「“天体物理学”、と。他にはあるか?」
『あーちょい待ち。あとは……“国際宇宙法”だったっけかな』
燦々と降り注ぐ太陽の下、しかし湿度の無いからりと乾いた風に爽やかさを覚える夏の昼下がり。
携帯を肩で耳に押し当てながら、いつもの如く掲示板の前でメモを取る白銀。通話相手はこれまた例の如く
「現実逃避も結構だが、いい加減遊んでる余裕無いぞ。今週末からはもうーー」
『あー分かってる。分かってるから二日酔いの頭に現実を打ち込まんでくれぇ』
講義の無い休日ということもあり、普段の喧騒に比べれば学内も静かに思える。それでも流石はスタンフォード、辺りを見渡せばそこかしこに学生の姿が見え、サークル活動でダンスの練習に励む者。キャンパス片手に校舎の写生に勤しむ者。主要施設を除けば一般人にも通行開放されているので、犬の散歩に出歩いている主婦の姿なんかも見られる。
図書館に顔を出すついでに日課である掲示板の確認に来た白銀。たとえ講義は休みであっても
件のキリーの家からもバスで片道約1時間。誰もが勉強に集中したい今という時期、流石にそれは面倒だろうと、彼の分も確認しようと買って出たのだがーー
『あと複素数関数応用と、海洋物質学と制御工学とーー』
「待て待てちょっと多い。というか海洋物質学?お前これ履修してたか?」
『いやマロンの奴に無理やり頼み込まれちまってよぉ。悪いけど一緒に見てやっちゃくれねぇか。あとついでにトニーの分も』
「人の厚意にとことん甘えて……ええい、まとめて動画で送るから、自分で確認してくれ」
ため息混じりに携帯のカメラを掲示板へと向けては録画ボタンを押す白銀。もっとも、画像越しでは伝わりはしないのだろう。見慣れたコルクボードから漂う、目には見えないピリピリとした緊張感。普段にもまして数の多い掲示物。それら題目に書かれた『上期末試験』の文字。
燻るような焦りが胸奥に広がっていくのが分かる。スタンフォードに入学しておよそ半年。
ああ、ついにこの時期がやって来たのだと。
遅咲きブーゲンビリア 第6話 「 救い 」
『単位』
それは全大学生の渇望の対象であり、彼らはこの『単位』取得のために日夜奔走していると言っても過言ではない。
一つの履修した科目について、一定以上の成績を修めた者が、その証明として与えられる修了証。
学期末試験の成績、ディスカッションでの発言量、レポートの完成度など評価対象は多岐にわたり、それは同時に単位取得までに潜るべき関門の多さも意味している。その難度は講義や担当教授によっても
より多くの科目で合格し、
「実際、昨日の講義でミユキの隣に座った人も、2回
「そうなのか?此処では歳の差がまるで分からんからな……そんなに難しいのかマディソン教授の試験」
「あの人の場合、レポート重視だからね。テストの点数だけ気にしてたら酷い目に遭うってのが専らの噂だよ。おまけに必修科目。あれ一つ落とすだけで留年確定ってのはホントきついよ」
げんなり、といった表情で図書館の棚から本を抜き取るエイス。
苦手科目な分、頭を抱えたくもなるのだろう。
高等教育までなら勝手に決まっていた時間割も、大学では全て手作り。
必ず履修が必要で、これに合格しなければ即留年が決まってしまう『必修科目』。数種類ある科目の中から必要数を選んで履修する『選択必修科目』。その他空いている時間に自由に履修できる『自由選択科目』。カテゴリ分けされた各科目について、学生は受ける講義を自分で選び、授業スケジュールを組み立てていく。
一科目で得られるポイント数は限られているため、単位数を稼ぐためには、当然より多くの科目を履修し、それぞれで合格を修めていかなければならない。しかし受ける科目が多くなるほど、提出するレポートや試験の数も増えていくので、何処まで頑張れるかは本人の力量次第。
入学初期には、この単位制度をよく把握できていないがために、必要以上に科目を履修しすぎてパンクしてしまう者。履修スケジュール組み立ての段階で単位数が足りず、留年が確定してしまう生徒なども毎年必ず出てくる。
留年が続けば大学側からは怠慢、不真面目と評価され、『退学』を言い渡されることも。
以前ならば余程のことがなければ聞かなかった『留年』や『退学』といった言葉が、常日頃のように付き纏うのが大学生活の恐ろしいところ。
