例の如く長くなってしまったので前後編です。
恋愛とは好きになった方が負けである。
恋人同士の間にも明確な
尽くす側と尽くされる側。
搾取する側とされる側。
『惚れた弱み』なんて言葉はまさにその妙で。
だからもし貴方が誇り高く生きたいと願うのならば、決して自ら告白しようなどと思い抱いてはならない。
それは自らの全てを捧げ尽くす、『敗者』と認めるも同義だから。
恋愛とはすなわち戰の場。
意地とプライド。己の全てを賭けてぶつかる場。
ああ。その考えはーー
「今でも、間違いじゃないって思ってる」
■□■□
微かな鳥の囀りが耳を擽る。木々の合間から顔出したばかりの太陽が、朝露纏う外気に白いべールを織りなす頃。
「それじゃあ行って来る。……くれぐれも無理だけはしないでくれ。まだ病み上がりなんだから」
「分かっています。御行くんの方こそ、しっかり頑張ってきてください」
今日を逃したら最期なんですからね、と。
そんな念を押すような言葉と共に見送られる玄関口。重いリュックを肩に背負いトントンと靴の踵を鳴らしながら、廊下に立つ寝服姿の早坂へと振り返る。
夏季休暇に入る以前より延期されていた『情報電子学』の試験。
スタンフォード大学自然科学科一期過程の功科を決める最後の関門であり、この結果次第で2回生進級への合否も決まる。
出題難度もさることながら追試を望むことさえ難しい現状。ただ一度の
「何か必要なものはあるか?帰りに買ってきて欲しいものとか……」
そんな渦中だというのに、どこか後ろ髪を引かれるように玄関へと振り返る白銀。
出立の間際、おもむろに出した提案に対して、けれど少女は淡く微笑みながら首だけを横に振った。
……やはりまだ声を出すのは辛いのか。
今朝方、目を覚ました頃には幸いにも熱は大きく下がり、ベッドから起き上がれる程には体調を回復させていた早坂。
それでも未だ体に残る傷跡は大きく、一人では満足に出歩くこともできないこと。碌に体を動かせる状態にないことは、彼女の様子や時折浮かぶ苦しげな表情から痛いほどに察することができた。
本来なら今だって安静に寝ておくべきなのに……それでも、せめて見送りだけはさせて欲しいと。請い縋るような彼女の瞳に負け、こうして玄関までの同伴を許していた。
病に苦しむ彼女を一人家に残すこと。その後ろめたさと胸によぎる微かな予感が。白銀の足を重く引き留めていた。
「夕方までには帰って来れる。全部終わって、早坂の体調も戻ったらーーー休暇ももうすぐ終わりだ。遠出や外泊になってもいい。2人で行きたい所に行こう」
「……ええ、楽しみにしています」
それでも迷いを振り払うように、意を決して開け放つ扉。
此処で不甲斐ない姿を見せれば、余計に彼女へと不安を与えてしまうかもしれない。
全ては今日という日を迎えるため。その先に続く未来へと繋げるため。どん底とも言える環境から、必死に2人で積み上げてきた半年間だったのだから。
屋外へと顔を出した瞬間、眩いばかりの陽光が視界を包みこむ。迎えるのは晴天と澄み渡る夏の青空。
「いってらっしゃい」と、囁かれる言葉に背中を押されながら、大学へと歩き出していく少年の脚。
およそ半年前に纏っていた暗い影など微塵も感じさせない。逡巡なく、真っ直ぐに前だけを見据えた瞳は、かつて失くしてしまった自信を取り戻した確かな証で。
光に燦々彩られたレンガ道は、これから少年が歩む
「---」
ああ、けれどだからこそ。
別れの際。か細く消え入りそうな声で紡がれたもう一つの想いは、その耳に届くことはなかった。
ゆっくりと。重い扉が閉まりゆくごとに、途絶えていく外の
眩しさに滲み、溢れ出す涙に霞み、目も眩むような光の向こうへと消えて行く貴方の背中。もう二度と見ることは叶わないその姿に……耐えきれず、頭を下げていた。
「ごめん、なさい……っ」
零れ落ちるいくつもの雫が廊下を濡らす。痛む喉が鳴らす掠れた声で、それでも溢れ出る謝罪の言葉を止めることができなかった。
決して赦される筈もない。決して、伝えられない想いと知っていたから。
それがどれだけ酷い裏切りか、わからない筈がなかったから
温もりも途絶え静寂ばかりが包む家の中。震える肩を支えてくれるものは無く、嗚咽混じりの懺悔だけが、ただただ虚しく響いていた。
遅咲きブーゲンビリア 最終話
「白銀御行は告りたい」 前編
