『母さん』と言われた母はキョトンとしている。もしかするとこれで以前僕に会ったことを思い出したかもしれない。だがそれが僕にとっての最終目標ではない。僕にとっての母さんを取り戻すことがゴールだ。
また沈黙が場を支配する。永遠とも思える時間が静寂の下で流れていく。どれほどの時間が経ったかは知れないがお互いに立ったまま周りの喧騒と風だけが時が確かに進んでいるのを判らせてくれる。
どうしたら思い出してくれるのだろう。決して良いとは言えない自分の頭を振り絞る。小さい頃の思い出話をしてみる。一緒に買い物に行った時に迷子になって大泣きした時のこと、小学校の運動会でのお弁当のこと、中学校の部活に応援に来てくれたこと、少し躊躇ったが父親のことも—。
とにかく僕の中で少しでも印象に残っていた出来事をほんの少しだけでも記憶を呼び覚ませるように、そして共有出来るようにありったけのエピソードをつまびらかに話した。それでも母の反応は相変わらずで、自分のことを話しているなどつゆ知らず、赤の他人の話を聞いているかのような呆けた表情を浮かべている。
僕は自分の無力をどこまでも憂いた。ここまで必死にやっても僕は母との思い出の一つさえも取り戻すことができないというのか。どうすればいいか分からずに僕は慟哭する。どれだけ泣いても止めどなく涙が溢れて来る。
万策尽き果てて絶望に身を震わせた。不意に視線を下にやるとポケットの中のお守りがこれまでに無いほど眩く光っているのに気づいた。
そうだ、まだ終わっていない。これが今僕と母を繋ぐ唯一の存在である。
『手を出して』と、母に言う。よく分からない様子で母は一応それに従って両手を差し出した。震える手で僕は母にお守りを手渡した。どうかこれで少しでも何かを....
刹那、辺り一帯を覆う目の眩むような強い光が一瞬迸る。僕は思わず目を閉じた。もう一度目を開くと、やはり母が立っている。しかしさっきの呆けた様子とは違い、僕を真っすぐに見て。
「....すぐる?」
名前を呼ばれた。年月で計ればそれほどの長い期間では無かっただろう。だが僕にとっては途方もない年月を経て母から名前を呼ばれたように思えた。
「どうしてここに....というよりもここは―」
母がそう言うのを遮る形で僕は抱きついた。今度こそ、母が僕のことを我が子だと認識した上でここにいる。母の方は状況を理解できていないとはいえ、尋常ではない僕の様子に何かを感じ取ってくれたのか、強く抱き返してくれた。
しばらくの間僕と母はお互い抱き合っていた。
「いたぞ!あそこだ!」
突然向こうの方から声が聞こえた。どうやらまた追手に見つかってしまったらしい。母は驚いて辺りを見回す。そして少し怯えた様子で
「今の声は....?」
と、尋ねてくる。僕は
「話は後だ母さん!そこで待ってて!」
とだけ、母に伝えた。
「おい!そこの女!ヤツから離れろ!さもないと酷い目に遭わされるぞ!」
僕たちのことなど知る由もなく、向こうは的外れなことを喚いている。あんまりな言い草に相当腹も立ったが、今はそれどころではない。向こうは農具などの武器を持っているようで、捕まればひとたまりも無さそうだ。込み上げてくる感情を堪えて僕はまた走った。
何とかして逃げ延びないと、向こうはもしかすると本気で僕を殺しに来ているかもしれない。記憶はないがあの時の僕の行動は、相当に向こうに危機感と憎悪を植え付けていたようである。
「あん時はどんだけ殴ろうが何とも無かったんだ。今度こそとっ捕まえてちったあ痛い目見せてやる!」
逃げる最中、追手からの声が聞こえて来た。捕まりでもしようものなら....その先は想像したくなかった。
普段の自分では信じられないほど逃げ回っていた。だが流石に体力の限界が近づいてくる。特別な力も何も残っていない僕を突き動かすのは気力だけだった。しかしそれでカバーできる範疇をもはや超えつつあった。捕まろうが逃げ切ろうが、形は違えどどっちにしろ死んでしまう気がする。内臓を吐き出してしまいそうだ。
それなりに人通りの多い所へ逃げて来た。少し後ろを見ると、相変わらず追っては血眼になって僕を追っている。....どうやらそろそろ限界のようだ。少しずつ距離が詰まってきているのが分かる。数分後に僕は一体どうなっているのだろう。
誰かの手が僕の襟元を掴んだ。そのまま後ろの方に引き寄せられる。ああ、とうとうか。
そのまま引きずり倒された僕は、まず散々に蹴り倒された。腕で防ごうとするもどうにもならない。
