がっこうぐらし!称号「自宅警備員」獲得ルート(完結)   作:島国住み

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忘れていたわけではないが、気が付いたらこんなに時が経ってしまっていた。
書き方をだいぶ変えました。上手くいってるといいのですが……


完結後の道楽
おまけ


 

「ふぅ……着いた。ほら咲良、ここが高校だよ」

 

「ここにあの人たち(学園生活部)が……」

 

兄妹の前には広々とした運動場とその広さに見合った大きさの校舎がそびえていた。前日の雨が運動場の所々に水たまりを作り出している。太陽の光が反射して水たまりはキラキラと輝いている。だが、割れた窓ガラスや運動場をうろつくゾンビの姿は学校に抱く一般的な感慨を打ち砕くには十分だった。

これがホラー映画のセットだったらどんなに良かっただろう。咲良はこれまで何度も思ったことをまた思ってしまい、心の中でため息をつく。

 

「どうした?」

 

「ううん。何でもない」

 

「こうやって明るい所で見るとこの学校も結構ボロボロだな……。みんなは三階にいるはずだ。行こう」

 

 兄は今日も平常運行だ。咲良の方はというと、これからの共同生活を思うと胸が悪い意味で高鳴り昨日もろくに寝られなかった。今だって気乗りはしてない。

 この高校のことは在校生だった兄が格段に多くのことを知っている。道案内は兄に任せ、ただただついていくことだけに集中する。一階は腐臭が酷く、とてもではないが長く居れそうな所ではない。ゾンビも狭い廊下にちらほら見受けられ、その都度私たちの行軍は中断した。階段に差し掛かった時、思わず顔をしかめてしまった。死屍累々という言葉がピッタリだ。……ゾンビに対して適切かどうかは分からないが。机で作られたバリケードが血で汚れ、崩れ落ちた形で残されていた。倒れたゾンビ達から見てここで攻防戦があったみたいだ。

 

「……みんなが心配だ。急ごう」

 

「あ、お兄ちゃん、待って……!」

 

 兄は足が汚れるのも構わずズンズン進んでいってしまう。遅れずについていくために様々な彩度の赤で塗りたくられた階段を駆け上がることになってしまった。この靴、後で洗わないとなぁ……

 3階に行くための階段にもバリケードが張られていた。でもここはまだ形を保っている。血で滑りやすくなっているバリケードを協力して乗り越え、ついに3階の地を踏んだ。

 

「……誰もいないね」

 

「きっと生徒会室にいるんだよ。ほら、ここ。『学園生活部』って貼ってあるだろ?」

 

「あ、ホントだ」

 

コンコン

 

「えっ」

 

 ちょっと待って。咲良は狼狽した。

せ、せめて目配せくらいしてよ。もう知り合い同士になってるお兄ちゃんとは違って、初対面の私には心の準備というか、一呼吸が必要なんだけど。

 

「青木です。戻ってきました。入ってもいいで──」

 

ガラガラガラッ!

 

「よかった、無事だったのね!」

 

 勢いよく引き戸が開けられ中から若い女が喜色満面といった様子で飛び出してきた。咲良は昔見た写真を素早く思い浮かべる。

……こんな人写真の中にいたっけ? まっすぐにお兄ちゃんの方を向いてるから、ここからでは横顔しか確認できてないけど、写真には写ってなかった人であるのは確実だ。ということはこの人が佐倉慈先生か。綺麗な人だ。見た目からじゃ、勝手に私の家に上がり込んできた人間だとは思えないな。

 

「まずは飛真君が無事で安心だわ。それで、薬の方はどうだったかしら?」

 

「バッチリです! おかげで妹と一緒にここに来ることができました」

 

「それは残念……えっ?」

 

「ほら、咲良。こっちこっち」

 