時折ガタンと。揺れるバスに身を任せながら、窓の外に過ぎゆく街並みを悄然と見つめる。
一年を通して活気を忘れ得ないサンフランシスコの街並み。街道は今日も今日とて朝の通勤に行き交う人々の波で溢れ、まだ眠そうに欠伸を噛み殺し、多忙という名の日常に挑み行くその姿は……それでも、ただ逃げいくだけの自分には酷く眩しいものに見えた。
鉄筋コンクリートの森を抜け、郊外に続く道まで来れば景色は一転、カリフォルニアに横たわる広くなだらかな大地が迎える。どこまでも続くような緑丘と、それを包む澄み切った蒼空。雄大なばかりの自然の風景が、此方の心境など知りもしないというように、ただ穏やかに広がっている。
およそ半年前に見た景色とは
以前に比べれば酷く少ない……事実、夜逃げ同然の荷物だけ纏めたトランクを胸の中に抱きしめたまま、その奥からあふれ出しそうになる感情の波を必死に抑え込んでいた。
僅かにでも気を緩めれば……ほんの少しでも自分の気持ちに正直になってしまえば、また埒もなく泣き崩れてしまいそうで。
外見と体面を取り繕うため、また知らず知らずのうちに被っている無表情の鉄仮面。こんな時くらい自分の想いに素直になれてしまえばいいのに……それも赦さない。骨の髄にまで染み込んだ演技の
耳を澄ませば、重く、遠く聞こえ始めるエンジン音。空気を裂いて甲高く響き渡るソレは、次第にバス全体を包み込むほどの轟音へと変わっていく。
窓の外を覗けば今もまた一機。陽光を遮る巨大な機械の翼が、遠く陽炎の滲む滑走路へと降り立っていた。
『"Good morning passengers. This is the pre-boarding announcement for Spirit Airlines to ーーー“』
『"Attention on DELTA Airlines flight 325 to New York. The flight has been delayed due to bad weather ."』
「あと……1時間……?」
たったの……?
様々な航空アナウンスが飛び交う空港ロビー。今も壁一面を埋め尽くし、刻一刻と表示を切り替える電光掲示板を前に一人呆然と呟く。
ロサンゼルス空港発、
予約を入れたその便の発着までには随分と余裕を設けていた筈なのに……実際には搭乗検査等を含めれば、もう数十分とさえ残されていない。
こうして見上げる時計の
それほどまでに。
「………」
目前に迫った抗いようのないタイムリミットに、今しがた歩いてきたばかりの空港ロビーへと振り返る。正しくはその先……今も多くの人が行き交うの
嗚呼、何を白々しい。
敢えてそう重なるように。万が一にも、貴方が
もう、この時間。
瞳を閉じれば自然と想い浮かぶ、広い大学の階段教室、厳しい表情を浮かべながらも確かな自信を瞳に教壇へと挑む貴方の姿。
かつての自信を取り戻して。今はもう自分の足だけで立って。夕暮れに沈む大学の屋上、淡い紺色へと染まりゆく宵初めの空を目に、まだ見ぬ遠い未来への夢を語ってくれた貴方。瞬く星々へと手を伸ばす姿はとても眩く、誇らしく……
ああ。けれど同じく胸の奥に芽生えてしまう切なさ。
もう、私の助けは必要ないのだと。
果たしてしまった貴方の隣に居るための
見え始めた日常の終わりに、ただ目を伏せて俯くことしか出来なかった。
こんな結末が来ることも。
こんな生活が永くは続けられないことだって、全部全部、分かりきっていたことなのに
「ーーーっ」
頬を伝う温かな感触に手を触れれば、また。厚く被った筈の仮面の下から涙が溢れ出している。
通り過ぎる旅行客達の怪訝そうな視線を浴びながら、濡れた自身の指先へと目を落とす。
(ああーーどうして)
どうして、今になって思い出してしまうのだろう。
どうして、今更になって気づいてしまったのだろう。
このまま日本に逃げ帰ったところで、安息が待っているわけではない。四宮家の意思に背き、長く席を開けていた咎は避けられない。以前のような地位を望めるはずもなく、後に在るのは冷たく厳しい現実だけ。
ならば……どれだけ覚えていたところで、決して報われることはない想い。どれだけ大切に胸の奥に抱え込んでいたところで、思い出す度に心に傷を作るだけの記憶ならーーー再び前を向いて歩き出していくためには、早々に
冷徹にも決断を下すもう1人の自分の声だって、ちゃんと聴こえていた。
それでも。
