【完結】遅咲きブーゲンビリア   作:パン de 恵比寿

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エピローグ②

 

 

 

 

「フーッーー、フーッ……。俺はやれる俺はやれる俺はやれる」

「いるよね。普段余裕そうなのに試験時間が近づくにつれて指数関数的に体調悪くなる人って」

「言うほどいるか?」

「まあプレッシャーで腹痛くなる気持ちは分からんでもない。現に俺も今レベル2まで来てる」

「そんな本人にしか分からん腹痛レベルを報告されても」

「そういえば、結局なんで今回の試験は延期になったんだ?」

「フーッ……そんなこと気になる?開始直前だってのにホント余裕なミユキ(おまえ)

「聞いた話じゃ、また取引先とゴタゴタがあったらしいよ?提出資料の不備とかなんとかで」

「ええ、また?夏季休暇前(前回)の時もそんな理由じゃなかった?」

「まあ今回のクレームに限っては前回のと違って言いがかりに近い内容だったそうだけど……。 

そのせいで研究院生総出で緊急対応(レッド・コール)。今の今まで阿鼻叫喚の修羅場状態だらしいよ」

「うわぁ……それでかラボメンの顔が皆して真っ青になってたのは。もうなんか青通り越して緑色になってたけど」

「今のコイツ(コイツ)の顔も相当だけどな」

「……その取引先企業って?」

「ミユキなら多分知ってるんじゃない?ジャポンで有名なあのーーー」

 

 

「……」

 

 

 聞きなれたその名に窓の外、塔下に広がる景色を臨み見る。

 

 正門へと続く中央通り。黄金に色付いたシカモアの木々。

その合間に、まるで隠れるようにひっそりと佇む……一台のリムジン車を。

 

 

 

 

□■□■

 

 

 御行くんが消えていった会場入口(フーバータワー)を見つめる中、ふと感じた視線。

その姿を目にした瞬間、考えるよりも早く体が動いていた。

 

 全面をスモークガラスに覆われ、この大学ではそう珍しくもない外交官ナンバーの(ソレ)は……遠い記憶を辿る限り『四宮家』ではなく、むしろその宿敵、『四条家』のの所有物(もの)であった筈。

 

 それでも早坂には。今この瞬間。この場所に現れるのは“彼女以外には在り得ない”という確信があった。

 

 

「かぐや様」

 

 繰り返し呼ぶ名前()に応えはない。固く閉ざされ、沈黙を保ったままの窓は言葉以上の拒絶を突きつけるよう。

 

 張り詰めるような空気を前に、中途半端に開いた口は上手く言葉を見つけることができない。

聞きたいことも、伝えたいことも、抱えきれないほどあった筈なのに……いざ目の前にすると、想いは当て所なく彷徨うばかり。

 

 “どうして今まで”

 “どうして今になって”

 

 ああ、本当にーーー

 

 

 

「どうして、いつも貴方のことだけは騙せないのかしらね」

「えーー?」

 

 不意に届く言葉に顔を上げる。

永い沈黙の果てに訪れた、呆れとも、諦めとも聞こえる囁き。いつしか張り詰めるほどの緊張感は凪ぎ、黒色の窓がゆっくりと開きはじめていた。

 

 

「かぐや、さま……」

 

 ガラスの向こうから現れる、記憶に久しい艶やかな黒髪。かつて腰まであったソレは、今は首元で綺麗に切り揃えられ……。合間から覗く真紅の瞳。離れた月日は一年にも満たないはずなのに、まるで氷と呼ばれた頃に戻ったかのような、別人のように大人びた印象を受けた。

 

「っ……」

 

 変わり果てた主人の姿に思わず息を詰まらせる。

けれどそれ以上に、頭の中では先ほどの彼女の言葉が繰り返し響いていた。

 

 

“どうして貴方のことだけは騙せないのかしらね”ーー?

 

 

 分からなかった。いったい何時私が、貴方の心に触れられたことがあっただろう。

 

 突然見えなくなってしまった貴方の心。前触れなく言い渡された解任の言葉にどうする事もできず……ただ“どうして”と嘆くことしかできなかった。

 

 ソレは今だって同じ。面と顔を合わせてさえ、未だ貴方の想いが分からない。四宮家に抗う力もなく、ただ、御行くん(あの人)に縋ることしか出来なかった自分に、いったいいつーーー

 

 

『会長さんのためじゃ、ないんですか』

 

 かつての自分の言葉に、ハッと、顔を上げる。

 

 沈黙を破らない、一切の内心を悟らせない氷の仮面を貼り付けた少女。

 けれど誰よりも永く、同じ時を過ごしたからこそ解る。仮面の奥、赤い瞳に映った本当の色はーー

 

 

「やっぱり、貴方は」

「……そんな。ただ綺麗なだけの理由なら、どれだけ良かったでしょうね」

 

 重い囁きが、期待に震える声を遮る。

 

「別に、あの時の言葉に嘘は無かったわ。

 これ(・・)がお互いにとって一番幸せになれる選択だと思ったのは確かだし、私自身、考えた末(望んだ上)での決断だった。

 その果てに貴女たちを遠ざけて……酷く裏切って。どうしもない心の傷を負わせてしまうことも分かっていた。

 全部、否定(言い訳)のしようもない、本当のこと」

 

 

 静かな独白と共に、細められた赤い瞳が夕焼けの空を追う。

 散り散りと浮かんだ雲。その遠い彼方に、在りし日々を懐かしむように。

 

「私のスタンフォード大学への留学……。『四宮』の名を棄て、アメリカへ移住するかもしれない危惧(可能性)は、すぐにあの男の耳へと届いたわ。

 ……四宮黄光。現役を退いた四宮雁庵(お父様)に代わり、今や財閥ほぼすべての実権を牛耳る男」

 

 同じ家に生まれた(わたし)を政略結婚の道具としてか見ていない。時代遅れの封建主義がそのまま服を来たかの様なあの男が、自らの手駒が失われる様をみすみす見逃す筈が無かった。

 

 備える(いとま)さえも許されず、行われたのはどこまでも理不尽な強権行使。

 四宮家三男の庇護下として看過されてきた以前(これまで)とは比較にならない。その気になれば、別邸の存在さえ文字通り更地に出来てしまうあの男にとって、四宮かぐや(わたし)を取り巻く環境、傅く使用人……それら全てを取り上げることも容易なことだった。

 

 

 ……かぐや()自身、油断があったのも確か。

 

