朝露に濡れた木々の上を数羽の鳥が飛び立っていく。キャンパス内に多くの自然を有するスタンフォード。少し探せば割と頻繁に野生のリスなんかも見つけられたりする。
『スタンフォード主催 eスポーツ決定戦!!
〜電子の世界が君の挑戦を待っている!〜』
「ああ、そういえば発祥ここだったか」
デカデカと掲載された日本のゲームキャラクターに息をこぼしつつ、手帳を捲る白銀。
『掲示板』。
それは、大学生活において切っても切れない関係にあるものだ。
レクリエーションの告知や、レポート提出場所の掲示など。大学側が生徒に伝えるべき情報の全てが集約されている場所。
廊下にズラリと並んだ黒板大のコルクボード。そこに犇くように貼り巡らされ無数の紙、紙、紙。巨大なポスターからハガキサイズのものまで、色合い大きさもまた様々。ソレらが我先にと場所を取り合い、中には重なっているモノまであるから、小さい用紙ともなれば危うく見落としてしまいそうになる。
白銀の1日は、この掲示板の確認から始まる。それは他の学生も同じだろう。
講義とは基本的に定まった場所で開かれるものだが、時折、その開催時間や教室を変更される事がある。講師側の都合であったり設備的な問題であったりと理由は様々だが、その情報は事前に掲示板で告知される。
しかし仮に此れを見逃していたりすれば、その生徒は全く見当違いの教室に足を運ぶことになる。当然、講義は欠席扱い。責任は全て、掲示板を見なかった学生側にあるとされるのだ。
全ては学生の自己管理・自己責任。中には学生一人ひとりのメールアドレスを把握し、直接連絡をくれる教授も居るが、そういった人は稀だ。数年後には社会に出る身として、身に付けておかなければならない心得でもある。
早朝ということもあって、学生の通りは少ない。これがもう少し遅い時間になったり、まして昼時にもなれば、各学科から集まった人で溢り、掲示板を見ることすらままならなくなる。
やはり早朝に済ませておくのが吉と、軽快にペンを走らせていく白銀。休み明けになると急に告知が増えていることもあるので、抜け漏れが無いか注意しつつボードの前を練り歩いていく。
「……?」
その途中、掲示板の前で立ちす一人の男子学生が目に止まった。
ベリーショートで纏めた赤茶髪。顔立ちはフランス系だろうか。190…いや2メートルはあろう高身長に対してかなりの細身で、スレンダーというよりは、ひょんな事でポッキリ折れてしまいそうな儚げな印象を受ける。そんな彼が、掲示板に貼られた一枚の紙を食い入るようにジッと見つめているものだから、其処ら一帯は体に隠れ殆ど見えない状態になっていた。
なので其処は後回しに、別の所から見ていこうと考えていると
「ああ、ゴメン。邪魔だったかい?」
白銀の視線に気づいたのか、申し訳なさそうに謝罪を述べる青年。そのままこちらの言葉も待つもなく、そそくさと別のボードの所にまで行ってしまった。
…なんだか悪いことをしたような。ここで退いても厚意を無駄にしてしまうので、
・『工学倫理』:開催場所A-128からCー216へ変更。
・『天体物理学基礎』: 小テスト告知。テキスト範囲p42〜p71。
・『電子磁気学』: レポート提出場所変更……これは先週確認していたな。
「あとは『プログラミング実習』が……?」
ペンを走らせる途中、その手がピタリと止まる。掲示された用紙、その内容におかしなものを感じたのだ。
・『プログラミング実習』開催場所変更。・変更前 A-311 → ・変更後 A-311 』
「……変わってない?」
何らかの表記ミスか、掲載者の勘違いか。教室番号が変更前後で同じものになっている。
これではどの教室に向かえばいいのやら。変更後の教室番号が間違っているのか、或いは変更前のが誤りで、変更後はA-311で正しのかーー?
