水へ溶けいく泥のように、輪郭を失っていく記憶の砂。模られていた風景がガラリと崩れ、また墨色の湖底が覆いだす。
それからのことは、よく覚えていない。
その後の彼とどんな言葉を交わしたか。どんな別れ方となってしまったかも、酷く曖昧で。
抱えきれない哀しみの多寡にすべてを忘れてしまいたかったのか。恥も外見もなく泣き崩れてしまったように思うし、ハリボテの仮面を被ってはまたその場限りの嘘で取り繕ったようにも思う。
気が付くと、私は四宮邸の正門前に立っていて……あの子が予見したとおり、涙に目を泣き腫らした顔で。
正門をくぐれば、立ち塞ぐように出迎える老執事の姿。四宮家の使用人の身でありながら、これほどに帰館が遅れるのは何事かと、厳格な表情に頬の皺を一層に深めて。
浴びせられる叱責はやむことはなく、けれどどんなに冷たい罵声の言葉も、深く沈み果てた心には露とさえ響くことはなかった。
老執事の後ろ、淡い緋色の寝服に身を包み、ひっそりと隠れるように佇むかぐや様。
浮かぶ表情はどこか後ろめたそうで。逆盗聴のことを問い正したいけれど先にしかけたのは自分の方だからと、怒るに怒れない微妙な顔をしていたけれど……
その表情も、俯く
「そもそも貴様の主人に対する態度はいつもいつも」
「黙ってなさい」
「ええ……」
ピシャリと有無を言わさぬ一言。貴方が“代わりに叱ってくれ”と頼んだのですよねと、困惑顔の老執事になど目もくれず、ゆっくりとした足取りで
揺れる黒髪に隠れた表情はよく見えない。
ううん。私の方が、その顔を直視するのが怖くて……怯えた顔をいつまでも上げられないでいた。
「……会長に、想いは伝えられた?」
「っ……」
響く静かな声に、首だけをふるふると小さく震う。
拍子に溢れる涙の雫。どれだけ堪えようと瞼の奥から溢れて止まないそれが、月明かりに虚しく輝いていた。
……今の彼女に、私の姿はどう映るだろう。
普段あれだけ“臆病”と罵り。早く告白すればいいなどと無下に煽っていながら、何も出来ず逃げ帰ってきた私。
自身の想い他人を盗ろうとした
どれだけ嗤われようと仕方ない。たとえどんなに蔑まれようと、言い返す資格さえない。
惨めに泣き暮れることしかできない今の私を、貴女は――
「っ……」
不意に。視界いっぱいを覆う淡い緋色。
背中にそっと回された細い腕。冷く凍え切った体へ染み入るように伝う温もりに、抱き締められたのだと分かったのは、随分と時間が経ってからだった。
「か、ぐや…さま?」
「……」
震える問いかけの声にも答えず。けれど咎めることも、責めることもせず、抱きしめる手を離さない少女。
泣きくれる少女を慰めるように。
ただ深く、その痛みを分かち合うように。
「ほんとうに……どうしてこんなにも、儘ならないのでしょうね」
紅い瞳に灯る悲しみの色。
私よりもずっと早く、恋を知った彼女。
告白の怖さも。失恋の痛みにも。ずっとずっと、怯えてきた彼女だからこそ……
(ああ……どうして)
どうして、貴方達でなければならないのだろう。
貴女の想い人が彼でなければ
貴方の想い人が、彼女でさえなければ
ああ。私はきっと、力づくにだって、奪えていたかもしれないのに
「ぅ……ぁ――」
伝わる
あるいは……“敵わない”と。心が認めてしまったように。涙は溢れて、止まってはくれなくて。
淡い月明かりが照らす下、誰に見られることも無いよう抱きしめられた貴女の胸の中。
声を殺すこともなく、感情を隠すこともなく、私はただ子供のように泣き続けた。
それは
この胸に芽生えた想い。初めて抱いた恋心への。
咲いてしまえば散ってしまう。自分自身の手で、刈り取らなければならない花。
ならばせめて、咲かず、枯れず、美しい蕾のまま。どうかこの想いが、決して色褪せることのない思い出となるように。泣き噦る幼い私を一人冷たい心の底へと置き去っては、この想いを
これから貴方達2人が歩むであろう道。多くの心無い大人達、多くの困難が立ちはだかるその旅路にて……私だけは、大切な2人を支える良き友人で在れるように。
どうか貴方達の前ではちゃんと
ああ、なのに
(なのに、どうして?)
