遅咲きブーゲンビリア   作:パン de 恵比寿

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貧富

 その光景は、今でも鮮明に覚えている。

 

 

『お母さん…なんで行っちゃうの…?』

 

 灰色のトランクを抱え、まだ小さい妹の手を引いては、振り返りもせず去って行く母の姿。

 かつて優しく頭を撫でてくれた手も、愛しむようま眼差しも、今は遠く届かない。

 

『お父さんが嫌いになったの?お金なら僕も頑張って働くよ』

 

 子供ながらに分かっていた。工場が潰れ、父が仕事先を失い、次第に苦しくなって行く日々の生活。

 二人が言い争う姿を見たのも一度や二度ではない。父と母の間にあった繋がり。それがほつれた糸のように細くなって行く様を、泣きそうになる妹を必死に宥めながら、ただ愕然と見ていることしか出来なかった。

 

 もっとお金があったなら。もっと勉強が出来ていたならと、縋るように理由を求めた。たとえ理解していても、母に見捨てられる哀しみを、その嘆きを、まだ十にも満たぬ幼い心が如何して受け止めきれよう。

 そう。理由などなんでも良かった。ただずっと、母がずっと傍に居てくれたなら

 

『別に、お父さんのこと嫌いになったわけじゃないわ。ただ……』

 

 けれど返ってくるのは諦念と失望に沈んだ瞳。

 紡がれる言葉は残酷で。

 明かす言葉はあまりにも正直で。

 

 嗚呼、その言葉はーーー

 

 

『恋愛感情は永遠じゃないの』

 

 

 まるで呪いのように、心に刻み込まれていた。

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

「いや俺だって別に頭の出来が悪いわけじゃねぇんだよ?ハイスクールでは全学科一位を総ナメだったし。そんだけ勉強したからこそ、スタンフォードにも合格(うか)ったわけだしな?」

 

 無数の本が棚を埋めつくす大図書館。カリカリとなり続ける鉛筆の音に混じり、気怠げで、それでどこか陽気な声が響く。

 

「まあだからこそってーか、その反動っつーの?受験が終わってからは学業から解放された達成感と安堵感で、一種の燃え尽き症候群みたいになっちまって。その上、親元を離れてからの1人暮らしだろ?監視の目も無くなって、講義時間も自由に選べるようになったら、いよいよ勉強に挑む気概が無くなっちまったんだよ」

 

 大テーブルを挟んで向かい合う3人の大学生。それぞれが広げたルーズリーフや厚い資料本やらで机上は埋め尽くされ、古い本特有の甘いような酸いたような独特の香りが辺りに広がっていた。

 

「とまぁそんなわけでズルズルと成績落として、今は同じ落ちこぼれ組ってわけ」

「誰が落ちこぼれだ。誰が」

「釣れないこと言うなよー。先週彼女に振られてマジやる気起きないんだよー。助け合いって大事じゃん?同じ学科(クラス)の誼じゃん?Even a chance meetings are preordained(袖触れ合うも他生の縁)ってジャポンでも言うだろー」

「……はぁ」

 

 大学講義では時折グループ学習として2、3人のチームを作り、与えられた議題に対して共同でレポートを提出したりプレゼンを行ったりする。

 白銀とエイスの向かいに座る白人の青年、『キリー=マッケルン』は、そんな折に知りあった……というより、以降やたらと付き纏うようになった割と困った人物である。

 上背は白銀と変わらないくらいだが、くっきりとした目元、堀の深い顔、何よりオシャレなのか口元に蓄えた微妙な茶髭のせいで5、6歳は年上に見えてしまう。

 そんな彼の、なにが困ったかと言えばーー

 

「ああ、この公式また忘れちまってる。何だかんだ受験の時が一番頭良かった気がするわ」

「あーうるっさい。ちょっとは静かにしてよ。若しくは視界から疾くと失せて」

「ヒュー辛辣。大学で出来た連れは一生もんの友人になるんだから、仲良くやっていこうぜー」

 