 あんな言葉、あんな噂の一つにここまで過剰な対応を取るはずがないと……長く安寧(ぬるま湯)に浸っていた心が、何より会長(あの人)の申し出に舞い上がるばかりの心が、取るべき判断を鈍らせていた。

 

『箱入りのお前に、アメリカ(あの国)へ渡ったところでいったい何が出来る。独りで生きる術も知らない。社会に在る意味さえ量れない、ただの子供に。

 このまま四宮の庇護のもと、籠の中で暮らした方が誰にとっても幸せだろう』

 

 見下ろす侮蔑と嘲笑に満ちた瞳。自らが利権を保持するためなら、あの男はどんな汚い手段をも平然と使う。

 私がスタンフォード留学を断念する(諦める)ために出された交換条件……その脅迫の中には、早坂を始め使用人達の人事(行く末)を強要するもの。白銀御行()の留学自体を、白紙に戻す案さえ含まれていた。

 

「そんな……」

「結局、私には理解できていなかったのよ。自分がどれだけ無力な子どもだったのか。

 たとえどんなに威勢を張ったところで、所詮は虎の威を借るだけの存在。同じ四宮の……財閥の権力(チカラ)を牛耳るあの男の前にすれば、私は単なる小娘に過ぎなかった」

 

 ……また逃げ出そうとする意志を削ぐためか。或いは、四宮(あの男)にとってより有用な(人材)へとを育て上げるためか。京都本邸への移送後に待っていたのは、徹底的なまでの『再教育』の日々。

 

 『四宮』の血が連綿と受け継いで来た裏の歴史()

 第二次戦争後の復興と混乱。高度経済成長下における過度な企業競争のなかで行われきた数えきれないほどの謀略と詭計の数々。いったいどれほどの裏切りの果て。どれほどの犠牲の果てに、四大財閥の一つと云われる現在の地位にまで登り詰めたか。

 

 国政の中枢を担う官僚、警察や裁判所を始めとする司法機関、報道管制。今なおあらゆる場所に蔓延る癒着(クモ)の糸。決して公になど出来ない……少女一人が騒いだところで決して覆すことなど出来ない、あまりにも深く根付いた闇。

 

 ーーーお前にも同じ血が流れているのだと。

 ーーーそうした犠牲の上に成り立って来た誰もが羨む裕福な暮らしを、何一つの疑問もなく享受してきたお前に、今更どんな資格があって四宮()の責務から逃れられるだろうと。

 

 学生の身分では知ることができなかった。

 いいや、“在る”と知りながら知らず目を背けてきた生々しいまでの現実は、夢見がちな少女の心を挫くには余りあるものであった。

 

 

「ひどい話よ」

 

 別邸に移ってからの生活は、常に誰かの監視の下。幽閉状態と変わりなく、気を許せる相手など誰一人として赦されなかった。

 周りに傅く使用人達も、全てあの男に忠誠を誓う従僕。どれほど丁寧な態度で接されようとも、瞳の奥に秘める忌避と嫌悪の眼差しは、決して褪せることはなかった。

 

 数年後に待つのは、どこの誰とも知れない権力者との政略結婚。

 終わりさえ見えない孤独の時間は、日に日に心の熱を奪っていく。まるで、「氷」と呼ばれたあの頃へと戻されていくかのように。

 

 全ては四宮家(彼ら)の思うがまま。

 囁く嘆きが、誰に届くこともないまま。

 

 ああ、その耐え難い日々に、いつしか私はーー

 

 

『……どうして、助けに来てくれないの』

 

 かつて自らの意思(我儘)で手放し。傷つけ。

 遠く突き放した“貴方達”にさえ、恨み節を吐くようになっていたのだから。

 

 

 

「本当に、無様な(ひどい)話」

 

「かぐや、さま……」

 

「でもね。まさにそんな時だったわ。貴方から写真が送られてくるようになったのは」

 

 えーー?と顔を上げる早坂の視線の先。掲げられた一台の携帯電話。

 画面に映し出される写真は……忘れるはずもない。まだシカモアの葉が色づく前、この同じキャンパス前で写した御行君(カレ)の姿。

 早坂自身がこの半年間、スタンフォードで撮り続けた日々の情景(キロク)だった。

 

「初めは何の嫌がらせだろうと思ったわ。

 私が手放したもの。もう手に入らない未来(もの)を見せつけて、いったい何が楽しいんだろうって……酷く、恨みもした」

 

「……。わたし、は」

 

「分かってるわよ。貴方に、そんな気が無かったってことくらい。

 でもあの頃の私は…周りに映る全てが敵だと思えてしまうくらい、暗く塞ぎ込んでいたの」

 

 事実、メールを通して送られてくる写真……そこに浮かぶ彼の表情が、決して明るいものでないことにはすぐに気付いた。

 

 以前よりも遥かに深く。瞼の下へと刻み込まれた青黒い隈。頬は痩せこけ、浮かぶ表情は険しいものばかりで……アメリカ(あちら)での生活が如何に苦しいものであるか、物悟るには十分過ぎるほどだった。

 

 遠く変わり果てた(あなた)の姿に、初めに抱いた憤りはいつしか凪いで……代わりに芽生えたのは、憐憫にも似た深い同情の想い。

 

 

 ああ……貴方も“同じ”なのだろうかと。

 

 もう戻らない幸せな時間。

 ふとした時にさえ蘇る、温かな思い出に踠き苦しんで(想い馳せて)。辛い現実に耐え忍んでいるのだろうか。

 

 もしかしたら……貴方も。

 叶う筈だった“2人(わたしと)の未来”を想い。今も悼んでくれているのだろうかとーーー

 

 

 そんな。どこまでも身勝手な同情と共感を抱いては、いつしか送られてくる写真を心待ちにしている自分がいた。

 その写真を見つめている間だけは、胸を締め付けるような冷たい孤独さえも、忘れられる気がした。

 

 

「でも、そうして映る貴方達の姿も、少しずつ変わっていった」

 

 季節が移り、冷たい雪の褥に埋もれていた草花が芽吹くように。写真の中、少しずつ、少しずつ瞳に熱を取り戻していった(あなた)

 

 かつての自信を呼び戻すだけじゃない。子どもがその殻を破り、大人への階段を登り行くように……一つ、また一つ。

 言葉では表せない厳格さを身に纏いながら、鋳薔薇(イバラ)の道を踏み進んでいく貴方。

 