『どうして、あの人の告白を断ったんですか』
抱く想いなどとは裏腹に、無情にも過ぎ去って行く
分からなかった。貴女の心が。
いったいどうすることが、正解だったのか。
想いを封じ、冷たく色褪せた心では、答えを見つけることさえ叶わなくて。
『さようなら、早坂。あなたは私には過ぎた近従だったわ』
何故という嘆きも疑問も虚しいまま、遠い世界へと行ってしまう愛しい人達。
あの温かった時間。胸に残るこの思い出に縋るのは、私だけだというように。
「諦められなかった。受け止めることなんて、出来る筈がなかった」
どうすることも出来ない事情があったのだと。そう信じずにはいられなかった。
ああ。そうでなければ、いったい何のために私は――
貴方がスタンフォードへと旅立つ日。家族や生徒会メンバー、貴方を慕う多くの人が見送りに集った空港で……。私もその場所に訪れていた。誰にも見つからぬ隠れた場所で。怯えるようにただ一人。
本当は貴方を引き止めるため。
もう一度、あの子の本心を確かめて欲しいと、訪れた空港だったのに。
永い別れの時を前に、いつになく目を潤ませてしまった妹を宥めるように、穏やかな笑顔を浮かべる貴方。心配ないと。向こうでも上手くやって行けると。信頼に応え、皆を安心させるように浮かべた顔は――けれど私にだけは、全く違うものに映っていた。
本当は“どうして”と叫び出したくて。
今にも泣き崩れそうな心を、必死に押し殺して。
ああ。出来るはずがなかった。分からないはずがなかった。
だってそれは私が教えた演技。
私が浮かべる
告白を断られた相手に、もう一度想いを問いただす。
そんな私には叶わなかったこと……私自身が恐れに逃げ出してしまったことを、どうして同じ傷を抱える貴方1人に押し付けることが出来るだろう。
トランクを引き、遠くなって行く貴方の背中に意味もなく手を伸ばす。
それでも、貴方の歩む道先が、決して明るいものではないことだって、目に見えていた。
壊れかけの心を抱えて。誰の助けを得ることも出来ない、遠い異国の地で独り。
その先にどんな冷たく悲惨な未来が待っているかなんて――
それは数ヶ月後、圭から助けを請われるずっと以前から、分かっていたことだったのだ。
「“もう届かない彼女と、まだ手を伸ばせば届くかもしれない彼とを天秤にかけた”」
“嘘つき”
本当は、ただ哀しかっただけ。
離れていってしまう貴方が……かつて私を助けてくれた貴方までもが、あの子と同じように、遠く心も見えない存在になってしまうことが。
「"貴方をかぐやへと繋ぐための蓬莱の薬として利用した"」
“嘘つき”
浮かぶ言葉は言い訳ばかり。そんな
ソレはきっと貴方も同じ。
一つ屋根の下で共に暮らす。そんな他人が聞けば誰もが邪推の一つでも起こしそうな環境で、それでもお互いに意識することを避けていたのは……敗れたばかり恋心が知らず“そういう気持ち”を抱くことを恐れていたから。
同じ傷を持つもの同士。本当は弱い心を持つもの同士。
嘘と言い訳に塗れた、互いの傷を舐め合うような愚かな日々。
(ああ、けれど)
そんな日々でも、愛おしいと思ってしまった。
失くしたくないと願ってしまった。
初めはお互いにボロボロで。
相手を想うことにさえ臆病にしかなれなくて。
それでも、少しずつ。少しずつ
同じ時間。互いを想う優しさを分かち合う中で、築きあげていった繋がり。
貴方は“私に救われた”と言ったけれど、それは違う。
近従としての誇りも、自分の気持ちの在処さえも無くしてしまって。
何が正しい選択かも分からない。怯えと不安に埋もれた心を救ってくれたのは、いつだって貴方の……
「貴方を騙すことへの後ろめたさを抱きながら、胸の中に溢れる名前も知らない感情を振り払うことができなかった」
“嘘つき”
本当はずっとずっと胸に抱いていたこの気持ち。
一度は諦めてしまった……凍らせてしまった想い。
ああ。そこにまた熱が灯る喜びを、いったいどれほどの言葉で言い表すことできただろう。
”幸せになってはいけないと思った”
”いつも、あの子への罪悪感を感じていた”
それも全ては――貴方と過ごす日々が、抱えきれないほどの幸福に溢れたものだったから。
ああ――けれど。だからこそ。
日々胸の中で大きくなっていく期待が恐ろしくて仕方がなかった。
殻を破り、咲き始めてしまった心の花。
もう忘れることはできない。蕾として抑えることも叶わない。
「幸せに溺れ、いつかあの子を思い出しもしなくなる。そんな自分になってしまうのが恐ろしかった。」
“――――嘘つき”
本当は……本当は、ただ怖かっただけ。
もし胸に溢れるこの想いが、私だけのものでしかなかったら
抱く幸福も、そう思える理由も、単なる勘違いでしかなかったら
膨れ上がるこの期待を抱いたまま、もしまた、貴方に“あの言葉”を言われてしまったら
私はきっと―――もう二度と、立ち上がれなくなってしまうから。
私の心は、あの時のまま何も変わらない。
