それは、およそ3年前。
白銀御行がスタンフォードの地に来て、2ヶ月の時が経とうとする頃。
「…ぅ――?」
深い泥の底から這い上がるように、暗濁に沈んだ意識が目を覚ます。肩に奔る鈍い痛み。頬に食い込む硬い本の背表紙。どうやら椅子に座ったまま、机に突っ伏して眠っていたようだ。
妙に軋む体と、再び眠りへと誘わんとする茹だるような倦怠感を振り払いながら、白銀は大きく背を伸ばした。
同時に「ああ、くそっ」と漏れ出る苦悶。
午後10時、記憶より2つも進んでしまった時計の針。何より、机の上に広がったルーズリーフ、その叙々にミミズののたくった字へと変貌していく自身の筆跡に苛立ちが募る。
いったい何を眠りこけているか。
そんな余裕など何処にも無いというのに。
湧き立つ怒りのままに消しゴムを取り出せば、その際に触れたシャープペンの一本がコロコロと転がり、床へと落ちる。カシャン――と。音は家全体に木霊するように、ヤケに大きく響き渡った。
元々は2、3人での
ああ。家にいた頃はあんなにも煩わしく感じた父と妹の生活音。ずっと、一人だけの部屋が欲しいと夢見ていたのに、いざ手に入れて心に芽生えたのは、紛れもない寂しさ。
ふと、机の上に置いた携帯に目を移せば、何件かの未読メッセージが入っていた。
その殆どが妹の圭ちゃんから。離れて暮らすようになって以来、頻繁にメールを遣すようになった彼女。内容としては酷く素っ気なく、飢えて死んでないかだの、いい加減彼女出来たかだの。どちらかというと親が送ってきそうな文言であるが、そこからは彼女らしい、少し捻くれた親愛が伝わってくる。対して実の父親の方はといえば、渡米以来ぷっつりと連絡が途絶え、相変わらず何を考えているのやら。
過去の
それが虚勢であると分かっているから。自身の現状が、決して誇れるものではないと知っているから。
(……ああ、そうだ)
頬を両手で叩いては、机に向き直る。胸の内で燻る焦りを無理矢理気合へと移し変える。
自分は家族をおいてまで、この違い地にやって来たのだ。ならば、しっかりしなくては。こんなところで立ち止まっている時間など無いはずだ。
大学講義における予習の重要性は、高等教育のソレとは比較にならない。
講義を執り行う講師。すなわち各専門分野における教授・准教授等は、各々が究めるべき研究課題を持ち、日夜、学会発表に向けての研究に勤しんでいる。中には企業と合同で開発を行う者もおり……悪い言い方をすれば、あくまで研究が主であり、
使用するテキストも『教科書』ではなく、『参考書』を用いることが多い。公式の基本を学び、練習と実技を重ね、最後に応用問題を解く――そういった学習のための順序を踏まえたものではない。あくまで使用する公式を抜粋するために用いる資料。
その公式をどのように証明するのか。どんな場面で使用するのかはテキストには記載されておらず、ただその本一冊読むだけでは学習に足らない。
誰の言葉であったか、配られるテキストはあくまで参考書、本当の教科書は自らノートに記し作っていくものなのだと。
しかし現実問題として、授業中、何の予備知識もないまま説明を受けて、ソレを一度で全て理解できるかと言えば難しい話である。
矢継ぎ早に書いては消される黒板。ソレらをノートに写しながら、同時に講師の説明を一度で全て理解する。そんな目と耳と手と頭のフル活用が一講義あたり90分も続くのだ。その講義とて日に最高5回はある。とても、予習無しにはやっていけない。
加えて、ここはスタンフォード。扱うテキストは当然全て英語で記されている。講師による説明も、自ら提出するレポートも、全てが英語によって為される。留学生である白銀がどれほどのハンデを背負っているかは、語るまでも無いこと。
いいや、そんな事は言い訳にならない
膨大に熟すべき修文も。異国語による学習も。全ては秀知院学園時代に既に経験してきた事だ。以前と同じ気概で励んだなら、決して乗り越えられない苦難ではなかった。