 憤懣満ちたエイスの声も何処吹く風、飄々とした態度を崩さないキリー。「口を動かす前に手を動かせ」と文句の一つでも言えれば良かったのだが、その手は良く回る口と連動するようにシャカシャカと動き、レポートの進捗度は彼が断然トップにたっていた。

 彼曰く、誰かと喋っている方が集中できるのだと。受験勉強もラジオ相手に語りかけながら乗り切ったそうだが、全く逆タイプの白銀達からすればいい迷惑である。

 

「とまぁ、ジョークは此処までにして……ホントどうするよ今度の小テスト」

「どうもこうも。勉強するしかないだろ、そんなの」

「いや分かってる。分かっちゃいるんだけどよぉ……」

 

 それまでの楽観とした口調から一転、苦々しい表情で額を押さえるキリー。テーブルの端、今まで視界に入らぬよう遠くへ追いやっていたテキストを手に、益々と顔を歪ませる。

 本の帯欄に絢爛な装飾で書かれた『デジタル信号処理』の文字。人間誰しもが一つは苦手教科というのを持つものだが、彼にとってはまさにソレだったらしい。

 

「いやほんと、実際に動いてる姿がイメージ出来ないのって大の苦手なんだよ。回路もわっちゃわっちゃしてるから、何処がどう働くかもわかんねーし」

「まぁ言いたいことは分からんでもないが」

「だいたい小テストの結果で『単位』貰えなくなるとかおかしくね?クッソあの教授、こんな分かりにくい本、テキストに選びやがって……。なんだここ?何で③式はいきなりこんな形になってんだ?」

「何って…書いてあるじゃん。『上記のことから②式が求められる。つまり③式である』」

「いや“つまり”って何だよ“つまり”って!この短い間にいったい何が起こっちゃってんだよ!?」

「ああ、そこラプラス変換してる。式省略してあるけど。」

「省略すんなぁ!そこ大事なところだろうがぁ!」

 

 吠えながら教科書に書き殴るキリー。やたらと省略、簡素化された表記。大学テキストでは割とあるあるなのが困ったところ。

 

「んで、そっからの式も訳分かんねーし……!何だこのδ(デルタ)?いったい何処から出てきた?」

「あ、それ誤植。ほんとはλ(ラムダ)

「はぁーん!!?見本たる教科書が間違ってたら俺はいったい何を信じればいいんだよ!?」

「いや誤植箇所まとめた紙が付いてただろう?」

「それって本端にチョロってあったレシート大のやつか!?捨てたわあんなもん!」

「だーウルッサイ!ホント黙れ!」

 

 身長2mにも成るエイスのアイアンフィストに顎を掴まれ、物理的に封じられる口。これだけドタバタと騒いでまわりに迷惑ではと不安になるが、案外そうでもないようで。

 何せ日本とは異なり、お喋り可、飲食可、スマホ撮影可と、割と色々許されている此方の図書館。他の席でもワイワイ騒ぎながら、ビール缶片手にポーカーで盛り上がっている学生達までいる。

 

 その喧騒さには流石の白銀も辟易気味。資料集めに事欠かないとはいえ、これでは家で勉強した方が遥かに捗りそうである。居慣れた空間、集中を促す適度な静寂。何より今はーー

 

 

「……」

「なんだ急に暗い顔して。悩み事?ならお兄さんに相談してみ?あと代わりにここ教えて」

「6日しか生まれ違わないのによくそこまでデカい顔出来るね。あと見た目は完全に甥っ子に絡むオジサンの図だよ」

「オジサン言うなや。ソレいったらお前ん横に立ったやつはみんなホビットになるわ」

 

 応々と言い合う二人に対し、白銀の表情は尚も重たい。

 今日この図書館で勉強しているのも単に二人に付き合ったからではない。

 

