【完結】遅咲きブーゲンビリア   作:パン de 恵比寿

3 / 18
蓬莱の薬

 

 

 トントントン、と小気味のいい音が響く。角切りにされた豆腐に芳しい葱の香り。作っているのは大根の味噌汁だろうか、優しく懐かしい故郷の香りに知らず胸が安らいでいくのを感じる。対して、その目に飛び込んでくるのは、なんとも不思議な光景。

 淡い水色のエプロンを身につけ、肩まで降ろした金糸の髪を揺らしながら、キッチンで調理に勤しむ早坂。手際に迷いはなく一品また一品と瞬く間に料理が手掛けられていく。

 

「嫌いな食べ物は特になかったですよね?」

「あ、ああ……」

 

 振り返りもせず投げかけられた問いに、若干尻込しつつ答える白銀。嗅覚の安心感と視覚の違和感が半端ない。この2ヶ月かけて少しづつ見慣れてきた筈の台所が、全くの別世界に見えた。

 ほんとうに……どうしてこんな事になったのか

 

 

 

 

 

 

遅咲きブーゲンビリア 第3話 『蓬莱の薬』

 

 

 

 

 

 

「久しぶりですね。御行くん」

「アンタ、なんで……」

 

 まだ陽も登りやらぬ藍色の空の下、玄関先で佇む一人の少女。忘れ得ないその姿に幾つもの疑問が頭を飛び交い、言葉を惑わせる。記憶にある着崩した格好では無く、淡色のトレンチコートに純白のカーディガンと落ち着いた装い。小洒落たギャル姿が印象深かっただけに、今の彼女はとても大人びて見えた。

 

 何処か潤んだ瞳で微笑んでいた早坂だが、しかし何かに気づいたようにぴくりと眉を顰める。

 

「少し……やつれましたか?」

「い、いや…」

 

 近づけられた顔に、頬が熱くなるのを感じ、咄嗟に手で隠す。恥ずかしさ以上に胸を占める後ろめたさ。見知った彼女に今の自分の惨状を知られるのが、どうしようも無く心疚しく思えたのだ。

 

「『どうしてお前(わたし)が此処に』。そんな顔ですね」

「あ、ああ」

「…心配だったからでは、ダメですか?」

「なに?」

 

 思わず怪訝の声を上げる白銀。深く顰めた顔に浮かび上がるのは、濃い懐疑の色。微かに目を細めた早坂は、なおも変わらぬ口調で続ける。

 

「圭から相談を受けたんですよ。『お兄ぃの様子がおかしい』って。あまり大学(こちら)での生活を話したがらないし、メールの返事も強がりばかりだと」

「圭ちゃん、が?」

「兄妹ですからね。きっと、勘付くものがあったんでしょう」

 

 圭ちゃんと早坂に繋がりがあったこともそうだが、あの妹が其処まで自分を気にかけてくれていたとは。情けないと思う反面、不思議と安堵している自分がいる。家族への隠し事を続けるというのは思う以上に苦しかったようだ。

 

「……。圭ちゃんの相談に乗ってくれたことは感謝する。だが、だからってアンタが此処に来ることはないだろう。それに『入寮希望』だって?まさかスタンフォードに入るのか」

 

彼女がどんな人間であるか、どれほど忙しい身の上かは知っている。それが、こんな遠い地にまで。心配だからと、そんな親切心一つで足を運ぶとは到底思えなかったのだ。ましてや自分なんかのために。

 その手にさげた巨大なトランクと、背後に並ぶ台車積みの段ボール群。それが一泊そこらの荷物量でないことは明白だ。

 

 本当になにを考えているのか。

未だ解かれない疑いの視線に、少女は一瞬顔を伏せると、はぁ、と大きく溜息を吐いた。

 

 

「まあ……そうですね。確かに心配だったというのは建前。此処にきた理由は別にあります。ただ、ソレを玄関(ここ)で話すと長くなるので……」

 

 外は寒いとばかりに体を抱きしめ大袈裟に身を震わせては、チラリと屋内を流し見る早坂。

 

 

「先ずは朝ごはんにしませんか?入寮挨拶も兼ねて手料理、ご馳走しますよ」

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 部屋に荷物を運び入れること数十分、ようやく終わった積入れ作業に額の汗を拭う。

 あの後ポツポツと降り出した雨空の下、玄関先で野晒しになっている大量の段ボールを放っておくこともできず、渋々と手伝いを買い出た白銀。だが量もさる事ながら、中には腰が曲がりそうなほど重い物も有り、かなりの重労働を極めた。