「ーーっ……、……」
忘れてしまおうと。消してしまおうともがくほどに、胸の中から溢れて止まない記憶。
この
『心配だったからでは、ダメですか?』
受け入れてくれる
本当は不安だらけで。いつ拒絶されるかもわからない怯えをいつも胸の奥に抱えて。
貴方の隣に居続けるために、自分自身で
『うっぷ……』
『ご、ごめんなさい。いいんですよ無理して全部食べなくても』
『いいや、せっかく作ってくれたんだ。絶対残したりしない……。あれだな。さては早坂も
『……じゃあ御行くんも?』
『ああ。幅も奥行きも、日本のに比べて倍近くあるから感覚が狂ってセール時なんかはついつい買い貯めし過ぎてしまう。そもそも売ってる食品のサイズも桁違いだから、油断すると賞味期限の扱いが大変なことに』
『……実は卵の方も結構残っていまして』
『2人で頑張ればまあなんとかなるだろ。オムレツに茶碗蒸し、デビルドエッグ。生食はダメだから卵かけご飯には使えないが……よし、いい機会だ。早坂にも
『やる気満々なのは助かりますけど、なんでそんな嬉しそうなんです?』
けれど目まぐるしく慌ただしい日常の中に、初めに抱いていた不安や遠慮も少しずつ溶けていく。
『どうしたんです?洗濯物なんかに顔を埋めて』
『いや、なんか懐かしい匂いに安心して……。一人暮らしをしてると、どうしても洗濯物から日の匂いが消えていくから、この温かさや香りが恋しかったというか……』
『まあ、御行くんは特に帰りが遅いですからね。朝干しても、取り込む頃には夜風で冷え込んでたのは分りますけど』
『……。(ホスホス)』
『な、なんか恥ずかしいので、そんなに嗅がないで頂けます?』
『なんでだ?俺のワイシャツだろうに』
『なんでもです。特にその襟元!絶対に口近づけないでくださいね!』
『??』
流れる時はあっという間で。苦しいことも沢山あった筈なのに、胸の奥には温かな記憶ばかりが溢れる。
『おかえりなさい……って、今日はまた一段とお疲れの様子ですね』
『あ“ぁ……脳の使いすぎで知恵熱と鼻血が……。まだ頭の奥がクラクラする』
『どうせまた
『ぅん……助かる……めっちゃ助かる……。けど頭痛い時に風呂って大丈夫なんだっけか』
『むしろ血行が良くなって頭痛も取れますよ』
『耳鳴りは?』
『秒で止まる』
『お風呂への信頼が厚い』
『気持ちいいからって、前みたいにそのまま寝ちゃわないでくださいねー。あがったら何か飲みます?』
『コーヒー』
『これ以上何を頑張るって言うんですか。コーラ冷やしときますからそれ飲んで早く休んでください』
思い返せば、ささやかな幸せだったかもしれない。
同じトラウマを持つ者同士、浅はかな傷の舐め合いだったと人は言うかもしれない。
それでも。
『早坂』
『はい?』
『……いつも、ありがとうな』
『……。はい』
誰よりも臆病な私たちだったからこそ、一つ一つ大切に積み重ねていった時間。誰に望むべくも、誰に真似することも出来ない、私たちだけの日常。
ああ……手放してしまう今だからこそ分かる。
どれだけ、自分がその日々に救われていたか。
どれだけ、自分があの日々に憧れていたか。
こんなにも貴方のことが好きだったのだと。
今更自覚する本心。ずっと伝えられなかった言葉の数々が涙となって零れ落ちる。
「……」
或いは……今ならばまだ間に合うかもしれない。
誰にも気付かれぬまま家に帰り、いつもと同じ素知らぬ顔で彼の帰りを迎えて……胸に宿る痛みも罪悪感も忘れたまま……またあの温かな日常に戻るだって出来るのだと。
そんな浅はかな誘惑が胸の奥から溢れ出しそうになる。
ああ、けれどそれも叶わないことだって、自分自身が一番よく分かっていた。
もう花開いてしまった恋心。
どれだけ自分の気持ちに嘘をつき、心を凍らせたところで、また氷は溶け出して。貴方が与えてくれる
貴方の想いが未だ
どうして私の方を向いてくれないのか。
どうしてあの子でなければならないのかと。
報われない想いに、いつかは大切な貴方達のことさえ、恨み嫌うようになってしまう。
ああ。そんな自分の本性を知っていた。
浅ましさと醜さに濁るこの心が、いつか貴方の歩む未来さえ傷つけてしまうと知っていたからこそ私はーー
『もう、此処にはいられない』とーー
ーー嘘つき
(本当は、ただ怖かっただけ)
こんな醜い心内を、貴方にだけは知って欲しくなかった。
