幸福になってはいけない。
決して、期待を抱いてはいけない。
重い泥に足を取られ膝をつく。
果ても無く続く墨色の湖底。視界は朦朧と霞み、目の前に翳した筈の手のひらさえ輪郭を掴めない。
絶えず体を蝕む熱に喉奥からは鉄味の吐息が競り上がり、疲れ果て、なおも歩き続けた脚はもはや立ち上がることさえ叶わないほどに憔悴しきっていた。
痛みに蹲る私を見守るように……或いは見下すように。いつしか周囲を囲むように漂う無数の影達。
問いかける言葉もまた変わらない。
『
幾度となく繰り返した自問自答。
……分からなかった。初めに抱いた筈の願い。他ならぬ自分自身の本心であるソレが、けれどどれだけ探しても見つけることができない。求め手を伸ばすほどに、霞の奥へと消えてしまう。
それが
それが
遠いあの日、
ただ──
『ただ、どうしようもなかったんです』
「──ー」
声は自身の口から溢れたものではなかった。
蹲る自身のすぐ後ろ。漂うだけだった影の一人が、囁くように零した言葉。しんと響く声に、静寂に沈むだけだった湖底がざわりと揺れ動く。
『かぐや様に近従の任を解かれて……あの子は遠く、京都の本邸へと連れていかれてしまって。何度も真意を確かめようとした。心変わりの
『けれど答えは終ぞ帰ってはこなかった』
追従するように。あるいは反論するように。言葉奥に隠しきれない憤りを滲ませながら、また別の影が口を開く。
『
『ううん。届いていないはずがない。近従時代に使用していた非常用ホットライン……あの子との間に残された、たった一つの繋がり。知られればこの連絡手段さえ断ち切られていた筈だから』
『それでも決して帰ってはこない返事。何故と問う嘆きも。どうしてと訴える憤りも。全ては虚しいままに』
『あの子は遠く、別の世界へと行ってしまった』
天界の衣を纏い心を変えてしまったかつてのお姫様のように。心は地上を離れ、私たちへの関心ももはや失ってしまっていた。
さようなら、と。最後に告げられた言葉を幾度も夢に見た。その度に、涙と共に目を覚まして。
諦められなかった。受け止めることなんて、できる筈がなかった。
妹同然に育ってきた貴女。かつて私を救ってくれた貴女を、どうして見放すことなど出来るだろう。
『何かやむを得ない事情があったに違いない』
『誰にも明かすことの出来ない
ただそう……信じていたかっただけなのかもしれない。
『それでも、近従としての地位を失った私に、もう本家の決定に抗う手段なんてもう残されてなくて』
『だから私は、最後に残った微かな可能性を……』
『白銀御行という、たった一つの希望に
かつてあの子が地上で出会い、心を開くきっかけになってくれた人。四宮かぐやという人間を変えてくれた唯一人の存在。あの人ならば、きっと……冷たく凍てついた心を溶かし、もう一度以前の優しさを取り戻してくれるのではないか。
胸に生まれたのは、そんな浅はかで、どこまでも身勝手な期待だった。
『けれどその
『もう届かない彼女と、まだ手を伸ばせば追いつけるかもしれない彼。そのふたつを天秤にかけて』
『私と同じように……ううん。私以上に傷ついた
『自分には叶えられない願いを、貴方へと押し付けた』
一人、また一人と。胸の内を懺悔するように言葉を続ける影達。身につける仮面は皆違って……けれどその一つ一つが「私」という人格を形作る感情の欠片達。
胸に浮かぶ心情を映し出すかのように、揺らめく湖中の砂が一つの風景を形作っていく。
色の無いモノクロの世界。およそ半年前、日本から遠く離れたこの地で、彼と再開を果たしたあの日。
今や住み慣れた
突然の来訪に『どうして』と投げかけられる、不信に満ち満ちた貴方の瞳。
それは当然の
けれどとても悲しくて
貴方が
(けれど…… 本当は、全てが逆だった)
"どうして"と聞かれるのが怖かったのも。心の底から謝りたかったのも、私の方。
『さも傷ついた貴方を助けに来たかのような顔で近づいて』
忘れてしまいたかっただろう心の傷。この国で。この場所で、貴方自身が見つけられた新たな幸福もあったかもしれないのに……それさえ否定して
『空いた心の隙間を狙い、入り込むように』
心を
貴方が思い描くような、四宮家や早坂家からの意向があったわけではない。
まして、あの子の望みがあったわけでも。
全ては私の我儘。