 兄が手招きをした先へ目線を動かした慈は、咲良の姿を認めた瞬間、金縛りに遭ったかのように固まってしまった。信じられない、と顔が語っていた。幽霊を見るような目を投げかけられていることに気づくと、咲良はいささか慌てた。咲良は、会ったことのない慈をオバサン先生だと勝手に思い込んでいた。だが、実際はおっとりとした雰囲気を持つ、いかにも男子生徒ウケがよさそうな人だった。そんな先生がニコニコして兄を出迎えたことが面白くなく、初対面用につくった薄笑いのメッキがついつい剥がれてしまっていたのだ。

 

 咲良は凝視に対して初動こそ仏頂面を晒してしまったものの、すぐによそ行きの笑顔を取り戻し

 

「私、お兄ちゃ……飛真の妹の、青木咲良です。私を治す薬を探すのを手伝って頂いたと兄から聞いています。ありがとうございます」

 

しおらしく言ってのけた。

 

「そ、そう。とにかく、治って良かったわ。私は佐倉慈。この学園生活部の、顧問をしています。……さ、二人とも。みんなが待ってますから中に入りましょう」

 

 どうやら、咲良の表情の変化に先生は意識が回っていないようだ。ほとんど機械的と言ってもいいような口調で中に招き入れると、思案気に顔を曇らせて部室の端へ移動してしまった。そんな先生の代わりに、興味津々といった様子の()()たちが二人を押し込まんばかりに迫ってきた。

 

「初めまして! 私、丈槍由紀! で、こっちが太郎丸で──」

 

「ゆき。そんな急に自己紹介始めてもビックリさせるだけだろ。あ、私は恵飛須沢胡桃。くるみでいいぜ」

 

「結局先輩も自己紹介してるじゃないですか……」

 

関心の対象は新参者の咲良に集中していた。ここまで反響があるとは思っていなかった咲良はたじろいてしまい、助けを求めて兄の方に目を泳がせた。しかし、向こうは向こうで()()()()()のようだ。

 

「よかった……ずっと、ずっと心配してたんです。飛真君に限ってそんなことはあり得ないって思ってたんですけど、それでも、不安に、なっちゃって……」

 

「え、えっと……。ほ、ほら、僕はちゃんとここにいますから……」

 

 悠里──後に彼女はそう自己紹介した──は()が約束通り戻ってきたことに感極まって目に涙を貯めていた。今にも泣き始めてしまいそうな顔を前に、兄はどうすればいいのか全く分からない様子だ。どうにかなだめようとしているのだが、口をパクパクさせて頓珍漢なことを言うことしかできていなかった。

 あの涙目が演技だったとしたら、女優としての天賦の才があることになる。でも、もしあれが本心から出た涙だったとしたら……咲良に悪寒が走った。それはそれで嫌だ。

 

「みなさん、ちょっと勢いが強すぎます。二人が困ってるでしょう? ひとまず席に着いて落ち着きましょう」

 

 先生の一言によって場が落ち着いた。心なしか顔が青ざめているようにも感じられるが、口元には微笑を浮かべていかにも教師然とした態度だった。

 助かった……

 咲良はこの状況を切り抜けられてホッとすると同時にこれからの共同生活に言い知れぬ不安を覚えてしまうのだった……

 

 

 ■■■

 

 

コンコン

 

「飛真君。今、大丈夫ですか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

ガラガラッ

 

「急にごめんなさいね。でも、咲良さんについてちょっと心配なことがあって……」

 

 慈は少し眉をひそめてこう言った。

 まだ()()()()()()は余韻として残っている。まさか、あの女が生きてるなんて……

 あれは、確かにただの抗生物質に過ぎなかった。助かるはずなどない。もし抗生物質が効くのであれば人類がここまで後退を強いられることはなかっただろう。それなのになぜ? 元々耐性を持っていたのか? ……理由は追々追求するとして、今必要なのは彼女をどう扱うか、だ。

 青木兄妹がやってきたのがちょうどお昼時だったこともあって、お祝い用にとっておいた缶詰を振舞った。その時にお互いに自己紹介ができた。

慈は咲良を注意深く観察した。しかし、その時の咲良の様子に変わった点はなかった。初対面の相手に囲まれて委縮気味ではあったが、それは仕方ないことだ。ゾンビでもなく、ましてや亡霊でもない。疑いようもなく、人間だった。