 その瞳はもう遠い過去(悔恨)のことも引き摺ってはいなくて。

 あの温かな時間を、もう「思い出」として受け入れてしまっていて。

 

 

『(私のことも……遠く置き去りにするようで)』

 

 ただ眺めていることしか出来ない。変わり行く貴方達の背中を目に、胸に去来した想いはどんなものだっただろう。

 

 かつての自信を取り戻してくれたことへの安堵か。

 このまま過去の存在として、思い出と共に忘れ去られてしまう孤独感か。

 

 ああ、きっと、その全部。

 

 けれどそれ以上に、深く。

 胸の奥底から湧き溢れて抑えられなかったーーー

 

 

「“くやしい”って感情(おもい)

「くや…しい?」

 

 そう。

 暗く、既に凍りつてしまった筈の心に息吹いた、灯火にも似た想い。

 

 それは写真を覗き込む度に、より強く。色濃く。けれど後悔や悔恨といった後ろ暗いものではない。

 もっと奔放で。我儘で。酷く子供らしいとさえ思えるーーー

 

 自分でさえ驚く程に、純粋(真っすぐ)な色をしていたのだ。

 

 

 

(ああ……そうだった)

 

 ”それ”は確かに、この胸の中に在ったもの。

 

 今は遠い衆知院の学び舎。まだ「氷」と呼ばれ、他者を遠ざけ、何者をも寄せ付けようとしなかった「四宮かぐや(わたし)」がーーー初めて、誰か(あなた)を意識するようになった切っ掛け。

 

 

 初めは何処の馬の骨とも知れなかった。名前さえ聞いたこともないような家柄。入学当初の成績だって、まともなものではなかった。

 

 けれどそんな男を相手にーーーこれまで天才の名を(ほしいまま)にしていた私が、どれだけ本気で挑もうとも敵わない。

 何の後ろ盾も持たない庶民の出のくせに、勉学の道一本で私へと歯向かい、あまつさえ学園の長たる生徒会長の(地位)をも奪い去っていったのだ。

 それがどれだけ私の琴線に触れた(プライドを傷つけた)ことか。

 どれだけ心動かされたことか。

 

『お可愛いこと』

 

 どんなに冷たくあしらおうと不遜に。

 鬼謀術策を張り巡らせようとも、思い通りにならない。

 

『お可愛いこと、だな』

 

 私を相手に頑なに弱みを見せようとせず、身の程も弁えず突っかかってくる……そんな豪放磊落な貴方の姿がーーー

 

 

 ああ、”くやしい”と。

 

 ”負けてたまるものですか”と。

 

 心の底から沸々と湧き上がる子供染みた想い(純粋な熱)が、分厚く張り付いた心の氷を溶かしていった。

 

 

(私たちは、いつだって“そう”だった)

 

 温かな高校時代。思い返せば、そこに在るのは貴方と競い合った時間。

 争いの舞台はいつしか学業を離れ、藤原さんが持ってくる些細なゲームも始め、日常茶飯事に。

 

 冷たい人形のまま過ごす筈だった学生生活は、いつしか形も無く……気がつけば友人や後輩。決してあり得ないと決めつけていた(諦めていた)存在が、周りへと溢れていく。

 慌ただしく過ぎていく日常に令嬢としての振る舞いも忘れて、霰もなく感情を露わにすることだって少なくなかった。

 

忙しなくも満ち足りた生徒会での日々(時間)

 誰かと同じ時を過ごし、同じ想いを分かち合う。

そんなどこまでも些細で、稀有な(かけがえない)時間を。

 

 ーーーあの夏休みの終わり。

 皆と一緒に車の中で見た……貴方の隣で見上げた。

 音の聞こえない花火の音も。

 

 

 ああ、本当は誰よりも早く、この想い(・・・・)に気づいていながら、けれど頑なに認めようとせず。

 “絶対に貴方のほうから好きだと言わせる“、なんて。

 

 そんな意地とプライドに拘り続けたのも、きっとーーー

 

 

 

『……っ、…』

 

 ポタリと、暖かな雫が頬を伝い落ちる。冷たく凍えた肌を温めるように。

 

 ああ、忘れたわけではなかった。失くしたわけではなかったのだ。

また同じ想いが、灯火が、この凍えそうな心を燈してくれている。

 

 このまま、貴方に……世界のすべてに忘れられたまま、終わりたくなんてない。

 押し潰すような現実にも。怯え震えることしか出来ない弱い自分にも。

ただ“負けたくない”と。心の根底から湧き上がる想いがあった。

 

 篝火は日に日に大きく。写真に想い馳せるほどに色を増していく。

 畏れも後悔も、全て薪火へと変えていくように。

 

 灯る明かりに、胸を覆っていた冷たい闇も少しずつ露わになっていく。恐怖に直視することができなかった大人たちの全貌(すがた)。忌避と嫌悪を露わにおきながら、結局は遠巻きに諂うことしかできない、怯えを隠した使用人達。

 

 ”お前にいったい何ができる”とーーー下卑た嗤いと共に見下す、皺に満ちた黄光(あの男)の顔もーーー。

 

 

『……、』

 

 奥歯を噛みしめ、零しを握りしめて立ち上がる。涙を拭い去り、真っすぐに大人たちを睨みつける。

恐れはとうに焼き切れ、激情だけが胸を突き動かしていた。

 

 ーーー写真の中、勝手に抱いていた共感と同情。けれどその貴方達が苦難を越えていくのなら、どうして私だけが立ち止まっていられるだろう。

 

 ーーー目の前に広がる写真(光景)。本来なら在るはずだった未来を奪った黄光(あの男)を、どうしてこのまま許しておくことが出来るだろう。

 

 

『絶対に、好きになんてさせない』

 

 与えられるがままの環境。大人たちの命令(言葉)に怯え、従うことしか出来なった少女。

 脆弱(よわ)さを棄て去った四宮かぐやの心に、初めて芽生えたソレはーーー

 

 

 決して陰ることはない。燃え滾るような『叛意』だった。

 

 

 

 

 

「それが。いま私が此処にいる理由よ」

 

 長い独白を果てに、静かに息を零すかぐや。伏せられた目元の、しかし柘榴石のような秘めた焔を宿す赤い瞳に、早坂は改めて彼女の乗るリムジン車を視る。

 

