遅咲きブーゲンビリア   作:パン de 恵比寿

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古い砂に込めた夢 前

 

嘘つきーーと。

 

 

 囁いた少女の声が波となるように、突如湖底に吹き荒れる滂沱の渦。

 溢れる嘆きを表すかのごとく。湧き上がる怒りに応えるかのごとく。荒々しく逆巻いては幾人にも浮かぶ仮面の影達さえも流し崩していく。

 

 湖底に犇めいていた黒い泥。使い棄てられた感情の残骸。その下から露わになる、水晶のように澄んだ輝きを放つ無垢の結晶達。

 波に舞い上がり、ゆっくりと降り注ぐそれらは、暗濁と沈む湖底でなお美しく輝いて見えて。

 

 ーーそれは遠いいつか。

 貴方と共に見上げた冬の夜空を思い出すようで。

 

 

『ーーー。』

 

 降り積もる砂に形造られていく風景。忘却の彼方へと封じ込めていた筈の記憶。

 

 決して思い出すことのないように。けれど決して褪せることのないようにと、大切に守り続けたソレは

 この暗い水底で、1人残された少女が最後まで願い抱き続けた、古い砂に込めた夢。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みっゆーきクーン」

 

 冬晴れの澄んだ青い空に鈴のような明るい声が響き渡る。

 

 東京都渋谷駅。日本人なら誰もが知るであろう忠犬像の前。休日という事もあり多くの人が往来し(ごった返し)、待ち合わせスポットとしては些か有名すぎるために、いざ着いてからが落ち合うまで大変と評されるこの場所。けれど、目的の人物はすぐに見つけることができた。

 

 本に落としていた目線を上げ、少し驚いた顔でこちらへと振り返る彼。

 

 

「待ち合わせ……一時間先じゃなかったか?」

「そういう貴方だって、もう来てるじゃないですか」

 

 くすくすとおかしそうに笑う私に言い返す言葉が見つからなかったのか、微かに頬を染めバツが悪そうに視線を逸らす。

 

 

 

 四宮家内でも大きな騒動となった誘拐事件の(ほとぼり)もようやく冷めた頃。

 事後報告も兼ねて……結局妙に畏まった文面となってしまった、かの手紙を元に取り付けた今日という日の約束。

 

 2人きりでの買い物という突飛かつ突然の申し出だったにもかかわらず、予想外の二つ返事で了承を貰えて……。彼もまたこんなにも早くから待ってくれていたことに、楽しみにくれていたのだろうかと、期待にも似た淡く擽ったい想いが胸の奥に広がる。

 

 

「というか、なんでギャルモード(ハーサカさん)?」

「……」

「……」

「そりゃあ、同じ秀知院の女生徒と生徒会長がお茶してる姿なんて見られたら、噂になっちゃうでしょう?」

「それは分かるが……え、なに今の間」

 

 

 ピシリと一瞬固まってしまった表情を取り繕いながら、尤もらしい理由を捲し立てる。

 

 ああ、やはりというべきか。素の自分を知る相手というのは、どうにも気恥ずかしさが勝ってしまう。

 なにせ、事件中にはあれほどの泣き顔(醜態)を見られてしまった相手。母やかぐや様以外となれば……まして異性ともなれば初めての相手(ひと)だろう。

 意識しまいと押さえ込もうとするほどに、かえって胸の奥からは羞恥や緊張の思いが湧き上がり、それを隠そうと気づけば彼を前に最も着慣れた無難な仮面を身につけていた。

 

「そう言う御行くんの方こそ、なんでいつもの学生服なんですか。折角のお出掛けなんだから普通もっとこう……あるでしょう?」

「いや、一張羅の方が丁度クリーニング中でな……そんなにダメか?学生服」

「並んで歩く私との対比を考えてください。側から見たら何の集まりかも分からないし」

 

 見慣れた、いや既に見慣れすぎた真っ黒な秀知院の学生服姿にジト目をもって返す。休日の渋谷という浮かれきった空気の中に聳え立つ黒一点。目も回りそうなほど人で溢れかえるこの駅前にて、一発で彼を見つけられたのもそれが理由だった。

 