「……ま、どんなに怖がったところで結局僕たちに出来るのって、こうして地道に勉強することぐらいなんだけどね」
「それな」
両手一杯になった本を抱え、ヨタヨタとテーブルまで歩いていく。
第一、第三土曜日に限り休日も開いている図書館。流石に休みの日ということもあり、館内で騒いだりする輩もいない。普段屯している生徒は、あくまで次の授業までの空き時間を潰しているのであって、講義もない休日にまですき好んで訪れる者はいない。
なにせこのスタンフォード大学、テニスコートからサッカースタジアム、果てにはゴルフコースまで完備しているのだ。こと遊び場において困るようなことはない。今此処にいるのは、ただ純粋に勉学に集中したい生徒のみ。誰もが厳しい表情で山のような量のテキストをテーブルに広げている。
「進捗はどんな感じ?」
「とりあえず必修科目の勉強は粗方済ませたが……『国際宇宙法』あたりは範囲が広すぎて終わりが見えん」
「あー……法律から州ごとの条例まで全部覚えなきゃだからね。こういうのほど“持ち込み有り”形式にして欲しいのに」
「いやぁ、そっちの方が逆にキツいと思うぞ」
“持ち込み有り”とはその名前の通り、試験に教科書などの資料を持ち込み、それらを読みながら問題を解いていい、というテスト方式である。
一見、暗記の必要が無く、教科書を見ながらなんてラクショーだと感じてしまいがちだが、実際は問題の数が異様に多かったり、教科書の内容全てを熟学していなければ解けない超難問が出題されたりと、難易度いえば普通のテストより遥かに上だったりする。
「『航空力学』は、テストに持ち込んでいいっていうA4紙を一枚渡されたが……」
「要は公認のカンニングペーパーを作れってことだよね。この1枚にどれだけ多くの情報を
「最後の方は米粒にお経を書く心境になりそうだ」
「いや分かんないけどソレ」
他にもマークシートよろしく正答を5択から選ぶ試験。議題に対して考察を全てエッセイ方式で執筆していく試験。与えられた現象データをもとにパソコンで情報解析し、出力結果から要因と結果を導き出す試験など、内容や出題形式も多種多様。それぞれに適した勉強方法と対策をしなければ、試験当日に真っ青な顔を浮かべること必至だ。
「やるべき事の優先順位をつけようと箇条書きしたら、まずそのやるべき事が多すぎて心折れかけるっていうね……」
「キリーの奴はホント大丈夫なんだろうな。只でさえ出席日数危ういってのに」
「真剣に取り組みさえすれば仕事は早いんだけど、本人がそれを自覚してるせいで、とことん追い込まれるまで本気出そうとしないんだよ。月曜の朝には泣きついてくるに5ドル、だね」
「俺は“今夜にも”に5ドル。遅かれ早かれ面倒なことに変わりはないが」
「……まあ、今回は大学に入って初めての学期末試験だからね。地道に勉強さえすれば、赤点なんてそうそう取らないと思うよ」
「ああ……そう、だな」
確かにエイスの言う通り、このまま勉学を重ねていけば、まずまずの結果を修めることはできるだろう。大学入学以来、遅れていた成績をようやく取り戻せたと言うべきか。少なくとも赤点や単位を逃すようなヘマはーー
「……っ…」
そう考えた途端、胸奥に走るジクリとした痛み。まるで煮え立つ鉄が溢れるように、心底に広がる憤りにも似た焦燥感。
ーーー本当に良いのだろうか。
ーーーこんなもので自分は満足してしまって
どうしてそんなことを思い抱いてしまうのか。
自分でも分からない。しかし収まってはくれない情動に戸惑い俯いていると
「随分と程度の低い話をしているわね」
唐突に、背後から響く女性の声。その声を聞いた途端、首筋に何か冷たいものが這ったような錯覚を覚え、隣に座るエイスもピキリと体を強張らせる。
何事かと振り返った白銀の視界、ゆらゆらと揺れる深いウェーブのかかった黒髪。悪辣に吊り上がった口角。蛇を思わせる鋭い瞳は、以前どこかで会ったーー
「ぎゃあああぁ
少女を見るや金切声を上げるエイス。鞄から巨大なスプレー缶を取り出しては、そのまま
「っ!?このっ、いい加減 人の顔見るなり催涙スプレー出すの止めなさいっての!!」
「あぶべばばば!!?」
しかしその動きも読んでいたのか、少女はヒラリと躱して逆に缶を引ったくては、お返しとばかりにエイスの顔面へと零距離噴射。顔どころか口の中にまでモロに食らったエイスは、十数秒に及ぶ阿鼻叫喚の悶絶の後、ゴトリと首から机に倒れ伏した。