こんな何も逃げるような別れ方を選んだのだって……貴方の顔を正面から見てしまえば、決心が揺らぐと分かりきっていたから。
そのために、病に苦しむふりを続けて。
貴方が向けてくれた親愛や優しさを、最後まで裏切り続けて。
そんな私がーーあの日、空港で貴方を引き止めることさえ出来なかった私が、こうして今もまた未練がましく、あるはずも無い貴方の影を求めて、振り返っている。
(……なんて酷い人間だろう)
”もう自分の助けは必要ない“なんて、それがどんなに穢い言い訳であるか。
誰も居なくなった冷たい家を目に、貴方はどう思うだろう。
また裏切られたと……また棄てられたと。今度こそ立ち直れないトラウマを抱えてしなうかもしれない。
それが分かっていながら私はーーー
ただ、貴方の一番になれないと。
そんな
(本当に……なんて酷い)
結局私は、何一つ変われはしないのだと。
どうやったって整理出来ない心。自分自身でさえ見つけられない本心に、矛盾ばかり抱えて。
過去を振り返って浮かぶのは後悔ばかり。一番大切に想いたい人にさえ自分を明かす勇気も持てない。
こんな人間をどうして愛してくれるだろう。
こんな
『人は演じなければ愛して貰えない』ーー?
ううん
演じてさえーーー私は愛して貰えない
『"JAL Airlines flight 6215 to Narita International Airport will begin boarding. Please have your boarding pass and identification ready."』
搭乗開始を知らせるアナウンスに、重く俯いていた顔が上がる。
鉛のように重い手足。動きは鈍く、それ以上に沈む心を抱えたまま引き摺るようにトランクを引っ張って行く。
涙にぼやけ、輪郭さえ掴めない視界では、もう自分がどこを歩いているのか。どこへ向かって歩いていきたいのかさえ分からない。
けれども決して待ってはくれない現実。もう自分にはそんな生き方しか出来ないのだとーーたどり着いてしまった残酷な答えに一歩進むたび心が枯れていくのを感じながら、搭乗口への道を歩いていく。
『早坂』
「ーー……」
後ろ髪を引くように、不意に頬を撫でる風。
耳に届く
あの暖かな日々を決して忘れないよう、大切に胸の奥へとしまい込むために。
ああ。どうか
せめて最後にもう一度、貴方の姿を思い浮かべてーー
「ーーーーーー」
トランクを握る手が力を失う。
呼吸が止まり、音も無い声が口から零れる。
あり得ないと。そんな筈がないと。
目の前の光景を認めまいとする心を、けれど同じ心が否定する。
涙でぼやけきり、輪郭さえ掴め無くなった視界でーーーそれでも見間違えるはずがない。
行き交う人の波を掻き分けながら。遠いいつかと同じように。全身を疲労に濡らしたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる貴方の姿。
「どう、して」
「どれだけ……一緒に居たと思ってる……」
お前の考えることなんて、お見通しだと。息も絶え絶えに睨みつける彼の視線は鋭く、けれどそれ以上に浮かぶ安堵の表情。
……ああ、その表情だけで、瞳と胸の奥にアツい熱が込み上げるのを感じながらも、微かに残った仮面の欠片が邪魔をする。
(違、う。……そんなことを、言いたいんじゃない)
貴方は、わかっているのだろうか。いま貴方が此処に
私を追う、その選択を選ぶために何を諦めなければならなかったか。
いったい、何を棄てなければならなかったのか。
そんなこと、理解していない筈がないのに。
「何をやっているんですか……貴方は」
涙に震える声で呟く。嬉しさと哀しさと、自分でもどうしようもない感情の波に振り回されるまま。
今日という日を迎えるため、貴方が重ねて来た苦悩の日々を想う。
どれだけの葛藤があったか。
どれだけの苦悩に打ち拉がれたか。
目も覆いたくなるような艱難と挫折の末、ようやく辿り着けた今だったのに。
並み居る才賢達が集う研究室にて、それでも確かな信頼を勝ち得ていた貴方。
これからは同じ苦悩を知り、同じ夢を抱いた学友達と共に。
時に競い高め合いながら、遥か遠い
ああ、それなのに、どうして
「言葉にしなければ、わからないか」
紺青の瞳が私を射抜く。
怒気さえ霞む真剣さで。どこまでも真っ直ぐな色で、私を見つめて
「そんな