後編からロードラン
死が近づいてくるのがわかる。
しかし思っていたよりも恐怖というものはなかった。
不思議な感覚だ。周囲を赤く染める血が自分のものだったという実感がわかない。どこか他人事のようで、このまま微睡みの中に身を投じれば、何事もなかったかのように目を覚ませるのではないか、そんなくだらない考えまでしてしまう。
彼と二人で旅をして、お祈りをして、子供達や村の人達に物語を読み聞かせて。そんな日々がいつまでも続くと思っていた。
彼が私の顔を覗き込む。彼も左腕を失い残った右腕が私の手を握る。
でもその感触も今は感じることができない。
彼の体温も、彼の匂いも、今は何も感じない。
ああ、彼が泣いている。
「お....ねが....ぃ...。な....ぁないで...」
言葉をうまく紡げない。
お願い、泣かないで 、そう言ってあげたいのに、口から漏れる声は小さくて、掠れていて、きっと彼の耳には届かない。
彼はいつも自分より私を大切にして、何度言ってもそれだけは変わらなくて。
彼はとても優しいから、いつも自分の何かを犠牲にしてしまう。
初めてあった時貴方は全てに憎悪を向けていた。
彼はとても弱いから、私がいなくなればそのまま壊れてしまいそうで。
あの頃の貴方に戻ってしまいそうで。
気づけば私の目からも涙が溢れる。
貴方と巡りたい場所がまだたくさんあった。
まだ貴方に聞かせていない物語だっていくつもあった。
そして貴方にまだ伝えてないことがあった。
ずっと言いたいことがあった。
私はもう駄目だ。でも彼だけならきっと生きて帰れる。
きっと彼はそうしないだろう。彼は騎士として、最後まで私の側にいるのだろう。
彼は私のことを思って涙を流してくれた。それだけでもう十分過ぎるというのに。
でも、いつまでも泣いている彼なんて見たくない。
いっぱい泣いて、泣いて泣いて。
それで次の日には笑っていてほしい。
私のことは忘れてでも、自由に生きて欲しい。
だから──
「........泣...か.....ない..で.....」
──生きて。
貴方には笑っていて欲しいから。
♢
人の世界では、こと死を肯定する白教において不死とは悪だ。不死狩りを行うロイドの騎士が英雄ともてはやされる程度には忌み嫌われている存在、それが不死者というものだ。
それが世界の常識である。
しかし不死とは唐突に、なんの前触れもなく誰もがなり得る。
肉親が、親しい者が、ある日突然嫌悪していたその化け物になる可能性を孕んでいる。
不死者は捕らえられ、追放される。国によってはさらに酷い結末を辿るだろう。そして不死者と縁が深かった者にも待つのは暗い未来だ。
そして少年は残された者だった。
不死の化け物の子供。それが少年に与えられた烙印だ。
彼は独りだった。
生きるためには働こうにも雇ってくれる所などあるはずもない。
白教の聖職者達も不死の子供である少年を助けることはなかった。
だから生きるために盗みもした。
殺しこそしなかったが、強盗もした。
何の力もない子供が一人で生きていくにはなんでもやるしかない。
そしてそうなれば結末は決まっている。
ある日盗みを見咎められた。
必死に抵抗するもやせ細った子供の力で敵うはずもなく強引に腕を掴まれる。
「このガキ!手こずらせやがって!」
「ッ……!」
そのまま地面に引き倒され、少年の口から苦痛の声が漏れる。
次に拳が飛んできた。周りはそれを止めるどころか囃し立てる。暴行に加わろうというものまで現れた。