昼食後は作業が溜まっているため、自然と解散になった。雨が降った昨日は大規模なゾンビの襲撃に遭った。3階は何とか死守したが、本当に危ない所まで追い詰められた。まだまだ部員たちは話し足りない様子だったが、バリケードを早急に直さないといけない。兄妹は荷物を置くためにこの部屋が割り振られた。

 

「咲良について?」

 

 今、咲良はシャワーに入っている。日々の仕事の役割分担は夕飯の時にするとして、それまでは休んでもらうことにしたのだ。それで咲良は久方ぶりのシャワーを早速楽しもうと考えたのだろう。飛真と二人きりになる機会を窺っていた慈にとって、これは好都合だった。

何より、あの女が生きているのは()()()()()()()()()()ってことを知っているのは私だけなんだから。部員に降りかかるかもしれない危険に目を光らせるのは顧問として当然の責務だわ。私たちは飛真君と一緒に、()()まで抱え込んでしまった。それは不発弾かもしれない。でも、そんな危ない人と飛真君を近くに置いておくわけにはいかないわ。

 

「はい。今日、咲良さんの姿を見て安心しました。薬は効いたんですね。でも……」

 

「でも……?」

 

「昨日の咲良さんの様子を知りたいんです。()()()()薬が効いたとしたら昨日のうちに私たちの所へ来ることができたと思います。それなのに来たのが今日だったのが気になって……」

 

 つい責めるような口調になってしまった。慈は昨日のことを思い出す。前の時よりもゾンビの数が多く、落雷による停電のせいで放送を流すこともできなかった。一番来てほしかった時に、あなたは来てくれなかった……

 慈の口調に何かを察したのか、飛真は真面目な顔になった。

 

「えっと……咲良に薬を打った後、僕は疲労のあまり夕方まで寝てたんです。起きたら咲良がこっちにやってきて……襲ってきたんです」

 

「お、お、おっ……襲ってきたっ!?!?」

 

 突然の爆弾発言に慈は素っ頓狂な声を抑えることができなかった。実の兄に対して……なんて女なの。

 

「で、でも、僕はどこも噛まれてません! 大丈夫です」

 

「そ……そうだったのね、びっくりしたわ。それで?」

 

 できるだけ平然を装って応える。一瞬でも()()()をしてしまった恥ずかしさで真っ赤になってしまった顔に気づかれないか心配だ。

 

「それで、何とか押さえつけて、水を飲ませたんです。その後のことは僕が貧血で倒れちゃったので覚えてません。でも、起きたら咲良はいつもの咲良に戻ってました」

 

「紆余曲折があったのですね……貧血で倒れてしまうまで必死で看病したんですね」

 

「まぁ……そうですね……」

 

 飛真の言葉の歯切れが悪くなった。慈はそれを見逃さなかった。やっぱり。何かあったんだわ

 

「でも、飛真君を襲ってしまうくらい自分を失っていた咲良さんが大人しく水を飲んでくれたのでしょうか……?」

 

「実は……僕の血を混ぜたんです。そのおかげで咲良は水を飲んでくれたんですけど、僕の方が倒れちゃって」

 

「血、ですか……」

 

 慈はその話に違和感を覚えた。どうしてそこまで。

 

「あの時は必死だったんです。なんかどんな手段を使ってでも水を飲ませないといけないと思ってしまって。今となってはどうしてあんなに水を飲ませることに執着したのか分からないんですけど」

 

 飛真の話しぶりから困惑が伝わってきた。咄嗟の判断だったのだろう。過程が無意識下で処理されて結論だけが頭の中でパッと現れることは確かにある。閃きに似たそれが、緊急時に起きたとしても不思議ではない。

 

「つまり、薬はすぐに効いたわけではない、ってことですね……」

 

「はい。確かに効果が表れるまで時間がかかりました」

 

「もしかして!」

 

 血のおかげなんじゃないか。後に続くはずだった言葉を慈は何とか飲み込んだ。

 

「えっ?」

 

「何でもないわ。ちょっと思いついたことがあって」

 

