【完結】遅咲きブーゲンビリア   作:パン de 恵比寿

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エピローグ①

 

 耳をくすぐる風のせせらぎに目を覚ます。

 

 薄く開いた瞼に映る満点の星空。無限に広がる黒い海を泳ぎゆくように、微かな藍色を帯びた光の川が流れていく。

 息をも忘れそうになる星々の瞬きを目に。ああ、けれどそれ以上の美しさに灯る、目の前の碧い瞳に心を奪われていた。

 

 

「ーー起こしちゃいましたか?」

 

 そう、少しだけ恥ずかしそうに微笑んでは。

2階のバルコニー、ウッドリクライニングで横たわる白銀(じぶん)を、見下ろす早坂(少女)

 

 中途半端に伸びた右手は、寝顔にかかる髪を払おうとしてくれていたのか。暫し迷うように宙を泳いていたソレは、普段(いつも)を思い出すようにフワリと頬を包み込んでくれる。

 視界の隅。テーブルの上に並んだ豪華な料理の跡と、お祝いにと開けた白ワイン。疲れと安心につい微睡んでしまったのか。酒気を帯びた頬に、夜風と彼女の手の温もりが心地よかった。

 

 

「……少し、昔の夢を見てた」

「夢?」

 

 不思議そうに首を傾げた拍子、月明かりの下、以前よりも長く伸びた金糸の髪がサラリと流れる。

 

 この地に足を運んでから4年。思い返すというにはあまりにも早く、濃密で。目まぐるしいほどの勢いで過ぎていった日々の思い出。

 

 

 目標であった宇宙工科学博士課程への進学。

 早坂(彼女)のスタンフォード大学への合格。

 そうして今、永くからの夢であった憧れの権威のもとへと附属を果たすことができた。

 

 決して楽ではない……けれどそのどれもが、一つとして欠かすことは出来なかった、彼女と共に積み上げてきた大切な記憶(時間)

 

「……」

 

 言葉も無く、それさえもこうして交わる眼差しの前には無粋だというように、自分もまた彼女へと手を伸ばす。

 星光を溶かしたような瞳のなか、世界に映るのは互いの姿だけ。

 

 差し出された手のひらに、くすぐったそうに頬を擦り寄せ、微笑む君。その温もり、その安らぎを、決して夢ではないともう一度噛み締めるように。

 

 

 今でも目を閉じれば鮮明に思い浮かぶ。

 

 あの日、空港で君に捧げた告白の言葉。

 

 この場所。この同じ月明かりの下。

 

 

 君と誓い合った、祈りの言葉も。

 

 

 

 

 

 

■□■□■□■□

 

 

 

 

 目紛しく行き交う人々の波。喧騒のなか響き渡る空港アナウンス。

 熱に包まれたような活気に満ちるロビーホールを、けれど今だけは遠目に。通路脇に並べられた長座椅子で二人、隣に座る早坂の肩をずっと抱き寄せていた。

 

耳を澄ませば遥か遠く、空を切り裂き響く甲高いエンジン音。少しずつ遠ざかっていくその音に、彼女の乗るはずだった飛行機が無事飛び発ったことを知る。

 搭乗口では既に次の便に向けた身体検査が開始され、スーツ姿のビジネスマン、大量の荷物を手からぶら下げた観光客などが列を為していた。

 

 

 告白を果たしてから、どれだけの時間が経ったのか。解き放たれた緊張からかどこかぼんやりと、時間がゆっくりと過ぎていくように感じる。

 それでも胸の中に抱きしめた彼女の瞳からは未だ涙が溢れ落ち、シャツにまた一つ小さな染みを残していく。

 

 ああ、その涙が。溢れ出す感情の理由が、ただ喜びだけだったなら、きっとすぐに(おさ)まってくれたのだろうけど……

 

 

「大丈夫だ早坂。何も留年が完全に決まったわけじゃない。

 追試の可能性だってゼロじゃないし、あそこの研究室ともいくらかコネは作ってある。

 事情を説明すれば、きっと融通も効かせてくれるさ」

 

 だから何も心配はいらないのだと。宥めるように小さな頭を抱き寄せながら囁く。

 

 微かなしゃくり声と共に、此方を見上げる潤んだ青い瞳。その表情が晴れることはない。

 彼女にも、そして告げた白銀自身にも。それが如何にか細い(・・・)希望であるか、よく分かっていたからだ。

 

 突き詰められた資本主義。実力社会の象徴たるアメリカ経済において、一度貼られたレッテルを覆すのはあまりに難しい。

 大学で経てきた時間、納めた学歴はそのまま企業へと知れ渡り、誤魔化しようもない、決して消せない足枷として何時もまでも残り続ける。推薦入学という身の上でありながら受験を放棄した事実、暴挙。

