【完結】遅咲きブーゲンビリア   作:パン de 恵比寿

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自問

 

深い深い、微睡の底へと落ちていく。

 

 

 気が付けば、いったいどれだけの時間をそうしていたのか。

 光も届かぬ墨色の湖底。暗濁と沈む果ての無い闇の中を、ただ一人延々と彷徨い歩いていた。

 

酩酊したように揺らぐ視界。耳が痛くなるほどの静寂のなか、聞こえるのは自らの鼓動と、口から溢れる荒々しい吐息だけ。

 一歩踏み出すたび、足に纏わりつく泥は鉛のように重く、時折り混じるガラスの破片が剥き出しの足を幾度も傷つける。

肌を撫でる水は凍えるように冷たく、それでも焼き燻るような灼熱に侵された体は絶えず倒懸を訴え、霞む視界と息苦しさに何度も膝を落としそうになった。

 

 ああーー痛い。苦しい。

 

 吐き出す(こえ)さえ誰の耳に届くことなく湖中へと溶けていく。

たとえソレが。胡乱と広がるこの世界が、ただの“夢”だと分かっていても、襲いくる苦悩の過多に心が悲鳴をあげていた。

 

 

 それでも、何かに急かされるように。まるで“そうしなければ”と駆られるように、足は歩みを止めてくれない。

 荒い吐息をそのままに、一歩、また一歩と荊棘の道へと踏み出していく。

 

 

 

『貴方は何がしたかったの?』

 

 不意に、届いた声に顔をあげれば、ただ湖中を漂うだけだった泥が渦巻くように形を変え、一つの人影を象っていた。

 

 その姿はどこかで見た……いいや、忘れられもしない慎ましくも厳格な給仕服。

 墨色に歪む視界の先、項垂れる自分を見下ろすように。あるいは見下すように。まるで鏡合わせのように立つ、もう一人の自分。

 

 

 (ああ、けれど違う。)

 

 これもハズレだ。

 影は仮面を身に付けていたから。

 

 歪で粗雑。微細な泡の混ざる濁ったガラス色で出来た仮面(ソレ)は、かつて自分が作り上げた嘘の人格そのもの。それが過去どんな目的で……どんな嘘を重ねるために被ったものであるかも、鮮明に思い出すことができた。

 

 これでいったい何度目になるだろう。虚栄の仮面を貼りつけた、偽りの自分と対峙するのは。

数えることさえ無意味だというように、幾度影を振り払おうと、その先にはまたすぐに別の、違う仮面を身につけた(じぶん)が待ち構えている。

 今まで積み重ねてきた罪を咎立てるように。泥に混じり足を傷つけるガラスの破片も、そうして使い棄てて来た感情の残骸(なれ果て)に他ならない。

 

 

『貴方は何がしたかったの?』

 

 問いを繰り返すばかりの影は、決して答えを与えてはくれない。仮面の奥に青く冷たい瞳を浮かべ、まるで責めるように糾弾の言葉を投げかけるばかり。

 侮蔑と軽蔑に満ちる視線を、ぎゅっと唇を噛み締め受け止めるしかなかった。

 

 ーーーああ、答えられればどれだけ良かっただろう。

 分からなかった。自分自身にさえ。

 

 私は、いったい何がしたかったのか。

 遠いアメリカの地にまで来て。

 彼の……貴方の助けになって。

 その先にいったい何を、望んでいたのだろう。

 

 

 見えぬ答えに項垂れるように自身の顔へ手を触れれば、そこからも固く冷たい感触が返ってくる。

 

 そう……仮面を身に付けている(嘘をつき続けている)のは自分も同じ。

 だから私も、彼女達と同じようにただ問いを続けることしかできないのだ。

 

 

 輪郭を失いそうな自身の体をぐっと抱きしめ立ち上がる。痛む足を引きずり、影を振り払っては、また茨の道へと一歩踏み出していく。

 

 探さなければ。見つけ出さなければ。たとえどんなに苦しくても。

 

 光も届かぬこの暗闇の湖底。暗濁と沈む己の心の中に、ただ一人居るであろう仮面を被らない自分。

 

 

 他ならない、私自身の本心を。

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第10話 本心

 

 

 

 

 

 

「だから居たんだってよぉ!美人三姉妹!」

 

「あ“ぁーうるっせぇ、何度目だよその話。壊れたテープレコーダーみたいに繰り返しやがって」

 

「アホみたいに肌も焼いて。浮かれ気分なの丸出しじゃねぇか」

 

 無数の本棚が立ち並ぶ大学附属図書館の一角。木製の長机が敷き詰められた学習用スペースから響くやたらはしゃいだ男の声を、数人の白い目が受け止めている。

 

 長かった夏季休暇もしかし過ぎてみればあっという間なもので、既に全体の4分の3が終わろうかという頃。まだ休み中ということもあってか図書館に映る人の影は少なく、テスト期間中に見せた凄惨たる混沌ぶりも遠く形を潜めている。が、ただ煩わしさという点だけで言えば、目の前の男(キリー)一人で補ってあまりある喧しさを醸し出していた。

 

「おめーらは直接見てねぇから分かんねぇんだよ、その素晴らしさが!神々しさが!

