある者はかつて愛した者の眠る場所で、
愛した者が守ろうとした場所を見下ろしながら。
ある者は離れ離れだった妹と共に。
弟子との別れに涙した。
ある者は父王の最期を思い。
ある者は神に祈りを捧げながら自らの終わりを喜び。
またある者は自らの英雄のために涙を流した。
その日、世界を暖かな火が照らした。
♦︎
「これは.......」
ジークリンデは瞠目する。
世界が光っていた。
それは新たにくる時代の幕開けを教えているかのようだった。
母のような、どこか懐かしい温もりが自分を包む。
それらに生命の輝きを見た。
そうか、彼が──
疑う余地などない。理解してしまった。彼は誰もができなかったことをやったのだ。
これで呪いはなくなる。父も本当の意味で眠れるのだろう。
「ああ.....ああ...!」
涙が頬を伝うのを必死に拭う。
この光景をしっかりと目に焼き付けたかった。
生まれてから今に至るまで、こんなにも希望を胸に抱いたことは初めてのことだった。
ジークリンデは隣を見る。
彼女もきっと喜んでいるだろう、そう思って。
彼女は笑っていた。その笑顔はジークリンデが今まで見たことのないほどに綺麗で。
最も多くの不死を見送り、最も多くの絶望を見てきた女は世界を覆う光に手をかざした。
彼女は泣いていた。それが誰を思っての涙かは明らかだった。
しばし見惚れていたジークリンデは再び空を見上げた。
「いつかまたどこかで会えるでしょうか」
「.....会えますよ、きっと」
火防女からの問いにジークリンデはそう返す。誰に、とは聞かなかった。
火防女は静かに涙を拭う。
思えば本当に色んな不死を見送ってきた。
ここでどれだけの月日を送ったことだろう。
でもそれももうここで終わる。
この日、火防女 アナスタシアの役割は終わったのだ。
──何かが倒れた音がした。
ジークリンデはゆっくりとそちらに視線を送る。
そこには既に事切れた火防女がいた。
その表情はいい夢を見ているかのようで、今にも起きてきそうなほどに安らかな表情だった。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
太陽の王が消えていく。
それをぼんやりと眺めていた。
かつてはあれほどに憎んだ神が。運命を呪った相手が。
あれだけ強大だった男が、あっけなく空気に溶けていく。
その最後は偉大な王の者ではなくただの寂しげな、どこにでもいる一人の老人のように見えた。
終わったのだと、そうおくれて理解した。
彼女は笑って逝けるだろうか。静かに眠れているのだろうか。
咽せるような、腹から押し出されるような何かが込み上げた。
自分でも抑えられない感情が渦を巻いて、泣いているように笑っていた。
残された時間は刻一刻と迫っている。
慣れ親しんだ篝火に手をかざす。
火が小さく爆ぜた。
剣から昇ってくる炎が私の体を這っていく。
火は徐々に燃え広がり私の体を覆い尽くし、大火となって立ち昇る。
炎が柱を作り天を仰いだ。
私の体が、魂が、世界が焼け落ちる。
そしてその火が他者の世界に光を当てる。
私の何もかもが燃えていく。
私だったものが、さっきまで世界だったものがどろりと溶け込んでいく。
不思議なものだ。
それがなんとも気持ちが良い。
思えば随分と無駄に長く生きた。
死んでいるのと変わらない毎日をただ過ごした。
そんな私が、上出来じゃないか。
はじまりはあの名も知らぬ騎士からの借り物の使命だったが、後悔などするはずもない。
何度も呪った運命とやらに感謝する日が来るとは思わなかった。
歩んで、歩んで、何度も転んだが立ち上がった。
だから私はここにいる。
なんとも心地が良い。
振り返れば長い長い道だった。
決して平坦ではなく、真っ直ぐでもない。曲がりくねった歪な道だ。
だがそれでも、それが私が歩んできた道だ。
考えて、考え抜いて、決断したから私はここにいる。
ーーもしも、いつの日かまた火が陰る時が来たら。