 同時に理解する。何故『四宮家』の彼女が、不倶戴天の仇敵ともいえる『四条家』の車に乗っているのか。

 外資系を生業に海外へと拠点を置く()の家系。彼女が米国(この国)でこの先誰と会合し、何を興そうとしているのかーーーその真意も。

 

 

「私が貴方たちに向ける想いは……きっと綺麗なものばかりじゃない。

 それでも、あの写真がなければ今の私は無かった。ずっと弱い私のまま。周りの全てを恨んでは、一人惨めに泣いていたでしょうね。

 だから……そう。貴方達二人には、とても感謝しているのよ」

 

 車の中、決まりの悪さを誤魔化すようにフロントガラスからの視線を外さないかぐや。

けれど早坂には……彼女の言葉を素直に受けとめることができなかった。

 

 

「その言葉は……私にじゃない。どうか御行くんに伝えてあげてください」

 

 瞼の奥から溢れ出してきた熱に、震える声で返す。

 

 そんな資格、あっていい筈がないと。

この半年間、貴方がどんな想いで過ごしてきたか知りもしなかった。

気づかず。気づこうともせず。ただのうのうと、貴方の幸せを享受して(奪いつ続けて)きた自分に、与えられていい言葉の筈がない。

 

 私がしたことと言えば……貴女に写真を送り続けただけ。

 全ては、御行くん(あの人)の頑張りがあったから……。けれど彼の心には、未だかぐや(貴女)との別れが消えない傷として残り続けている。

 

 だけどそれも……その誤解(キズ)も。また昔と同じように顔を合わせ、心を明かすことさえ出来ればーー

 

「そうすれば……どうなると?また、以前の関係(二人)に戻れるとでも?」

 

 静かな否定と共に首を横に振るかぐや。それだけは叶えられないと囁くように。

 

「ここに来たのはあくまで“ついで”。写真の借りを返すため、仕方なく手を貸してあげただけ。

 残念だけど、こっちも人を待たせているの。いつまでも、(あの人)の帰りを待ってあげることはできないわ」

 

「ですがーーー」

 

「来ないわよ。あの人なら」

 

 有無を言わさぬ言葉とともに、厳しく細められた赤い瞳が再びフーバータワーを臨み見る。

 其処へ消えていった背中。もう今は見えない、彼の姿を思い出すように。

 

 

 ーーーそう。あの瞬間。彼が建物へと入っていく間際。一瞬だけ振り向いた彼と、視線が交わった気がした。

 

 此方から送られる視線に気づいたのか。或いは、自身を襲う都合が良すぎる展開に感付くものがあったのか。茜日に染まる空の下、懐かしい鳶色の瞳が揺れていた。

 

 ……けれど

 

 

「ここでまた姿を見せて。たったそれだけのことで、心変わりをして。

 もう一度人生を棒に振るような選択をする人なら、初めから好きになったりしない。そんな男、こっちから願い下げだもの」

 

「かぐや、様…」

 

「……貴方の方はどうなの?

 もしここで、仮に”また私の(もと)に帰って来なさい”と言わ(命じら)れて……。

 そうしたら貴方は、今の暮らしを諦めることが出来るの?」

 

「それはーー」

 

 その言葉は、確かに、早坂愛が待ち望んでいたもの筈だった。

 “もう一度、あの頃に戻ることができたなら”と……。

 半年前、日本を発ったばかりの頃の自分なら、きっと迷うこともなく頷いて(受け入れて)いただろう言葉。

 

 けれど

 

 けれど今の私はーーー

 

 

『ずっと、貴方の帰りを待ち続けていますから』

 

 

 

 

「でき、ません」

「………」

 

 絞り出すような(応え)。青い瞳から溢れてやまない涙が、また視界を滲みませていく。

 

 大切だと言った貴女に。ずっとずっと、私たちを守ってきてくれた貴女に、こんな仕打ち(こたえ)を返すことしか出来ない……。

 貴女の見せる態度(姿)がほんの強がりに過ぎないと分かっていながら、それでも自分の我儘を棄てることもできない、卑怯と薄情に。

 

 哀しくて。それでも譲ることはできなくて。

ただただ赦しを請うように、顔を俯せ謝るしかなかった。

 

 

 押し殺したような哀咽ばかりが響く沈黙。

 頭を深く下げたまま、瞳から大粒の涙を溢れさせる早坂の姿を、車の中からただじっと見つめるかぐや。

 

 浮かぶ表情は粛然と……けれどそこには、少女(早坂)が想像したような落胆や失望に暮れた色ではない。

どこか寂しげな面持ちだけが浮かんでいた。

 

 

 

「……本当はね。本当はもっと……別の未来を描くことも出来た筈なのよ」

 

 舞い落ちる黄色い葉が茜日に揺れる。向きを変える光風に零れる静かな囁き。

 先までの冷たく凛としたものではない。まだ二人が別邸いた頃……毎夜のごとく、お互いに愚痴を語りあった頃を思い出すような、柔らかな口調だった。

 

「『四宮』の重責に負けたことだけじゃない。

 黄光(あの男)からの脅迫だって、本当なら、貴方達に明かすことだって出来た。

独りで戦おうとせず、全部背負い込もうなんてしないで……。ただ一言、”助けて”って。貴方達に手を伸ばすだけでよかった」

 

 

 けれど、幼い四宮かぐや(わたし)には、それが出来なかった。

 

 四宮の持つ強大な威権()も、その恐しさも、誰より深く知っていたからこそ……貴方達2人を巻き込みたくない。その先に待つ、傷ついた貴方達から浴びせられるであろう忌諱の瞳を畏れて。

 “敵う筈がない”と。一人勝手に決めつけ(心折れ)ては、抗う道を断ってしまった。

 

 二人を守るため。私さえ身代わりになれば良いのだと。そんな聞こえの良い理由(言い訳)に自分を慰めては、どれだけ貴方たちが苦しむかも分かっていながら……その手を振り払うことを選んだ。

 

「留学の話だってそう。

 本当に心から望んでいたなら、無理にでも押し通すことはできた。

 駆け落ちなり逃避行なり、令嬢としての生活も立場(プライド)も全部かなぐり棄ててーーーただ一重に会長(あの人)のを信じて、ついていくだけでよかった」

 

 ああ、けれどその未来を選ぶ勇気も持てず。

 

 米国という未知の世界へと漕ぎ出す恐怖。

 会長(カレ)との間にある誤魔化しようもない貧富(常識)の差に、令嬢としての暮らししか知らなかった自分が、はたしてその隣に居られるのか。

 嵐のように吹き荒ぶ現実の荒波の中、真綿のように淡いこの恋心を抱き続けられるのか。

 

