言葉にしなければ分からないか、なんて。
自分で口にして、どれだけ身勝手な台詞だろうと思う。
ちゃんと言葉にしなければ。
カタチにして想いを伝えなければ、互いの気持ちなんて分かるはずがない。
そんな事も忘れたまま、いま在る関係に甘え、ずっと
大学への道を途中で引き返したのも。彼女が去ったあと、もぬけの殻になった家を前に、それでも嘆き暮れることをしなかったのも、きっと心の何処かで
叶うことならただの思い過ごしであってほしかった。“臆病な人だ”なんて笑いながら、いつもと同じようにこの家で自分の帰りを待っていて欲しかった。
それでも騙し合う
それは彼女自身が、此処での暮らしに苦痛を抱いていた何よりの証で。
あるいはこのまま、その背を追わず諦めてしまった方が……君にとって幸せなのではないかと。
そんな
(……それでも)
『馬鹿言ってんじゃあないわよ。初恋を呪いだとでも思ってんのか』
早坂との関係にいつまでも迷い答えを見つけられないでいた自分へ、吐き捨てるように投げかけられた言葉。酔いのせいだけではなく、赤く上気させたベツィーの顔には、どこまでも深い侮蔑の色が滲んでいた。
『長いこと生きてりゃ違う人を好きになる事だってあるし、初恋なんて実る方が稀じゃないの。
なのに何?アンタときたら、“一度その人を好きになったらずっと想い続けなきゃいけないー”とか。“たとえ振られた後でも一生忘れちゃならないー“とか、ほんといったいどんだけ傲慢なのよ』
『なにもそこまでは』
『そう言ってんのアンタは。だからいつまで経ってもウジウジウジウジ悩み腐ってんでしょうが』
腹立たしげにグラスを飲み干し、空き瓶の山をまた一つ築いては語気を強めていく少女。
『アンタは認めたくはないでしょうけどね。人の気持ちなんて簡単に変わるものだし、恋愛感情だって決して永遠じゃないの。
想いなんて時が経てば擦れもすれば色褪せもする。初めは上手く行っていたようなカップルでも、いざ付き合い出してみれば今まで見えなかった嫌な部分に幻滅するなんてこともよくある話よ。
なのに“愛は永遠だ”。”お互いを思う気持ちは変わらない“、なんて。そんな浮ついた幻想を押し付ける奴ほど、相手の気持ちを察する努力も蔑ろにして心の機微にも気づきやしない。これくらいなら許されるだろうなんて甘えと信頼を履き違えて、些細な擦れ違いから破局するカップルがこの大学の中だけでもどれだけいることか。
それだけ
いつものように反論の隙も許さない、滂沱のような勢いで押し流していく言葉の波。
厳しい言葉の中に織り交ぜても彼女は言う。想い人が変わること。他の誰かを好きになるという選択は、必ずしも“悪”ではないのだと。
『なにも浮気を
でも失恋に関しちゃ別の話。いつまでもクヨクヨ引きずってたって何も救われないし、思いっきり泣いて、それで次を向けなきゃ何のための失恋か、何のために流した悔し涙かも分かんないでしょうが』
『……だからって』
『あん?』
『だからって、それが簡単に心変わりしていい理由にはならないだろう』
『うーわ』
絞り出すように告げた声に、“めんどくさコイツ”とか“これだから童貞は嫌なのよ”とか、散々な言葉と共にいっそう顔を顰めるベツィー。
しかし互いに酔いの回った頭。罵倒の言葉もいい飽きたのか、疲れ気味にグラスを置いてはため息を吐いた。
『……アンタがどれだけ元カノを想ってたかなんて知りゃしないわよ。でもね。そんなことばかり気にして今の幸せが見えなくなってるようじゃ、それ以上にバカな話はないわ。
それにアタシからすれば……アンタはもう十分受け入れているように見える』
『受け入れてる?』
『そう。自分が振られてしまった
アンタなりに必死に考えて、変えられない過去として既に受け止めてしまっている。でなきゃアンタ今頃ここには居ないし、あのままずっと腐ってたはずでしょうが』
違う?と問いかける彼女に知らず口を噤む。
本来なら反論を覚えるべき言葉が、驚くほど容易く胸の内へと落ちていったのは、きっと自身の中にも
このアメリカでの生活を通じるなかで、否応なく味合わされた現実。