 かたや気合の入った純白の肩出しニットプルオーバー。かたや別方向に気合の入ったバリバリの学生服。激しすぎるコントラストに、どこへ行くにしても悪目立ちすること必至だった。

 

 

 期待していたのは私だけなのか……そもデートとしての自覚が無いのか。これでは昨日も夜遅くまで懸命に鏡前でコーデを選んでいた自分が馬鹿みたいではないか。

 いや、でもかぐや様とのお出かけの時も学生服だったな、この人。

 

「……分かりました。なら一軒目に向かうお店は決まりましたね」

 

 悶々と湧き上がる想いをため息一つで振り払い、強引に彼の手を引いては休日の街へと歩き出していく。

 

「っ、待て、自転車を買いに行くんじゃないのか?」

「命を助けて貰ったお礼なんですから、それだけじゃとても足り得ません。

 覚悟してくださいね?今日は貴方に奉仕し尽くして、絶対に心から“満足した”って言わせてみせますから」

 

 にっ、と挑戦的でどこか楽しげな、冬晴れの街並みに合う眩しいばかりの笑顔が咲き誇る。

 

 まだ何も知らない。これから訪れる未来のことなど知る由もない。

 あどけないばかりの笑みを浮かべる自身の姿が、其処にはあった。

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア第12話 「古い砂に込めた夢」

 

 

 

 

 

 

 

「御行くんは地のレベルが高いんだから、もっとしっかりオシャレに気を遣ってください。正直勿体なさすぎ」

「いや、圭ちゃんにも似たようなこと言われたが、拘り出したらとてもキリがない…………どこから腕を通せばいいんだ、これ?」

「だったら今日だけは我慢せず存分に着飾ること。こういうセンスは実際に着慣れてみないと身につかないんですから。

 あ、似合ういい感じ♪じゃあボトムの方はもっと派手目に…」

「この季節でこの格好は流石に寒くないか?」

「耐えて。オシャレは我慢です」

「いま我慢するなって言わなかった?」

 

 

 都内有数の衣料用品店(アパレルショップ)。数多くのマネキンが立ち並びポーズを決める煌びやかな店内にて、試着用ボックスに閉じ込めた彼へとアレよコレよと服を手渡していく。人気のブランドや季節の流行り物。ネックレス等のちょっとした小物なんかも。

 

「そもそも御行くん、目つきを気にしてるくせに、どうして眼鏡かけないんです?」

「一度かけ始めたら、逆に裸眼の方はどんどん視力が落ちていくんだろう?だったら無理に頼らず、日常生活に支障のない今の視力(段階)で留めておくのが無難だ」

「本音は?」

「……俺がかけると、どこからどう見てもガリ勉にしか見えない」

「はぁ……」

 

 大方そんなことだろうとため息一つ。ガリ勉どころかおそらく、いいやまず間違いなく日本で一番勉強しているであろう人が何をいうのか。その目のクマだって。本当は努力の勲章なのに、それを本人が恥と感じていることが無性に悔しく思えてならなかった。

 

「ならコンタクトは……ダメですね。鏡の前で上手く入れられず、何度も目を突く様が見える見える」

「アレは痛かった……。目を開けなければ正確に狙いが定まらず、しかし開けていては被害が増す。正に完全なーー」

「はいはいデッドロック、デッドロック」

「……そもそも付けたまま眠れないってのは割と致命的じゃないか?不慮にコーヒーを飲めずに寝落ちしてしまったらどうする」

「そんな危険を心配をするのは貴方だけだと思いますけど……。人のことを言えた義理じゃありませんが、御行くんも大概他人の目を気にしすぎ。それに眼鏡だって、ちゃんと選べば歴としたオシャレになるんですから」

 

 そう言っては店頭に並べてある無地のサングラスをかけてみる。

 

「どうですか?」

「……」

「ど、う、で、す、か?」

「うん、まぁ……………………………可愛い」

「よろしい♪」

 

 長い長い逡巡の末、観念したとばかりにポツリと溢した彼に、満面の笑みをもって返す。

 面と向かって人を褒めることに慣れていないのか、褒められた本人(わたし)よりも褒めた当人の方が照れくさそうな様子だったけれど……呆れ混じりの微かに綻んだ口元からは、遠慮や戸惑いの色が薄れて見えた。