 徒に先のことが視てしまう瞳。小賢しい不安を訴えるばかりの心を否定することも出来ず。

 

 ああ、それでも。たとえどんなに辛い環境(現実)であろうとも。

 お互いを想う気持ちさえあれば、きっと乗り越えられる筈だってーー

 

 

 そんな愛の言葉に、盲目になることさえできず。

 

 

「ーーーだからこの今は、私が自分で選んだもの。

 他ならない私が……私自身の”弱さ”が、選び取ってしまった未来」

 

 思う度に胸が苦しくて。哀しさに涙が溢れようとも。

 それでも変えることはできない現実。それこそが、私には 必要な痛み(欠かすことが出来ない気づき )だったのだとーーー言葉以上の想いが、今はこの胸に深く沁み落ちている。

 ……それを“大人になった”と認めていいかは、今も分からないけれど。

 

 誰かに甘えることを知らなかった私。

 誰かを信じることを“弱さ“としか受け止められなかった幼い自分(わたし)

 

 あるいはほんの少しの勇気さえあれば……変えられたかもしれない未来。

 

 

 会長(あの人)のことも。

 

 早坂(あなた)のことも。

 

 

 ただ誰かを心から頼り、信じきるーーーそれだけの“勇気”を持つことが、どうしてもできなかったのだと。

 

 

 

 

 

「けれど貴女は、”そう“じゃなかったでしょう?」

「っ――?」

 

 頬を包む柔らかな手の感触が、涙に伏していた顔を持ち上げる。

 重なりあう視線に。車の中からそっと手を伸ばし、早坂へと触れるかぐや。

溢す口調はどこか呆れ気味で。それでも、とても眩しいものを見るような、潤んだ赤い瞳で。

 

「四宮家で築いてきた地位も、早坂家での安定した暮らしも、全部棄て去って……。

 こんな遠い(ところ)にまで、たった一人」

 

 ろくに母離れも出来ず、人一倍臆病であった早坂(あなた)にとって、それがどれほどの勇気が必要なものであったか。

その決断に至るまでに、いったいどれほどの恐怖と葛藤があったか。

 

 拒絶される畏れも。自分自身の弱さを曝け出すことへ恐怖も、私と同じように……ううん。私以上に抱えていたはずなのに

 貴女はただ一重に、白銀御行(あの人)のことを心から信じて、手を伸ばした。

 

 

「ちが……う。違う、私はーーー」

 

 両頬をかぐやに包まれながら、ふるふると顔を横に振る早坂。

 

 自分は、ただ逃げただけだと。

 貴女を裏切って。貴女の幸せを奪って。

 力無く、ただ格好悪く、ただあの人()に助けを求めただけだと。

 

「ええ……貴女はそう言うんでしょうね」

 

 ”そうやってずっと、自分を責め続けて来たんでしょうね”

 

 涙一杯に溢す早坂の言葉を、かぐやは微笑みながら首を横に振る。

 

 

「それでも、貴女は選んだの。私とは違う、別の道を」

 

 私には選べなかったもの。

私が、恐れに手放してしまった想いをーーー貴女は濁さず、褪せることもなく、ずっと綺麗なままで抱き続けた。

 

 誰かと共に在ることの難しさ。誰かと共に生きるというその行為が、決して憧れたままの姿ではいられない(綺麗ごとだけでは済まされない)ことを、思い知りながらーーーーそれでも今貴女は此処にいる。

この場所で築き上げて来た日々。思い出の全てが、今の貴女を代弁している。

 

 たとえ貴女自身がどれだけ否定したとしても……それは。それだけは、四宮かぐやにはどうしても辿り着くことが出来なかった地平。

 

「私が”弱さ”としか受け止められなかったことをーーー貴方は一つの”愛の姿(かたち)“として、証明してみせたのだから」

 

 

だからそれは、“誰か”の幸せを奪ったものではない。

誰かの願いを裏切ったものでも無い。

 

貴女自身が選び、願い、勝ち取った(いま)なのだと。

 

 

 

「だから、もういい加減 嘆くのはやめなさい。」

 

 見据える瞳が、厳しさを以て訴える。

 

「私に出来なかったこと。私が憧れたものを手に入れておきながら、“もっといい未来があったんじゃないか”なんて……そんな妄想に身を窶すことなんて許さない」

 

 一切の迷いを断つように短く切り揃えられた黒髪。

 煌々と煌めく赤い瞳には、以前の幼さなど欠片もない。

聡く、厳しく、まるで別人のように変わり果ててしまった少女。

 

(ああ……けれど)

 

 けれどそれも、当然なのだと。

 

 彼女(あなた)だってーーーまた。辛い現実を前に打ちひしがれ、挫折を味合わされて。

それでも尚と立ち上がり、乗り越えてきたからこそ、今この場所に在るのだから。

 

「“幸せになって”とも、言ってあげない。私たちの関係はいつだって競う者(ライバル)同士。

 もし貴方が今の安寧に甘えて、彼との関係を蔑ろにするようなら……私はすぐにでもその幸せを奪いにいく」

 

 

 ああ。そんな彼女(あなた)の想いにどうすれば応えることができるのか。

今なお”対等”だと言ってくれる貴女に。

ごめんなさい(卑下)”の言葉も。”ありがとう(謝罪)”の言葉も。きっと侮辱にしかならない、今の貴女に。

 

 沈黙を保っていたリムジン車が、再び低いエンジン音を響かせる。この会合に終わりを告げるように。

 

 静止の声など届きはしない。そんな姿(言葉)を、きっと貴女は望んではいない。

 

「ーーー……っ」

 

 ぎゅっと唇を噛み、顔を見据える。

溢れそうになる涙を堪え、怯むことなく真っ向から彼女を睨みつける(向き合う)

たとえそれがどんなに無様であろうとも。

それがお互いに……精一杯の強がりだったとしても。

 

それでもどうか今だけはーー貴女が認めてくれた私に、相応しい自分で在りたかった。

 

 

「……かぐや様」

「……うん」

 

 力強い眼差しに満足そうに微笑みながら、「もう”様”はいらないでしょう?」と。頬を包んでいた手のひらが離れていく。厳しさを湛えた赤い瞳に、微かな安堵と寂しさを残して。

 