 咲良が治るまでに彼女の体内に入ったものは三つ。抗生物質と水、そして兄の血だ。抗生物質と水は効いたとは考えられない。そんなありふれたもので治せないからこそ、今の現実があるのだから。残ったのは……血しかない。もちろん咲良が耐性を持っていたことは否定できない。でも、同様に彼の血がゾンビ化を食い止めた可能性も否定できない。

 飛真君の血……。慈は心の中でつぶやいた。試してみる価値はあるかもしれないわね。ふふっ、どんな味がするのかしら……。

 

「はぁ……」

 

「咲良さんが治った後はどうだったのですか? ()()()()()()はありませんでしたか?」

 

「はい、何も、なかったです……」

 

 慈は飛真の目が泳いだことに気づいた。追求しようとして、思い直す。もう材料は揃っている。こちらが知らなくても彼の方で疑念を膨らませる事実が存在していれば、十分だ。それにあまり時間もない。咲良がいつ戻ってくるかわからない。早く本題に入った方が良い。

 

「でも、心配していたことはどうやら本当かもしれないわね。残念だけど」

 

「ど、どういうことですか?」

 

 飛真の声が不安で震えた。慈はこの状況が自分に有利であることを自覚し、満を持して本題に入った。

 

「あの薬は完全なものではなかったかもしれないわ。試作品と書いてあったからその可能性はあったけど……」

 

「でも!」

 

 飛真はすぐさま反論した。

 

「ちゃんと咲良は治ってます。いつも通りの妹です。おかしなところなんてどこにも……」

 

「確かに()()不自然な所はありません。不安なのは、これからなんです。治るのに時間がかかったことが引っかかるんです。もちろん、治療に必要な目安の時間は分かりません。でも、薬が体内に入っていたのにも関わらず人間を襲った事実は軽く見ることはできません」

 

「そ、それは……その通りですけど」

 

「私が最も危惧してるのは……今は単に寛解してるだけ、という可能性です」

 

「完治はしてない、ってことですか……?」

 

「私は医学に明るくないので断言できるものは何もありません。他の皆さんも同様だと思います。だからこそ、慎重にならないといけないと思うのです」

 

 慈は冷静に飛真の反応を確認した。彼は妹の容体が手放しで喜べる状況ではないことを悟ったのか、苦しそうにこちらを見ている。

 その表情に慈は微かな満足を覚えながら、重ねて続ける

 

「そこで、お願いがあるんです。咲良さんのことで何かあったらすぐに私に伝えてほしいんです。例えば、感染後に急にするようになった行動とか、嗜好の変化とかです。もちろん、私たちも咲良さんを見守っていきますが……」

 

「そんな! まるで咲良を監視するみたいに!」

 

「いえいえ、違います。それは誤解です。飛真君はこのままいつも通り咲良さんと接してください。私は、この部活の顧問として万が一にも備えないといけないから、心苦しいですがこのようにお願いしているんです」

 

 そう、このまま。兄妹の仲が険悪だと周囲の雰囲気も殺伐としてしまいます。でも、仲が良すぎるのも……よくないわ。

 慈が急にしゅんとしたせいで飛真の方も言い過ぎたと感じたらしい

 

「あ、ごめんなさい。先生を責めるつもりはなかったんです」

 

「家族を疑いたくない飛真君の気持ちもわかります。なんだか告げ口をしているようで気が咎めるのでしょう?」

 

「はい。先生が言っていることは十分理解しているつもりです。でも……」

 

 つかさず慈は飛真の手を取った。彼を()()させるために。それに伴い一歩前に出たため二人の距離はとても近いものになった。

 

「ふふ……飛真君は優しい人なんですね。では、こう考えてみてください。困ったことや気づいたことを私に()()する。どうですか? これなら告げ口ではないでしょう?」

 

「確かに。それなら……」

 

「そうです。難しく考えないでください。私たちはもう仲間なんですから。もう、一人で考え込まなくてもいいんですよ……?」

 