 瞳の奥に浮かぶ彼女の横顔。二人にはまだ紹介していない……どう紹介していいかも分からない。恋人と呼べる筈もなく、けれど単なる同居人と呼ぶにはあまりに近すぎる少女。

 その姿を思い浮かべるたび、別段喧嘩をしたわけでも無いのに、胸の中に燻る後ろめたさにも似た情動。

 

 

 きっかけは数週間前。自分の元にかかって来た一本の電話からだった。

 

 

 

■□■□

 

 

 

『お兄ぃ、愛姉ぇに何させてるの?』

 

 久しぶりの国際電話だというのに、声色に浮かぶ確かな怒気。愛姉ぇという言葉の響きは初めてだったが、誰のことかはすぐに分かった。

 

 圭ちゃんの怒りの理由。それはアメリカ(こちら)での早坂の暮らしについてだった。

 彼女が家に来てからというもの各段に良くなった生活環境。三食栄養の整った食事に規則正しい生活。未だ勉強に追われる身ではあるが、それでも目の下に浮かぶ隈は随分薄くなって来たように思える。かつては広すぎると感じた家も、今では憩いを覚える第二の我が家。全ては、早坂が此処(うち)に来てくれたおかげであるとーー

 

『そうじゃない!!……いやそうだけど、そうじゃない!

 お兄ぃ分かってる?愛姉ぇは元々お嬢様なんだよ?節約生活に勤しんだり、苦い大根の葉の調理方法に逐一悩んだりするべき人ではないんだよ!?庶民(お兄ぃ)の生活に合わせるために、どれだけ苦労させてるか分かってる!?』

 

 ガツンと、電話越しにハンマーで横殴りにされたような衝撃。

 ああ……そうだ。そうなのだ。本来ならば今の生活に違和感を覚えない方が、おかしな話だったのだ。

 

 四宮グループ幹部たる早坂家の一人娘。その生活水準、生まれ育った環境は、庶民である白銀家とは比較にならない。いつのことだったか、彼女の貯金額が4千万に及ぶと聞いた時は、飲んでいた珈琲をイカ墨の如く吹き出してしまった。

 それほど金銭感覚の掛け離れた二人だ。共に暮らそうものなら、互いの認識の差異から不平不満が生まれてもおかしくはない。

 生きてきた世界。培われて来た常識というものは、日常のふとした折にも顔を現すもの。

 

 ーー正直に言えば、共同生活を開始して三週間ほどまでは、そんな兆し(・・)もあった。

 

 それほど寒いわけでもないのに、ガンガンにかけまくる空調。使わずにいるのに刺しっぱなしのコンセント。洗濯機に付いている風呂水を再利用するためのポンプを不思議そうな顔で眺める姿を見たときは、なるほど世界の違いを感じたものだ。

 

 何を貧乏くさいとも思うだろう。しかし白銀にとってはソレが当たり前で……そういう習慣、そういう常識のもとで生きてきたのだ。身に染みついた節制術はもはや生活の一部であり、怠ることは強い嫌悪と罪悪感を呼び覚ます程であった。

 

 

 ……それでも。共に暮らしていく以上は、不満の一つや二つは飲み込むべきだと思った。

 幸い此処の学生寮は水道・光熱費も免除扱い。彼女にまで意味もない貧困生活を強いる必要はない。違和感や罪悪感を覚えることは有るだろうが、其れは自分一人が我慢すればいいこと。何よりこんな遠い地にまで来てくれた彼女に、要らぬ諍いをぶつけたいとは、とても思えなかった。

 

 

 ーーしかし。大方の予想に反して、月日が経つにつれその違和感を感じることは無くなっていった。

 

 多少肌寒かろうと極力使用を控えた空調。使用時以外は都度抜かれたコンセント。先日一緒に食べたカレーにしてもそう。一般家庭と比較してもやたらと具の少ないカレーは、しかしそれこそが白銀にとっては馴染み深い、我が家のカレーを再現したものだった。 

 