彼女との間にあった最後の繋がり。

最後の後悔が、離れていく。

 

 

「さようなら、早坂。

 

 やっぱり貴方は―――私には、もったいないくらいの近従()だったわ」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 沈みゆく夕焼けを地平線に、深い藍色へと染まりゆく空の下。あれほどにまで高く聳えていたタワーも今は遠く、浮かび上がる月の下に影だけを残している。

 

窓の外へと過ぎ行く街並み。地面と水平に線を引く街灯を目に、かぐやはただ静かに息を零していた。

 

「……………それで?貴方はいつまで泣いてるのよ」

「だっ”でえ”~~~!」

 

 同じ後部座席のすぐ隣から、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら睨んでくる少女……四条眞妃にジト目をもって返す。

 四条家の一人娘にして、このリムジン車の本来の持ち主。この空間で唯一四宮かぐやと対等に話せる彼女であったが、その威厳は露とも残されていない。

 早坂と話をしている間もずっと涙目でこちらを睨みつけ、途中いつ割り込んできやしないかと内心ヒヤヒヤしていたが、とうとう我慢の限界が来たようだ。

 

「なんで貴女の方がそんなに泣くのよ」

「えぐっ……おばさまが、何時までたっても意地張り続けるからでしょうがぁ〜」

「……はぁ。もう、言ったでしょう?あの2人のことなら、私の中でもうとっくに整理はついてる。早坂(あの子)とだって、本当は会うつもりはなかったんだから」

 

 呆れのため息をつきながら、両手で彼女の顔を押し返す。

高校時代、親友と想い人との関係(ジレンマ)によく大泣きしていた彼女であったが、その様子は今も変わらいないようだ。

というか かぐやとしては。まるで過去の自分を重ねるように、勝手に同情と憐みの涙を向けてくる姿はちょっと不満でもあった。

 

 

「……じゃあ何で、あんな所でずっと待ってたのよ」

「……」

 

 そんな眞妃の言葉だからこそ、知らずぐっと口を噤む。

 

 確かに彼女の言う通り。ただ借りを返すためだというなら、あの場に留まる必要はなかっただろう。

この密会が『四宮』へと知られるリスクも考えれば、人目に付く大学などの場所はすぐに離れるべきだった筈。

 

 ……それでも。気がつけば。

まるで縫い止められるように、タワーの前から動けなくなっていた足。

 

 塔を見上げる希求と不安の入り混じった瞳。心の中で沸き立つ“あるいは”、“もしかしたら”と。そんな淡く震える期待を捨てることもできず。

早坂にああ言っておきながら……資格がない(赦されるはずがない)と、本当に怯えていたのはどちらだったか。

 

 『来ないわよ。あの人なら』

 

 あの言葉の裏に隠した本心。

(あの人)の目に映るかもしれないあの場所で。叶わない姿をずっと待ち続けていたのも、本当は――

 

 

「………」

「や”っばり”ぃ”~~!!」

「ああもう、うるっさい。汚い!そんな泣きべそだらけの顔を近づけないでちょうだい!

それよりあなた解ってるの?私にとっては、むしろこれからの方が重要なのだけど!?」

「ぐすっ……わかってるわよ。お父様なら大丈夫。もうビルに着いて、準備は出来てるって……」

 

 泣き面抱擁へのカウンターに、無理やり押し付けられたハンカチで顔を拭いながら、微かに視線を落とす真紀。

 

「……おばさまの意志も、ちゃんと伝えてる。四宮家(実家)に相反することも……そのために、私たち四条家に協力してくれるってことも。お父様だって、かぐや(おばさま)が他の四宮とは違う(・・)ってことはよく分かってる。けど両家の確執はそれ以上に根深いもの。本当にお父様の信頼を勝ち取れるかは……これからのおばさまの交渉(頑張り)次第よ」

「……ええ、十分よ。ありがとう眞妃さん」

「……ホントに良いの?」

 

 伏せた瞳で心配そうに見上げる真紀。

 

 四宮家令嬢であるかぐやの裏切り。もしそれが実現できれば、未だ両家で行われる権力抗争も四条家側の優勢に大きく傾くことだろう。

 水面下での人材引抜き。政界関係者、資産家達への周到なコンセンサス。組織中枢に身を置く彼女からの情報(言葉)の精度は、これまでの諜報活動で得られたソレとは比較にならない。

 

 だが同時に。それは彼女にとっての生家に背反し、獅子心中の蟲として身を窶すことに他ならない。

 黄光の目が光る敷地内で政治的威勢を纏うだけの地位を獲得し、裏では財閥転覆のための牙を研ぐ。

 権謀術数渦巻く派閥抗争のなか、心から信用を置ける味方など期待できるはずもなく、その心境たるや今以上の針の筵を味わうことだろう。

 四条家(私たち)に対しても。いつ身を切ろうとも痛まない、都合の良い駒として自らを売り込むようなもの……。

 

「それでもーーー」

「言ったでしょう?覚悟ならとうに出来ている。いまさら心を変えるつもりなんてないわ。

 

 それにね。裏切ったというのならーーーーー向こうが先だもの」

 

「……」

 

 穏やかな口調でありながら、冷たいものが背筋を奔る言葉に、ハンドルを握る老執事は再びバックミラーを盗み見る。

この半年間でより色濃く、火勢(深み)を増していった赤い瞳。

それは大学で彼らの姿を見たことで、より勢いを増したようにも思う。

 

 まるで火口に渦巻く劫火のように。無念も、怒りをも。全て融かし焚べた決して綺麗なばかりではない炎。

 それでも煌々と、力強く。

 

 

(ああ……まったく、黄光(あの男)も馬鹿な真似をしたものだ)

 

 人の恋路を邪魔立てして。その先に待つ末路など、子どもでも知っているというのに。

 踏んだのは虎の尾か。龍の逆鱗か。

 少なくともこの先、日本の国内情勢がかつてない荒波に揉まれることは確実だろう。

 

 

「貴方も付き合う必要はないのよ?」

「まさか。老い先短いこの身、どこまでもお供させていただきましょう」

 

 返される、どこか楽しげなしゃがれ声。

変らぬ老執事の態度に「呆れた」と零しながらも、燃える月明かりの下、少女()の口元には力強い笑みだけが浮かんでいた。

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 千切れた雲の合間から、柔らかな月明かりが降り注ぐ夜の帷。

リリリ……と微かに響く虫のせせらぎだけを耳に、二つの影がゆっくりとした歩調で家路へと歩いていく。

 