 

 

 サングラスをこっそりと買物籠に入れ、そのまま彼の着替人形化を継続すること数十分。滅多にない機会だ。冬物に限らずいろいろ買い与えて、いっそ自分色に染め上げてしまおうかと、そんなことを画策していたところ。しかし途中、隠していた服の値札……一着ウン十万もするソレが彼に見つかってしまったために急遽ワンランク下のお店での選び直しとなってしまった。

 

 お礼なのだからお金は全部出すと言っているのに、せめて半分は払うと頑として聞いてはくれないのだ。全くほんとに意地っ張りというか、プライドが高いというか……。

 

 

「…ふふっ」

 

 けれど何故だろうか。こんなふうに、互いの弱い内面を知っていながら、だからこそ子供のように意地を張り合える関係というのが、不思議と好ましく思える自分がいた。

 今も試着室の外。今度は彼自身が選んだ服への着替えを待つ……本来なら退屈な筈の時間。しかし口元には知らず柔らかな微笑みが浮かんでいて。

 自分の心などとうに知り尽くしていた思っていたのに、少しずつ……少しずつ胸の中で広がっていく、名も知らない淡く擽ったいような感情。

 

 店内を見渡せば、もうすぐ来る聖夜に向けてのクリスマスムード一色で。自分達と同じように服を選ぶ男女客の姿。プレゼント用にと並べれれた色取り取りのニット帽やマフラーが一際目を引いた。

 これから本格的に寒くなってくる季節だ。自分もプレゼント用に一つ買っていこうか……いいや、どうせ贈るならば感謝の思いを込めて手作りに挑戦してみても……あ、でも編む時間取れるかな、なんて。

 まるで年相応の少女に戻ったかのように、携帯で編み方を調べながらそんなことを悩んでいると、カシャリと目の前でカーテンが開いた。

 

 

「どうだ?」

「……良い。良いんですけどその妙ちくりんなポーズのせいで全て台無しです」

 

 ガイアが俺にもっと輝けと囁いていると言わんばかりに、狭いボックス内で大胆かつ野性味の溢れるポーズを決める彼。だが、どう頑張って見ても右膝を故障したフラミンゴか、ベドナム戦争従軍中のレッサーパンダにしか見えない。そんな姿をどこまでも冷ややか(クレバー)な瞳で迎える。

 

 しかしファッションの方は存外に問題ないようで、スレンダーかつスラリと引き締まった彼似合いのコーデに仕上がっていた。

 

「……なんでカーテンを開けるたびにそう身構えているんだ?」

「……いえ、いつ何かの間違い(ファンブル)が起こって“名状し難き何か”が飛び出してきても構わないようにと……むしろ御行くんの方こそ、極めて常識的(まとも)なファッションセンスを備えていたことに驚きです」

「真顔でそんなこと言う?」

「だって、こと“センス”ってつく言葉については軒並み壊滅的だったじゃないですか、貴方」

「いやいや。そんな筈は……」

「運動センス」

「ぐっ、」

「歌唱センス」

「うぐぐ、」

 

 挙げていく過去の事例(惨劇)の一つ一つに、岩戸のとびらの如くカーテンの奥へと隠れていってしまう彼。

 まあ後に聞いた話では、ファッションについては丁度先日妹の圭ちゃんからキツイお灸を食らって、予め改善済みだったらしい。

 それは有難いことなのだがーー

 

「身構えていた方としては正直ちょっと拍子抜け。もう一回やり直して貰えます?」

「そんな芸人みたいなダメ出しある?」

 

 むすっと隠しもしない不満顔を浮かべる。そんな彼の姿に、また思わず笑い声を上げてしまう自分がいた。

 

 

 その後もよく分からないデザインのサングラスを掛け合ったりと……屈託なくじゃれ合う姿は、周りから見たらどのように映るのだろう。

 仲のいい友達か。兄妹か。ああ、それともーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そもそも、お礼なんて別に良かったんだぞ?」