 何故そんなことが出来たのか?答えは単純。節約術や料理の具材(トッピング)について、兄妹である圭ちゃんに事細かに聞き教わっていたのだ。

 全ては白銀(じぶん)が安心して過ごせるよう。この仮初の我が家に憩いを見い出せるよう、早坂が重ねてきた努力の賜物。

 

 決して忘れていたわけではない。それでも彼女があまりにも平然と、さも当然のことのように家事をこなしているものだから、自然と意識から外れていたのだ。

 

 

『それだけ甲斐甲斐しくお世話してもらってるのに、お兄ぃったら何!?なんのお礼もしてないの!?お洒落なお店とか連れて行ってあげた、ちゃんと感謝の言葉伝えた、お礼のプレゼント一つでもしたぁ!!?』

 

 そんな早坂の努力をただ一人知っていた圭ちゃんだからこそ、今回ハリケーンの如く怒涛の勢いで掛かってきた電話。もっと大切にしてあげてよとか、そんなんじゃ愛想尽かされちゃうよとか、口を開く度に勢いを増していく妹の声に、流石の白銀も押し黙って反省せざるを得なかった。

 自分が我慢を感じなくなったということ。それは彼女が代わりに、重荷の全てを受け止めているということなのだから。

 

 

 

『早坂。無理する必要はないぞ?』

 

 だからこそ、先週の夜、彼女に申し出たのだ。

 自分の生活に合わせる必要はない。もっと自由に、思うように過ごして欲しいと。

 

 共に暮らして行く以上、一方的に我慢を強いるのは不公平。同居人として、いいや何より早坂という人間に対して、自分は真っ当な立場でありたかった。それがいつもの尊大にして矮小なプライド故だったかは分からない。時間や金銭的な余裕は少ないものの、圭ちゃんの助言通り流行りや人気のお店を調べては、日々のお礼に誘おうとも考えていた。

 だがーー

 

『気を遣って頂かなくても大丈夫ですよ。これ(・・)は私が望んでやっていることですから。  

 寧ろこれくらい楽なものです。節約だって学んでみれば興味深いもの。私もまだまだ世間知らずであったと驚かされるばかりです』

 

 少量の塩と酒を振った鶏胸肉を一つずつ大事に丁寧にラッピングしては、冷凍庫へと収めていく早坂。安売りから大量買いした胸肉もこれなら二週間は美味しく鮮度を保つことができると、鼻歌混じりにキッチンに立つ彼女はとても楽しそうに見える……見えるのだが、それが本心であるかは分からない。

 ああ、嫌なものだ。感謝すべき相手を疑わなければいけないのは。

 

 

『それに御行くんだって、少しずつ以前の調子を取り戻してきているんです。此処で生活スタイルを戻せば元の木阿弥にも成りかねません。貴方が自信を持ってこの大学生活を謳歌すること。それが私の持つ、何よりの望みなのですから』

『っ……』

 

 柔らかな笑みと共に、けれど真っすぐに白銀(こちら)を射止める翠の瞳。そこから伝わるのは紛れもない善意……いいや、矜恃だろうか。

 

 分かっていた。彼女がそういう人間であること。たとえ不平不満を抱こうと、仕事に対して妥協することは有り得ない。拘りと誇りは同値。積み上げてきた努力、その果てに為し得たものこそが、真に己を顕わす価値になることを知っている。

 “そんな”彼女に妥協を無理矢理強いることは、それこそ不敬不遜。一歩も譲る気はないと言い放つ強い眼差しに、白銀はそれ以上切り込むことが出来なかった。

 

 それが彼女の望みであるならば。それが納得の上ならば、たとえ後ろめたさを覚えようと受け止めるべきなのだとーーそう思っていた。

 

 

 少なくとも、3日前の事件が起こるまでは

 

 

 

■□■□

 

 

 