「ちょ、今の倒れ方絶対ヤバイ!」
「安心なさい。私に自我を壊されないために、自ら意識を落としただけだから」
いつものことよ、なんてサラッと言いのける彼女だが、普段大人しいエイスの凶行。ましてそんな根源的恐怖への対処法みたいのを見せられて、何を安心しろと言うのか。
「さて。久しぶりね、ミユキ=シロガネ。秀知院での討論大会以来かしら」
「……“傷舐め剃刀のべツィー”」
その名を聞くや、にんまりと満足そうに目を細める少女。
思い出すのは、討論大会で浴びせかけられた散々たる暴言の数々。人が潜在的に抱える心の急所を、残酷なまでに的確に突き穿つその口撃は、思い出すだけでギリリと胃腸が痛みを訴えるほどであった。
「貴方ひとりよね?」
「ああ……」
正確には一人になったと言うべきか。肩で抱え上げたエイスは白目を剥き、口から泡を吹いては時折ビクンビクンと体を痙攣させている。……いや、やっぱり大丈夫じゃないってコレ。
対するべツィーの方は威圧的な笑みを浮かべながらも、何処か周囲を警戒するように仕切りに目を走らせている。何かを探すように。或いは此処には居ない誰かに怯えるように。
「……別にビビってないわよ?寧ろ今なら、返り討ちにして雪辱晴らしてやるわよ」
「なんの話だ。と言うより何の用だ」
先ほどの騒ぎもあって、周囲からは奇異と苛立ちの視線が集まっている。もうこれ以上の悶着は勘弁してもらいたい。
そんな白銀の態度に、べツィーは詰まらなそうにハンッと息を吐くと
「別に用なんて無いわよ。けれどそうね……強いて言うなら“嗤いに来てあげた”ってとこかしら」
「なに……?」
「だってそうでしょう?赤点がどうだ、留年がどうだ。聞こえてくるのといえば、そんな程度の低い話ばかり。愚図で蒙昧、滑稽ったらありゃしない。貴方、今回の試験が持つ意味を本当に分かっているのかしら?」
「……」
嘲笑うような見下ろす少女の視線に、グッと唇を噛む白銀。
……わかっているとも。
米国社会において、在学中に修めた成績は、決してその場限りのものでは無い。
在学中に得られた試験結果は余すことなく全て累積して記録・評価され、その人物が大学生活にて歩んだ軌跡……築き上げてきた能力の程を、如実なまでに顕在化させる。
それは学外においても。特に企業側がこの“累積評価”に抱く信頼度は絶大であり、就職時における合否の約8割を決定づけてしまうとも言われる。
ただ単位を取れば良いという話ではない。大学が誇る有力研究室には定員数に限りが有り、全ての分野において高成績を修めた
研究室ごとに保有する施設、取り組む
大学においては全てが積み重ね。そこに早過ぎるというものは無い。
そう、決して。
“最初の試験だから”と油断して良いものではないのだ。
「希望の研究室がある生徒は今からでも周到に準備を進めているわ。私もその1人。
聞いた話じゃ、貴方もマーディン教授の所を狙っているのでしょう?一番人気を志望している割には随分と悠長な様子だけれど、きっと私では想像もできないような妙策を持っているのでしょうね」
まるで嬲るように絡みつく言葉の荊棘。彼女が嗤うたび、否定を見出せない自分自身の姿を認めるたびに、胸の疼きは増していく。
そう、わかっていた。溢れるように息吹く焦燥感の正体。
このままではいけない。自分はまだ
この大学内に無数にいる天才達。彼らと渡り合うには、また……
「まったく、とんだ腑抜けになったものね。
……今の貴方には何の魅力も感じない。何の興味も抱けないわ」
持っていた鞄を乱暴に肩に掛け、振り返るべツィー。去り際、吐き捨てるように告げられた言葉が、白銀の胸奥……脆く柔らかな場所に深い傷を残していった。
■□■□
“気にする必要ないって。
アイツだってあれだよ?寮のパートナーがいつまで経っても決まらないことに、内心傷ついてるような奴なんだよ?完全に自業自得だっていうのにね!”
“………”
“Help !! Please Help Miyukiiiiii !!”
”…………“
”あれ……なんかテンション暗い?日を改めた方がいい感じ?あー、なんか知らんがまあ元気出せって!アレなら今から飲みに行くか!今日も朝までドンチャン騒ぎーー”
“……ご馳走さま”
“はい、お粗末様です。今日はもう休みますか?”