 ほとんど囁くように慈は言った。そのため、次に続く飛真の言葉もまた、小さいものになった。飛真は距離を詰められてどぎまぎしているようだ。突然のことで、一歩下がって適切なパーソナルスペースを確保することも失念している様子だ。傍から見れば、それはまるで内緒話をしているかのような親密さを纏っていた。

 

「あ、あの……必要になったら相談したいと思い、ます……」

 

「必要になったら、って……もっと気軽に相談していいのよ? まだ遠慮がある気がするわ……そうだ! ()()をしている時はお互いの呼び方を変えるなんてどう? 『先生』だとやっぱり距離を感じてしまうし。例えば──」

 

ガラガラガラッ

 

「お兄ちゃ~ん。シャワー上がったよ……えっ!?」

 

 咲良が帰ってきた。この部屋には兄しかいないと思っていたのだろう。上機嫌だった声は慈の姿を認めると固いものに変わっていった。残ったのは血色のいい顔と濡れた髪だけだった。

 

「……お兄ちゃんに、何か用ですか?」

 

 どうやら咲良は言葉に感情を込めるのを忘れてしまったようだ。あまりにも無機質な声に室温が急に下がった気までする。

 私は飛真君の手を握ってしまっているし、それにこんなに近くにいる。()()()しまうのはしょうがないことよね。と、慈は他人事のように思う。

 

「ううん。大した用じゃないの。じゃ、飛真君。相談、待ってるからね?」

 

 咲良のほとんど敵意と言ってもいい鋭い視線を受けながらも、何事もなかったかのように部屋を後にする。

 本当は咲良さんに気づかれる前にすべてを話したかったのだけど。これであの子には警戒されてしまうわね……でも、飛真君に言いたかったことは言えたし、後は状況が私の方に傾くのを大人しく待つだけかしらね。桃栗三年柿八年、だけど今植えた不信の種が実をつけるのはそんなに長くかからないはずだわ。やっとこっちに来てくれたのだから、二人とは()()()暮らしていきたいわ。そのための努力は……欠かせないわよね?

 ドアのガラスに映った慈の横顔は、ひどく歪んで見えた。

 

 

■■■

 

 

慈が去った後の部屋には一組の兄妹が残った。二人の間には微妙な空気が漂っている。お互いに話しかけることもなければ、その場を動くこともしない。咲良が飛真に投げつける冷ややかな目線だけが意思を持ってこの空間を支配していた。

最悪だ。咲良は冷えていく体と心を自覚しながらもそう思わずにはいられなかった。何週間ぶりかのまともなシャワーはとても気持ち良かった。体にまとっていた薄い膜が取れたみたいですごくいい気分でこの部屋に戻ってきたというのに。そんな爽快な気分もお兄ちゃんのせいで台無しだ。私がいない間、先生と何があったのか。なぜ、弁明をしないのか。あの距離感の近さは一体何を表しているのか。すべてが、不愉快だ。

 このままでは埒が明かないと思ったのか、兄がついに切り出した。

 

「あのな、さっきのは……」

 

「洗ってよ」

 

「え?」

 

「手、洗ってよ。汚いから」

 

「……分かった。洗ってくるよ」

 

 兄はいくぶん顔を青くして部屋を出ていった。さっきはほんのり顔を赤らめていたくせに。咲良の虫の居所は悪いままだ。学校へ出発する前に考えていた懸念が早くも実現してしまった。

 あの(ひと)にとって、お兄ちゃんはただの部員ではないってことよね……

 

 そうこうしているうちに兄が帰ってきた。ハンカチの用意を忘れたのか、手は濡れている。

 

「さっきのはな、誤解なんだ」

 

「誤解って? 私が何を考えているのかわかるの? そしてそれがどうして誤解だってわかるの?」

 

「そ、それは……わからないけど。でも、大事な話があるって言うからその話を聞いていただけなんだ」

 

「大事な話、ねぇ……。で? その大事な話とやらは何だったの?」

 

「咲良のことで何かあったらいつでも相談に乗るって」

 

「……それだけ?」

 

「うん」

 