私の方が、貴方を『蓬莱の薬』として、利用しようとしていたのだ。
そうして始まった歪な共同生活。
幸福を感じてはいけないと思った。
私は、
だから日々こなす家事も、交わす会話も。かつて近従として務めていた頃と同じ、あくまで仕事として。そこに何の見返りも求めてはいけない。そんな資格などある筈もないと、自らに言い聞かせ続けた。
慣れない異国での暮らし。何より、他ならぬ
……
……
ああ、けれど
『けれど実際は──』
じわりと胸の奥に広がる微かな温かさ。冷たい灰色だけだった世界に淡く柔らかな色が灯っていく。
浮かび上がる日々の光景。
言葉や文化、家電一つとっても日本とは全く仕様の異なるその地は、もはや別世界と言っても過言ではない環境で。何より、世界最高峰たるスタンフォードに通う彼の日常は、私が想像していたものなんかより遥かに過酷なものであった。私自身、彼を支える以前に、移住したての頃は慣れない異国の暮らしに随分と苦戦していたように思う。
そんな内心が伝わっていたのか……或いは単なるお人好しだったのか。
日常の事あるごとには家事の手伝いを申し出てきた彼。
『もう本当に何度言っても。どれだけ私が断っても、しつこいくらいに』
『プライドが高くて意地っ張り』
『そんなに私の世話を受けたくないのかなって、不安になったりもした』
『……でも』
でも本当は分かっていた。それが貴方なりの
四宮家の近従として私生活さえ仕事に忙殺されていた過去。人目に触れれば自分でも気付かぬうちに仮面を被ってしまう私を知る、貴方だからこそ。
どうか
日課の家庭教師にしてもそう。スタンフォード大学に入りたいだなんて嘘の夢。貴方の側にいたいがための口実を、けれど貴方はどこまでも本気で応援してくれて
『自分の方が大変だろうに、どうして人の事ばかり』
けれど思い返してみれば、貴方は初めからずっとそうで。
あの頃からずっと……貴方は私の幸せを願ってくれていたのだ。
凍らせた筈の心の底にジワリと広がる感情。貴方を騙すことへの後ろめたさを抱きながら、けれど同じように、木漏れ日のように差し込む“嬉しい”という気持ちを振り払えないでいた。
我ながらなんて
けれど幼い頃からずっと、四宮家に仕えてきた私にとって、ソレはずっと与えられてこなかったもので。完璧は当然と、どれだけ身を粉にして仕えても投げかけられるのは些細な咎の粗探しと、失態を責める言葉ばかり。誰かに感謝されることなんて数えるほども無い。幼い頃はその厳しさに何度も涙を流し、だからこそ自然と自分の心を殺す術が身に付いていた。ただ、そうあれかしと育てられてきた。
ああ、だからこそ。“ありがとう”なんて。日常のふとした時に、まるで当たり前のように与えてくれる些細な言葉の一つ一つが、ただ純粋に嬉しかったのだ。
『浴室が壊れてしまった時だってそう。
『私の喜ぶ顔が見たいと……その一心で内装を考えてくれて』
共に過ごす時間の中、少しずつ。少しずつ大きくなっていく感情。
凍らせ、咲き遅れた蕾が花開いていくように。
ゆっくりと、けれど確実に以前の自信を
多事多端を極める大学での1日を終え心根まで疲れ果ててしまったような顔が、けれど家路に着く頃にはほっと安堵に微睡む……そんな表情を見るのが嬉しかった。
私も、日々こなすだけだった
また喜んでくれるだろうかと。
また、美味しいと言ってくれるだろうかと。
ふとした折には時計を見上げ、貴方の帰ってくる時間を心待ちにしている自分がいた。
本当に幸せになれるのは、一緒に居て安心できる人じゃなきゃな
大学での飲み会なんて高校でのソレ以上に
ふと耳に飛び込んできた誰かの言葉、けれどどこか納得したように頷く貴方の姿に……自分でも分からず瞼の奥が熱くなったのを覚えている。
ああ……こうして過ごす
胸の奥でたしかに宿る
貴方も私と同じように、感じてくれているのだと。
想い想われているのだと感じる瞬間。
私たち二人だからこそと、そう思える時間が何より温かくて
『じゃあ……どうして?』
詰め寄るように乗り出してくる一つの影。身に纏うのは今や懐かしい……ただ変装のために取り寄せた、とある日本の女学院の制服。私たちの中で、初めて“この気持ち”を自覚した人格。
『どうして貴方は断ったの?
嬉しかったんでしょう? 本当ずっと待ち焦がれていたんでしょう?