“いや、明日も休日だ。試験に向けて少しでも追い込みを掛けておきたい”
“……何か、ありましたか?“
“………”
“分かりました。小腹が空いたら言ってください。軽食、作っておきますから”
“……すまない”
”そこは、いつものように『ありがとう』の方が嬉しいですよ“
■□■□
チッ、チッ、と規則正しい秒針の音が響く。時刻は深夜3時を周り、屋外から届く営みの声も既に途絶えて久しい。
また一枚、文字とインクで埋め尽くしてしまったルーズリーフを退かし、真っ新な一枚へと手を伸ばす。これで何十枚目か。積み上げた筆跡の山は、費やした時間と刻み込んできた情報の量に等しく、酷使し続けた頭は芯から炙られたような異様な痛みを発していた。
ああ、目が渇く。腫れを通り越し青痣に染まった指は絶えず激痛を訴えかけ、迷濁に苛まれた思考は油断すれば意識ごと刈りとられてしまいそうだ。
“それがどうした”というのか。
ひっくり返りそうな胃に無理矢理コーヒーを流し込む。より強くペンを握りしめ、走る指の痛みに思考をムチ打つ。
この程度の苦痛。この程度の辛酸。以前の自分ならば当然のように受け入れ、乗り越えていたこと。かつての自分を乗り越えられずして、どうして成長など望めよう。
分かっているのだ。己の未熟も。非才も。それでも並いる天才たちに及び立つには、より多くの刻苦を修勉に費やすしかない。生まれ持った何かが足りないのであれば、自分に払える別の何かを代償にするしかない。
そうーー分かっているのに
『ごめんなさい』
「っ……!」
瞼の裏、浮かぶ情景に奥歯を噛み締める。
ああ。“まだ”なのか。
スタンフォードに来て約半年。少ないながら友人もでき、遅れていた成績や失っていた自信も少しづつ取り戻せて来た。
それでも、一度試煉に挑めば変わらず浮かび上がるあの情景。未だ忘れられぬ悔恨と失意が、まるで諭し宥めるように囁きかける。
もう苦痛に身を俏す必要はない。見上げる者は既に無く。たとえどんなに犠牲を払い、手を伸ばしたところでーーーあの高く浮かぶ月輪には、終ぞ届くことはないのだと。
「ーー御行くん?」
コンコンと、控え目なノックが響く。
音を立てぬようそっと扉から顔を出す早坂。まだ起きていたのか、或いは起こしてしまったのか。思えば、無理せず休むと約束していた時間も、遠に過ぎてしまっていた。
心配そうに覗く翠の瞳。肩までおろした金糸の髪が窓から差し込む月明かりに灯され、淡く繊麗な光を帯びている。残念なことだ。この心が暗濁に沈んでさえいなければ、きっと思わず見惚れていた美しさなのに。
「……すまない。もう少しだけ続けさせてくれないか。こんな進捗では…」
「まだ、辛いですか?」
囁くように問う少女。
何がとも言わない。それでも確かに分かることがあった。
鉛のように重い体を引きずり、窓際へと歩いていく。曇天に沈む空。厚い雲に星々が隠される中、ただ一つ丸い月だけが寂しくも美しく輝いていた。
「大丈夫だ」と、虚勢を張ることもできた。今まで皆に。家族にさえ、そうしてきたように。
けれど彼女には……早坂愛という少女にだけは、意味の無いことだと分かっていた。
「……“まだ”、じゃないさ」
空いた胸の傷から、ポツリと溢れた本音。
思い出すのは眩しくも幽けき、かつての自分の姿。ただ一つ、勉学という武器を手に己の地位を守ることに躍起になっていた自分。
全ては、彼女の隣に立つために。
全ては、彼女と対等であるために。
学年首位に立ち、生徒会長にも抜擢され、誰もが羨む為業を演じ続けてきた。
ああ。けれどそんな日々が。
身を削り、心を削り。ただ一つ残された儚い
怖れを覚えずにいられるほど、この心は強くはない。迷いを覚えずにいられるほど、蒙昧ではいられない。
常に求められる完璧。決して許されない妥協。虚栄の自分が認められるほどに、
そうーー“まだ”ではない。
本当は、ずっと苦しかったのだと
そんな弱音が浮かぶ度に、厚く、厚く、覆い重ねてきた心の鎧。浅ましい本心が漏れ出でぬように。“それがどうした”と。“それが自分の望んだことなのだ”と。呪文のように自身に言い聞かせては、弱い己を否定し続けてきた。
泣き暮れる心と律する心。その何方が本心であったかは、もはや分からない。それでも追い求め続ければ、いつかはーーあの遠い空。眩く光る貴き月夜見に、手が届くと信じていたのだ。