「だって御行くん、あの事件で自転車が壊れてからは、ずっとバス通いだったじゃないですか」

 

 目紛しく人の行き交う街中を、次の目的地へと向けてひた歩いていく。思いの外服選びに夢中になってしまったので気持ち早足に。

 

 本日の主目的……というより彼を誘い出した口実は、先日の誘拐事件で壊れてしまった彼の愛車を買い直すことにあった。

 

 もともと相当長い期間を利用していたことに加え、犯人を猛追するために高スピード、かつ超長距離を見事走り抜いた車体は、果てには車軸やフレーム本体が大きく歪んでしまうほどに損耗しきっていた。

 修理できたとしてもテセウスの船。買い直した方が早いと……そう自ら語る彼であったけれど、長い間愛用していた分思い入れも深かったようで。残念そうに息を落とすその横顔は今も胸に残っていた。

 

 

「毎日のバス通いともなれば、時間的にも金銭的にも相当な負担になっていた筈……そんな無理を強いたまま、見て見ぬふりすることなんて出来ません」

 

 何よりプライドが許さない。そう豪語しては未だ遠慮を捨てきれない彼を強引に引っ張っていく。悠々と街を闊歩していく私の背中に、どうしたのか彼は数秒……何かを言い淀むように視線を迷わせ、口を開いた。

 

「早坂の方は、もう大丈夫なのか?」

「?はい。傷の方も、見た目ほど酷い怪我ではなかったですし、跡が残る心配もないそうです」

「怪我もそうだが……」

「……大丈夫ですよ。本家からの追求も収まりましたし、私の方も、気持ちに整理が出来ましたから」

 

 事件の際に負った額端の傷。今は髪の下に隠したそれに触れつつ、柔らかに微笑みかえす。

 

 それは本当のこと。あの事件の背後で秘密裏に行われていた本邸執事達からの理不尽な人事圧力……私たちをかぐや様のお付きから解こうとする動きは、かぐや様本人による徹底抗戦の意思を受けてからは、すっかり影を顰めてしまった。

 本邸執事といえども所詮は使用人。直系の御令嬢たる彼女の逆鱗に触れるのは流石に拙いと感じたか、そもそも黄光(あの男)の意志が絡んでいない案件であったか。今はまだ本邸から派遣された執事達が数人別邸に出歩いているものの、かぐや様の目が行き届いている限り、もう以前のような大きな顔も出来ないだろう。

 何より、かぐや様の生活をお世話をするのは本邸執事達にも難しいようで……

 

『休暇なんて早く終わらせて戻ってきなさい。好みのお茶一つ満足に飲めない生活なんてストレスが溜まるだけだわ』

 

 呆れ混じりにため息を溢す主人。刺々しい言葉のようだけれど、あの事件を通した後だからこそ分かる、そこには確かな信頼と芳情を感じられて。

 

「………。私はこれからもかぐや様(あの子)の近従を続けていけます。まあ、目の回るような忙しさであることには変わりありませんけど」

「……。そっか」

「っ、!」

 

 可笑しそうに笑う私に、小さくそれだけを零し、くしゃりと撫でるように私の頭へと手を置く彼。

 らしくもない突然の行動(スキンシップ)。予想だもしていなかった行為に思わず胸が早鳴り、平静を無理に取り戻そうと気がつけば言葉を捲し立てていた。

 

「そ、そのお礼(お返し)なんです。中途半端で済ませることなんて出来ません。

 貴方の趣味嗜好を徹底的に調べ上げて最高のプランに仕上げて来ましたから、御行くんなんて(・・・)今日一日周り終えた頃には、きっと喜びに嗚咽しているでしょうね」

「そんなに?」

「ええ。そのプライドの鉄仮面も投げ捨てて悶絶すること間違いなしです」

 

 ふふん、彼のプライドをくすぐることも分かって、敢えて挑発的に笑ってみせる。予想通りか、或いは合わせてくれたのか、「ほう……」とどこか不遜な表情で私の挑戦(言葉)を受け入れてくれた。

 