「じゃあミユキの家って、今お風呂使えないんだ」

「ああ。壁内の配管が水漏れを起こしてな。それも俺が寮に入る前から進行していたそうで、漏れた水が木を腐らせて浴室の隣部屋にまで浸食してる。使ってない倉庫だったから、幸い被害は出なかったが……」

「ふーん。でもま、シャワー室なら学内公共のやつがあるだろ?そっち使えばいいんじゃね?」

「ああ……」

 

 だが、それはあくまでシャワー室。入浴用の浴槽は設置されておらず、何より個室が連なった作りであるため、すぐ隣に感じる他人の存在で、ゆっくり休むことも難しい。

 

 唯一。本当に唯一にして、湯浴みに関しては強い我欲(わがまま)を通していた早坂。かなり高めの設定温度。お湯は浴槽一杯になみなみと注ぎ、負けないくらい入浴剤もたっぷり。一度浴室に篭ればかなりの時間出てこないので、時折のぼせているのではと不安にもなるが、きっかり1時間後にはとても満足そうな顔で上がってくるので、要らぬ心配のようであった。

 

 節制術について数多く修めた今でも、入浴剤やお風呂関係については強い拘りを持っていた早坂。風呂上りの姿は、まあなんというか非常に、とても真っすぐに見れないものではあったが、その幸せそうな顔には内心ホッとした気持ちを抱いていた。

 我儘を通してくれること。自分の欲を素直に出してくれることが、単純に嬉しかったのだ。

 

 

 だからこそ。家の風呂が使えなくなるのは相当の痛手だった。

 早坂邸のものに比べれば決して広いとは言えない浴槽。それでも唯一つだった娯楽を失い、それも落ち着かないシャワーでしか代用できないとあれば、その落胆ぶりは想像に余りある。

 加えて、日本人以外は使用率の低かった浴槽。大学側としては浴槽を撤廃し、今後はシャワーのみの運用を計画しているらしい。つまり改装が終わろうとも、以後風呂は使えなくなると……

 

『……仕方がありません。幸い此処の気候なら、冬でもそれほど寒くはならないでしょう。長く暮らして行くのですから、こちらの文化にも順応していかなければなりません』

 

 紡ぐ穏やかな声。それでも普段本音を顕さぬ彼女が目に見えて落ち込んでいるのが分かった。

 

 寂しそうに微笑む早坂の横顔に、ざわりと胸がうずく。

 嗚呼、それでいいのか。只でさせ要らぬ節制を背負わせてきた彼女に、これ以上の我慢を強いることなど。

 

 胸の奥底に眠る微かな記憶。かつて優しかった“あの人”が情愛の色を失っていったのも……こんな見えない我慢の一つ一つを、重ね続けた結果ではなかったか。

 

 

『ーー俺が……』

 

 

 そう思い至った時にはーーもうやるべき事も。その意志も固まっていた。

 

 

 

 

 

 

「ミユキ、そろそろ時間じゃない?」

「ああ。遅くなるだろうから、二人は先に帰っててくれ」

 

 そう言い残しては、鞄と図書館で借り入れた四角いケースを手に去って行く白銀。

 

「あれって映写機(プロジェクター)だよな?何しに行ったんアイツ」

「……キリーは弄るから絶対教えない」

「あ“ぁん!?」 

 

 

 

 図書館向かいに立つ巨大な建屋の中を歩いて行く。エレベーター降りて長い廊下を抜けた先にまつ大きな扉。表札にかかった『学生生活支援課』のプレート。

 

 寮や奨学金制度の利用など、学生が大学内で生活する上で必要な規定を総括する事務所。入学の際に紹介だけはされたものの、実際に世話になることはないだろうと考えていた。

 だが今の白銀にとって、頼れる所はもはや此処しか残されていない。

 約束(アポ)の時間にも十分。左手にはプロジェクター、そして右手には夜なべして作り上げたA4資料の紙束を掲げては深呼吸一つ、戸を叩いた。

 

 

「はい、どうぞ」

 