 ただいま、と。家の扉を開けると同時、自然と口に零していたのはどちらだったか。

 迎える見慣れた我が家の間取りに、体からホッと力が抜けていくのを感じる。

 

 朝から疲労を重ねた体は休息を訴え。普段ならばこのままリビングへと向かい、柔らかなソファへと身を預けたいところだけれど……今日は違った。

 

「こ、珈琲……淹れますね」

「あ、ああ」

 

 交わされる、酷くギクシャクとした会話。

 月明かりの帰路を終え、ようやくまともな照明も得られたというのに、未だお互いの顔をうまく見合わせることが出来ない。

何をするわけでもないのに頬は自然と熱を帯び、ふわふわと宙に浮かぶような、心地良いような心許ないような、不思議な感覚が足元を漂う。

 

 普段と変わらない筈の間取り。

 普段と変わらない我が家。

 

 そう。変わったのは自分たちの方。

 

 互いの想いを伝えて。互いの心を受け止め合って。

世間一般に言われずとも、晴れて恋人同士となった自分たち(二人)

 

 その事実(こと)を意識するだけで足は自然と羽を帯び、心は平静など遠く忘れていく。

目に映るものすべてが新鮮に見えてーーーあまりに新鮮すぎて。

二人きりのこの家で、改めて彼女とどう接すればいいのか。今まで自分ははたしてどのように接してきたか。よくもまあ平気でいられたなと、悶々と浮かぶ思考に無限に鼓動が早鳴っていく。

 

「ど、どうぞ……」

 

 それは早坂(彼女)も同じなようで。

耳まで真っ赤にした顔。おずおずと差し出す白いカップを握る手はコーヒーの熱に温められただけではない。白磁のように白い肌だからこそ際立つ遥かに色味を増した指先。時折、潤む彼女の青い瞳が一瞬だけ此方の口元を見てーーーその度に、より真っ赤に顔を染め上げては、すぐにまた俯いてしまう。

 そんないじらしいまでの姿が、益々心を掻きむしっていくのだった。

 

 

 ああ、二人してそんな調子だ。

碌に目線も併せられず、手元の注意も散漫となった状態とあっては、ソレは起こるべくして起こった。

 

「熱っ!」

「っ!?ご、ごめんなさい」

 

 カップを手渡す拍子、指へと零れ出た高温のコーヒーに思わず声が上がる。

早坂もハッと我に返っては、火傷の有無を確認しようと慌てて覗き込みーーー

 

結果、お互いに強く手を握り合ったまま、間近で目があう形となってしまった。

 

 

「ぁ、……ぅ……」

 

 か細く、消え入りそうな筈の彼女の声が妙に大きく聞こえる。

握った手を通じて伝わる、ドクンドクンと益々高鳴っていく鼓動。火傷の熱さえ、この火照りの前には微々たるものと思えてしまうほど。

 

 目の前で潤む青い瞳に見惚れて。

 覗く口元に、夕方に交わしたキスの感触が蘇って。

 ああ、彼女が恥ずかしがって(見つめて)いたのはコレかとーーー変に冷静さを残した頭が、けれどそこだけを残して全て真っ白へと白熱して(塗りつぶされて)いく。

 

 そのまま数十秒か。あるいは数十分か。

時間の感覚さえ置き去りにしたまま、繋いだ手も、息が触れ合うほど近くなった顔も離すことが出来ないまま、じっと見つめ合ってーー

 

 

 

「——ぷ」

「ふふっ」

 

 その果て、同時に溢れた笑い声。

 

 なんだか可笑しくて。

 こんなにも意識していたというのに。こんなにも、抑えがたい想いを抱えていながら、頑なに”好きじゃない”なんて。そんな意地と無理を通してきた過去の自分が、ひどく滑稽に(恥ずかしく)思えて。

 

 在りのままの想いを伝えられることも。

 心を受け止め合う歓びも。本当は子供の頃からずっと、憧れ求めていたというのに。

 

「あ……」

 

 繋いだ手をそっと離した拍子、少女の口から零れる名残惜しそうな声。

じっと見つめる、微かに潤みを帯びた瞳。恥じらい迷うような。それでも、何かを求めるような。

 

 ーーーああ。その想いだって、今は言葉もなく理解できるほどなのに。

 

 

 要望に応えるように、両手を左右へと大きく広げる。おいでと、そう促すように。

耳は相変わらず火を吹くほど熱かったけれど、全て笑って受け止めると宣言したこの身(自分)だ。

この程度の照れくささ、いくらでも耐えて見せようと思えた。

 

 

 申し出を前に顔を真っ赤に俯かせ……それでも逡巡は一瞬に。今まで我慢していたものがあふれ出すように、小走りに胸の中へと飛び込んでくる少女。

 ため込んできた思いの丈を表すように、その勢いは予想よりずっと強めで。それでも細く華奢な体を受け止めるまま、トサリと背中からソファへと倒れ込む。

 

 トクントクンと溶け合う二つの鼓動。片方が早まれば、そのことを喜ぶようにもう片方も早鳴り。

互いに見つめ、意味もなく名前を呼び合う。そんなありふれたことの一つ一つがどうしようもなく胸を高鳴らせて。顔を埋めた彼のYシャツ、そっと髪を撫でられる温かな手の感触に、心地よさから思わず目を細めてしまう。

 気恥ずかしさ(羞恥心)は依然胸にある筈なのに、それ以上に溢れる嬉しさが、幸せが、数多もの仮面も、あれほどに分厚かった心の壁さえも、甘く、熱く、飴細工のように溶かしてまう。

 

「……本当はもっと……もっと早く、こうしたかったです」

「……ああ」

 

 そうだなと、強く肩を抱きしめる。其処にある温もりを、もう一度噛みしめるように。

あまりにも長く続けてきた遠回り。その中でお互いにすれ違って、遠慮(誤解)して。酷く永い時間を費やしてしまったと思う。

ああ、けれどその全てが無駄だったと言えば、それは嘘になるだろう。

 

「きっと順番が逆だったんだろうな」

「逆?」

「ああ。普通はさ。付き合って間もないカップルっていうのは……きっと。お互いの好きなことや嫌いなこと。そういう心の表の所から、少しずつ知り合っていくものだろう?」

 