 

 荷物を運び終え、いざ報告をしようと居間に顔を出せば、其処にはエプロンの姿で料理に勤しむ早坂の姿。準備が良いというか、仕事が早いというか、体良く荷運びに利用されたようでちょっと釈然としない気持ちだ。足元には開封されたばかりの段ボール。中からは日本米やら味噌やらが顔を覗かせ、なるほど重たいのも納得であった。

 テーブルの上に用意されていた日本茶を啜りつつ、彼女の後ろ姿をなんとなしに眺める。不意にざわりと、胸奥で疼く妙な既視感を覚えながら。

 

「正直に言うと、今の私はそれほど忙しい身では無いんです。かぐや様が本家に戻られて以来、私たち早坂家の人間を始め、別邸の使用人達はその任を解かれました」

 

 魚の皮が焼けるパチパチという音。長い菜箸に指揮されフライパンの上を踊る野菜たち。

 料理に目を向けたまま振り返る事もなく呟く早坂、その口からさらりと飛び出た名前に、白銀は心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。

「四宮は……それから?」

「雁雄様と共に京都に戻られて、今は次期当主となるべく学習の真っ最中、だそうです。仔細はわかりません。私にとっても、あまりに突然のことだったので」

 

 普段と変わらぬ口調(トーン)で答える早坂。しかしだからこそだろうか、その小さな背中には隠しきれぬ失意と落胆が浮かんで見えた。

あの思い出したくもない記憶。校門での別離。

彼女も――同じような終わりを突き付けられたのだろうか。

 

「私は四宮家近従として、別の主人に仕える道もありました。けれど、かぐや様と過ごした十余年を忘れ、今更別の人に従いたいだなんて思えません。……ですから暫くお休みをいただいて、今までできなかった、やりたい事をこの機にやってみようかと」

「やりたい、こと?スタンフォード(ここ)でか」

「はい。私の趣味は知っているでしょう?」

 

 趣味……。確か初めて出会った時にはパソコン関係の本を買い漁っていたり、自作したデスクトップPCの性能を得意気に語っていたこともあった。

 

 スタンフォード大学は、名だたる著名人を世界に輩出してきた学校だ。電子決済サービスの走りであるPayPalの開発者『ピーター・ティール』。世界的有名検索エンジンGoogleの創設者の一人『ラリー・ペイジ』。かの『スティーブ・ジョブズ』も本校で講演を行い、以降はその影響で入学希望者が倍増したという一種メッカとも呼べる場所。彼女が電子工学の道を希望するなら、これ以上はない大学ではあるが……

 

 本当にそうなのだろうか。大学の選択。進学という道を選ぶこと自体も、将来を決定しうる重要な分岐点だ。それをこんな思い付きで。その場のノリのような勢いで決めつけても良いのだろうか。

 

「そもそもの話、よくスタンフォードに合格できたな。推薦か?」

「いえ、合格してませんよ?」

「……はい?」

「飛び級した御行くんとは違うんですから。私の受験はこれから。一般枠ですけど」

「はぁ!?大丈夫なのかソレ!?」

 

 毎年超々高倍率。全国の天才達が集うスタンフォードの受験難度は半端では無い。秀知院の推薦状が無ければ、白銀でさえ合格は五分といった所だろう。合否基準には試験当日の成績だけでなく、全国模試の結果や普段からの素行も審査される。秀知院での記憶を思い出す限り、早坂の成績ではとても――

 

「ああ、ソレについてはご安心を」

 

 ふふん♪と若干得意げに笑みを零しては、テーブルの上に置かれた青封筒を指差す早坂。それは白銀にとっても懐かしい、全国模試の結果郵送に用いられる封筒だった。促されるままに中を見てみれば、数枚の用紙がパラパラと

 

 

秀知院学園 学期末試験  一位 早坂愛

全国統一模擬試験    一位 早坂愛

 

 

「はぁ!?コレ、おまっ、はぁー!?」

「落ち着いてください。そんなに不思議なことでは無いでしょう。今までは、かぐや様の近従として目立たぬよう故意に成績を落としていたのですから。御行くんとかぐや様が去った今、私が本気を出しさえすれば、こんなものです」

「いや、だからって……帝は!?四条帝はどうした!?」

 