 4度のノック後、帰ってきた返事と同時に内側から扉が開く。顔を覗かせる50代半ばの女性。真っ赤なルージュに鋭い銀色を放つスクウェア眼鏡。目元に浮かんだ皺と、それに負けないくらい薄く細められた瞳に、どこか威圧感漂うキツめの印象を覚えた。

 

 

「時間ピッタリね。良いことだわMr.シロガネ。

 さてーーお話を聞かせてくださいな?」

 

 

 

 

 

■□■□

 

 

 

 

 

「お帰りなさい。随分と遅かったですね」

 

 玄関の扉を開けると、待っていたように早坂がパタパタとリビングから顔を出す。時計はすでに21時を回っており、予想以上に遅くなった帰りに、心配をかけてしまったようだ。

 

 リビングへと移るかたわら、どこか疲れきった様子の白銀を、早坂が不思議そうに覗き込む。

 

「事務員……それに寮母さんにも話をつけてきてな。聞いているとは思うが、近々(ここ)の改装工事がある。」

「……?ええ、お話は伺っています。おおよそ5日はかかるだろうとも」

「工事期間についてはもっと伸びるかもしれない。なにせ水回りだけじゃなく古くなったタイルに隣部屋、浴室一帯を丸ごとリフォームするからな。それでなんだが、早坂……」

 

 迷うように一瞬言葉を詰まらせ、早坂の方へと向き直る白銀。

 いつになく歯切れの悪い様子に何事かと首を傾げていると

 

「これからはお互い、別の寮で暮らす気はないか?」

「え……?」

 

 静かに、息を飲む。

 今しがた耳に届いた言葉。その意味が分からないというように、少女は瞳を揺らした。

 

「どういう、ことですか?」

「寮部屋の中には、未だペアが定まっていない所もあるらしい。以前の俺のように一人暮らしをしている所や、受入人数に余裕がある所。早坂と同年代で、ペアを探している女学生の部屋もあった。そこに移れば今まで通り風呂はあるし、大体の間取りは同じだから生活に困ることもそうは無いとーー」

「待ってください。それは」

 

 捲し立てるように語る白銀に、思わず制止の声を上げる。

鈍い痛みを訴える胸。ざわざわと心のうちで揺れていた不安が、形になって行くのが分かった。

 

 それはつまりーー別離を望んでいる、ということだろうか。

 

 先程、寮母に掛け合ったと言っていた彼。それは寮の移動を要望してきたということか。 

 元々トラブルの起こりやすい男女の同居、寮母としても内心は快く思っていなかった筈。仮に白銀が望めば……今の生活を嫌うというのであれば、この工事を期に移動が叶うことも十分にあり得る。

 所詮早坂(じぶん)は無理矢理上がり込んだ身だ。生活水準の異なる二人。何方か一方が我慢を強いられる生活が続くというならば……いっそ、別々に暮らした方がまだ良いとーー

 

「待って…待ってください」

「早坂?」

 

 仮面を被ることも忘れ、知らず白銀の手を握りしめる少女。平静を保たなければと理解しているのに、悲哀が胸に溢れていくのを止められなかった。

 だが対する少年の方はキョトンと、不思議そうに首を傾げている。何故少女がこれほどまでに動揺しているのか分からないというように。思案するように一度瞼を閉じると

 

「……ああ、すまない。言い方が悪かったな。別居というのは、あくまで工事期間中の話だ。その間は人の出入りも多くなるし、施工音や振動で受験勉強どころじゃなくなる。だから、暫く別の部屋にお邪魔させてもらった方が安心してーーって痛ったぁ!?」

 

 話を聞き届けるや握っていた白銀の手に思い切り爪を食い込ませる。固いネイルチップの施されたソレは、さながら猛禽の爪のように易々と皮膚に突き刺さった。

 

 

「何でそんな紛らわしいこと言うんですか!私はてっきり……」

 

 途中言葉を詰まらせてしまった少女に、謝りながらも静かに息を溢す。

 