「どうした?あの時みたいに抵抗はしないのか?」
僕を嘲笑う声がそこかしこから聞こえてくる。当然と言えば当然かもしれないが誰一人として同情の声を上げる者はない。
その後は体を起こされ、執拗に殴られも蹴られもした。この時点で僕自体は見るに堪えない有様であったにも拘らず、その手を緩める者もいない。『まだ足りない』といった声だけが聞こえてくる。
「ん?あの辺人が集まってるけど何かやってるのか?」
不意に聞き覚えのある声と、こちらへ近づいてくる足音が聞こえて来た。それが聞こえた途端、僕はハッと目を見開いた。抵抗もした。ダメだ!あいつに今の僕を見られるわけにはいかない、そう思った。これは僕自身の名誉の為でも何でもなく、僕の『生徒』のために純粋にそう感じた。
そんな僕の思いも抵抗も虚しく、見慣れた水色の髪と青い服とそれから奇妙な羽根が見えて来る。
「すぐ....る?」
僕を見た瞬間虚ろな目をして名前を呼ぶ。その間も里の人間の暴力は止まることはなかった。
「やめろー!!お前ら―!!」
チルノが全力で叫ぶ。その声が届いたのか、僕への手が止まった。
「アンタは....寺子屋にいる妖精か。それなら分からんだろうな。コイツがどんな人間で、何をしたかをよ。」
一人がそう言って僕を蹴る。僕にはもう抵抗する気力も体力も残っていない。
「それは....」
チルノは思わず口篭もる。だがその後
「で、でも!すぐるは悪い人間なんかじゃない!あたいがしょーめいする!」
と、続けた。
「ふーん、話の通りやっぱりアンタはバカだったんだな。コイツのせいで何人死にかけたことか、妖精なんかには人間の社会なんぞ分からんだろうな!」
別の一人がそう言って僕を思いきり踏みつける。それを合図にするかのように再び僕へのリンチが始まる。
「ちくしょう!やめろー!」
チルノはチルノで能力を使ってまで止めようとするも、多勢に無勢といった様子である。
リンチは続いた。短い間に僕への暴力を振るう者、そして止めようとする者は増え続けたが、完全に止まることはなかった。
どれだけ血を流しただろうか。どれだけ骨が折れただろうか。どれだけ臓器が潰れただろうか。僕はもう身動き一つも取れない状態であった。そしてこの地獄はどれだけ続くのだろうか—
「何をしているんだお前達!」
急によく通る声が響いた。その瞬間再び全員が手を止めた。それもさっきのチルノとは違った様子である。
「け、慧音さん....?」
一人が恐る恐る口を開く。
「....今すぐにやめろ」
憤怒に満ちた低い声で慧音は言った。
「しかし慧音さん、コイツは―」
「....さもないとお前達を全員歴史から消すことになる」
反論しようとする人間に対し慧音が言うと、血気盛んだった人間も蜘蛛の子を散らすかのように逃げて行った。
慧音にチルノ、それに大妖精ら寺子屋の生徒が血だまりの中で全身傷と血にまみれて横たわる僕を囲うようにしている。今から可能な施術を受けようがどうにもならないのは、誰の目からしても明らかだった。
「....とりあえず皆は帰るんだ」
沈痛な面持ちで慧音が生徒に言う。だがそれを聞き入れる生徒は一人もいなかった。
「すぐる....すぐる!!」
最初にチルノが僕に駆け寄って来る。どうにか何ともないアピールをしたかったが、体が言うことを聞かない。....自分の運命は自分が一番よく分かっていた。
「先生!」
他の生徒らも僕の方へ駆け寄って来た。生徒の声に笑顔で答えてやりたいとも思ったがそれさえもかなわない。
「だい....じょうぶ....さ....」
僅かに残った力を振り絞って笑顔で答えようとしたが、もはや声にもならない。作った笑顔もきっと相当醜悪なものに違いないだろう。僕の視界が狭まっていく。
「やだ....やだ!すぐる!死んじゃやだ!」
僕だって今は死にたくないさ。そりゃあ最初こそ死にたいとも思ってはいたものの、ここには大切な生徒も、信頼できる同僚も、そして何より母がいる。こんなに素晴らしい世界、今になって手放したくない!
そんな僕の気持ちと裏腹に『その時』は無情にもすぐそこまで近づいていた。この世界に来て、今が何よりも悔しい。なにくそここで、一番のお楽しみで全てが終わってしまうのがどうしようもなく悔しい。
でも、ここを死に場所にできたのは....あんな世界よりも....ここで最期を迎えられたのは....
優が心の中で紡げた言葉はこれが最後だった。人の往来がある中、生徒たちは人目も憚らず泣いた。慧音も悲哀の表情を隠せず、静かに涙を流していた。