そう。あの頃と同じ気持ちで、いられたなら
(………な)
そもそもこんな予習など、講義が本格的に始まる1ヶ月までには全て終わらせておくべきこと。テキストの翻訳、内容の全把握。そう出来るだけの時間もあった筈だ。
けれど、しなかった。出来なかった。
そうするだけの気力を、どうしても持つ事ができなかった。
(考えるな)
邪念を打ち払うように一心不乱にペンを走らせる。重い瞼を擦り、痛む指をなお動かし続ける。
そうだ。それが常だった。自分は秀知院の頂点に立つには、この痛みに耐えるしかなかった。
……けれど、そうするほどに。迷いを振り払おうと足掻くほどに、粘つくような黒い感情が胸の底から湧き上がってくる。
苦しい。
止めてしまいたい。
どうしてこんな苦労を背負う。
どんな代償をはらったところで、本当に望むものは手に入らないというのに
「考えるな……!」
ガリガリと、ペンの音が響く。やけに大きく。耳障りとも思える静寂の中で。
嗚呼、どうして。
どうして自分は一人、
こんな筈ではなかった。
広すぎる家。隣には、君がいる筈だった。
今まで自分が頑張って来られたのは――
■□■□
深い深い、微睡の淵へと落ちていく。
光も届かぬ墨色の湖中。体躯は鉛のように重く、波に弄ばれるまま、暗い暗い追憶の彼方へと流されていく。
暗がりの中に浮かぶぼんやりとした光。溶けた砂の輪郭が蘇り、遠い彼方の記憶を呼び起こす。
思い出したくもない記憶。消してしまいたい過去を。
――今や懐かしい秀知院学園の校門前で、男女が向き合っている。
夕暮れ時だというのに周囲は薄暗く、空には厚い雨雲、木枯し舞い飛ぶ冷たい風が吹き荒んでいる。
背まで伸ばした長い黒髪を靡かせ、静かに佇む少女。秀知院学園の制服では無い。まるで天上の衣と思わせる程、美しい着物を身に纏って。浮かぶ表情は氷のように冷たく、交わす言葉さえも無い。髪間に覗く赤い瞳が、ただただ無情に自分を射貫くばかり。
(ああ――)
どうして、と。また同じ疑問が湧き上がる。
どうして君は、そんな目を向けるのだろう。
どうして君は、何も答えてはくれないのだろう。
まるで出会う以前。氷と呼ばれていた頃の彼女に戻ってしまったかのよう。
背後には、いつもの小洒落た装いの
『――……』
疑問は解けぬまま、言葉も見つけられずにいる自分を前に、ゆっくりと彼女が口を開く。
(――嫌だ。)
心が悲鳴を上げる。
聞きたく無い、耳を塞いでしまいたい。
その
それでも動かない手足。心に巣食う微かな妄念が、この場を離れること許さない。
変わらない結果と分かっていても、その続きを。あったかもしれない、別の結末を期待してしまう。
それでも
『ごめんなさい』
音は遠く、世界が色をなくしていく。
疑問も、期待も、願望も、恋情も。全てが消し去られてしまうかのように、真っ白に塗り染められていく。
『待っ――!』
呼びかける声に一瞥も残さず、一抹の憂いさえ無い
(……まるで かぐや姫伝説が蘇ったかのよう)
天界の羽衣を着せられたかぐや姫は、人の心を無くし、地上への想いも無くして、月の世界へと帰っていく。穢れや人心の蔓延る
それが彼女を見た最後の姿。以来、彼女は秀知院学園を去り……生徒会を始め、唯一の親友だった藤原書記の前にさえ、姿を表さなくなった。
あるいは何かが違っていたら
あるいは、彼女の背に手を伸ばせていたなら
もっと違う、別の未来を歩めていたのだろうか
わからない。
わからなくとも――そう願わずにはいられない。
幾つもの疑問。
幾つもの無念。
数えきれぬを悔恨を抱えたまま。
俺の初恋は、終わってしまのだ。
■□■□
耳に微かに届く、鳥の囀りに目を覚ます。
と同時に感じる肩の痛み。またも額に食い込みくっきりと痕を残している本の背表紙。ああ、どうやらまたしても自分は机で眠りこけてしまったようだ。思えばここ数日、勉強への焦りでまともにベッドで眠った記憶がない。鏡を見るまでもなく、目の下には大きな隈が残っていることだろう。