 あの高偏差値を誇る秀知院で毎年同じ順位を取るという離れ業を駆使していた彼女。その実力を疑う訳では無いが、それでも、どれほど刻苦と研鑽を重ねようと決して届かなかった彼の帝王までも易々と越えられてしまったと思うと、心穏やかではいられない。

 

 その問いに対して、早坂は何故か表情を暗くすると

 

「帝、というより四条家のお二人については、今回軒並み成績を落としています」

「一体何が……まさか毒を」

「私を一体なんだと思ってるんですか。そんなこと滅多にしません」

 

 完全には否定しないのか。そう言えば、自分も珈琲をノンカフェインにすり替えられ昏倒(ばくすい)すること何度か。彼女自身が告白してくれなかったら一生知らぬままだったというのが空恐ろしい。

 

「それに毒を盛ったというのなら、私ではなく御行くんの方です。それもとんでもなくタチの悪い毒を」

「……?どういう?」

「今回成績を落としたのは四条家の御二方。加えて柏木渚、田沼翼の計4名。むしろ騒動(スキャンダル)の中心は後の二人です。クリスマスからの日数をして隠し通すのも限界。そして其れが発覚して一番傷つく(パニくる)のは誰か……。ここまで言えば、もうお分かりでしょう」

「……ま、まさか」

 

 白銀の頭の中で組み立てられていく方程式。

 

 毒×壁ダァン = クリスマス×神ってる2人 = ……

 

 

「いやいやいや、何してんのあの人達!?」

「経済連理事の孫にして国内有力造船企業の1人娘が学生妊娠とか、芸能界顔負けの衝撃報道ですよ。なんか何処かで見た偉いお医者さんまで学園に土下座しに来るし……。以来、真紀さんは事あるごとに泣き始める情緒不安定ぶり。帝くんはそのお守りで完全にとばっちりですね。正直、模試どころの騒ぎではないです」

「そ、そんな。そんなことが……」

「学園としても風紀のあり方が問題視され、校長がPTAの前で謝罪(平謝り)を……まあそれはいいです。問題はその混乱に乗じて、あの藤原千花が生徒会選挙に台頭し、父親譲りの政治的根回しでそのまま生徒会長に就任。部活連予算会議を掻き混ぜ、暫くTG部が部活動カースト一位になるという暗黒の時代が続きました」

「アイツもアイツで何やってんの?」

「まぁその後は、現代に蘇ったジャンヌ・ダルクこと『伊井野ミコ』と、ジル・ド・レェこと『石上優』の2人により王政打倒が行われ、抵抗虚しく、往生際の悪さ甚だしく、最後には情け容赦無い(言葉の)ボディブロー連打により地に斃れ伏しました。なお本人曰く『白銀会長亡きあと、2人が秀知院が背負うに足るか試すための礎になったの……』と」

「まだ自ら殴られに行くのか」

「現在は変わらず生徒会書記として、新規メンバーの不知火衣ちゃんにこき使われながらも政務に励んでますよ」

 

 なんでそんな面白おかしなことになっているのかとか、石上は配役的に闇堕ち確定なんだけど大丈夫かとか、ツッコミ所は大量にあるものの、何だかんだと上手くやれていることにホッと胸を撫でおろす。思えば、最近は忙しさにかまけて碌に連絡も取れていなかった。

 

 

「とまあ話は逸れましたが、要するに私は一受験生。今回模試の結果が良かったのは運に助けられた要素が多く、地の学力では御行くんに遠く及びませんし、スタンフォードに合格できるとも思えません。私はまだまだ勉学が必要な身。ですので、貴方には私がスタンフォードに合格するまでの間、勉強を訓えて頂く講師の役をお願いしたいのです」

「……」

 

長い、沈黙。額を手で押さえた白銀は絞り出すような声で問うた。

 

「……本気で、言っているわけじゃないよな?」

「残念ながら、今回ばかりは真面目です。そのかわりといっては何ですが、私はルームメイトとして、炊事、掃除、家事全般など身の回りのお世話をさせていただきます。四宮家近従が誇る最上級の給仕を受けれるんですから、悪い話では無いと思いますよ?」

「いやいやいや」

 

 襲い来る眩暈のようなものに益々と額を押さえ込む白銀。

 彼女はいったい何を言っているのか。そも年若い男女が同じ屋根の下で暮らすこと自体問題だろうに。今は、自身のことに手いっぱいだし、誰かに勉強を教える余裕もない。家事だって別に不慣れなわけではないのだから、十分に事足りている。