「ああ、ソレやっぱりおかしいよね」
背後からの声に振り返れば、先ほどの男子学生が困ったような顔で佇んでいた。
ああ。やはり覚えのある顔。先ほど彼が睨み付けていたのも、この用紙だった。
「君、ミユキ=シロガネだろう?日本から飛び級で入学してきたっていう。こうして話すのは初めて……だったよね?」
「ああ。確かBクラスの、エイス……」
「ベルトワーズ。エイス・ベルトワーズだよ。よろしく」
何処か不安げに差し出された手をそっと握り返す白銀。30cm近い身長差のせいでかなり不格好な握手になったが、エイスは安心したように顔を綻ばせた。
「いやぁ、すごいなぁ。君みたいな若い子が僕達と同じクラスだなんて。
……あれ?でも年は一つしか違わないんだっけ?」
少し興奮気味ながらも、小首を傾げるエイス。東洋人は童顔に見えることから、歳の差にギャップを感じているらしい。
「こっちの生活にはもう慣れた?」
「いや……正直まだ分からない事ばかりだ」
「ああ、僕もだよ。カリフォルニアは地元だっていうのに、大学の
「それな」と互いに苦笑いを浮かべつつ肩を竦める。同胞を見つけた安堵感と言うべきか、ああ、やはり早坂の言う通り、環境の変化とは誰もが戸惑うものなのだろう。
「それで、この掲示は?」
「ああ、丁度さっき院生の人が貼っていくのを見たよ。ただかなり慌てた様子だったなぁ。髪も寝起きでボッサボサだったし」
「どこの研究室の人か分かるか」
「何処の?んーいやごめん、流石にそこまでは」
「だよなぁ。プログラミング実習はジキル准教授だから確か……」
数秒の思案の後、ボードから件の用紙を剥がし取る白銀。代わりに手帳にサラサラと何かを描き出しては、そのページを破り掲示板へと貼り付ける。
『プログラミング実習 開催場所変更。
現在詳細を確認中のため、この用紙を見た受講生は掲示板前にて待機願います。
13 JUNE 20〇〇 Miyuki S』
中身を読み直してヨシと頷く。そのまま踵を返しては、剥がした元の用紙を手にエレベーターの方へと歩き出していく。
「えっ、ちょ……まさか研究室にまで聞きにいくつもり!?」
「拙いか?」
「いや拙くはないけど……まだ一階生の僕達が入って良いものなのかな、と」
「F棟の研究室は確かカードキー無しでも行けた筈だ。このままだと後から来た人も、掲示を貼ったその院生も、お互い困ることになる」
「まぁ、それはそうだけど……はぁー、大胆」
呆気に取られたような、何処か感心したような声を上げつつも白銀の後ろをついて来るエイス。
その後エレベーターで上がり。研究室へ向かう道中も、おっかなびっくりと、自身より二回りも小さな白銀の背後に隠れ歩む様は、なんとも異様な光景であった。
「……何のよう?」
「ヒェッ」
目的の研究室の扉をノックして、暫く後。のっそりと顔を出した大柄の男に、怯えた声を漏らすエイス。ボサボサの髪にみっしりと蓄えた無精髭。元々堀の深い顔立ちが、目の下に溜め込んだ隈のせいで、より一層威圧感を醸し出している。二徹した戦士の顔。割と朝よく鏡で見る顔だった。
「お忙しいところすみません、この掲示についてなんですが…」
相変わらず隠れ切れてないエイスを背中に控えつつ、手に持った用紙を指差す白銀。
始めは不機嫌そうな様子の院生も、白銀の話が進むにつれ、見る見る顔を蒼く染めていった。
「うわヤッバ!!ダメな奴じゃん!こ、ここ、コレ……っ!他にもう見ちゃった人いる!?」
「い、いいえ。多分まだ自分達だけかと」
「いよォしセーフッ!!ちょちょい待ってて、すぐ作り直してくるから!」
言うやドタドタと奥に引っ込んでしまう院生。中からはウルせーぞなどと怒号が聞こえたりしたが、待つこと数分後、再び重い足音とともに息を切らした院生が姿を現した。
「A-311からA-241 。A-311からA-241。A-311からA-241……よし間違いないね今度こそ!いやホントありがとう助かった!また教授に殺されるところだったわ!」
「え、ええ……?」
ブンブンと豪快に握手を交わしては、掲示板の方へと走り去ってしまう学生。何とまぁ慌ただしい。開きっぱなしの研究室の扉、その奥からは別の学生が、同じく濃い隈を溜め込んだ顔で迷惑そうに此方を睨んでいた。
「し、失礼しました」と、そのタッパとは似ても似つかぬか細い声で扉を閉めるエイス。そのまま脱兎の如く研究室から逃げ去っていく。