「……はぁ」
机に広がるルーズリーフに思わず落胆の息が溢れる。当初予定した進捗の半分も進んでいない。昨日1日机に向かっていたのに、これほどしか進んでいないとは。
やはり気概が足りていない。途中で眠りに落ちてしまうこと自体、高校時代からでは考えられない。自宅での勉強にしろ、大学での講義にしろ、どうしても集中する事ができずにいる。
嗚呼、本当にどうして
『ごめんなさい』
「………」
考えたところで、分かり切った問いなのだと気づく。
そう、当然の帰結なのだ。今まで自分が頑張って来たのは。どんなに苦しくとも歯を食い縛って耐えて来られたのは
四宮。
君に追いつきたい。君の隣に立っていたいと、願い、努力してきたから。
けれど君を失って。
手を伸ばしたところで届かない。努力など何の意味もなかったのだと思い知されたまま、こんな地にまで独り来て……
以前と同じような自身を。七難八苦に挑めるだけの気概を、抱けるもはずがなかった。
(まるで魔法が解けてしまったよう)
今の自分は秀知院に入学した頃と同じ。腐り、淀み、無力を感じることしか出来ない。けれど今は、それこそが本来の自分であったとさえ思えてしまう。
四宮を追いかけていた頃。過去の栄光。それは自分の姿なのに……いいや、かつての己だからこそ、あまりにも眩しく、疎ましく思えた。
あるいは蓬莱の薬でも残してくれたのなら、一抹の希望もあったのかもしれない。
今はただ――世界の全てが色あせて見える。
(ああ、それでも)
それでも現実は待ってはくれない。時間は感傷の暇など許さず、ただただ平等に、無情に流れていく。どんなに辛い過去があろうとも、己の人生を放棄しない限り、人は今という時間に向き合っていく他ないのだ。
重い思考。世界は酷く色褪せて見えるのは変わらない。
胸に鈍い痛みが巣食っていくのを感じながら、白銀は再びペンを握るのだった。
だが、そんなとき
「――? チャイム?」
玄関から響いてきた音に首を傾げる。郵便だろうか?しかし届け物なら寮が管轄する宅配ボックスに預ける決まりの筈。
訝しげに思いながらも、机から立ち上がる白銀。その際、ふと壁にかかったカレンダーが目に写り込む。
……待て。今日は何月何日だ?
背筋に走った悪寒に突き動かされるまま、慌ててテキストに埋れていたスケジュール帳を引っ張り出す。そこに記されていた内容に益々と顔を青くした。
『入寮希望者訪問日』
――拙い。完全に失念していた。
ああ信じられない。どんなに切羽詰まっていようとスケジュール管理だけは疎かにしなかった自分が、こんな初歩にも劣るミスをやらかすなど。
そんなにも自分は追い込まれていたのか。日にちを確認する余裕も無いほどに。
改めて見る自身の惨状に、僅かに残った自信さえ失ってしまいそうだった。
いや、落ち込むより先ずは――
重い体に鞭打ってインターフォンの前にまで走り寄る白銀。その間にも二度、三度と、かなりのスパンで鳴り響く呼び鈴に、待たされて相当怒っているようだと冷や汗が浮かぶ。
いったいどんな人だろうと来客用カメラを覗き込み
「は――?」
思考が止まる。あまりにも大きな衝撃。あまりにも多くの疑問に頭を横殴りにされたかのような。
目に貯め込んだ隈の事も忘れ、気づけば白銀はバタバタと玄関へと走り出していた。
ガチャンと勢い良く引き開けた扉に、待っていた少女は驚いたような表情で固まっていた。もっとも、自分はその何倍も驚いた顔だっただろう。
「なんで、アンタが」
白銀の顔を認めるや、安心したように笑みを溢す少女。懐かしも見慣れた翠色の瞳。朝陽に煌く美しい金の髪。
「はい……久しぶり、ですね。御行くん」
褪せた世界が無理やり色を取り戻したかのような、そんな衝撃。
四宮家近従、早坂愛が其処に立っていた。
クリスマスにこんな失恋話投稿するとか……あっ(察し)