 何より、早坂は彼女の関係者……これ以上、悩みの種を増やしてほしくはなかった。

 

「悪いがその申し出は」

「はい、お待たせしました。日本食は久しぶりですよね?」

「……」

 

 受けられない、そう返そうと開いた口を遮るかの如く、コトンッと目の前に置かれる白い皿。じっとりとした抗議の視線などどこ吹く風、早坂は鼻歌交じりに次々と料理をテーブルに並べ、最後には急須でこぽこぽとお茶を注ぎ始める始末。

 悪びれた様子も、取り付く島さえも無い様に、溜息混じりにテーブルに目を落とせば、今しがた運ばれてきた出来立ての料理が並んでいる。ほわほわと湯気の登る純白のうるち米。淡い香りの漂う大根の味噌汁。瑞々しい肌の冷奴。ほうれん草の胡麻和えに、主菜の鯖の照り焼き。刻んだオクラと共に混ぜられているのは、この地では拝むことすら難しいネバ納豆。

 

 朝食にしてはちょっと量多めだが、日本の食卓では極平凡な一般家庭料理といえる。しかし、この国においてはどれ一つとして手に入れることの叶わない、白銀が恋焦がれてやまなかった郷土料理の姿そのもの。

 知らず、ごくりと鳴る喉。白米から登る甘い香り。あれほどまでに恋焦がれた、泣きたくなるほど懐かしい匂いに、彼女の申し出を断ろうとしていた仄暗い意志さえ遠く忘れてしまいそうだった。

 

「どうぞ召し上がってください。使っている野菜も……北海道にいる貴方のお爺さん達が育てたもの。貴方に故郷の味を届けてほしい。その願いを叶えるために、圭から譲り受けたものです」

 

 中々箸を取ろうとしない自分に、ダメ押しのような一言。

 ああ、くそ。やはり彼女には解っているのだ。自分が家族という存在にどれだけ弱いかを。

胸にざわつく既視感の正体――幼いころよりずっと一人で料理を作ってきた自分にとって、誰かに朝食を作って貰うということが、どれ程の意味を持つかも。

 

「……いただきます」

「はい、いただきます」

 

 声は低く、仏頂面で手を合わせる白銀。傍目から見れば酷く不機嫌そうな態度だが、それでも早坂はくすくすととても嬉しそうに笑い、同じように手を合わせるのだった。

 

 炊き立てのご飯を箸で一掬い。溢さぬようゆっくり口に運べば、舌に広がるその甘さに驚愕する。食べ慣れていた頃では気付けなかった、当たり前すぎて忘れていた白米特有の旨味。噛めば噛むほど甘みはまして行き、箸の手は止まらず一口、また一口と、気が付けば茶碗7割を平らげてしまっていた。味噌汁に口をつければ甘辛くも優しい味が舌に染み渡り。程よい焦げ目のついた皮、脂の乗った鯖を箸で突つけばそれだけでホロホロと身をほぐす。

 

「ああーー美味い」

 

 口から溢れる心からの言葉。何度も調理を重ね、何度再現を試みても叶わなかった故郷の味。

食材の違い。風味の違い。毎日の食事のなか感じる違和感の積み重なりが、知らず心にしこり(・・・)を残していた。憩いの場である筈の家に帰ってきても、遠い異国の地であることに変わらない。此処はお前の居るべき場所ではないのだと、訴えかけられているよう。 

 嗚呼、だからこそ、一口ごとに胸に溢れる安堵。全てが懐かしく、あたたかい。

まるで本当に故郷に帰ってきたこのようで……

 

「——っ」

 

 不意に、瞳が熱を帯びるのを感じ、慌てて隠す。

こんな、料理を食べただけで涙を流す姿など、向かいに座る彼女に見られたくなかった。知られたくは無かった。

自分が、こんな弱くなっていたことなどーー

 

「笑ったりなんか、しませんよ」

「…?」

「遊びのない内装。生活に必要な最低限のものしか置かれていない部屋。貴方がどんな想いで暮らしてきたかは分かります。

 出迎えてくれる家族もなく、家にはたった1人。広すぎる部屋も何処か他人の家のよう。拭えぬ違和感と寂寥感に『憩い』なんて見出せるはずもなく……寝ても起きても、本当に気の休まる時間なんて持てなかったんじゃないですか?」

 

 ポツリポツリと紡がれる言葉に、喉が干上がっていくのを感じる。

彼女の口調に責め立てる色は無い。ただただ穏やかに。寂寥を労るような声色をしていた。

 