「自立」というたった二文字に込められた重さ。自分たちの力だけで生きていく、それだけのことがいかに厳しく受け入れ難いものであったか。たとえだらしのないように見える親でも、どれだけその存在に甘え、守られてきたか。
ああ、そんなことも知らず。ましてや彼女との間にある貧富の差さえも分かろうとせず。愛があればどうにかなるなんて甘い幻想に縋っては、彼女をこの辛く嶮しい荒野へと連れ出そうとしていた。
『ごめんなさい』
あの日告げられた別れの言葉。ただ悲観と共に思い出すことしかできなかった言葉は、けれど決して理不尽なものではなく。彼女には
あの日選べなかったもう一方の分かれ道……眩い未来が続くと描いていたその先は、けれど決して輝かしいものばかりではなく。たとえあの別れが無かったとしても、己の弱さや脆さと向き合うことからも逃げていたあの頃の自分では、きっと遠くない未来、同じ
そんな自身の未熟さと愚かさを、消えない痛みとともに受け入れている自分がいる。
受け入れてなお……今は前を向いている自分がいる。
至らなさ故に辿り着いてしまった
たとえ歩む未来が望むままの形ではなかったとしても、足元に広がるこの道は、未熟だった自分が“それでも”と抗い選び続けてきた旅路の果て。残した轍が消えることはなく、積み上げてきた努力の日々は今も変わらず自分を遠い夢の頂へと繋いでくれている。
たとえどれだけの失敗に身をあぐねようとも、重ねてきた過去の全てが無為になることはない。
決して、自分の全てを否定することはないのだと。
……そう、気づかせてくれた人がいた。
独りだったらならきっと力なく潰れていたであろう自分を、見放すことも、見棄てることもなく。ただもう一度立ち上がれると信じて、支え続けてくれる人がいたのだ。
『アタシが一番気に入らないのはソコよ。もう自分の中で気持ちに整理はできてるし、新しい想いにだって本当は気付いている。なのに世間体やら元カノへの罪悪感やら。そんな都合の良い理由を並べては頑なにソレと向き合おうとしやがらない。自分を赦せる言い訳ばっかり探してる』
『っーー』
『アンタが
普段の罵倒に比べれば遥かに穏やかな口調が、けれど矢のような
そう。思えば、ずっと言い訳ばかりを探してきた。
君に惹かれる理由を。
君を好きになってもいい言い訳を。
人が心変わりを起こすからには、相応しいだけの切っ掛けがなければならないなんて……そんなことを勝手に思い抱いていた。
そうでなければ、とても赦されないと思えたのだ。
あれだけ好きだと曰っていながら、容易く心を入れ替えてしまう不純。
四宮に振られた傷をまるで埋めるかのように、
なにより
『ごめん……。俺、好きな人がいるから』
その痛みも、苦しみも知らないまま。
あの日彼女の想いを断り、無碍に傷付けってしまった自分に、いったいどんな資格があって、彼女の隣に居ることができるだろうと
(……けれど)
『心配だったからでは……だめですか?』
そんな迷いも。赦す、赦さないという感情も。
本当は誰に咎められたわけでもない。誰に責められたことさえも。
自分自身で勝手に相応しくないなんて壁を作っては、自分の気持ちと向き合うことを避けていた。
“相手が自分を好きに違いない”なんて。また、そんな浮ついた希望を抱いてしまうのが恐ろしくて。
その優しさに誰よりも触れていながら、どう在ることが君にとっての幸せなのか……思い出す過去の
そんな臆病が。弱さが。
いまも彼女を傷つけているというのなら
そんなもののために
『貴方を好きになっては……ダメですか……?』
今も、彼女が涙を流さなければならないのなら
自分が本当に
『というか、アンタらの恋愛感覚じたいまずおかしいのよ。
ただの告白よ?結婚
ゴツンとグラスの底で小突いては苦言を吐いてくるベツィー。重すぎるわと罵る言葉に、けれどそれだけは、叛意を込めて見つめ返す。
何を当然のことを。
誰よりも理知深く、誇り高い彼女を知っていた。
だからこそ本当は誰よりも傷つきやすく、あのリムジンの中、一人泣いている彼女の姿を知っていた。
たとえどれだけ
『……それだけ大事に想ってるってことなんでしょ?