 本当のことを言えば、別居を薦める声はいくつもあった。自分自身、それがお互いの幸福になるだろうという迷いも。

 

 だが、それ本当の解決に成るだろうか。

別離を告げられて。独り取り残されて……無論“あの時”と状況が違うのは分かっている。それでも、残された者が背負う痛みや哀しみを、白銀は嫌というほど知っていたから。

 

「寮を移る気はありません。工事中もこの家にいます」

「かなり揺れるし喧しいぞ?」

「構いません。此処にいます」

 

 ツンと言い離す早坂。地雷を踏んでしまったか、相当に機嫌を損ねてしまったらしい彼女にやはり勿体ぶるのは失敗だったと、肩を落とし資料を取り出す白銀。束になったA4用紙の中の一枚。不動産屋等で部屋探しする際には必ず目にするソレを広げる。

 

「これは……間取り図ですか?」

「ああ。この家のな」

 

 部屋の広さや坪面積、キッチンの位置などが建築記号により簡略表示された概略図。その中でも特に太い赤ペンで枠取られた一箇所……浴室を指差す白銀。

 

「……以前にも言いましたが、浴槽の件なら納得しているので大丈夫ですよ。けどまぁ、どうせ取り払うというのなら、せめて浴室乾燥機の一つでも」

「ああ、その話なんだがな。『学生生活支援課』まで直接抗議しに行って、”無し“にして貰った」

「……は?」

「加えてもう一つ。木壁が腐った倉庫と浴室を丸ごと改築して、以前よりもずっと広く、浴槽ももっと大きなものに変えて貰えるよう頼み込んできた」

 

 驚愕に目を丸くする早坂に対し、懐からペンを取り出しては、浴室とその隣にある倉庫部屋を一纏めに囲う白銀。そこに書き足す『浴室増築』の文字。

 

「どうしてそんな……いえ、そもそも抗議しに行ったって」

「まぁ、実際には”お願い“だったんだがな」

 

 自分たち日本人にとって入浴の文化がどれほど重要であるか。風呂に浸かることで得られる生産性の向上、精神の安定化。その他説得力のありそうな様々な文言をかき集めては、プレゼンで訴えかけたのだ。

 加えて、改装にかかる費用の見積もり。一般市場価格との比較など、交渉材料に足り得る各種情報も資料に纏め上げてきた。

 

 無論ダメで元々。たかが一般生徒が寮の改築に口を出せるとは思わない。勝手な我儘と、一笑に伏されるのがオチとも考えていた。

 だが、それでも自分に出来ることーー以前の自分なら、確かに出来ていたこと。

 秀知院生徒会長として壇上に立っていた経験。部活連会議など数々の修羅場を通して培った、相手の理解に訴えるだけの技術。いま持てる全ての力を費やしては、『浴室増築』の説得を試みたのだ。

 その結果はーー

 

 

『ええ、まあ良いでしょう』

『えっ、軽……』

 

 予想以上にあっさりと出た承諾にポカンと口を開ける白銀。対して銀の眼鏡をかけた女性は、どこか関心したような息を溢し資料に見入っていた。

 

『ああ、まだ確約は出来ませんけどね。けれどこうして正式に要望があった以上、『支援課』として無視することは出来ません。

 予算会議は来週末。寮の工事もまだ施工案を出す前だったから、タイミングとしてもベストだったわね。単なる要望だけだったら弱かったでしょうけど、これだけの資料があれば十分に説得もできる。……というより、以前もこんな仕事(コト)してたの?この資料、そのまま予算交渉で使いたいくらいなのだけど』

『え、ええまあ……ただ、いいんですか?こんな我儘を』

支援課(うち)はそのために予算(おカネ)貰ってる訳だしね……寧ろ貴方のなんて可愛い方よ?“バーベキューしたいから屋根付きのテラスが欲しい“って言う生徒もいれば、無断でビリヤード台を設置した生徒もいる。ガルダン=アーラサム国から来た第三王子なんて、校内に教会を建てたいだなんて言い出して……。ホント何よ『サハ部』のための教会って。ああ、ゴメンなさい、思い出したらまた頭痛が……』