「わかった。だが俺とてこの八面玲瓏ぶりで秀知院学院の生徒会長(トップ)にまで上り詰めた男だ。そう簡単に醜態を晒したりなんてしないさ」

「本当に?言いましたね?」

「ああ。絶対、早坂に悶絶させられたりなんかしないーーー!」

 

 

 

 

 

 

10分後

 

 

 

 

 

 

 

「にゃー」

「にゃあ“あ”あ“あ”あああ!!!おかわぁぁぁああ!!!」

 

 

 

 

「……一軒目から完落ちじゃないですか」

「いや負けてないが?俺を負けさせられたら大したもんであ“あ”ああああ 太ももフミフミしてるぅぅぅ!!?」

 

 足元からよじ登る小さな生き物の姿に、法悦の声をあげる彼。胡座をかいた足の上でモフモフと。それでいて柔らかくしなやかな体をスリスリと擦りつけてくる姿に悶絶の叫びを上げている。

 

 訪れたのは都内でも有数の人気を誇る『猫カフェ』。ポテポテと短い脚での足取りが可愛いマンチカンや、長い毛並みが優雅なソマリなど数々の人気どころを揃え、加えて特に人懐っこい子ばかりを集めたこのお店は、猫の方から積極的なスキンシップを取ってくれるということでファン急増中のお店となっていた。

 

 普段の彼ならばプライドの高さが邪魔をして決して1人では入れなかっただろう店。子どもの頃から大の猫好きではあったけれど、しかし経済的な理由から飼うことも許されなかった彼にとっては、其処は正に天国に近しい場所で……。

 

「さっきのことは謝る……いやほんと、ぐすっ……ほんと連れてきてくれてありがとう」

「泣くほど?」

「だってあり得ないだろう、なんだこの可愛いさ。柔らかさ。世界が平和になってしまうぞこれ」

「ちょっとなに言ってるかよくわからないです」

 

 いまやその魅力に陥落し、四方八方から我が物顔でよじ登ってくる猫達にされるがまま埋もれいく彼。だというのにその表情切ないくらいに幸せ顔だ。

 

「なんだ。早坂は猫苦手なのか?」

「苦手というほどじゃないですけど……」

 

 彼の背の上でのんびり香箱座りする茶猫と、じっと目が合う。

 そう、この目。大きく透き通って、それでいても深い色の双眼に見つめられると、なんだか心の奥底まで見透かされているようで酷く居た堪れない気持ちになるのだ。

 

「それに、猫って自分が『母親』って決めた相手以外にはなかなか懐かないし」

「……」

「かと思えば、慣れない相手にはいい顔見せようとすぐ本心隠して猫被るし」

「……」

「なんで私の顔をじっと見つめるんです?」

「いや、なんでも」

「にぃ〜〜」

 

 盛大に目を逸らしては、ぶらーんと肩にぶら下がっていた子猫を腕の中であやす彼。指で顎の下を撫でれば気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らし喜ぶ声がこちらにまで聞こえてきそうだった。

 他の猫たちも膝の上で盛大に伸び(・・)をし、甘えるように彼の手のひらへと額を擦り付けている。

 

「………」

 

 ああ、そんな姿を見ていると……自分もあんな風に素直に甘えることができたら、受け入れてもらえるのだろうか、なんて。羨ましさにも似た感情が芽生えてしまう。

 

「早坂?」

「っ、なんでもありません」

 

 知らずとん、と。もたれるように彼へと寄せていた肩を、慌てて引き剥がしては立ち上がる。誤魔化すように時計を見やれば時刻は既に11時30分。予定の時間を20分近くもオーバーしていた。

 

「ほらっ、そろそろ次の場所に行きますよ。猫ちゃんどけて」

「ええ……」

「そんなこの世の終わりみたいな顔浮かべないでください。まだ一日は始まったばかりなんですから」

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

『よろしいのですかな?』

 

 ティーソーサーを置くカチャリという音ともに、皺がれた厳格な声が響く。

 

 漆黒の執事服に身を纏い、オールバックにまとめたシルバーブロンドの髪。片目にのみ銀色のモノクルを携えたその佇まいは、面と向かうだけで圧のようなものを感じる。元来は早坂愛を始め、別邸の使用人たちの左遷を目的に訪れた本邸お抱えの老執事。