ずっとあの夜に囚われたまま。
言えなかった告白の言葉を、いつまでも胸に抱え続けている。
あるいは何かが違っていたら
あるいはほんの少しの勇気を持てていたなら
今とは違う、もっと別の未来を歩めていたのかもしれない。
そんな虚想に溺れながら、幾度眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
募る想いが大きいほどに。忘れ消し去ろうともがくほどに。重く縛りついて離れない心の鎖。
夢みる過去は暖かく、だからこそ一度瞼を開ければ否応なく飛び込んでくる見慣れた天井に、瞼の奥が熱を帯びる。決して変えられぬ現実の姿。かつて己が選んでしまった道の果てに、たどり着いた当然お似合いの末路。
――嗚呼。自分はこんなにも弱かったのだと。
目の横を伝う生温い何かに、また声にならない哀咽が溢れた。
「――……」
遠く、誰かの呼ぶ声がする。
冷たい水底に沈み、溺れ行く私を掬い上げるように。
暗闇に差す暖かな光。傷つき凍えた手のひらを包む微かな温もり。
ああ。知っている。
何度も求めて。何度も振り払おうとして。
けれど出来なかった愛おしい温もりに、知らず涙が溢れる。
こんなにも苦しいのに
こんなにも哀しいのに
私の心はまだ、貴方の手を求め続けている――。
■□■□
「早坂っ」
彷徨うように、力なく伸びた手を知らず掴んでいた。
呼びかける声に微かに意識を取り戻したのか、薄く開いた少女の瞼。
けれどその瞳は朦朧と、目の前にある少年の姿さえ映せているか定かではないような、力の無い色をしていて。
微かに溢す吐息も焼けた喉の痛みに苛まれるように、表情には苦悶と涙の跡ばかりが残る。
それでも。動かない体に鞭打つように、むり無理矢理にベッドから起き上がろうとする彼女。
「駄目だ。頼むから、これ以上無理をするな」
「……」
そっと肩を押さえ、必死に静止を呼びかける。懇願にも似た少年の声が届いたのか、また力なくベッドへと沈んでいく少女だったけれど……その瞳は涙に溢れ。力なく伸ばされた、細く震える手だけが、求めるように少年の顔へと伸びていた。
頬に触れる少女の熱い手のひら。
何も言わぬまま。言えぬまま。哀しげに瞳を潤ませ、それでも慈しむように撫でる小さな手。
「どうして……」
『どうして――』
あの日、スタンフォードで再開したあの日にも、貴方の口から溢れた言葉。
突然の来訪に対する理由。胸の内に隠した、後ろ暗い想いを見透かしたかのような。ずっとずっと、聞かれるのが恐ろしかった言葉。
『
けれど本当は、それ以上に。
貴方に向けられた疑惑に満ちたその視線が、
再開を素直に喜ぶことも出来なくなってしまった心が、ただただ哀しかった。
「心配だったからじゃ……ダメですか?」
掠れた声で紡ぐ。怯え震えた声で捧ぐ。
あの日に言えなかった言葉の続きを。
「ただ、側に居たかったからでは、ダメですか?」
あの夜、あの星空の下。
貴方に伝えたかった、本当の――
「貴方を好きになっては――ダメですか?」
■□■□
揺らめくカーテンの合間、微かに差し込んだ月明かりに目を覚ます。
汗で張り付いた髪を拭いながら重たい体を起こせば、部屋は既に暗がりに沈み。窓の外に映る夜空。時計を見れば既に深夜3時を回っていた。
昼間に比べれば大きく引いた熱。免疫機能によるウイルスの焼却は無事終えたのか。未だ体の痛みや倦怠感は残れど、慣れ親しんだ自身の体調を鑑みれば、後はもう回復に向かうだけだと分かる。
あともう一休み。このまま眠り、もう一度を目を覚ます頃にはきっと
「――……」
微かに聞こえた寝息。自身の眠るベッドの足元を見た途端、どきりと心臓が高鳴った。
フローリングに座り込んだまま、上半身だけベッドに突っ伏するように眠る彼の姿。
看病の途中、疲れにそのまま寝入ってしまったように。深く長い寝息は、負った疲れの程をそのまま表すようだった。
今も眠る彼の左手に、繋がれたままの自身の右手。
こうして目のあたりにするまで、気付かないほど自然に。違和感を覚えないほどに。
それだけ永い間、ずっと離さないでくれていたのだと。
――分かっている。暗闇の底へと溺れてしまいそうだった意識。
ああ。きっと離そうとしなかったのは私の方だと……。
理由もなく、誰に言われるまでもなく、確信できてしまうことだった。
『貴方を好きになっては――ダメですか?』
夢現に覚えている。
昼間の出来事。貴方に伝えてしまった、その言葉も。
自覚してしまった気持ち。
既に咲ききってしまった花。
貴方と、この生活を続けるために守らなければならなかった……最後の分水嶺。
その額にそっとキスを落としては……零れた涙が、彼の頬を伝った
ああ、もう
「――もう、
作者の心の中
悪魔「抱けぇ!抱けェー!!」
天使「どうどうwww」
悪魔「お前ホントいい加減にしろよマジで!」
中編に詰め込みすぎてしまったので今回は短めに。
次回、最終回「白銀御行は告りたい」
とうとう大詰めです。