 嗚呼、今でも瞼を閉じれば鮮明に思い浮かぶ。燦々と降り注ぐ太陽の下、青く輝く大海原を背景に負けないくらい眩しく艶美な笑顔を浮かべる真夏の女神たち。地上に舞い降りた天使ってのはまさにああいうの言うんだろうなぁ」

 

「なんだろう。こいつが言うとエロい意味にしか聞こえないんだが」

 

「実際、下心丸出しだろうよ」

 

「せめて女神なのか天使なのかハッキリしろと」

 

 休暇中にはサークル仲間と一緒に南国ハワイへと旅行してきたというキリー。肌はこれでもかというくらい黄金色に焼け、対して口から覗くやたら眩しいばかりの歯。頑なに外そうとしない黒色のサングラスといい、もう見目だけでたまらなく鬱陶しい。

 皆に買ってきたお土産も、現地の守り神なのかよく分からないデザインの置物に、必要以上にゴテゴテしたキーホルダー、特大サイズのペナントといい絶妙に貰って嬉しくないラインナップのものばかりだった。

 

「もうルックスからスタイルに至るまで全部パーフェクツ!一目惚れどころか十目惚れはするくらいの可愛いさレベルだったね!」

 

「頭の悪い単位を作るな。てか10回見て惚れるって、それ逆にランク下がってんだろ」

 

「どうせまた振られたんでしょ?」

 

「ちっげーし!寧ろあまりの可愛さに緊張して声もかけられなかったからねー!?」

 

「一番情けないパターンだよそれ」

 

「特に真ん中の子……次女の子がさぁ!超絶可愛い子だったんだよ!!

 母性あふれる可愛い系(プラス)全体的なゆるふわ雰囲気から、しかしどこか醸し出される掴みどころのないミステリアスな空気!まさに深層の令嬢!ピアノを演奏する姿とか超似合いそうだったね!!……いや、実際すれ違った時はなんか『ラーメン屋かな?』って思うくらい豚骨臭が漂ってきたけど」

 

「居るわけねーだろ、そんな面白いの」

 

「居たんですー!?おまけに暴力的なまでのスタイル!まさにボンッ!此処がボンッ!抱きしめたらめっちゃ柔らかそうだったよ!絶対いい匂いするよ!いや実際ラーメンの匂いだったけど!」

 

「だからいいっつってんだろぉラーメンの精の話はよぉ!?お前ほんと分かってんのか!?試験明日なんだぞ明日!これ落としたら即留年なんだからな!?」

 

 彼らが休日中にもかかわらず図書館に集まっている理由。それは学期末試験において延期となった『情報電子学』のテストに備えてだった。

 他の教科に比べて圧倒的に広い出題範囲に加え、毎年『留年生産機』とも悪名高いこの科目。必修科目であるが故に落とすわけにはいかず、彼らが抱く警戒と緊張はもっともであり、だからこそ未だ休み気分の抜けないキリーの態度には苛立ちを募らせていた。

 

 

「っっあ“〜〜、絶望的に時間が足りねぇ!何でもっと早めに勉強始めなかったかなぁ俺っ!?」

 

「まあ一度休みモードに入って気が緩んじゃうとね。久しぶりに実家帰って、何もせずともご飯が出てくる有り難みを痛感して。のんびりテレビでも見て過ごしてたら普段の何倍もの速さで時間が過ぎてたことにビビるわ。飼ってる猫と戯れ始めた日にはもう……」

 

「どうせあと1教科だし、集中して勉強すればすぐ終わるだろって油断もあったり」

 

「ヤメロォ!己の不甲斐なさを痛感させるのはヤメロォ!!」

 

「てか結局なんで延期になったんだっけ?『情電』って」

 

「あれだろ?共同研究先の企業が“提出された資料に不備がある”だの難癖つけてきたとかで……。教授や研究員生全員で集まって三徹がかりで資料を作り直したそうだぜ」

 