 

 しかし罷免の話も白紙に戻った現在となっては、その落とし前として唯一人別邸に残り、早坂愛が休暇を取る数週間の間、代理として主人である四宮かぐや仕えることを約束立てていた。

 

 いわば期間限定の近従代理。無論、立場の異なる別邸使用人達との間に軋轢が生まれなかったわけではない。元々は自分たちの職を奪おうとしていた相手。不信や猜疑心は抱くのは当然のことだろう。

 が、それも。こうして数週間を経た今では少しずつ変わってきたように思う。

 彼が近従を勤めるようになってからは、普段の5割増しで繰り出されるようになった主人の我儘。昔話のお姫様もかくやと思われるほどの無理難題に晒され続け、しかし弱音の一つ、嫌な顔の一つ漏らさずに、老体一つに鞭打って懸命に応える様には、流石に思うところがあったのか、初めは白い色ばかりを孕んでいた使用人達の視線も、今では随分と軟らかくなったように思う。

 

 本来の地位を考えればこのような汚名を被る必要もない身分。だがそれでも甘んじて受け入れているのは本邸執事としての意地かプライドか。噂によれば、もとはかぐや様のお母様、名夜竹様に縁のある人物だというが……真実は定かではない。

 

 

『何が?』

 

 そんな彼に出された紅茶へ一瞥をくれることもなく、不機嫌さを隠そうともせずに応える主人。

 

『早坂の件です。本当によろしかったのですかな?』

『……いいのよ。あんな事件の後だもの。徒に家で安静にしてるより、ショッピングにでも出かけて気分転換する方がいっそ健康的だわ』

『……ふむ』

 

 テーブルの上にどかりと乗った四角い機械を相手にダイヤルやらボタンやらをアレコレと操作している主人の姿に、静かに息を溢す。

 使用人がとある目的のために用いるソレだが、電子機器全般に疎く、且つ初めて触れるかぐや様にとっては扱いが難しいかもしれない。

 努めて平静を装っていながら、それでも穏やかならざる内心を隠しきれないご様子のかぐや様。思うように動いてくれない機械への苛立ちか。いいや、それ以前にーー

 

『もう一度お訊ねします。本当によろしかったのですか?』

『……貴方も大概しつこいわね。いいのよ、私は会長を信じてるからっ!』

 

 主人の不機嫌の原因について、老執事にもおおよその予想はついていた。

 “彼”が主人の想い人であること。同時に、早坂が“彼”と向ける秘めた慕情も。少女達の何倍もの時間を生きてきた老執事()のことだ。その洞察など見抜くことなど赤子の手を捻るようなものだった。

 

 それが、かぐやにもわかっているのだろう。向けられる老執事の視線に、面白くなさそうにふん、と息を吐く。

 この老人(おとこ)、要はこう言っているのだ。

“想い人を盗られそうだが、大丈夫か?“と。

 

『大丈夫よ。どうせ早坂(あの子)のことだもの。今頃またあの夢と予定を詰めこすぎたタイト過ぎるデートプランを掲げて、会長に呆れられてるに決まっているわ』

 

 以前、後輩の石上君に”夢見すぎ“とバッサリ切り捨てられた横浜デートプラン。恋愛経験に疎いために想いばかりが先行し、秒単位のスケジュールに埋め尽くされ、常人にはとても遂行不可能とまで称されたかの計画。

 

 ああ、そうだ。あんなの嫌がられるに決まっている。

 普段から身を焼くような多忙さに慣れ。過密スケジュールをも難なく乗り越えられる程の気力と体力を持ち合わせるような人でもなければとてもーーー

 

『彼なら割とどちらの条件も満たしていませんか?』

『っ〜〜〜!!』

 

 気付いていた。しかし敢えて意識していなかった図星を突かれ、苦悶の声と共に何かビキリと嫌な音が響く。回していたプラスチック製のダイヤルが、その弓道により鍛えられた見かけ以上の握力に晒され、砕けて割れたようだった。

 

 その後続いた数秒の沈黙。深呼吸の声。

 自らを宥めるために紅茶を飲んだのか、陶磁器(ティーソーサー)が触れ合うカチャリとした音の後には、幾らか落ち着いた声が聴こえてきた。

 