 咲良は兄の様子を窺った。いくぶん怯えの色が見えるが、嘘をついているようには見えない。()()()()と言うにしてはあまりにも月並みだ。

 きっと話の大筋はその通りだったのだろう。だとしたら。咲良は思う。何か背後に隠された意図があるはずだわ。単にお兄ちゃんの手前、『いい先生』を演出したいだけってことも考えられるけど……

 

「その話をするために、お兄ちゃんの手を掴む必要はあったのかな?」

 

「必要は、なかったと思うけど……多分僕を勇気づけたかったんだと思う」

 

「勇気づけるぅ……? 随分とやさしい先生なんだね」

 

「……そんな目で見ないでくれよ。僕と先生は話をしてただけなんだから」

 

 それなら確かめてみようかしら。咲良はドアの前で立っている兄の傍に行き、警察犬のように調()()をした。

 

「ちょ、ちょっと……」

 

「………………」

 

 どうやら兄の言っていることは事実のようだ。兄以外のにおいは、本当に微かにしかしない。だが、その微かに捉えたにおいが問題だった。

 治療薬を持ってきてくれた時にお兄ちゃんが纏ってたにおいだ。ということは、先生が……

 

「私、感染してから鼻が良くなったみたいなの。治った今も、ね」

 

「感染してから……? それ以外には? それ以外には変なことはないか?」

 

 咲良の発言は兄に意図したものとは別の印象を与えたらしい。兄がいきなり活気づいたので咲良は思わず一歩下がってしまった

 

「いや、別に、何もないけど……あ。」

 

「どうした?」

 

 咲良は合点がいった。なるほど、急にお兄ちゃんが私のことを心配してくれたのはそういうわけだったのね

 

「そうやって私を心配するフリして、本当は先生に報告する内容をせかせか集めているだけなんでしょ? 先生に言われたことを早速実行して、お兄ちゃんは良い生徒だねー」

 

「違う! 僕も咲良のことが心配なんだ!」

 

「どうだか。いい子ちゃんになりたいだけなんじゃないの?」

 

「どうしてそんなに怒ってるんだ? 先生は咲良のことを心配して、僕の所に来てくれたんだぞ。僕たちは悪だくみをしてたわけでも、咲良抜きで何かをしようとしていたわけでもない。誤解だって言ってるじゃないか。いい加減機嫌を直してくれよ」

 

 咲良は言葉に詰まった。兄の言っていることは正しかった。確かにその通りだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()怒る理由などどこにもない。兄にはそう見えたのだろう。いや、そうでなくても怒る必要などない。しかし、この正論は咲良には兄の鈍感さを示す薪にしかならず、かえって怒りの炎が強くなる結果となった

 

「私は別に怒ってないし。お兄ちゃんの方にやましいことがあるからそう感じるだけなんじゃない?」

 

「はぁ……」

 

 兄は心底めんどくさそうにため息を吐いた。だが、咲良には不貞腐れているだけとしか映らなかった

 

「シャワー行ってくる。……もう少し冷静になってくれよ」

 

ガラガラガラ

 

 咲良は一瞥をくれただけで、兄を止めようともしなかった。

 

 

 

 一人きりになってから半時間ほど。静かになった部屋で言いつけ通り頭を冷やした咲良は情けない声を響かせる

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛~~~」

 

 椅子にだらしなく座り放心した様子でいたかと思えば、急に頭を抱えだした。

 やってしまった。咲良は今更ながら思う。さっきの私、めちゃくちゃめんどくさかった。あんな調子ならお兄ちゃんが呆れてしまうのも無理はない。小言の一つや二つ、どうして飲み込めなかったのか。でも、あんな状況だったんだから問い詰めたのはしょうがないよね?