ああ。けれど、その結果は
「時々分からなくなる。本当の自分は、どう在りたいのか」
溢れる声には怒りも、悲しみもなく、ただ寂しさが滲んでいた。
挫折を知り、孤独を味わい、この大学で過ごしてきた半年間。けれどそれは同時に、今まで封じてきた本心と向き合う機会でもあった。
大学とは己を生き方を定める最後の分水嶺。何のために生きるのか。何を芯として生きてくのか。漠然と思い描くことはもはや許されず、己の
そうして、初めて気づけた想い。今更になって自覚する葛藤。
『今』のように。自信を失ったまま、暗泥に身を沈めて生きて行きたいとは思わない。
それでも『以前』のように。心を偽り、身を削ってまで己と周りを欺き続けることが本当に正しいことだとは、到底思えなくなっていた。
それが己の身の丈を知った末の理解なのか、諦めなのか分からない。少なくとも、今の自分には誰にも本心を明かせない己で在ることが、酷く『寂しい』と思えるようになっていた。
あるいはこのまま……ただ等身大の自分として生きていくのも、一つの手なのかもしれない。身の丈に合った努力、身の丈に合った優しさで。そうして少ないながらも出来た、苦楽を共にする友人達。こんな自分でも、受け入れてくれる人はいるのだと知った。
分かっている。
それが迷い疲れた心が吐露する浅ましい弱音だということも。
それでも想わずにはいられないのだ。
目紛しくも駆け抜けてきた2年間。けれど今や積み上げてきた
あの日々は本当に正しかったのだろうか。
積み重ねてきた幾つもの嘘。彼女に相応しい人間になりたいと、けれど鎧に縋ることしかできず……本心を明かすことから逃げていた自分は、きっと初めから何かを間違えていたのではないか。
心を明かすことを恐れ。ありのままの自分が受け入れられることはないのだと、無意識に決め付け……嘘で塗り固めてしまった心だからこそ、見えなくなってしまった本心もあったのではないか。
それは、きっとこれから先も。
この生き方、この嘘に縋り続けようとする限り、どんなに犠牲を払ったところで、自分はまた何にも残せない。
きっと何もーーー為し得えはしないのだと。
ぼやりと輪郭を失っていく月輪。決して眩しくはないその輝き、けれど熱を帯びて止まぬ瞳をぐっと細める。
叢雲にさらわれていく月明かり。失った光帯は元来熱を持たぬというのに、一層の心寒さを覚えさせた。
「……そうですね。私たちはどうしても臆病で、本心を胸のうちに隠してしまいますから」
不意にトン、と。背中に伝わる感触。
衝撃と呼ぶには軽すぎる。けれど確かに伝わる温もりに振り返ろうとすれば、柔らかな髪の感触が首を擽る。
「本当は愛してほしい。人一倍、誰かに受け入れてほしいと思っているのに……自分を曝け出すのが怖くて。それしか方法を知らなくて。綺麗な仮面で素顔を覆い隠しては、自分の心にさえ嘘をつくようになってしまう」
息遣いさえ伝わるほどに、すぐ近くから届く声。少女……早坂が自分の背に額を寄せているのだと気付いたのは、随分と経ってからだった。
伝う温もりは砂漠に溶ける水のように自然と胸へと染み入っていく。紡ぐ
ああ、当然だ。なぜなら彼女もまた…
「なまじ仮面を被れば人並み以上のことが出来てしまう私達……おまけに人一倍真面目な貴方ですから。そんな自分と普段から比較してしまって、素でいる事に罪悪感さえ覚えてしまう。皆が求めているのは。皆が望んでいるのは、”本当の自分“じゃあないんだって……たとえ無理を通して演じた姿であっても、止めることができなくなってしまう」
本当に難儀な性格ですよねと。苦笑混じりに呟く彼女を背に感じながら、遠い夜空を見上げる。暗雲の合間にて点滅する人工の灯り。その尾に伸びる真っすぐな飛行機雲。
ーーいつだったか。同じような悩みを、彼女から明かされたことがあった。
『今の貴方に、私はどう映りますか?演技を、しているように見えますか?』
夕焼けに染まる秀知院学園の屋上。肌に通り抜ける冷たい冬の風。
本心と贋造の狭間で揺れる彼女に……自分はなんと答えたのだったか。
「ーーだけど」
「……?」
祈るようにきゅっとシャツの裾を握る少女。より一層強く預けられる体重に、背から伝わる熱も増えていく。
「だけど、本当に全てが『嘘』でしたか?