『だいたい今の早坂じゃ、会長と碌にお話なんて出来ないわよ』

『ふむ……その心は?』

『……あの子の仮面は自分を守るためのもの。その場限りの嘘を貫き通し、弱い自分を覆い隠すための。

 でもね?本当に誰かを好きなったら“その場限り”でなんて居られないでしょう?』

 

 誰かを好きなれば、もはや今まで通りの関係ではいられない。その場限りの嘘を重ね騙し通していた相手ではもう留められない。胸の内から湧き上がる感情の渦に、自分自身もまた、否応なく変わらざるを得なくなる。

 

 本当に誰かを好きになって、自分の将来をも共にしたい相手だと、そう意識した時ーーあの子は果たして今のように涼しい顔を浮かべていられるだろうか。自らを守るその分厚い仮面を棄てる勇気が抱けるだろうか。

 

『仮面を棄てない、という手もあるのでは?』

『それこそ残酷な未来でしょう』

 

 好きな人にさえ嘘をつく罪悪感。いずれは本当の自分を見てほしいという欲求が抑えられなくなることを分かっていながら、仮面を外すことへの恐怖は日に日に増すばかり。そんな未来にどうして幸福を思い描けるだろう。

 

『……面倒臭いとか奥手(ヘタレ)とか、散々私のことを馬鹿にしてきたけれど、あの子だって恋愛については素人同然。どうせ今だって、会長相手に無意識に仮面を身につけて外せないでいるに決まってるんだから』

『……なるほど。それがかぐや様には勝てない理由だと』

『ええ、そうよ。何より……そう、何よりっ!私は会長のことを信じてますからね!』

『それは先ほども聴きました。あと、そういう強気な発言は盗聴器(それ)を外してからが宜しいかと』

 

 ザザッと微かに入るノイズの音。テーブル上の機械に繋がり、今も少女の耳に取り付けられた巨大なヘッドホン。

 大方、デート中の様子も含めて、こちら(・・・)の動向を四六時中監視する目論見だったのだろう。

 

『……ちなみに、盗聴器の子機というのは、普段我々が使用している?』

『……?ええ。そうよ』

『洋服のボタンに偽装した?』

『ええ。だからなんなのよっ?』

『…………。』

 

 ザザッッ

 

『一つ、襟元に付いておりました』

『え……?は………?』

 

 

 ザザッ!ザザザッ!

 

 

『えっ!?ちょっと待って!

 まさか逆盗聴!!?早坂これ聴いてーー!!?』

 

 

 

 ブツンーー

 

 

 

「おーい早坂。注文通りタピオカミルクティー買ってき………どうした?」

「いいえ?なんでも?」

 

 ピキピキと。笑顔の横に怒りのマークを浮かび上がらせながら振り返る私に若干たじろぐ彼。

表情こそすぐさま取り繕ったが、頭の中では小馬鹿にしたようなかぐや(あの子)の声がいつまでも繰り返し反響していた。

 

どうせ何も出来やしない

今日もメソメソと泣きながら帰ってくるに違いないとーー

 

(上等です)

 

 ああ寧ろ丁度いい。未だ臆病さを捨てきれなかった心を、こうして憤りが後押してくれるのだから

 

 

「それより御行くん、今日は夜遅くなっても構いませんよね?」

「ん、ああ……。圭ちゃんにもそう伝えているが」

「だったら予定変更。一つ行きたいところがあるんですけど……お付き合いいただけますね?」

「っ!?おい早坂!?」

 

 華やかにニコリと、しかし有無を言わさぬ迫力の笑顔を携えては、彼の手を引っぱり走り出す。

行き交う人たちの間を縫うように。もう取り繕う必要はない、しつこく追ってくる監視人(あの子の目)さえも遠く置き去るように。

 

 陽光差し込む明けの街角から突然始まる逃避行。それはさながら映画で見たワンシーンのように。

 ビルの間から映る冬空はどこまでも澄んだ群青。

 

 同じ色を湛える少女の瞳には、ある一つの決心が浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 


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