少年は丸まってただ耐えることしかできなかった。
窃盗は重罪だ。少年は何度も罪を犯している。突き出され罰せられるのもここで殴り殺されるのも大差はない。
暴行は止まらず、その最中も口汚く罵られ続ける。
──では一体どうすればよかったというのだろう。
生きるためには犯罪に手を染める必要があった。誰も助けてはくれなかった。
こうさせたのはお前らだろう。
そんな感情が少年を支配する。
あたりには大勢の野次馬が集まって来ていた。
その目に浮かぶのは興味、侮蔑、嘲笑。
少年が今まで嫌という程感じて来た視線だ。
(やめろ、その目で俺を見るな。)
その視線が嫌いだ。醜いものを見るようなその目が大嫌いだ。
誰かが言う。やはりあれは化け物の子だと。
生かしておいてもろくなことなどない、早く殺せと。
有象無象の声が耳障りだ。しかし憎悪を込めて睨んでも帰ってくるのは嘲笑だけだ。
ただ生きたかった。死にたく無いから足掻いたのだ。
だがその結果が今の現実だ。
もう少年に足掻く気力は残っていなかった。
この先生きていても何が得られるというのだろう。
生きる理由も、夢も、野望も、少年には何も無いのだ。
彼の最後に残った生きる意志すらも薄れていく。
──そんな時だった。少年が彼女に出逢ったのは。
殴られ、朦朧とする意識の中で確かに聞いた。
少年をかばう声を。
そして見た。聖職者のものによく似た、清貧を表す白を基調としたドレスを汚しながらも、ボロボロになった少年を必死に守ろうとする少女を。
──瞬間、全ての音が消えた。
騒音でしかなかった周囲の声はその全てが遠くに消え、少年を静寂が包んだ。
その少女の顔から目が離せなかった。
視線を釘付けにするのはその少女の瞳。見たことのない目だ。
そこに浮かぶのは少年が知らない感情。それは侮蔑でもなく、好奇でも嘲笑でもない。
空のように青いその瞳はどこまでも美しかった。
──その日、少年は生まれて初めて恋をした。
♢♢
まだ太陽も登り切らない早朝の薄暗い聖堂に二つの影があった。
影の正体の一つは聖女であることを示す白い衣装を纏う若い女だ。
薬指には聖職者のつける女神の指輪が光っている。
彼女は女神の像に祈りを捧げたまま微動だにしない。
そしてもう一つの影は騎士の鎧を纏った青年だ。
こちらも一切動かずに女の背後に控えている。まるで時が止まっているかのような光景がどれほど続いただろうか。日が昇りはじめ聖堂に光が差し込む。
女は祈りを止め、ゆっくりと立ち上がり背後の騎士に声を描ける。
「お待たせいたしました。……本当に毎朝付き添う必要はないのですよ?」
何度目かになるこの台詞を騎士も毎回言葉で返す。
「これが私の務めですので。」
繰り返されるそのやりとりを二人はどこか楽しんでいるようだった。
かつて命を拾われた。彼にとって彼女の存在が全てだった。彼女を守るために生きているといっても過言ではない。
それこそが彼の見つけた使命だった。
女神信仰の存在するカリムの聖女は、同時に聖書の物語の語り部の役割も持つ。謳歌の国カリムならではの風習と言えるだろう。
そしてカリムの騎士は生涯をかけて一人の聖女に忠誠を誓う。
彼は彼女のために騎士になり、彼女だけに剣を捧げた。
「ふふ……ではこのまま朝食にも付き合って頂けますか?」
「ええ、喜んで」
なんてことない、しかし掛け替えのない日常だ。
聖女が騎士に手を差しのべる。
「さあ、では行きましょうか!