貴方が歩いてきた2年間。積み上げてきた努力はーーー本当に、意味の無いものでしたか?」
「………」
囁く声に息が揺れる。じわりと熱を取り戻す胸。
嗚呼、本当にどうして彼女にはーー自分が心から欲する言葉が、わかってしまうのか。
「心が強くなければ、人は努力を重ねられない。理想を掲げることは出来ても、刻苦の重さに挫け、辿り着くこともなく諦めてしまう。心は移ろいやすいもの。皆誰しも、いつまでも。強く在り続けることは出来ない。……けれど貴方は違った」
そうでしょう?と。彼の青痣に染まった手をそっと包む。
「混院の出で秀知院学園の生徒会長に至ったのも。成績で学年一位にまでのし上がったのも。誰もが望んで出来ることじゃなかった。それは紛れもない、貴方という人だから為し得たこと」
「……無理を通してきただけだ。怖れや、後ろめたさが無かったわけじゃない。」
「ええ。それでも、決して意味のないものではなかった」
抱きしめるように、後ろから回された両手。
その大きな背に頬を寄せ、瞳を閉じる。
貴方は知らないのでしょう。
どれだけ多くの人が、
「貴方の優しさも、その心も、見せかけなんかじゃない。
誰かを騙すための嘘なんかじゃ……決してなかった」
貧しい混院の出ながら名門秀知院学院の頂天に君臨する生徒会長。
そんなものは貴方の魅力を表す一つの影でしかない。
過去の暴力事件を起因に、周りを許せず、何より自分を赦せなかった石上優。
自分の正しさを信じながら、けれどそれを声とする勇気を持てなかった伊井野ミコ。
今では秀知院学園を引っ張っていくほどに成長した二人も、かつては誰にも言えない、誰にも分かってもらえない悩みを抱えーー自分という殻の重さに押し潰されそうになっていた。
そんな彼らを導いてくれた人がいた。
解り、受け止め、手を差し伸べてくれた人がいたのだ。
( そう。貴方は知らないのでしょう。
どれだけ多くの人がーー貴方の優しさに救われていたか)
握った手から伝わる温もり。
あの日、リムジンの中で泣き暮れる私の手を、ずっと包んでくれていたように。
「貴方が積み上げてきたものは決して無意味なものじゃなかった。
多くの人が貴方のようになりたいと憧れた。かつて貴方が、一人泥水に飛び込んだ
それを……その想いまでも、全部意味のないものだと言いますか?」
「………」
凍えた心に、一つ一つ伝わる彼女の
胸の隙間を埋めるように。あるいは、いつまでも沈んだ心を叱責するように。
あの時と逆だな、と。そう浮かんだ心にかつての情景が蘇る。
ソレは迷える彼女をに向けて、自ら高らかに宣言した言葉。
何日もかけて考えた
『俺の演技は理想のスペック』
ああ、そうだ。自分の言葉だったのだ。
たとえ見せかけでもいい。今は身に余るような、愚かな強がりでもあっても。
それでもカタチにすると誓った。決して振り返えらないと心に刻んだ。
走り抜ける苦難のなか、多くのものを溢し、身を削ることになっても
いつか、自分自身が誇れるものに成るならば、それはーー
『いつか、本物になるための……』
それは紛れもない、自分が抱いた夢なのだと
「……甘えることは、許してくれないんだな」
「私がそんな優しい人間に見えますか?」
「ああ。おまけに嘘つきだ」
綻ぶ口元に、迷いの霧が晴れていく。
ずっと胸に結びついていた重い鎖も、涙と共に溶け落ちていく。
ようやく取り戻した自信。帰ってきたこの
きっと自分はこれから先、何度も迷い落ち込むこともあるのだろう。
ーーそれでも、わかってくれる人はいるのだと。
彼女へと振り返り、その小さな体を抱き返す。
ああ、よかった。
淡く光を帯び、流れゆく叢雲。星も無く、人工の灯火だけが走る夜空。
それでも。たとえ月明かりなど無くても……瞳に映る彼女は美しかった。
■□■□
「ーーーー」
2階の自室にたどり着くや、ボスンとうつ伏せでベッドに倒れ込む。柔らかなマットレス。頬を包む温かなシーツの感触。胸に広がる温かな想い。
しかしそれとは裏腹に……その想いを自覚するほどに、ジクリと鋭い痛みが走った。
のそりと体を起こしては、携帯を取り出す。どんなに心境であろうとも、体は続けた習慣を繰り返す。着信に履歴がないことに今更落胆はしない。こちらから電話をしても終ぞ繋がらないため、
2枚、3枚と添付していく写真。彼には秘密で撮った日常の姿を顕したもの。