 ……結局は、単なるやきもちだ。()()()()()()気がして……私は感情の赴くままお兄ちゃんを詰り、困らせてしまった。このまま私がヘソを曲げたままだといつまで経っても仲直りができない。謝らないとね。

 

「でも、ちょっと遅いなぁ……」

 

 念入りに体を洗っていると考えてもこれくらいの時間にはシャワーを上がっているはずだ。はやく謝りたいと気がせいている咲良は、しばし考えた後、兄を迎えに行くことにした。入れ違いになったとしても、すぐに戻るつもりだから平気だと踏んだのだ。

 果然、兄はシャワーを終えていた。しかし、兄の姿は予想外の場所にあった。生徒会室だ。たまたま扉が開いたままだったため気づくことができた。

 

「ごめんなさい。引き留めちゃって」

 

「いやいや、いいんですよ。それにしても、家計簿ですか……すごいですね」

 

「そんなに大層なものじゃないです。日記の代わりみたいなもので……」

 

「でも、こんなに細かく書いてあって……何が今どれくらいあるのかすぐわかりますし、日々の消費量から調達すべき物も把握できるようになってます。僕はこんなに緻密な家計簿、絶対に作れませんよ」

 

「そうですか? そんなことないと、思いますけど……」

 

 部屋にいるのは飛真と悠里だけのようだった。どうやら悠里は兄に用事があったらしい。

 それにしても、なぜお兄ちゃんはお世辞なんて言ってるんだろう。咲良は心がサッと暗くなっていくことを自覚しながらも、気持ちが煮えたぎっていくのを止めることができなかった。それに、悠里()()もまんざらでもない顔をして……。家計簿が何よ。用事が済んだら早くお兄ちゃんを開放してほしいんだけど。

 

 これ以上聞いていられないと思い、咲良は部屋に戻った。再び熱を持った頭が落ち着くまではまだ時間が必要そうだ。

 まぁ、呼びかけられたら無視するわけにもいかないよね。悠里先輩も本当にお兄ちゃんに用事があったんだろうし。それに、一日で何かが変わるわけじゃないし。まだお互いが丁寧語で話しているうちは何も心配いらないわ。大丈夫、あれは、ただの会話にすぎないはず……

 深呼吸をしてなんとか気持ちを落ち着かせる。つい最近まで飛真を独占できていた咲良にとって、兄が自分以外の人間と接触することは自らの特権が剥奪された気がするのだった。それゆえに、常識的な解釈を受け入れることは咲良にとって難しい作業だった。

 

「というか、お兄ちゃん以外全員女じゃん」

 

 咲良はハタと気づいた。この男女比はどう考えても危ない。下手すると一番争いが起こりやすい比率かも。そもそもマイノリティはそれ自体に危うさを秘めているというのに、男がポツンと一人だけっていうのは……

 

「ああ、なんか頭痛くなってきた……」

 

 とても不安だ。お兄ちゃんは学園生活部を救った恩人で、学園生活部はその恩人の妹を救う手助けをした。共同生活が長くなれば長くなるほど今まで培われた信頼の感情が別のものに変質するリスクが高まる。お兄ちゃんはこのことを分かってるのだろうか。

 それなら、私は……

 

ガラガラガラ

 

「ふ~、さっぱりした~」

 

 兄が戻ってきた。つい、遅かったねと言ってしまいそうになるがグッとこらえる。

 

「あ、お兄ちゃん。さっきは……ごめんなさい」

 

「もう気にしてないよ。それに、あれは僕も悪かったし……」

 

「そうだよ。お兄ちゃんのせいだよ」

 

「えっ?」

 

 咲良は先生がしていたように、手をつないだ。兄は驚きを隠そうとはしなかったが、手を離すつもりもないようだ。

 

「どう思う?」

 

「どうって……別に何とも」

 

「私は嫌だったよ」

 

「……ごめん」

 

「でも、もういいの。私、やきもちやきだって思われたくないから」

 

「つ、次からは気を付けるよ」

 

「そうしてね? じゃないと私、フキゲンになっちゃうから!」

 

 咲良はいたずらっぽい笑みを浮かべて、つないでいた手を指と指の間に滑り込ませる。

 

「今度は……どう思う?」

 

「……ちょっと恥ずかしい」

 

「私も」

 

 兄の行動にいちいち目くじらを立てていたらキリがない。そんなことをしていたら私はいつかお兄ちゃんまで憎んでしまうだろう。共同生活をする決断をした時点で覚悟していたことだった。でも、やっぱりお兄ちゃんが他の女の人と仲良くしてるのを見るとモヤモヤしてしまって、態度に出てしまう。