はっ、なによ。じゃあもうとっくに答え出てんじゃないのよアホらしい』
心底疲れたというように天井を仰いでは今日一番の溜息を吐き出すベツィー。
顔には相変わらず侮蔑の色が溢れていたが、浮かぶ嫌悪はいくらか和らいで見えた。
『頑固さもそこまでいくと筋金入りね。
……なら、いっそその調子どこまでも自分に我儘になっちゃいなさいよ。
恋愛も結婚も、突き詰めてしまえば結局はノリと勢い。
浅ましかろうが愚かだろうが……それこそ、どんな天才だろうが。
自分の気持ちに
俯かせていた顔を上げる。
伽藍洞の家を背に振り返り、大学とは真逆ーー今は遠い、彼女の背を追って駆け出していく。
行き先に確たる証拠があるわけではない。追いつけるかの保証さえも。
失う
それでもと、握りしめる車の鍵。
もう十分に迷い続けた道。
もう十分すぎるほどに間違えてしまった選択。
だからこそ。もう相手を想うふりをして、本当に大切なことから逃げることだけはーーー二度とはしたくなかった。
『そんな貴方だからこそ、救われていた人がいるんですよ』
ああ。在ったのだ。
君に惹かれる理由も。
君を好きになる理由も。
そんなものは、君とこの場所で過ごしてきた
母に見棄てられて以来、ずっと迷い続けてきた自分の在り方。
こんな自分でいいのか。こんな自分が愛されるのだろうかと、消えない恐れを隠すために仮面を磨いてきた日々。
そんな自分が初めて出会えた、ありのままを明かすことが出来た人。初めて、これがありのままの自分でいいのだと……そう受けとめさせてくれた君だからこそ。
伝えたいこと、謝りたいこと。また言葉にできていない、数えきれないほどの想いの数々が、星のように胸の中に瞬いている。
けれどそのすべてを伝えようとすれば、自分はきっとまた
世界最大の敷地面積を誇るロサンゼルス空港。広すぎる港内を駆けずり回り。行き交う人々の波を潜り抜け。
そうして、ようやく追いついた背中。
その姿を見止めた瞬間、顔に浮かんだ安堵の表情は、どれだけ情けないものだっただろう。もつれた足で駆け寄る姿は、どれだけ無様だったことだろう。
格好悪くて。みっともなくて。
きっと、プライドと見栄ばかりに固執していた以前の自分では、絶対に受け入れられなかっただろう姿。
けれど今は、こんな自分だからこそーーー。
「どうして、ですか」
長い長い沈黙の末、俯いていた少女の顔が上がる。
涙に腫らした青い瞳。尚も零れ出す大粒の涙が頬を濡らし、普段の平静の仮面など見る影もない、肩を震わせながら、消え入りそうな声で囁く。
「私は……貴方の思うような人間じゃない。
貴方を裏切って……酷く欺いて……。取り返しのつかない傷を、貴方に負わせようとした」
「こうしてちゃんと追いついた」
「今だけじゃない。これからだって……私の嘘のせいで、何度も貴方を傷つけるかもしれない」
「惚れた弱みだって、笑って受けとめる」
一言一言、伝え聞かせるように。ゆっくりと歩み寄りながら告げる。
えーー?と一瞬、何を言われたかわからないというように放心した顔を上げる少女。その言葉を。目の前に広がる現実を、未だ信じられないというように。
また一筋。少女の瞳から溢れ出た涙を手で拭いながら、祈る様に瞳を閉じ、大きく息を吸い込む。
告げるのはたった一言。
数文字にさえ満たない言葉。