重いリュックを抱え大学へと出かけていく姿。痛みに額を歪めながら、机へと向かう横顔。その殆どが未だ暗い影を落としていて……この遠い国で打ちのめされ、それでも必死にもがき続ける姿を克明に映し出していた。
あの人がどんな生活を送っているか
あの人がどんな苦悩を乗り越えて来たか
その軌跡を、一瞥の漏れも無いよう丁寧に丁寧に書き記していく。今までもずっとそう。もう何度も。帰ってくる宛もないその連絡先に送り続けている。
『ありがとう』
「ーーっ……」
部屋を出る間際、再び机へと向かい始めた彼からかけられた言葉。耳奥に蘇るその声、未だ残る彼の温もりに視界が歪む。締め付けられそうな胸の痛みに口端から哀咽が溢れる。
ああ、何をやっているのだろう、私は
優しい言葉をかけることだってできた。頑張る必要はないと。自由に生きていいのだと。
それでも私は……ずっと同じ。私と同じ。茨の蔓延る苦渋の道を歩ませ続けている。
謝られる資格なんてない。まして感謝されることなど
「……かぐや様」
今も昔も変わらない、胸を苛む罪悪感に遠いその人の名前を呼ぶ。
けれど声は誰にも届かない。
零れ落ちる涙は、ただただ昏がりへと消えるばかりだった。
■□■□
「どうして、ですか」
静かに震える声が響く。
四宮家別邸、その主人が住う寝室。今まで幾度なく訪れ、瞼を閉じても寸分の違いなく思い出せる筈のその部屋が、しかし今は全くの別所に思えた。
帳が降りたように暗く沈んだ空気。天蓋付のベッドで腰掛ける一人の少女ーーー四宮かぐやは、背まで下ろした艶やかな黒髪の合間に、感情の無い胡乱な瞳を覗かせていた。
「どうして会長の告白を断ったんですか。待っていたのでしょう?恋愛戦なんて言い訳をして、本心を誤魔化し続けて……それでも、あの人が告白して来てくれるのを、ずっと焦がれて来たのでしょう」
知らず、語勢が強まっていくのが分かる。それでも抑えられない、胸のうちから溢れ出す幾つもの疑問、忿怒……悲哀。
目も回るような忙しさ、息も絶えそうな緊張感伴う四宮家への給仕。その間にも、数え切れないほどの我儘や無理難題を言い聞かされて来た。
あの人を振り向かせたい。あの人の想いを知りたいなんて……側から見れば結果など分かりきっているというのに、本心に向き合えない主人の為に、道楽とも言える願いの数々に付き合わされて来た。
不平不満を漏らしたのも一度や二度ではない。段々と高まっていく風呂の温度、ストレス解消にと見始めた動画の内容も過激になっていく一方だ。
それでも。例え文句を言おうとも主人の我儘に付き合い続けて来たのは……その先に、二人の幸福があると信じていたからだ。
幼少より植え付けられて来た四宮の訓え。家族なんて甘い言葉を好餌に、あの子を纏わりついては離さない血の呪縛。
それはこの別邸にあっても変わらない。一度の失態で容易く首が飛ぶ環境において、絶対的権力の象徴である
“ーー皆と一緒に花火を見に行きたいーー”
『ーー了解』
その檻を、初めて破ってくれた人がいた。非才ながらただ一人逃げず、畏れず、“四宮かぐや”という人間に真正面から向き合ってくれた人。凍てついた心を溶かし、人と触れ合う喜びを教えてくれた彼ならば……きっと、この閉じた世界からあの子を解き放ってくれるのではないか。
かつては夢としか描けなかった幻想が形を為し始めた時、胸に抱いた喜びはどれほどであっただろう。
終わりが来ると思ったのだ。
求めど与えられぬ温もり。疼く心の隙間に身を抱いて泣き暮れる夜も。
近従として側で支え、けれど密偵としてあの子を欺き……情愛と罪悪感の狭間で押し潰されそうな心を隠し続ける日々も。
そう。いつかはあの子も、四宮の
その未来のためならば、どんな我儘にだって応えられた。どんな理不尽にだって耐えられた。
この胸奥に秘めた蕾の花も……咲かさずに隠し通すことができた。
嗚呼、それなのに
「おかしなことを言わないで頂戴」
まるで失笑するように息を溢す少女。早坂の必死の訴えなど歯牙にも掛けず、赤い瞳はただただ無感情のまま。
「私は四宮の人間。この国の中枢に立つ存在です。そんな私が何の権威も持たない一介の男などに靡く筈がないでしょう。ましてスタンフォードへの留学なんて……お父様の寵愛に真っ向から背く行為だわ」
今までの恋愛戦の中でも幾度と聞かされて来た文言。素直になれない心、認められない自身の気持ちを覆い隠すための言い訳。