 

 悩ましげに額を抑える女性。厳ついオーラも察するに余りある心労が原因だったか。

流石に其処の第二王子まだ母校に通ってますとも言い出せず、乾いた笑みを返すしかなかった。

 

 その後も幾つかの変更点が挙がったが、施工案は大方の希望通りに進むはしりとなった。

 

 

 

 

「ーーまあそういうわけで。改装終われば以前より大きな浴槽を使えるようになる。流石に、早坂邸(実家)に比べれば見劣りするかもしれないが」

「………」

 

 終始無言のまま、話を聞き受ける早坂。時折微かに結んだ唇は、告げる言葉を迷っているようでもあった。

 

 

「どうして、そこまで?無駄遣いは嫌いだったのではないのですか。こんな手間を割いて、私なんかのために」

「……理由ならいくらでもある」

 

 今まで世話になってきた礼か。ずっと我慢をさせてきたことへの謝罪か。

いいや。理由はもっとシンプルだ。

 

「『ここでの生活を謳歌してもらいたい』。その想いは互いに同じだ。なのに、一人だけ隣で我慢されたとあっては、楽しめるものも楽しめない。見て見ぬ振りを続けて、それを気に病んで……結局、互いに我慢することになる」

 

 それでは本末転倒。言わずに心に貯めた想いは、いずれは膨らみ淀んでいくもの。

 共に暮らしていく以上は一蓮托生、不平不満があれば素直に伝えれば良かったのだ。それを“以心伝心”、“分かってもらえている筈”なんて、そんな言葉に甘えて……話し合うことも、譲り合う事もしてこなかった。自分が我慢すれば相手が幸せになるだなんて、そんな間違った考えに囚われいた。

 

 

「だから……やっぱり謝りたかったってのが本音だ」

 

 改めて思い知ったのだ。

 

 自分はきっと何も考えていなかったのだろうと。

あまりにも違う生まれ。貧富の差。彼女にこの遠い地で生きることを強いる、その傲慢も。

 

 

『恋愛感情は永遠ではないの』

 

 

 あの日。去りゆく母が最後に残した呪いのような言葉。ただ嫌うことしかできなかったその言葉が、今では理解出来てしまう。

 

 好きという気持ちは永遠ではいられない。環境が変われば気持ちは変わり、呻吟が続けば想いは磨耗していく。かつてどれほど愛の言葉を囁こうとも、いずれは記憶と共に色褪せ、朽ち落ちてしまう。それをーー

 

 それを自分は認めようとはしなかった。分かってもらえる筈だと。想う気持ちさえあれば何とかなるなんて、そんな甘い理想に縋りついては、本当に大切なことから目を逸らし続けていた。

 

 

 ああーーそれはきっと“彼女”にも

 

 

『ごめんなさい』

 

 どうしてスタンフォード行きを断ったのか。

その答えも今なら分かる気がする。

 

 生まれた世界が異なる二人。

 分かり合えないのなら。共に苦しむだけならば、自分達はきっと、初めから出会うべきではなかったのだとーー

 

 

「そんなこと……言わないでください」

「…早坂?」

「どんなに生まれが違っていても、貴方はこうして互いを想い合うことも……お互いの幸せを願うことだって、出来たじゃないですか」

 

 白銀の両手を握っては、伏せた自身の額へと寄せる少女。祈るような仕草は、あの日、リムジンの中で交わしたときのように

 

「だからどうかーー貴方まで、そんな哀しいことを言わないでください」

「……ああ。済まなかった」

 

 震える小さな手を握り返す。

 恋人である筈はなく、けれど単なる同居人と呼ぶにはあまりに近すぎる少女。

 

 

 

 

 嗚呼、けれど今はーーその手を離したくはないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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