僕は
では父はどうだろうか。....言うまでもなく最悪であった。ロクに働きもせず怠惰を貪り、酒浸りの日々。さらには何か気に入らないことがあればすぐに僕や母に手を上げると言ったような、絵に描いたような最悪の父であった。これが絵に描かれた仮想の父であれば僕はどれだけ幸せだっただろうか。
特に父は母によく手を上げるシーンを僕はよく見た。手に持っていたお酒の缶を投げつけるだけで済めばまだマシな方であった。食事中にいきなりテーブルを蹴飛ばし、意味の分からない文句を母に言うこともあれば、ギャンブルに負けて帰れば母の稼ぎが少ないと噛み付き、殴る蹴るといった具合の時もあった。
そんな環境下で過ごしていた母は当然の様に摩耗し、疲弊していくのが分かった。どうにかして母を守りたいという気持ちは強かったが、いかんせん非力な僕ではどうにもならなかった。力づくで父の暴走を止めようとしてもすぐに投げ飛ばされ、暴力の飛び火は僕にも幾度となく向けられた。それに飽き足らず母にも思いきり手を上げる父に僕は、筆舌に尽くし難い怨みを抱いていた。
それでも母は僕にどんな時でも優しくしてくれた。僕が学校で虐められていた時も相談に乗ってくれた。不良どもにお金をせびられていた時、参考書を買うのにお金が必要と嘘を吐いていたことも母にはお見通しであっただろうに、全く詮索することはなかった。
僕が高校2年生になった頃、いよいよ本格的に生活は困窮し始めた。母のパートの時間はどんどん増えていき顔を合わせられる時間はどんどん減っていったが、反比例するかのように食事は少しずつ量が減っていった。もっとも極力それを悟られないようにと、母は自分の食事の量を減らしてまで僕に少しでも多くの食事を出してくれていたのだが。
そんな日々が続いていたある日の休日、いつもより少し遅い時間に起きると、枕元に手紙と封筒が置いてあった。この日は母はパートが入っておらず父は競馬に出ている時間なのだが、父はおろか母もいない。不思議に思い手紙を開けると、こう書かれていた。
優へ
理由があってお母さんは少し遠出をしなければならなくなってしまいました。
だからお母さんは少しの間だけ家に帰ることはできません。でも優は強い子だからきっと大丈夫。
しばらくの間色々大変だと思うけど....元気でね。
お母さんより
この手紙に加えてお守りも入っていた。手が震えた。そして僕はこれは母なりの別れなのだと一瞬で悟った。震えたまま手でもう1つあった封筒を開けると、中にはたくさんのお金が入っていた。恐らく銀行から下ろしてきた母の全財産だろう。
堪えていたものが堪えられなくなり、幼子の様に大泣きした。僕なんかのためにここまでしてくれた母の優しさ、そして別れにきっと生まれてから一番泣いただろう。
ひとしきり泣いて僕は、カバンの中に必要だと思ったものを全て詰め込んだ。こんな所はもう出よう。母の居ないこの家になんか居ても、きっと僕と言う存在が潰されてしまうだけに違いないから。
身支度をようやく終えようかと思ったその時、荒々しく家のドアが開く音がした。
「チクショウ....結局全部スッちまった....クソッ!」
玄関の方から声が聞こえる。父だ。普段よりも大分早く帰って来たらしい。慌てて出て行こうにも間違いなく見つかってしまうだろう。突然の出来事に僕は身動きが取れなくなってしまった。
「何だぁ?随分デカい荷物じゃねえか」
父は僕を見つけてそう言った。ふと、感情が込み上げてくる。こいつがすべてを壊したんだ、と。これまでの怒りが爆発しそうにはなったが、ここで時間を食う訳にもいかない。そんなことを思っていると
「そういえばアイツはどうした?今日は家じゃねえのか」
父が僕に聞く。
「お、お母さんは急に仕事は言っちゃったから今はいない」
とっさに嘘を吐く。『ふーん、そうか。』とだけ言いその場は何とか凌げた、かのように思えたが
「んでその荷物は何だ?」
と言って父はカバンを開けようとしてきた。
「こ、これは....!」
見られまいと思って必死に抵抗はしたが、いつもと変わらず敵わなかった。カバンの中を見た父は僕をギロリと睨み付け
「なるほどなぁ、お前、ここから出て行くつもりだったのか。そんでどうするつもりだ?警察にでも行くつもりなのか?あぁ!?」
そう言って思い切り僕を蹴りつける。小柄な僕は吹っ飛ばされてしまった。
「んなことが誰が許した?聞いてんのかクソガキ!」
父は僕に追い打ちをかけるように殴りかかる。やばい、このままじゃ僕が殺されてしまう! そう思い僕は必死に父から逃げた。その時
「ん?なんだこの金?それに手紙か?」