「毎日の食事も、窓から届く外の声も、全てが慣れぬ異国のもの。馴染もうと努力すればするほどに、その差異(ギャップ)は浮き彫りになっていく。家の中だけじゃない。言葉の壁、文化の壁、見知らぬ街と人、その陰に潜んだ銃の存在……今の貴方には、外の世界がとても恐ろしいものに見えている筈。だから気晴らしに外出することだって叶わない」

「……だが、それは…」

「ええ、貴方はそれを自分の弱さだと言うのでしょうね。以前の力が出せないのも、自信を失ってしまったのも。全ては己の不甲斐なさに原因があるのだと。

 ……けれど違う。環境の変化。日常的に付き纏う違和感。そんな小さなストレスの積み重ねでも、人の心はいとも容易く歪んでしまうものなんです。その重圧に押し潰されて心を病んでしまう人も、決して少なくはない。異国となれば尚更。

 貴方が自信を失ってしまったのも……決して(トクベツ)なことではないんです」

「……」

「あなたは家事は間に合っていると言いましたが、そうは思えません。

居間や台所だって、綺麗好きな貴方にしては掃除が行き届いていないように見えました。心の乱れは生活の乱れ。今まで続けてきた無理が、既に綻びとなって顕れている。。

 貴方が自分を取り戻すには、この環境そのものを変えるしかない。輝いていた頃の自分。以前の自信を取り戻すためにも……私の力が必要ではありませんか?」

 

 差し伸べるように、右手を差し出す少女。あるいは約束を契るように。瞼に覗く翠の色は真っすぐに自分を見つめている。

 言葉を見つけられぬまま、何を言い返すこともできないまま……白銀はただその手を見つめることしができなかった。

 

 

ソレで、いいのだろうか。自分は。

 

ソレでいいのだろうか。彼女は。

 

『スタンフォードでやりたいことがある』なんて、見え透いた嘘。

 

そんな嘘をついてまで。どうして自分なんかに手を差し伸べるのか。

 

自身の将来を棒に振ってまで、どうしてーーーー

 

 

 

 

「…とまあ、真面目っぽい話もしてみましたが、ぶっちゃけた話、御行くんがどう言おうが、私が此処に住むのは確定です」

「ーーは?」

「だってそうでしょう?入寮届は提出済だし、引越し費用・敷金もろもろ、全部もう払ってしまってるんですから。それとも、御行くんはこんな大荷物を抱えて、女の子一人で路頭に迷えというんですか?」

 

 変わらず和かな笑みで問いかける少女。その印象は先までとは真逆だ。

 

「御行くんもまだまだ私のことが分かってないですね。

 そも私が何の打算や勝算もなく、『おねがい』なんてする筈がないでしょう」

「…………ああ、そうだ。そういう奴だったアンタは」

 

 再び湧きあがってくる目眩に額を抑える。

 彼女が玄関に現れた時点で既に積みだったのだ。いかに推薦枠といえど一学生に過ぎない白銀に、ルームシェアの相手を選り好みする自由も、まして其れを拒否する権利は与えられていない。

 

「まあ、そういう事ですから。諦めて大人しく介護されてください」

「……介護言うな」

「嫌なら一早く元気になること。私が世話する以上、目の下に隈とか絶対許しませんからね」

 

 そう言い残し、いつの間に食べ終わっていたのか、手早く食器を片付けては、台所へ運んでいく早坂。颯爽。飄々。そんな言葉が似合う後ろ姿で、今度はジャブジャブと洗い物を始める。出し過ぎとも思える水の量。洗剤もたっぷり

 

「なあ……アンタ本当はーー」

「…?何か仰いました?」

「……いや。なんでもない」

「?」

 

 泡のついた皿を手に、小首を傾げる少女。水の勢いで聞こえなかったのか。或いはそれが幸いだったのか。再び洗い物を始めた早坂の後ろ姿に、白銀は静かに息をこぼす。

 

 

 それはずっと胸に秘めていた想い。けれど出来なかった。

そう問うことがどんなに身勝手で、独善的でーーー彼女の厚意を踏み躙ることであると、分かっていたから。

 

 

『なあ、アンタ本当はーーー』

 

 

未だ諦めきれぬ妄念。ずっと求め続けてきた、蓬莱の薬(彼女との繋がり)

 

 

『四宮のために来たんじゃないか』

 

 

 

油断すればそう問い正しそうになる自分が、何よりも嫌いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。