その日もいつもどおり過ごしていた。愛し愛される両親にお弁当を持たされ、日常という神樹様からのささやかな贈り物にありがたいと朝の挨拶で礼をする。神樹様、私たちを見守って下さりありがとうございます、おかげさまで今日も一日平和に暮らせます……そう言って祈りを捧げる。
だが、誰一人としてその神樹様とやらを見たことはない。信仰しているのが偶像だったとしても、彼らは疑おうとはしない。神だから自分たちには見えない。人類に染み付いた神は徳が高く、人に見えぬものだとする考えは神世紀にも強く根付いていた。目には見えなくても、神樹様は守っている――だから、今日もいつものように終わる、はずだった。少なくとも、あの日までは。
春。日本の風物詩である桜の樹が路傍に咲き乱れ、生命に命を与える息吹が吹く。そんな季節。
日本では比較的過ごしやすい時期であり、この時期から学校が始まる。
朝五時にわざわざ起床し、身を清めてから神社に祈りを捧げる人間が居るというのに、彼の朝に自分からすることといえば精々が朝に彼の睡眠を妨害するけたたましい目覚ましを止める程度。
同年代の中でも朝に弱い。朝の風が心地よく、起床するのも比較的容易なはずのこの時期、彼は布団で惰眠を貪っていた。
「ほら、早く起きなさい」
「んん……あと五時間……」
時刻は既に七時。この家庭では食卓を囲むには少々遅い時間。それに加えてこのやり取りを何度も繰り返している。
「いい加減起きなさい!」
「待って……待って……起きるから……起きるからぁぁぁぁぁぁ!」
静止の声も虚しく毛布どころかベッドのシーツまで引っ張られベッドの真横に落下した。
二度寝したかったのに──。
そんな文句を母親に言おうとして、言葉を呑み込む。なにも言わずにじっと見られていたのだ。
なにか言われるのかと震えていたが、しばらくするとため息を吐いて、起きたなら早くご飯を食べましょ。とだけ言って下の階へ降りていってしまった。
足音が遠退くのを確認して肺に溜まっていた空気を吐き出した。
「たすかった……」
彼はただの子供だ。少なくとも、今はまだ。
着替えを済ませてリビングに下りると椅子に座って新聞を読んでいる父の姿が見えた。熱心に新聞に書かれているなにかを読んでいる後姿に対して挨拶をする。
「おはようございます。お父さん」
「おはよう。早起きだな
新聞を読む手を一度止めて、彼――
「それってイヤミ?」
「嫌味なんかじゃないさ」
「嫌味みたいなものだと思うんだけどな……」
気のせい気のせいと朗らかに笑う父親をスルーして母親のもとに行く。ほんの少ししょんぼりしたように新聞に顔を向け直した気がするが、彼は意図的にスルーした。
台所の方では、上機嫌に鼻歌を歌いながら朝食の仕上げをしている母親が見えた。
「おはようございます。お母さん」
「おはよう。二度寝しなかったのね。偉いわよ」
あれだけ強烈な起こし方をされればもう一度寝ようとは思わないのだが、少年がいつも惰眠を貪ってしまうため、可能性がないとは言えない。
「……ぼくも起きようと思ってるんだけど」
「結局起きれていないのだからダメ。思うだけじゃ結果はついてこないものよ?」
まったくその通りだが、軽くあしらわれてむっとする。そんな彼を横目に見たのか、苦笑したあと困ったように頭を撫でる。
「ほら、拗ねないでご飯にしましょう。持っていってちょうだい?」
「別に拗ねてなんて……」
ぶつぶつ言いながらも食器を運んでいくあたり、瑞己も本気で怒ってはいない。
通学路にて見事に咲いている桜並木に思いを馳せて通学路を歩く。四月もそろそろ終わりの時期に差し掛かっているというのにこのあたりの桜の花はまだ散らない。他の地域の桜はもう散っているが、この地域の桜だけは散るのが遅い。
彼は元来、花が好きだ。このあたりの年齢というと、遊び盛りで美しさに目を向けにくい年頃ではある。しかし彼は路傍に咲いている花々が、庭園の手入れが行き届いている花が咲いているのに美しさを感じていた。
花々に見惚れるのを何度か繰り返しているうちに彼の学び舎である神樹館に到着した。現代には存在しなかったような名前。
しかし、神樹、というのは元来存在する以上にこの世界において意味がある。
今より約三百年前、突如として未知のウイルスが人類を呑み込んだ。そのウイルスによって人類はみるみるうちに減少していき、絶滅するかに思えた――が。
人類を守るために動いたのは日本に存在する神々だった。日本は古来より神道に精通し、様々な宗教が伝来してきても根強い信仰がある。そんな彼らが死滅しては神も生きてはいけない。神々が存在できるのは信仰あってこそなのだ。