たとえ何度経験しようとも決して慣れることは無いだろう。息をするだけで早鐘を打つ鼓動。
この一言を伝えるためだけに、どれだけの遠回りをしてきたのか。
この想い一つ伝えるために、いったいどれほどの覚悟を抱かなければならないのか。
想いが届かなければ最期。元の日常に戻ることはおろか、今度こそ立ち治れないほどの傷を負うかもしれない。
現実は幼い頃の想像なんかよりずっと
あるいは恋をしなければ。誰かを好きになりさえしなければ、心は平穏のまま。こんな痛みも恐れも、抱く必要はなかったのかもしれない。
ああ。それらすべての想いも込めて。
築き上げてきた
自身の
そう―――『恋愛とは好きになった方が負けである』と。
その考えは、今でも間違いじゃないって思っている。
それでも、言うのだ。
「好きだ。早坂」
だからこそ、伝えるのだ。
たとえ全てを捧げたとしても。
「もう『幸せになって欲しい』なんて、そんな言葉に逃げはしない。
たとえこの先。たとえどんなことがあっても、お前を幸せにしてみせる」
このやさしくはない世界で、それでも出逢うことが出来た、掛け替えのない君へ
どんなに浅ましくても。どれだけ自分勝手でも
胸の奥から溢れる、紛れもない
「だから、どうか」
ああ。なぜなら、自分にはもうーー
「どうか、これからも、俺の隣にいて欲しい」
もう君の居ない
「……わたし、は……」
一歩、歩み寄る度に、竦むようにその小さな体を抱え込む少女。自らの心にさえ怯え、否定するように、何度も顔を横に振って。その度に溢れ出す感情の欠片が涙となって零れ落ちる。
使命感や罪悪感。ぐちゃぐちゃになった
拒まなければと。赦されていいはずがないと。
“ーーーどうして?”
(私は、
“ーーー
貴方を裏切ろうとした私を。
嘘つきで、臆病で。
醜い私の
“———ねえ。あなたは、なにがしたかったの?”
ずっと叶わないと思っていた。
ずっと夢見て、それでも届かないものと、諦めるしかなかった
“
冷たく震える小さな体を抱きしめられる。
止められもせず溢れ続ける涙が、彼の
「わたし、は……誰かに愛されていい人間じゃない」
そんなことはないと伝えるように。また強く腕に力を込めて。
堅く固く。もう決して、
「……それ、なのに。」
伝う温もりに。求めてやまなかった温もりに、最期の仮面が剥がれ落ちる。
「それでも、本当にーーー」
“こんな私で……いいんでしょうか。”
「ああ。早坂でなければダメなんだ」
最後に零れ出た声にもならない
嘘と本当の狭間。消えない罪悪感と願いの狭間でずっと自分を傷つけてきた。
心という何処までも不安定な器に振り回され。その歪さも。脆さも、痛みも知る。そんな君だったからこそ
「そんなお前にだから、救われていた奴がいたんだ」
「っ…!」
その言葉を最後に、零れ出す嗚咽。
「……ぅあ……っ……、あぁ……」
今まで溜め込んできた想い。隠し続けてきた思い。その全てが溢れ出すように。
何度もしゃくりをあげ、くしゃくしゃになった顔で泣く姿は、まるで子どものように。
言葉は無い。まともな声さえあげられない。
それでもゆっくりと、少年の背中へと回される手。
か細く震え、ギュッとシャツを握りしめて。
決して手放したくないと、少年以上の
それが―――何よりの答えだった。