 お互いにまだまだ何も知らないからこそ。何が相手を傷つけるかも分からないからこそ。

多くの時間をかけて。時にはあえて波風を立てる。そんな大胆さも以てして。少しずつ、少しずつ、お互いの本音を理解するところから始めていくものなのだと。

 

「……けれど俺たちは」

 

 お互いの心情も。普通ならば知り得ない、一番に弱い(傷つく)トラウマさえも。心の深いところに至るまで、あまりによくわかり合い(知り)すぎていた。

 何が相手を傷つけるか解ってしまう。相手の傷ついた姿が何より印象に残ってしまっていた(想像できてしまう)からこそ、ソレを恐れて……必要以上に遠慮して。

 相手を想うあまり、互いの今の気持ちを(言葉)にして確かめるという、そんな初めの部分(大胆さ)が大きく欠けてしまっていたのだと。

 

「臆病で、繊細で」

「酷く寂しがり屋で」

「ほんとに、似た者同士だったんですね」

「そうだな」

「相性抜群だったとも言えますけど」

「ふふ。ああ、そうだな」

 

 それも含めて、自分達らしいと。

その事実を受け止められたからこそ。この遠回りも決して無駄ではなかったのだと思える。

 

「浅いところも、深いところも……今はもう、心の全部に触れ合えて。

お互いの気持ちも、こうして正直(すなお)に伝えられるようになりました。

だからきっともうーーー」

 

 ”私たちは、大丈夫です”と。その言葉を裏付けるように、ぎゅっと、抱きしめる力を強める早坂。

 

 今はこうして顔を真っ赤にギクシャクしている二人でも……きっとすぐにまた落ち着いて、(いつも)の生活に戻れることだろう。

これまでも熟年夫婦もかくやという生活を送ってきた二人。心の全てを繋げられた今ならば、遥かに盤石とした日々(安定した暮らし)を実現できること筈。

 少なくとも、”そう在りたいと”。心から願える自分たちがいる。

 

 けれど同時に、盤石とは裏腹に……

 

「恋人らしい、こういう初々しい気分(きもち)も捨てがたかったり?」

「それな」

 

 まるで誰かの口調を真似るように、くすぐったそうにクスクスと笑う早坂。

 

じゃれあうように額を摺り寄せるなか、夜風に揺れるカーテンの隙間から、柔らかな月明かりが差し込む。

 

「あの子からも……背中を押してもらえました。不甲斐ない姿に、叱られもしてしまいましたけど」

「……そっか。」

「いつかもう一度、逢いに行こうと思います。

 もっと強くなって。あの子に相応しい……あの子に負けないくらい、強い私たちになって。

 どれだけ時間がかかったとしても、今度は真っすぐにお礼を言うために」

 

 強くうなずく白銀の横顔に、けれど見上げる少女の瞳が一瞬だけ影を落とす。

思い出してしまったからこそ。

意識してしまったからこそ。

 

「本当に……いいんですか?あの子ではなくて……私で」

 

たとえあさましいことと分かっていても、もう隠したくはないと望む心が、素直な弱音を吐露する。

 

「私は疑い深くて、臆病で……これから先も、何度も貴方を困らせてしまうかもしれません」

「それこそ、お互い様だろう?」

「それに、私……本当は凄く甘えたがりなんです。自分の気持ちを抑えられなくなって、迷惑をかけてしまうかも」

「……それは寧ろ彼氏としては喜ばしいことなんじゃないか?」

 

 でもーーーと、続きを紡ごうとする唇を、少年の指がそっと止める。

 

「お前でなければ駄目なんだ。早坂」

 他ならない自分の本心を。

 たとえそれが、どんなに歯の浮くようなセリフであろうとも。彼女が不安を覚えるというのなら、何度でも伝えるために。

 

そうして静かに息を吸う。本当はずっと届けたかった言葉を、捧げるために。

 

 ”それ”は一度口にしてしまえば、泡と消えてしまいそうでーーー

幼い頃の母の言葉(トラウマ)に、ずっと胸に秘めていることしかできなった言葉。

 

まだまだ子供の自分達には、早いのかもしれない。

 

まだその言葉の意味は、すべては理解できていないのかもしれない。

 

 ああ、それでも。

心から伝えたいと。そう想える、君だからこそ。

 

 

「愛している」

 

 紡がれる短い言の葉に

 

それでも、幼いころからずっと探し続けてきた。求め続けてきた言葉にーーー少女の瞳に涙が溢れる。

 

 

「はいーー私もーー。

心から、貴方を愛しています」

 

 

降り注ぐ淡い月明かりの下に、再び重なり合う二つの影。

 

涙に輪郭のぼやけた月は、ああ、けれど今まで見たどんなものよりも美しく輝いて見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ未熟で、心の弱い自分たちで。

 

もしかしたらこの先も、また遠く、心が離れてしまうこともあるかもしれない。

 

ああ、それでも。たとえどんなに離れていたとしても。

 

届けに行こう、この胸に咲き誇る、遅咲きの花束を。

 

 

何度でも伝えにいこう。

 

 

”あなたは魅力に満ちている”と

 

 

 

 

 

 

 




*あとがき*

 ご愛読いただきありがとうございました。
永く連載させて頂きました“遅咲きブーゲンブリア”、これにて完結となります。

 連載を始めてから早4年。遅過ぎる作者の筆に耐え、ここまで読んでいただいた皆様には、本当に感謝の言葉しかございません。
 自身の文才の無さに幾度も筆を折りかけながら、ここまで書き上げらえたのは、ひとえに皆様の応援あってのことでした。
 原作の方が先に終わるなんて誰が予想できたことでしょう。いえ、作者の怠慢が原因です。ほんとにごめんなさい。

 原作では無かったアメリカでの暮らし。
大人の階段を登る最中、愛という言葉に揺れ動く心。
本当は人一倍繊細な彼らに恋愛模様を描きたいと見切り発車で始めた本シリーズは、事実、途中二度三度大きくプロットを変え。筆者の実力不足もあいまって執筆時間ばかりが伸びていく迷作となってしまいましたが、今は無事描き終えられたことに、ほっと胸を撫で下ろしています。

 この話の続き。後日談については、実は前からこっそり別に連載していたので、これからはそちらの更新に注力していきたいと思います。シリアスのないおふざげ中心の内容なので筆も速くなる……筈。気が向きましたらそちらも愛読いただけますと幸いです。

 
 では最後に改めて、本作品を最後まで読んでいただきありがとうございました。また別の作品でも、どこかでお会いできたらと思います。
 


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