「ほーん?普段はあれだけ威張り散らしてる教授が、企業様の前ではヘコヘコ頭下げてるんだと思うと、ちょい胸がスッとする気分だわな。で?なんて名前の企業よ」

 

「確かウツノミヤだったか、ニノミヤだったか……ミユキだったら知ってるんじゃね?同じ日本(ジャポネ)の会社だろ」

 

「おう。そこんとこ、どうなんだミユーー」

 

 声を掛けようとする途中、しかし視線を送った先に誰もいないことを思い出し、言葉を詰まらせる。

 長机を挟んで皆が肩を並べ座るなか、其処だけが穴の空いたようにポッカリと、沈黙に満ちた空席となっている。

 

 およそ数週間前。残るテストに向けて勉強会を開こうと提案した張本人が、しかし初日だけ顔を出して、以後は欠席ばかりを続けている。

 どうしたのか、何かあったのかとメールを送れど帰ってくるのは謝罪の返事ばかりで……。

 彼に信頼をおいて集まったメンバーだからこそ、その不在には皆口にこそ出さないものの不安と心配を抱いていた。

 

「……ったく、何やってんのかねぇ。あのバカは」

 

 いくら見つめども答えの帰ってこない空席を前に、キリーはまた一つ、大きな溜息を吐いた。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

「入るぞ。早坂」

 

 数回の短いノックの後、しかし返ってこない返事にそっとドアを開く。

肌に触れる微かな熱気に満ちた空気。耳に届く荒く苦しそうな吐息。

この数日で見慣れてしまった光景にグッと唇を噛みながら、ゆっくりベッドの傍へと歩み寄っていく。

 

 

 具合はどうだ?そう問おうとした口は、そのまま閉じるしかなかった。

 

 もう正午を過ぎた時間だというのに窓際のベッドに横たわり、厚くかぶった布団から顔だけを覗かせる早坂。

額には大粒の汗を浮かべ、その寝顔に浮かぶのは安眠とは程遠い苦悶の表情。

薬はもう飲んだ後だというに、熱は一向に下がる気配を見せず、容態は寧ろこの数日で悪化しているようにさえ思える。

それが……いま彼女を苦しめる症状が、現在大学内でも猛威を奮う流行り病(インフルエンザ)であることはもはや疑いようもなかった。

 

 

 早坂が体調を崩し始めたのは……いいや。その様子がおかしくなり始めたのは、学内散策のデートを終えて間も無くだった。

 彼女とこの家で暮らし始めて約半年。積もり積もった返しきれないほどの感謝の念。彼女に抱く想いの丈を伝えた機会でもあった。

けれどその日を境に、彼女は何処か自分と距離を置きたがるようになり……。明確な拒絶の言葉があったわけではない。それでも、今まで感じていた遠慮とは異なる別種の忌避感。ふとした拍子に感じる余所余所しさ。

普段の様子や家事の合間にしても何処か上の空で、時折熟考に悩むように難しい表情を浮かべることも少なくなかった。

 

 デートを終えて、進展するどころか逆に離れてしまった心の距離。

けれど落胆はなかった。寧ろ当然のことだとも。

 

 戸惑わない筈がないのだ。自分が彼女へと向けた願い。このスタンフォードで彼女自身(自分だけ)の幸福を見つけて欲しいという想いは、ともすれば彼女がこれまで四宮家で築き上げてきた地位を棄てろということに他ならない。

四宮家から与えられた使命を忘れ、或いは彼女の実家……早坂家の意向をも裏切って。そんな決断(選択)が、一朝一夕で下せるものでないことは、白銀自身が一番よくわかっていた。

 

だからたとえ距離を置かれようとも、彼女が自分の答えを見つけ出すその時までは、決して決断を迫るような真似はしまいと……そう心に決めていた。

 

 

 だが今になってみれば、それもただの言い訳だ。

たとえ内心を明かさずとも。決して自らの仕事を妥協することの無かった彼女にとって、その変化がいかに致命的なものであったか。

思いつめるほどに……追い詰められるほどに、本心を覆い隠してしまう彼女の性格(こと)を、自分はあの誘拐事件を通じてもう知っていた筈なのに。

 

 階段の下、項垂れるように倒れる彼女の姿を見つけた時にはもう遅かった。

ボロボロの仮面の下に露わになった素顔。平静を演じ続けるために無理を重ねた体はとうに限界を超えていて。

 

誰よりも近くに居ながら。幸せになって欲しいなどと豪語しておきながら。結局自分は、彼女が負う苦しみの何一つも理解できていなかったのだから。

 