「はぁー怖っ!研究室こっわ!また殺されるって何!?何回死んでんのあの人!?」
「物凄い(ものっそい)淀んだ空気だったな。それだけ大変って事なのか」
「僕達も2年後には
「まあ研究室によって良し悪しあるそうだから一概には。けど入る所は慎重に選ばないとな」
「……あと言っちゃゴメンだけど、目の隈だったらシロガネも負けてないよ?」
「ええ……」
そう遠くない未来には世話になるであろう建物を見送りつつも、足早に去っていく白銀たち。何にしても、貴重な経験だったと思いたい。
「じゃあシロガネは、入りたい研究室はもう決めてるんだ」
「ああ、マーディン教授の……」
「ぶっ!?マーディン教授!?いや、其処はちょっと止めといた方が……」
「…?扱ってる研究は最新鋭のものだし、評判だって悪くないだろう。むしろ競争率高すぎて……」
「う、うん。ラボは悪くないんだ。ただ若干1名……非常に獰猛かつ厄介な親戚が、同じく其処を狙ってて。ソイツに目を付けられたら、この世のあらゆる
「何それ怖。けどエイスの親戚なんだろ?同じ大学、それもスタンフォードに一緒に入れて凄いじゃないか。同年代なら一度会ってみたい気も」
「いやいや絶対ダメだからね!?万が一にでも遭遇してしまったら、決して動向から目を離さず両手を上げて威嚇し、背を向けずにゆっくりと後退して徐々に視界から逃げることが大切でーー!!」
「何その親戚クマかなんかなの?」
かくも真剣な顔立ちのまま、ミナミコアリクイの如く威嚇ポーズでジリジリと後退っていく身長2mの男に、苦笑いを浮かべる。
「とにかく遭遇しないことが第一。僕の連絡先を教えとこう。アレの縄張りや徘徊コースを送るから。自分で言うのもなんだけど、僕が
「お、おう……了解した」
「あと、はいこれ撃退スプレー。危なくなったら迷わず使って」
何でそんなのあるの?常備してんの?などのツッコミは飲み込みつつ、携帯を取り出す白銀。
かくして大学に来て初めて行った連絡先交換。その理由というのは、なんとも
■□■□
「……とまあ、そんな事があってだな」
「はあ。相変わらず色モノに好かれやすいんですね」
「第一声がソレって酷くない?」
今日一日大学であったことなどを話しつつ、夕食を取る白銀と早坂。
メニューはカレーにポテトサラダ、ほうれん草のソテーにソーセージとブロッコリーのコンソメスープ。味付けはやはり故郷のソレで、特にカレーに至っては、アメリカで手に入るルーは日本のソレとはまるで異なるので、コクのある懐かしい味はそれだけ心が安らぐ。
「けれど、少し安心しました」
「安心?」
「はい。本当に困っている人が有れば、自分の苦労は決して惜しまない。その気質は、今も変わらないようでしたので」
「……」
面と向かって言われると非常に面映いというか、コンソメスープを飲みつつカップで口元を隠す白銀。別段何かを考えてやったわけではない。見栄っ張りな自分のことだ、エイスの前で頼りになる姿を見せたかった、なんて気持ちもあったかもしれない。
「じゃあ、御行くんはもう入りたい研究室は決めているんですね」
「ああ。只かなりの人気所だから今の成績ではとても届かない」
「そうですか。なら、これから頑張っていくしかないですね」
「ああ……そうだな」
何も間違ってはいない。当然の激励だというのに、何処か苦し気な歯切れの悪い返事しか返すことができない白銀。
そうだ、頑張るしかない。どれだけ辛かろうが、自分に誇れるのは勉学の道しかないのだ。
「………」
押し黙ってしまう白銀に、微かに瞳を揺らす早坂。その仕草は一瞬で、白銀が顔を上げたときにはいつもの変わらぬ表情に戻っていた。
「ご馳走さま」
「はい、お粗末さまでした」
「ありがとう、美味かった」
「ーーー」
「ど、どうした?」
「あ……いえ、すみません。慣れていなかったもので」
そう溢すや、カチャカチャと慌てて皿を片付け始める早坂。顔を伏せ、白銀の視線から隠れるかのように、足早に台所へと引っ込んでしまった。
「今更だが、良いのか?本当に家事全部を押し付けてしまって。皿洗いくらい」
「もう、何度も言わせないでください。コレは私の仕事。好きでやっていることなんですから、貴方が気を負う必要はありません」
「む……そうは言うが」