こんな声が聞こえて来た。その瞬間これまでの怒りの蓄積のキャパシティがついに限界を迎えた。アイツは僕と母を繋ぐ思い出にまで手を出そうとしている! きっと僕はそんなことを考えていたのだろう。そこから先のことはよく覚えていない。
気が付くと、リビングに赤黒い液体が広がっていた。そしてその中心を彩るかのように父であったモノが横になっている。一目見ただけでもまずこれは生きている生物には見えなかった。
相当な箇所を刺されていたのだろうか、一部のパーツは原形をとどめないレベルまで損傷している。近くには視るに堪えない色に染まった包丁が転がっている。きっとこれで滅多刺しにされたのだろう。
自分の服を見ると、真っ白だったはずが汚らわしい父のそれの色で染まっていた。堪えられなくなった僕はトイレに駆け込んだ。
口内に異物感は残ってはいたが、こうなってしまった以上はうかうかしている時間はなかった。急いで体を洗い流し、着替えた僕はカバンを背負い、まだ入れていなかった御守りだけはポケットの中にしまった。
そうして僕は無我夢中で駆け抜けていった。足が限界を迎えても、肺が破れそうになっても僕はがむしゃらに走り続けた。
不意にドン、と何かにぶつかった。後ろに倒れこんだ僕が見上げると、そこには件の不良のグループの姿があった。
「おう、どこ見て走ってんだよ!?」
グループの1人が開口一番そう僕を怒鳴りつけ、そいつは僕の頬を思いっきり殴った。元々大いに疲弊していた僕はそこから立つこともできなかった。
「なんだ?いつにも増してひょろっちいな。そんなデカいカバン持ったまま走ってるからか?....そうだ、お前のマラソン手伝ってやるよ」
そう言って不良のリーダー格は僕のカバンを川へ投げ捨てた。それで満足したのか、奴らは高笑いを上げてどこかへ去っていった。
僕は倒れこんだまましばらくの間起き上がることができなかった。疲労もあったが何より、言いようのない絶望に打ちひしがれたからである。カバンの中には母から託されたお金と、そして何より手紙が入っていたから。
もう僕にはできることが無かった。今の僕に残っているのは父親を殺した、という十字架だけであった。いや、せめてもの救いが1つある。唯一僕と母を結ぶモノ—お守りだ。ポケットに入った御守りをぎゅっと握り締めると、不思議とその時だけは何かあたたかいものが込み上げてくるように感じた。
しかしそれは一瞬であった。冷たい冬風が僕の体の芯を冷やしていく。おまけに無一文と来た。更には手紙を失ったといったことへの精神的なダメージは、僕をこの世界から引き離すには十分すぎる要因であった。父、そして不良....今日一日だけで人間のありとあらゆる汚い部分を見せつけられた気分だった。結局、僕が信じることができる人間と言うのは、母だけなのである。
だがそんな母のもう居場所の手がかりも何もない。もう母はいない。僕にとっての心の拠り所は完全に消滅してしまった。
果たして僕が今この世界にいる意味と言うのはあるのだろうか?答えはすぐに見つかった— そんなものはないと。
フラフラとした足取りで、僕は死に場所を探した。どうせならだれにも見つからない場所にしよう。そうだな....森の中とかが丁度いいだろうか。
しかし、しばらく歩いても森は見つからない。なんだ、僕は十分に死に場所を見つけることもできないのか。自分の人生の幕引きさえままならないのか。僕は自分の生まれてきた星の下をも怨んだ。
何時間も歩き続けた末、ようやくそれっぽい場所が見つかった。草木は鬱蒼と生い茂っており、灯りになるようなものはどこにもない。辛うじて誰かが通れるような昏い道は確かに人をあまり寄せ付けるようなものではない。まるで今の僕じゃないか。
あとは奥へ、奥へと進むだけである。だがすでに足が棒になっていた僕はあまり進むことはできなかった。いや、最悪ここでずっと寝ていたら凍死でもしているんじゃないだろうか。
そんなことを考え僕は気にもたれかかり眠りについた。完全に寝付く前、僕はある1つのことを謝った。
ゴメン、お母さん。僕なりに頑張った。でもダメだった....今まで本当にありがとう—
木漏れ日が僕を無理やり起こす。相変わらず寒かった。どうやら残念ながら僕はまだ生きているらしい。
と、ここで一つ気になることがあった。周りの景色が昨日まで居た森とは明らかに違っていたのである。昨日まではなかった、それでいて見たこともないキノコが生えており、周りの木の種類も違う。
「ここは一体....」
そんなことを呟いていると後ろの方から何かが草木を分けてくる音が近づいてきた。