 

「他の(ひと)にこんなことしちゃダメだよ?」

 

「そんなの分かってるよ。絶対しない。約束する」

 

 だから言うのだ、『構って』と。察してくれなんて言わない。ただ正直になればいいんだ。お兄ちゃんはきっと、そんな私を受け入れてくれる。二人きりの時に何かを遠慮する必要なんてないんだから。これまでより一緒にいれる時間が少なくなるくらいじゃ私たちの関係は変わらない。いや、むしろそのことによってお互いのことを大切に感じるようになるはず。

 

「あ~! 目、逸らした……」

 

「そっちがじーっと見てくるからだよ……」

 

 希望に似た暖かな恋慕が、先ほどの重たくヒリヒリした不安の上を這った。その感情の落差から思慕の情が咲良の心の中に乱層雲のように広がった。それは内面にとどまらず目線という形で兄に伝えられた。まっすぐにこちらを見つめる瞳に込められた咲良の気持ちの強さに対して飛真は準備ができていなかった。

 

「………………」

 

「………………」

 

 二人は一言も発さない。お互い、もう後退はできなくなってしまった。もう進むことしかできない一人は顔を近づけ、もう一人は顎を上げて目を閉じた。

 

コンコン

 

「あの、ちょっといいですか?」

 

 悠里の声が聞こえた瞬間、兄妹は石にでもなったかのように固まった。咲良は頭が真っ白になり心臓がビクンと飛び跳ねた。

 先に動いたのは飛真だった。飛真は咲良と距離を取り何食わぬ顔を必死に繕いながら返事をした。

 

「……どうぞ」

 

ガラガラガラ

 

「すいません。今晩の献立について相談が……ってどうしたんですか? 二人とも顔が真っ赤ですよ?」

 

「い、い、いや別に何も。なぁ咲良?」

 

「う……うん! た、たぶんシャワーで血の巡りが良くなったせいだと思います」

 

「そうですか? その割にはやけに慌ててる──」

 

「夕飯作るの僕も手伝いますよ。暇だねってちょうど話してたところなんです」

 

「あ、私もやります。私だけ休んでるっていうのもなんか申し訳なくって……」

 

「じゃ、じゃあお願いしようかしら……。みんなバリケードの修復とかで忙しくて手伝ってくれる人が不足してるし……」

 

 兄妹の様子から何かしらを察知してもおかしくなかったが、それ以上に二人が手伝うことに前のめりだったために悠里は勘を利かせる余裕もなく、こう言うしかなかった。実際、この申し出はありがたかった。

 

「私、家計簿持ってきますね。うっかりして向こうに置いたままでした。何があるか知らないと献立を決められませんよね」

 

 悠里は小走りで部屋を出ていった。残った兄妹は顔を見合わせて、くすくす笑い出した。

 

「危なかったね」

 

「ああ。ビックリしすぎて、心臓止まるかと思った」

 

 さっきまでは不安でいっぱいだったけど。咲良は思った。他のみんなとも仲良くやっていけそうだ。だって、誰がどう手を尽くそうと私とお兄ちゃんとの()は絶対に途切れないんだから。そうだよね、お兄ちゃん?

 

「ねぇ、さっきの続き……」

 

 咲良の甘えた声に対して、兄はドアの方へ目を向けて自制を促した。微かだが廊下を走ってくる音がする。戻ってくるのがもうちょっと遅かったらよかったのに。つい、そう思ってしまう。

 飛真は咲良の方を向いた。そして──

 瞬間、兄の、匂いがした。

 

 




おまけって何書けばいいんだ? と迷走した結果です。
三人称単視点をチャレンジしてみたかったんですけど……めぐねえが良いキャラしてるんで書きたくなっちゃって、途中でシーンを挿入してしまいました。三人称がちゃんとできているか不安しかないです。
自分はただ、学園生活部の睦まじい日常を書きたかっただけなんです。ホントです。どうしてこんな風になってしまったんだ……
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