「それに家事が無ければ、私は日がな一日、机で受験勉強する羽目になるんですよ?息抜きの時間くらいください」
そう呟く早坂だが、白銀は尚も納得がいかないと眉を顰める。
どうせ休むのなら、やはりのんびりしたいと思うのが人情。これまで恐ろしいほど多忙の身にあった早坂だ。せっかくアメリカに来たのだから、思う存分羽を伸ばしたり、観光などこの地でしか出来ないことをもっと楽しんで欲しいとも思う。
「それとも、まだ洗濯物を洗われるのが恥ずかしい、なんて言うんじゃないでしょうね?そんな思春期の乙女じゃないんですから。圭には平気で任せていたんでしょう?」
「なっ、違…っ!いや違くな……っ!」
「もう随分経つんですから、いい加減慣れてください」
このシェアハウスで共に暮らすようになって早二週間。その間、基本的に早坂は二階で。
そうでもしなければ妹でもない同い年の少女と居を構えるなど、意識しない筈がない。MDTなのは未だ変わらず。緊張や気遣いなどで、憩いである筈の我が家が今まで以上に居心地の悪い場所になってしまう。そう思ったのだ。
そう思ったのだが……
「ああ、そうでした。今夜から冷え込むそうなので、毛布一枚足しておきますね。勉強中も寒かったら言ってください。電気ストーブ出しますから」
「ん……ああ、助かる」
考えてみれば一階リビングにいる間、彼女とはいつも一緒にいる気がする。付かず離れず、意識しなければ気づかかない絶妙な距離感というべきか。別れる時といえば、勉強で自室に籠る時か、寝室に上がる時くらい。
それで緊張を抱ければまだいいのだが、胸に覚えるのは否定のしようもない安堵感。一人暮らしを続けていたことで人肌恋しくなっているのか。やはり家で誰かが待ってくれていること。ふとした時に話し相手になってくれる存在というのは、思う以上に有難いものらしい。
加えて、さすが元四宮家近従と言うべきか。炊事掃除家事完璧。埃一つない部屋は、自分が一人暮らしていた頃より遥かに輝いて見える。喉の渇きを覚えれば、まるで心を読んだかの如く絶妙なタイミングで飲み物が出され、まさに至れり尽くせりと言うべきか。そも待っているだけで毎日料理が出て来るなど、こんな贅沢があっていいのかとさえ思う。慣れてしまえば、いつか自分が駄目人間になってしまいそうで恐ろしい。
そんな思惑があるからこそ、時折こうして手伝いを打診しているのだが、何故か早坂は頑なに拒否するのだ。元近従としてのプライドか。はたまた別の理由があるのか。
(……まあ、皿洗い一つで食い下がっても格好がつかないか)
台所に立つ早坂へ食べ終わったカレーの皿を手渡しつつ、息を溢す白銀。
同じ屋根の下で暮らしていく以上、無意な諍いは起こしたくない。彼女が来てくれてからは各段に生活が良くなったのは事実。だから彼女がそうしたいと言うのなら。甘えてもいいと言うのなら、それで
「ーーーいや、やっぱり水仕事は俺がやる」
「御行くん?」
皿を渡そうとしていた手を止め、そのまま流し台へと割って入る白銀。不思議そうに首を傾げる早坂の手からスポンジを引ったくっては、そのままジャブジャブと洗いを始める。
「そんな意固地にならなくても。私の手を借りるの……そんなに嫌でしたか?」
「そうじゃない。そうじゃないが……」
寧ろその逆だ。決して口を大にしては言えないが、彼女に感謝したい気持ちは一杯なのだ。
だから。そう、だからこそ。その手を見た瞬間、自然と体が動いていた。
かつては仕事の間の楽しみにと、友人達と一緒にネイルやポリッシュなどを着飾っていたその手。しかし今は水仕事のために全て落とされ、硬水を含むこの国の水道水に慣れていない肌は、微かに赤みと腫れを訴えていた。
「……ただ世話になるだけってのは許せない。この家の元家長として、譲れないプライドだ」
「はぁ。それはまた何ともお可愛いことで」
呆れ気味な声など聞こえないとばかりに、より一層ジャバジャバと皿を洗い続ける白銀。
流し台に仁王立つ姿は、場所を譲る気など更々無いようだ。
「…ほんと。そういうところですよ」
その背中に、小さく息をはく早坂。
囁きは届かず。けれど少女の口元には、ほのりと柔らかな微笑みが浮かんでいた。
今回はちょっとした日常回。話の切りどころが掴めず若干中途半端になってしまいました
大学生活を描写するために2、3人オリキャラが出る予定ですが、あくまでチョイ役の予定です