 

『お願いですから……どうか放っておいてください……。もし貴方にまで感染ってしまったら……私は……』

 

 

 息も絶え絶えに。目に涙さえ浮かべ必死に訴える彼女の姿が痛みと共に蘇る。

 病に犯された後も、早坂は己の不甲斐なさや仕事ができない現状を謝るばかりで。こんな状態になっても、決して甘える姿を見せようとはしない。

涙ながらに必死に訴える瞳が、けれど言葉以上に明確な“拒絶”に思えた。

 

この家も、彼女にとっては安らげる場所などではなく、ただの仕事場で。

 

白銀御行(じぶん)という存在もまた、弱さを見せるわけにはいかない。ただの他人に過ぎないのだと――

 

 

 

「……早坂」

 

 呼びかけに応える様子も、その余裕さえもない。喉から洩れる痛々しいほどに掠れた吐息。

 日本の医療とは違い、アメリカではインフルエンザに対する明確な処方薬というものは支給されない。

タミフルのように症状や苦痛を緩和する薬が提供されることもなく、通常の風邪と同様あくまで家庭での療養に留まる。与えられた薬も、咳止めや解熱剤といった気休め程度のものでしかなかった。

 

 せめて食欲が戻ってくれたらと作ったお粥も、ただ皿の上で冷めていく。何か出来ることはないかと考えを巡らせども、結局は見守ることしかできない。

額に溜まった汗を拭い、苦痛が少しでも和らいでくれればと温くなってしまった氷枕を新しいものへと変える。しかしそんな想いさえも届かないというように、より魘されるように目元を歪ませる彼女の姿に、白銀は己の無力を感じずにはいられなかった。

 

 思えば彼女のことを気にするあまり、自分もここ数日は気落ちばかりしている。看病する側がこんなことでは、目を覚ました彼女に心配をかけるだけだというのに、嫌な想像ばかりが頭に張り付いて離れなかった。

 

 

 ヴーーッ ヴーーッ

 

 失意に暮れる自分を叱咤するかのように、突如荒々しく震えだす携帯電話。

早坂が起きてはいけないと急いで取るも、表示された名前を目にくしゃっと眉間に皺が寄る。泣きっ面に蜂ならぬ蛇。投げ出してしまいたい気持ちを必死に抑えながら、携帯を耳へ押しあてる。

 

「……もしもし」

『死人みたいな声ね』

 

 アンタまで病気になったか、と心底呆れたような溜息が耳を打つ。

聞こえるのは声だけだというのに、白銀にはじっとりと目を細めねめつけるベツィーの顔がはっきり見てとれた。

 

 

『ああ待ちなさい、切るな切るな。これでも一応心配してかけてやったんだから』

 

 思わずぎょっと目を見開く。“心配”などと、これ以上に彼女に似合わない言葉があっただろうか。明日は雨かはたまた台風か。

 

カリフォルニア(こっち)台風(ハリケーン)はわりとシャレにならないから止めて欲しいんだが」

 

『なんの話よ。てかアンタ何で勉強会に出てこないのよ、エイス達と約束してたんでしょう?おかげで何故かこっちに苦情の電話が来たわよ。

“どうせまた虐めたんだろう”とか。“今度は何を言って心砕いた”とか。ざっけんじゃないわよ。全く身に覚えの無いことで責められるのは流石のアタシでも堪えんだからね!?』

 

「普段の言い合いではどんな恨み言吐かれても動じないどころか、逆に鼻で嗤い返してくるのに」

 

『議論の時は良いのよ。何があっても相手を論破する(殴り殺す)って心に決めてるから』

 

「そんな覚悟キメないで欲しい」

 

 げんなりと零れる溜息。

 その後も、二度三度。息を吸うような気軽さでこちらを貶してくる彼女へと言い返すうち、しかし沈んでいた心も自然と軽くなっていった。

誰かと話せる機会を欲していたのか、或いは彼女なりショック療法なのか。心配しているというのは本当らしく、いくらか罵倒の切れ味も抑え気味だ。

それでも真剣が木刀になっただけで痛いことには痛いのだが。

 

 

「試験勉強の方は家で問題なくやっている。エイスたちにもそう伝えているんだが……」

 

『そりゃ、そんな死人みたいな声で言われても説得力ないでしょうよ。

 だいたい、自家学習でこと足りるなら誰も図書館なんかに駆けこんだりしないわ。

 ……アンタまさか今回の試験は諦めて、追試に賭けてるわけじゃないでしょうね』

 

「それこそ“まさか”だろう」

 