けれど今は違う。その表情からは照れ隠しや、嘘といった色が一切見えず、それは長年連れ添った早坂の目をしても、本心だと認めざるを得なかった。
表情は変えずーーしかし硬く手を握りしめる早坂に対して、少女はまるで宥めるように静かに息を吐く。
「別段、悪戯に無碍にしたわけでもないわ。それがお互いの幸福と考えたまでよ」
「幸、福……?」
「考えてもみなさい。今まで四宮家の庇護のもと、何一つ不自由のない暮らしをして来た私。日本の映画館でチケットの購入すらまともに出来なかった私が、庶民の世界に放り出されて生活していけると思う?ましてや異国の地。立ち塞ぐ障害は想像より遥かに過酷なものよ」
「そんなこと、何の努力もせずに言わないでください!」
真実の愛が有れば如何とでもなる、なんて今まで散々と豪語して来た人が何を言うのか。
そんな努力……彼が貴方の隣に立つため捧げてきた代償に比べれば、何程のものか。
ああ、そうだ。ましてあんな別れ方、いったいどれほど彼が傷ついたことだろう。
彼にとって……私達、自分を偽る人間にとって、本心を曝け出すという行為がどんなに恐ろしいことか。
見栄と虚勢で築き上げて来た心暗い過去。鎧を被り必死に隠し通して来た弱く醜い自分。
その全てを“明かす”ことに、いったいどれほど勇気を振り絞らなければならなかったか。
受け入れられる保証など何処にもない。自分そのものを否定されるかもしれない恐怖。浴びせられる幻滅と嫌悪に、二度と以前の関係には戻れないかもしれない。
それでも彼は成した。貴方や私に出来なかった『告白』を、彼は成したのだ。
「そうね……努力はできる。けれど、それだけではどうにもならない問題もある」
ほんの一瞬、目を細め……けれどそれだけ。変わらず抑揚のない声で囁きながら、少女は初めて真っすぐに早坂を見捉える。
「四宮の家を離れようと、世間が私に向ける目は変わらない。日本を牛耳る四宮家……その令嬢。略取や誘拐の手は何処から伸びるかも分からず、以前のようにSPも付けられない環境では満足に身を守る事だって叶わない。その恐ろしさは……早坂。貴方も嫌と言うほど分かっているでしょう?」
「それ、は……」
誘拐、その言葉に蘇る苦い記憶。際限なく注がれる敵意と悪意に晒され、来るとも判らぬ希望にただ縋るしかない恐怖。
分かっている。私の時はただ運が良かっただけなのだと。あの人が来てくれていなかったら、今の自分は此処には居ない。瞼の裏に残るボロボロになるまで疲れ果てた姿。その悪意がーー今度はあの人自身に及ばぬとも限らない。
「”障害が多いほど愛は燃える“なんて、子どもだから言える言葉。現実を前にすれば心は摩耗していく。想いは否応なく色褪せていく。
後に残るのは拭えない後悔だけ。“どうしてこの人を選んでしまったんだろう”なんて……かつて好きだったという気持ちが、醜く歪んでいく様を見るのは、酷く哀しいものよ。
貴方も心の底では分かっているのでしょう?私と彼では生きる世界が違う。そんな二人が一緒になったところで……お互いが不幸になるだけだわ」
暗く、深い諦念に沈んでしまった表情はまるで別人のよう。いいや。別人と言ってくれたほうがどんなに良かったか。
そんな筈がない。そんな言葉が、貴方の想いであって欲しくはなかった。
「……御行くんのためでは、ないんですか」
「…?」
「秀知院が持つ『推薦状』の権力。そんなものは四宮の力を持ってすれば容易く唾棄できる。あの人のスタンフォードに行くため……あの人の夢を守るために、貴方が身代わりになったのではないのですか」
裏付けや確証があったわけでもない、藁を掴むように囁いた一つの可能性。
それでも、たとえ僅かでもいい。口にしたその名前……迎える筈だった幸福な未来が、あの子の心を動かしてくれると信じていた。
「それは貴方の憶測?それとも願望?」
けれど帰ってくるのは失望をはらむ声。寂寥と静まりかえった水面に、波風一つ立たすことも叶わない。その瞳には、かつて宿していた矜持も、恩情も、欠片ほども残されてはいなかった。
「……これ以上、私という人間に無為な期待を寄せるのは止めなさい。貴方が傷つくだけよ」
嗚呼、どうして
「貴方も、もう自由に生きていい。私や四宮の家に囚われることも、その合間で罪悪感に苛まれることもない。」
早坂は私の近従だと……列挙し断ち截ぐ本邸執事達を前に、そう言い放ってくれた貴方がどうして
「今までご苦労様、早坂。
貴方はーーー私には過ぎた近従だったわ」