 その過去(実績)が齎す負債は、今後何十数年にも渡って白銀の肩に重くのしかかっていくことだろう。

 

 

 ヴーッ ヴーッ

 

 

 それでも、白銀の心に迷いはなく、顔には柔らかな笑顔が浮かんでいた。

 彼女を元気づけようと無理矢理浮かべたものではない、心からの想いだった。

 

 この場所へ来るまでの間……彼女の背を追い空港へと駆けるまでの間、ずっと胸に圧し掛かっていた畏れ。早坂を失うかもしれない。ああ、その恐怖に比べたらどれだけ些細な不安事か。

 

 今ならばわかる。

 現在(いま)此処に在る自分。こうして胸の中に宿る自信は、高校時代(かつて)の栄光を取り戻したものではない。

 

 あの挫折を味わい、打ちひしがれ、“それでも尚”と立ち上がったからこそ、ようやく得られた視座なのだと。

 

ヴーッ ヴーッ

 

 決して1人では辿り着けなかった。彼女と共に在ったからこそ見つけ得ることができた、本当の誇り(自分)

 

 この誇りがあれば、幾度でも立ち上がれる気がした。例えこの先どれほどの苦難が待ち、同じように挫折に打ちひしがれようとも。彼女が隣にいてさえくれれば、必ず乗り越えていける筈だと。確信以上の自信を胸に抱いてーーー

 

 

ヴーッ!!ヴーッ!!

 

 

 

「すまん、ちょっとだけ待ってくれ」

 

 一度謝りを入れてから、彼女の体をそっと離す。

胸の中で今もやかましく鳴り続けるソレ。空港に来るまでの合間も幾度となく震え、しかし出る時間(余裕)もないからと放置していた携帯電話。

 

 反射する画面には案の定、見慣れた悪友の名前が浮かびあがり……きっと試験時間になっても一向に訪れない自分を心配してくれたのだろう。友人達による十数件に及ぶ着信履歴が残されていた。

 

 今日という日の重要さを誰よりも知る彼らだからこそ……。その厚意と善意に申し訳なさを覚えながらも、はたしてソレに応えて良いものかと思い悩んでいた。

 

 もしここで電話に出てしまえば。きっと、その先に待つであろう“何故試験に来なかったのか”と糾弾(質問)する声は避けられない。

 

 下手に誤魔化したところで通じるような相手ではないし、何よりその動揺は、間違いなく傍で聴く彼女へと伝わってしまう。

 再度突きつけられる現実()に、彼女はより深い罪の意識を抱いてしまうのでないか……

 

 今も胸の中、まるで叱られるのを待つ子供のように、不安げに揺れる彼女の瞳を思うと、どうしても踏み出せないのであった。

 

「……」

 

 逡巡はわずかに。やはり泣いている彼女を放っておきたくはないと、電話を切る覚悟を固める。

 たとえ比べるべきでないとしても、今の自分にとって何より大切なのは彼女の存在なのだ。

 

 急かすように未だ鳴り響く携帯電話。浮かぶ友人たちの顔に謝罪を思いながらも、「着信拒否」のボタンへと手を伸ばしてーー

 

 

 

 

(ーーー待て(・・))

 

 

 途中、その指がピタリと止まった。

 

 頭に過ぎる微かな疑問。

 何故いま、この瞬間(時間)なのかと。

 

 時計を見れば、時刻は13時を回った頃。

 本来であれば、まさに試験を受けている真っ只中の時間であり、友人達は皆、最難関と云われる問題群を相手に今も奮闘していることだろう。

試験中はカンニング防止のため、携帯の電源を切ることを義務付けられ、当然通話など御法度(もってのほか)

 

 ならば何故いま、この時間に。

 当事者である彼ら(キリー)から電話が掛かってくることがあるのか。

 

 

 燻るような微かな予感を抑え、震える指で通話ボタンへと触れる。

 

 

『……っとと。やぁーっと出やがったなテメェ。散々無視決め込みやがって、今まで何してたんだこら』

 

 時を待たず通話口から溢れ出す、聞き慣れたガラの悪い声。

 不平や不満を隠そうともせず、声を聞くだけで自然と向こうの表情(かお)が浮かんでくるようだ。

 

 

「い、いやおまえ……それより何で」

『なんでって……ああ?まさか掲示板見てねぇのか?』

 

 本当にミユキかおまえ?と訝しげな声をあげながらも、めんどくさげに溜息を溢すキリー。

 