人はどんな選択をするだろう。
遠い未来に想いを馳せる。
それがどんなものでもきっと人は歩いていける。
何度つまづいても、失敗してもきっとまた歩き出せる。
今はそう思う。
──そっと私の頬を撫でる手があった。
「......なっ.....あ.......」
言葉を失った。
忘れることなんてできるはずがない。
そこにはあの日失った全てがあった。
あの子が、仲間たちが笑っている。
こんなことがあるはずがない。だって虫が良すぎるだろう。
私は彼らを守れなかった。何もできなかったのだ。
その笑みが向けられて言い訳がない。
ずっと謝りたかった。
あの日のことを。
するとあの子が困ったように笑って、首を横に振った。
縮こまりそうになる私に構わず、彼女は近づいてくる。
手が背中に添えられる。
気がつけば私は抱きしめられていた。
『ありがとう』
あの子が耳元でささやいた。それは何に対しての礼だったのか。
しかし私はその時、確かにその言葉で許されたのだ。
会いたかった人達がこんなにも近くにいる。
顔をよく見たいのに涙でどうにもよく見えない。
「..........話したいことがあるんだ。聞いて欲しいことがたくさんあるんだ」
色んなところを回って色んな人に会ったんだ。
冒険譚が好きだった彼女達に聞かせたいことはたくさんある。
話したいことはいくらだって出てくる。
そうだ。混沌の娘に仕えた男の話をしよう。
夢を追った男の話を、女神の騎士の話を、私の師匠の話を。
そして私の愛した人の話を。
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たくさん話して、それでもまだまだ話し足りなくて、皆はしょうがないな、なんて言って笑った。
少し話し疲れて、静かに眠気が訪れた。
頭が少しぼんやりしてきて、それでもまだ寝たくなくて。
聞き分けの悪い子供のような私の手をあの子が握った。
彼女の手のひらの熱が私の手を包んだ。
しばらくして、気がついたら私は一人だった。
何もかもが幻のようで、それでも心はこんなにも満たされている。
私は最後の最後で帰ることが出来たのだ。
それのなんと幸福なことか。
ああ............ああ。
本当に長い長い..............旅だ......った。
少しだけ休もうか。
いつの日か.......火が陰る時があれば
その時まで..........
♦︎
原初の火は陰り、太陽の王も既に亡く。僅かな残り火が世界を照らす。
そんな終わりに向かう世界に生きた者達がいた。
道半ばで倒れた者。
闇に魅入られた者。
そして救った者と救われた者。
これは一つの火を巡る物語。
後に幾度となく繰り返される火継ぎの旅のはじまりの物語。
──今、一人の名もなき英雄の旅が幕を閉じた。
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暗い道を男が歩いていた。
光のあまり通らない聖堂のような場所を真っ直ぐに進む。
素足で地面を踏む音だけが小さく響く。
蝋燭が揺らめき男を照らした。
見すぼらしい男だった。
鎧すら身につけず、それでいて剣だけは立派なものを背負っている。
さらに目を引くのはその夥しい返り血だろう。
おおよそ顔すら判別できないほどにその全身は血に濡れていた。
その男には名がなかった
その上薪にもなることかなわず、そして火も持たない呪われた者。それが男の正体だった。
だからこそ、その男は自らの中に火を求めたのだろう。
男は寂れた聖堂の中央に立つ女に話しかけた。
女は男に向き合い、その小さな口を開いた。
──篝火にようこそ、火の無き灰の方
それは果てしのない旅のはじまりを告げる声だった。
火は燃え上がり、揺らめき、陰る。
そして火は巡り、誰かの心に再び灯る。
──これは神でも悪魔でもない、人が紡ぐ、遠き旅路の物語。
これにて完結です!
読んでくださった方々、本当にありがとうございました!