そうは言っても年々薄らいでいた信仰心ではいくら神々が力を合わせても日本全体を結界によって守ることは出来なかった。そこで、一部の強い適正を持つものに神託を与え四国に人類の一部を避難させるように促した。そしてそれは見事に成功し、病によって人類が絶滅することはなかった。
しかし、その結果、逃げられずにウイルスに感染してしまった世界人口の九割強がこの世から姿を消したと言われている。
人々は自らを護ってくれた神樹様と神託を聴いた者たちに感謝し、その出来事を境に新たな暦として
このエネルギーや人間が生きるのに必要な食料などは神樹様が補給している、というのはどのような学校でも学ぶことだ。
神世紀以前は宗教を一切信仰しない人間は多くいたが、神世紀現在において神樹様という絶対的存在が居るため、信仰しない人間はいない。
六年一組。それが瑞己が通うクラス。陽当たりのいい南側の最上階ということもあり、午後の授業は少々厳しいかもしれない。
教室へと入ろうとして引き戸に手をかけたが、なにやらクラスが騒がしい。
そんなクラスから聞こえる声に「またか」と思いつつ扉を開き、級友に挨拶する。
「おはよう鷲尾さん。なにかあったの?」
鷲尾須美。このクラスにおける整列係であり、厳格な性格の持ち主である。
曲がったことが嫌いで、とにかく真面目。生活態度がよく、自分だけでなく他人であっても怠惰を許せないため……あまり好かれる性格ではない。
現にクラスのうちの何人かは彼女のことが苦手な節がある。
「葵さん、おはようございます。特になにかあったわけではありませんが……」
なにか言いたげに彼女の瞳は呆けたように頬を朱に染める一人の人間に向けられており、それだけで彼もなにが言いたいのか分かってしまった。
「……おはよう乃木さん。またやっちゃったの?」
「みーくんおはよ~。そうなんよ~……」
バツが悪そうにほんわかした笑顔を浮かべる彼女は乃木園子。間延びした様子とは対照的に頭が良く、いいところのお嬢様である。具体的に言うとこの世界の中心である大赦の発言力が大きな二つの一族、その片方。
そしてその事実は神樹館に知れ渡っており、そのこともあってあまり他の人間と居るのを見ない。
「今度はどんな寝言だったの?」
「お母様に怒られてた夢だったみたいですよ」
頑張って怒らないようにしているのが伝わってくるような雰囲気を出しつつそんなことを鷲尾は言う。
保健室でもないのに学校で寝る、ということが彼女にとっては許容し難いことでありこの態度も仕方ないのだが、授業中でもないのだからそこまで怒らなくても……と瑞月は思った。
実際のところはそれを分かっているから鷲尾も小言を言わないのだろう。
「ほら、みんな席に着いて」
扉の開く音と共に、前の方からよく通る担任の声が聞こえ、談笑を楽しんでいた生徒たちは慌てたように席に着き始める。
担任の教師はいわば理想の先生だった。厳しくはあるが、その厳しさは生徒を想ってこそであり決して独りよがりなものではない。それを生徒も分かっているからこそ、彼女を嫌ったりすることはない。
教壇に立ち、担任は教室内を見回して……ため息を吐いた。
「今日も三ノ輪さんは遅刻ギリギリで来そうですね」
その一言に、クラス内が苦笑で包まれる。それと同時に廊下の方からドタドタと走っているような足音が聞こえて……ガラッと勢いよく扉が開き――
「はざーすっ!ギリギリセーフ!!!」
「三ノ輪さん、間に合っていません」
三ノ輪、と呼ばれた少女を担任は出席簿で軽く叩く。教室がまた笑い声に包まれるのを聞きながら、瑞月も苦笑いしていた。
三ノ輪銀。男子や女子といった性別の境なく友人の多い少女。快活な笑顔がよく似合い、その活発な性格と分け隔てなく接することから、男女問わず友人が多い。
鞄を開いてなにやら間抜けな顔をしていたが、なにかあったとしても鷲尾や乃木と違い席が離れているため助け舟を出すことは出来ない。
「なに……あれ……」
教室の中、窓の方から何やら強い光を感じ、そちらを向いて見えたものは全てを呑み込んでしまうような光。
光は温かいものというイメージが強いが、あれに感じたのは恐怖。クラスのみんなはこのことに気がついているのだろうか。目の前の恐怖から視線を逸らすようにクラスの中を確認すると、他の人間には何も見えていないようで、生徒はもちろん、教壇に立っている教師も真顔で、
真顔……? 少年は疑問に思ったが、目の前の光に恐怖し、身震いしていた彼は考えるまでには至らなかった。その真顔がなにを表しているのか読み取れれば、少年は周囲の本当に時が止まっていることに気が付いたのだろうが、生憎と少年がそれを知るのは少し先のことになってしまう。
「お役目が……始まるんだ……」
クラスのどこからかそんな言葉が聞こえたが、それについて考える間も確認する間なくあたりは光に包まれて――。
光が消えていった頃に見えたのは、変わり果てた世界だった。