『延期だ延期。また研究室(むこう)側の勝手な都合でな。17時からに急遽変更になったんだよ試験。

 会場も研究棟からフーバータワーに移動。それ知らずに朝早くから来ちまった連中は……というかまぁほぼ全員なんだが、皆んなしてこうやって時間潰す羽目に遭ってる。

 ………まあ、どうせだから?最後の悪あがきに?もっかい集まって復習でもしようかって呼びかけてんのに、おまえ全っ然出やがらねーし』

 

 ズゾゾっと、空になったジュースを吸う音と溢れる気怠げな声。周りからは『お、ミユキ?』『電話繋がったん?』と、友人たちの声も聞こえはじめ。とても試験時のような切迫した空気など無い。寧ろ肩透かしを食らったことに、緩慢でさえあった。

 

「ーーっ」

『だぁーから前時代的だって言うんだよ掲示板なんて。こういう咄嗟の情報伝達にまるで対応できねぇ。

 そもそもがだ。俺ら学生の将来を決める大事な試験をこうやってポンポンポンポン一方的に変えられること自体、権力偏重が齎す最も重篤な危険性なわけでーー』

 

 その後も愚痴愚痴と、例の如く通話越しに不平不満が止まらなくなるキリーを尻目に、胸の中の早坂へと目を落とす。

 

 まだ状況を飲み込めていないのか、不思議そうな顔で此方を見上げるばかりの彼女。未だ涙に濡れた碧い瞳を、十数秒もの間、意味もなくじっと見つめてしまっていた。

 

 

「御行、くん…?」

「………帰るぞ。早坂」

「え…?ーーっ!?」

「今ならまだ間に合う!」

 

 弾かれるように。

 彼女のあげる驚きの声も耳元(そのまま)に、その小さな体を腕の中に抱き上げでは駆け出す。

 

 熱を持つように興奮を抑えられない心。早鳴る鼓動を止めることが出来ないままに、朝から無理を通してきた体だけが悲鳴を訴える。

 それでも。まるで披露宴で見るかのような横抱き姿に、驚き振り返る旅行客達の視線さえ、今は気にならない。

 

 

 運命の悪戯か。ーーーはたまた誰か(・・)の策略か。

 

 

 ……何だってよかった。

 

 彼女が流す涙。その悲しみを払い去れるというのなら、軋む体は再び力を取り戻していた。

 

 

 

 

■□■□■□■□

 

 

 

「あ、来た!おーいミユキィ!こっちこっち!」

「ったく、結局時間ギリギリになってんじゃねーか。危ねー真似(こと)しやがる」

 

 舞い落ちるシカモアの葉に黄金へと彩られる大学キャンパス。フーバータワーを中央に望む正門通り。

傾き始めた夕日を背に白銀は車道脇へと車を停め、友人達のもとへと駆け寄る。

 

 会場であるタワー周辺には既に多くの学生達の姿で溢れ、一様に刻まれた緊張の表情。肌を刺すかのような重い緊迫感が、目の前の現実(光景)が決して夢ではないのだと実感させてくれた。

 

 入口の扉傍には、あの飲み会の日、数多もの罵倒と共に白銀(じぶん)の背中を押してくれたべツィーの姿も。

 相も変わらぬ仏頂面。睨みつけるような視線で此方を見つめていた彼女だったが、白銀と早坂、二人の顔に浮かぶ表情を認めるや、大きく溜息だけを残してタワーの中へと消えていった。

 

「おらっ。俺らも早いとこ入場(はい)んねぇとヤベェぞ。ササッと行って、ピャピャッと終わらせて。いい加減この夏季休暇(やすみ)前から続く重圧から解放されようや。というか、させて下さいもうホント。全然休める気になれないんですもうホント」

「代えのボールペン良し……修正テープのストック良し……電卓の電池良し……アレ!?ちょっと待って、なんか時間ズレてないこの腕時計(とけい)!?」

「何べん確認すりゃ気が済むんだオメーは!?そんな一度の試験でボールペンダース単位で使わねーから!」

「分っかんないじゃん!そうやって油断した奴ほど名前書き忘れたり、試験中急にお腹痛くなったりするんだから!」

「ああ!?んなこと起こるわけーーーいや止めよ?この会話。なんかフラグになりそうで怖いから」

 

 思い思いのプレッシャーに晒されながら、げんなりとした顔つきで会場へと歩いていく。そんな友人達の背中に、白銀も深呼吸を一つ。息を整えては、最後にもう一度、車の中で待つ早坂へと振り返えるのだった。

 

「御行くん……」

「ああ、行ってくる。今度はーー」

 

 ”待っていてくれるか”と。続こうとした言葉を噤む。

 口にしてしまえば、彼女を疑うようで。今朝目にした光景……冷たくもぬけの空となった家の姿が、また蘇るような気がして。

 

 浮かんだ弱さを振り払うように会場へと向き直る白銀。

 