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
──夢を見ていた。かつての記憶だ。
夢の中ではあの方が私に笑いかけてくれた。
だが夢から覚めてしまえばばどこを探してもあの方はいない。
もう二度とあの声で私の名を呼んでくれることはないのだ。
薬指に付けた指輪を撫でる。かつて彼女がつけていたものだ。
かつて自分の全てをかけて誓った。何があっても守り抜くのだと。
だが結果はどうだ。
腕の中で冷たくなる彼女の体温が、あの美しかった空色の瞳が曇っていく恐怖が、今でも鮮明に思い出せる。
あの日、あの時。私は彼女とともに死ぬはずだった。
あの方の手を握りながら、死ねるはずだった。
しかし、世界はそれすらも許さなかった。
不死の呪いが私を再び蘇らせ、望んでもいない生を押しつけられたのだ。
どれだけ慟哭しただろう。世界で一番生きていて欲しかった人が死に、自分だけが生き返った。生きる意味も失いながら、自ら死ぬことすらも許されない。それがどれほど罪深いことか。
彼女を殺したものには報いを受けさせた。その過程でたくさん殺したがもう何も感じなかった。
私はまた独りになった。涙は既に枯れ、残るのはは絶望だけだ。
この呪いは私に与えられた罰だ。彼女を守れなかった私への。
追ってくる不死狩り達も数えきれないほど殺した。
かつての知己は私に言う。
今のお前は騎士ではないと。もし彼女がいたらお前を止めるだろうと。
(お前達が知ったような口をきくな。お前達が彼女の言葉を語るな。)
ならば彼女を生き返らせてくれ。本当に彼女が蘇り私を咎めたのなら喜んでこの身を差し出そう。
──だが止めてくれる彼女はもうどこにもいない。
かつての私を本当の意味で見てくれたのは彼女だけだった。あの方以外の人間は最初から全てが敵だった。かつて私を救ったのは偉そうにしている騎士でも司祭でも王でもない。
私を救ったのはたった一人のか弱い少女だ。
今は彼女に会う前の私に戻っただけ。
結局のところ昔、あの有象無象の言っていたことは正しかった。
私はきっとどこまでいっても化け物なのだろう。
何の罪もない人間を殺しても罪悪感もない。彼女のように全てを慈しむ心など最初から持ち合わせていないのだ。
だがそれでも彼女の側にいる間だけは違った。
彼女と同じものを感じていられた。
彼女と同じ景色を見ることができた。
彼女の隣にいる間だけは人になれた。
──だがその彼女は死んだ。ここにいるのはただの化け物だ。
♢
痛みを忘れたくて、戦って戦って戦い続けた。でも忘れることなんてできなかった。
そして最後には燃え尽きたようにあの聖堂に帰ってきた。
追っ手がすぐ近くまで迫る。万に一つも逃れることは出来ないだろう。
捕らえられるその直前まで彼女との記憶が残る聖堂で、彼女の信じた女神の下で彼女の残滓に触れていたかった。
女神はあの頃と何も変わらず静かに微笑みをたたえていた。
──背後で聖堂の扉が開く。そこには両手では足りない数の不死狩りがいた。
(こんな枯れた不死相手に大層なことだ)
ショーテルを抜く。
勝ち目などなくても関係はない。
さあ、最後の戦いを始めよう。
──その時、左手の指輪が強烈な熱を放った。
♢♢♢
むせ返るような血の匂いのが聖堂に充満していた。
周りには数多の不死狩りの騎士の屍が散らばり、美しかった聖堂は地獄の様相を呈していた。
それを成した彼はただ一人立ち尽くす。
彼に与えられたのはまごうことなき女神の加護。
それは確かな寵愛の証。
そして彼にとって祝福と赦しの証左だ。
──ああ、そうか。やっと私が蘇った理由がわかった。
──この不死の印はあの方を守れなかった私に女神が与えた罰だと思っていた。
──だがそうではなかった。女神は私に言いたいのだ、戦いを止めるなと。
彼は女神の寵愛を盲信する。自らの使命を確信する。
絶望の中に光を見た。
それがまやかしでも思い込みでもなんでもいい、唯一垂らされた救いの糸に縋った。その心が完全に壊れてしまわないように。
「向こうであの方に伝えてくれ。必ずまた会いにいくと。」
最後の生き残りの騎士の首が落ちる。
それを一瞥もすることなく彼は歩き始めた。
全てをそこに起き彼は聖堂を後にする。
背後の女神の像から血の雫が落ちた。
それはまるで泣いているかのようだった。