なのにどうして、貴方は彼の手を取らなかったの?』
君に、幸せになってほしいと。
デートの終わり際。貴方が私に捧げてくれた言葉。
嬉しくないはずがなかった。
胸の奥底から湧き溢れ出るような感情を抑えるのに必死だった。
すべてを忘れ、その手を取ってしまえたらと……そう願わずにはいられなかった。
(……だけど)
ズキリと胸の奥に奔る痛み。
幸福に浸る心を決して許さないというように、堅く硬く縛り付いて離さない罪悪感の鎖。
それは決して許されないこと。
スタンフォードに訪れていたのも。こうして日々感じている幸せも
本来、全てはあの子が
私はそれを横から掠め取っていったに過ぎない。
騙し、利用しようと近づいて。幸せになってはいけないと誓ったはずの私が、いったいどんな資格があって、あなたの隣に居ることができるだろう。
『違う。あの子は自分から
否定を叫ぶ
『あの人がどれだけ傷ついていたか……今の自信を取り戻すために、いったいどれだけの苦痛と努力があったか。私は知っていた。私だけは、ずっと傍で見てきた』
スタンフォードでの生活を始めてからも、
あの人が大学へと向かう姿。挫折に傷つき、それでも折れず努力に立ち向かう姿……一緒に送った写真の数は、もはや数えられないほど。かつての想い人の姿を目に、あの子も何らかの心変わりをしてくれるのではないかと……そんな淡い期待を元に始めたことだった。
けれどその心境は、その目的は、傷ついた彼の姿を知るほどに。その
私は四宮の人間。この国の中枢に立つ存在です。そんな私が何の権威も持たない一介の男などに靡く筈がないでしょう。
今までご苦労様、早坂。貴女は私には過ぎた近従だったわ
自分と同じ境遇。自分と同じ痛みを知る貴方。
想いを棄てられることの辛さを、誰より知っていた私だからこそ
かぐや。貴女が手放してしまったもの。貴女が傷付けてしまったものの重さを
いつしか私は──
「ちが……う」
耳を塞いで、首を横に振る。そんなこと、私は考えていないと。
影達の言葉を。自らの胸の奥から溢れ出そうになる後ろ暗い感情を否定するように。
『けれど、あの子は変わらず応えないまま』
『まるであの人から……自らが犯した罪にさえも目を背け続けるように、沈黙を貫き続けた』
『どうして後ろめたさを感じる必要があるの?』
『ずっと私が支え続けてきた。私だから……私たちだからこそ、掴めた
そうだと認めてしまいたい心が溢れ出す。
違うと否定したい気持ちに胸が打ち震える
憐情と使命感。慕情や渇愛。自分でもわからない感情に心がぐちゃぐちゃになって。
日々胸の中で大きくなっていく、『期待』という感情が恐ろしくて仕方がなかった。
「ねえ──アナタだって、そうだったんでしょう?」
振り絞る声と共に……並び立つ影達の後ろ。その合間に隠れるように、ひっそりと佇む小さな姿を睨みつける。
ただ一人仮面を身につけない容姿は、今の自身よりも二回りほども幼い。
不安げに瞳を揺らし、今にも泣きだしそうな顔の女の子は、けれどだからこそ紛れもない探し求めていた私自身の『本心』なのだと自覚できる。
小さな両手にはまだ蕾のまま、咲ききってもいない半端に開かれた一輪の花を握り。ふとすれば折れてしまいそうなか細く小さな花を、大切に、必死に守るように抱え込んでいた。
「あの子を裏切って……いつか幸せに溺れ、あの子の姿を思い出しもしなくなる。そんな自分になってしまうのが恐ろしかった。
胸の中で大きくなっていくこんな後ろ暗い感情を、あの人に知られてしまうのが、怖くて仕方がなかった」
本当は辛かった。貴女を裏切り続けるのも。貴方を騙し続けるのも。
初めから何もかもが間違っていた生活。こんな暮らしが長く続けられるはずがないこと。
嘘を貫いたところで、いつかはお互いが不幸になってしまうことにだって……本当は日本を発ったあの日から、ずっと分かっていたことだった。
けれど止めることが出来なくて。この
何一つ決断することも出来ず、こんな所で蹲っている自分が、なにより許せなかった。
「……もう、気付いているんでしょう?」
かつての自信を取り戻し、遠い宙を見上げる貴方。
もう支える必要は何処にもない。私に出来ることも、もう何も
終わらせるべきなんだって。
続けることは出来ないんだって
「本当に
言葉にしてしまって、目から溢れ出る大粒の涙。
今まで過ごしてきた温かな時間が、まるで走馬灯のように頭の中に溢れ、そして消えていく。
もはや何も分からなくなってしまった自分の心で、けれど
「……」
少女は何も応えない。
自分と同じような泣きそうな顔で。
けれどどこまでも冷たい、責めるような瞳を浮かべ、ただの一言。
「──嘘つき」
ようやく辿り着けました、早坂の本心 兼 答合わせ編
と言ってもまだ前半、本音と建前で言うところの建前パート
どんだけ複雑怪奇な感情をしとるんじゃ うちの早坂は