 

 身内の不幸や突然の事故。不慮の事態により欠席を余儀なくされた学生のためを思って、大学側は試験に追試を設ける用意がある。

もっともソレは高校時代までと異なり義務ではない。出題者側……延いては担当教授や研究室側の善意によるところが大きい。

 毎年多忙繁忙に追われる研究室。

追試となれば出題の重複を避けるために試験問題を作り直さなければならず、当然出題難度も変わってくる。

ましてや今回のように、元々が延期になった試験ともなれば、これ以上のスケジュール変更が認められるかは難しい所。

もし研究室側の都合により追試の開催が困難となれば、未受験者は不合格のまま。議題教科が必修科目である以上、そのまま留年に陥ることだって有り得る。

 

 学内で修めた成績がそのまま企業就職で評価されるアメリカ社会において、“未受験による留年”がどれほど重い烙印となるか。それが分からない白銀ではなかった。

 

何よりそんなことをされて、早坂が喜ぶはずがないことも

 

 

『別にアンタが気落ちすることじゃないでしょうに。世界最小にして人類最大の敵、インフルエンザ。どんな完璧超人だろうと、どう万全に対策しようと罹るときは罹る』

 

「………」

 

 耳に響くベツィーの慰め。誰を責めるべきでも、誰が負い目を感じることでもないと。

 

けれど、こうして。目の前で、今も苦しみ横たわる早坂の顔を見ると、どうしても言葉を噤んでしまう。

 

 

 

本当に――そうなのだろうかと

 

 

 

『……マ、マ………』

 

 熱に魘されるその口から、助けを求めるように零れでた母の名前。

 

 半年前、彼女は言った。アメリカでの生活に馴染めず自信も何かもを失いボロボロだった自分に。

生活の変化。環境の変化。そんなちょっとした外因でも、人の心は容易く壊れてしまうのだと。

 

 けれどそれは、彼女とて同じだったのではないか。

故郷を遠く離れ、心を許せるはずだった母にさえ別れを告げて、たった一人。慣れない異国の地で生活を続けることが、彼女にとっていったいどれだけの重荷だったことか。

そんな彼女の心を知らず。分かろうともせず。この国(この場所)で幸せを見つけ欲しいなどと、無神経な要望(願い)で彼女を追い立てたのは誰だったか。

 

今ある関係が壊れることを恐れ。本当に大切なことも聞き出せないでいるのは誰か。

 

ああ、そうだ

 

「もっと早く、聞くべきだったんだ」

 

 どうして君はスタンフォードに来てくれたのか。

半年前、彼女とこの場所で再会して以来、ずっと胸に仕舞い込んでいる問。

 

 彼女が抱える罪悪感の正体。迷いの核心。

それも分からずして、どうして彼女の心を救う(知る)ことができるだろう。

 

 

『ハァァ~~~っ』

 

 長く長く、たっぷり三分間。まるで怒りの全てを吐き出すかのような溜息が電話越しに響く。

そうして次に開いた彼女の口から出てきたのは、ソレまでとは異なる重い口調だった。

 

懇親会で(まえに)も言った筈でしょ。“それだけは止めておきなさい”と』

 

「……だが」

 

『人間の意志ってのはね、決して一つじゃぁないの。誰かが為す選択だって同じ。

 一つの想いから下した決断に見えても、その奥には本人さえ自覚しえないような複雑な心情の渦が隠れている。

 それこそ、目も覆いたくなるほどに浅ましく醜い利己的な打算というものもね。

その一つ一つを聞き出して。知りたくもない感情の全てを自覚させて。自分の(こころ)と無理やり向き合えだなんてのは尋問と同じ行為よ』

 

 私が普段やっているね。アンタだって散々嫌がってるじゃないの、と最後にそう付け足すベツィー。

 

彼女は言う。おまえの行いは彼女を苦しめるものでしかないと。

 

 

 

「……」

 

 

 それでも、だ。

 

 もし自分と居ることが、彼女の不幸へと繋がるのならば。

 今の生活が彼女にとって苦痛でしかないのなら。

 

 

ソレはきっともう――終わらせるべきなのだろう

 

 

 

『それにね』

 

 また深く大きな溜息をつくベツィー。呆れと憤り。そして微かな同情も含めて。

 

 

『それだけ深く絡み合った感情の蔦。

 自分の本心なんて……きっともうその子自身(本人)にだって分からなくなってるでしょうよ』

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなりすぎたので途中投稿

イチャラブが……ゲボ吐くほどのイチャラブが書きたい……(禁断症状
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