そんな一瞬垣間見えた表情を。気丈に振舞い、それでも僅かに拭い去れなかった不安の影を、少女は見逃さなかった。

 

 

「御行くん!!」

「っ、」

 

 突然の呼び止める声に、驚き振り返る。

その先に映る……助手席()の窓から、小さく顔だけを覗かせる早坂の姿。

 

 上げた大声とは裏腹に酷く俯きがちで。どこか心配になるくらい、真っ赤にまで頬を染めて。

それでも何かを決意したような揺るがない眼差しを湛えては、小さく手招きをしている。

 

「早坂?———っ!」

 

 どうかしたのかと。助手席を覗き込もうとした、その瞬間。一転する視界。

 

 目の前を覆う、見慣れたーーーけれどかつて、これほどまで鮮明(近く)に映せたことはない。すぐ目の前で揺れる碧い瞳。

 突然身を乗り出した少女により、一瞬でゼロへと縮まった2人の距離。互いの吐息が頬に触れ、早打つ鼓動さえも聞こえる(伝わる)近さ。

 艶やかに染まった桜色の唇が。

 その熱く灯った吐息が、ゆっくりと自分のものへと近づいてーー

 

 

「……待っていますから。

 今度は勝手に居なくなったりしない。

絶対に、裏切ったりなんてしない。

 

 ずっとずっとーー貴方の帰りを、待ち続けていますから」

 

 

 繋がった唇を通じて伝わる。嘘偽りのない、ありのままの言葉。

 

 抱きしめる体、寄せ合った額を通して伝わる、真っすぐな言葉。その想いに。

 

 

 

「ーーーありがとう」

 

 

 涙と共に頷く少年の瞳には、もう微塵の迷いも残されてはいなかった。

 

 

 

 

■□■□■□■□

 

 

 

 

 

「……出してちょうだい」

「よろしいので?」

 

 長い沈黙を破り、ようやく後部座席(せなか)から放たれた声に嗄れた喉でかえす。

 

 固く閉ざした窓の外に映る、目を覆うほどに聳え立つ巨大な塔。

 遥か(そら)高くへと手を伸ばすような、この大学の象徴ともいえる姿に、リムジン車のハンドルを握る男は、ただ静かに主の言葉を待っていた。

 

 盗み見たバックミラーに映りこむ少女の口元。微かに覗く姿からは、そこにどのような表情が浮かんでいるか窺い知ることはできない。

 この半年間を経て、以前にも増して感情()を隠す術を身につけた彼女。たとえ全貌を拝めたとしても、その真意を図ることは出来なかっただろう。

 

 それでも、返す。

 

「本当に、よろしいので?」

「……相変わらずしつこいわね、貴方も」

 

 怒気を含んだ視線が首裏に刺さる。少女が口を開くだけで社内の空気が凍てつくかのような緊張感。しかしその渦中に晒されながら、尚も泰然と、バックミラー越しの目を背けようとしない老執事に、少女は忌々しげに溜息を吐いた。

 

「……いいのよ。此処での用は済ませたし、見るべきも見た。なら、もう長居する理由なんてないでしょう」

 

 違う?と、静かにそれだけを零し、見上げていた塔から視線を離す。

 同じ後部座席。隣から唸り声をあげて睨みつけてくるもう一人の乗客の存在には、完全に無視を決め込んでいるのか。前だけを見つめる深紅の瞳には、その意志が決して変わらないことが表れていた。

 

「………」

 

 皺だらけの口端から知らず零れた溜息は、何に対するものだったか。

 微かな落胆の想いを心の隅に、老執事はシフトレバーへと手を伸ばす。

 

 再びバックミラーに目をやれば、そこには案の定、塔へと視線を戻す少女の姿。微かに細められた瞳は、眩しいもの見上げるように。あるいは何かを耐えるように。

 

 降り積もる数多の想いも置き去りに。動き出した車は大学の景色も少しずつ(視界)の外へと消していってーー

 

 

 

 

「待ってください!」

 

 

 瞬間、一つの影が車道へと躍り出る。

 

 茜差す夕日の下、揺れる金色の髪。湖面に映る月のように揺れる碧玉の瞳。

 動き出した車の行く手を遮るように、突如現れたその人物(ひと)の姿に、後部座席から息を呑む気配が届く。

 

 

「お願いですから……待って……話を、聞いてください」

 

 無我夢中で駆けて来たのだろう。酷く乱れた髪。肩は大きく上下し、記憶の奥にある冷静沈着な姿など欠片もない。

 

 息も絶え絶えに。それでも真っ直ぐに。スモークガラス越し、見える筈のない赤い瞳を、涙に滲んだ碧色が見つめる。

 

 

「ーーかぐや様」

 

 

 

 

 

 

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