12歳の春   作:諸星おじさん

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優秀すぎる教え子を持つのもどうかと思う

「先生、食べないんですか?」

岡崎はショートケーキを食べながら私を見た。天才少女、岡崎夢美。物理学界でこの名を知らぬものはいないだろう。私は、何を間違えたのか、そんな彼女を指導する立場にある。

「学生に合わせて食べてたら、私は太ってしまうよ。そういう歳なんだ」

「そうですか」

岡崎はつまらなさそうにケーキの上のイチゴをつついていた。イチゴは彼女の大好物、これは必ず最後に食べる。苺を頬張るその瞬間の笑顔だけは、年相応の少女のそれだ。しかし、この12歳の少女の頭の中には、きっと小さな宇宙が詰まっているに違いない。

「食べ終わったところで、続きをやろうか」

岡崎は口元をナプキンで拭くと、チョークをもって黒板の前に立った。狭い教室。ここには私と岡崎の二人しかいない。8人座れば満席になるゼミ用の小さな部屋。二段式の黒板だけは最大限おおっくて天井まである。けれど、黒板は10分もすれば岡崎の字で埋め尽くされ、無数の数式で満たされた。

「なので、この場合でも、可能性空間は存在できるわけです」

「はい、いいでしょう。質問だけど、可能性空間の存在は明らかになった。でも、可能性空間はいくつ存在していると言えますか? あるいは無限にありますか?」

岡崎の答えによどみはない。

「後藤方程式が正しければ、宇宙に存在する電子の数だけ、可能性空間は存在します。膨大な数ですが有限です」

岡崎が私の研究室に配属されて2年。彼女は既に画期的な論文をいくつも発表している。私が彼女を『指導』するなど、もはやおこがましいとさえ思えた。

 

私たちの専門分野『可能性空間論』、いわゆるパラレルワールドと呼ばれる存在を科学的に証明することを目的とした理論だ。宇宙はふとしたはずみで分岐し、Aという歴史とBという歴史をたどる世界に分かれるという。簡単に言えば、織田信長が本能寺の変で殺されなかった世界があるということだ。

SFの世界では随分と昔からこのような説がささやかれていたが、あくまで想像上の産物。しかし、それを数式の上で示して見せたのが、わが師『後藤次郎』。けれども、後藤先生をもってしても、具体的に観測することはできなかった。私たちの研究は、後藤先生が為せなかったこと。つまり、可能性空間の観測である。

 

「よし、今日はここまでにしよう」

「はぃ、おつかれさまでした……」

短期集中型の岡崎は、ゼミが終わると立ってるのもやっとという状態まで消耗してしまう。そのままふらふらとした足取りでエレベーターで一階まで向かった。私は岡崎を見送ると自分の研究室に戻る。研究室とは言っても、八畳ほどの小さな部屋だ。資料や書籍、学部の学生たちのレポートなどを置いたらほぼいっぱいになる。その割に窓は大きく、建物の下まで良く見えた。

「あ」

コーヒーを片手に窓から外を眺めると、岡崎の後ろ姿が見えた。燃えるような赤髪は遠くからでもよくわかる。服も赤いから目立って仕方ない。学校中の有名人だ。このキャンパスで彼女を知らない学生はいない。大抵は口もきいたことない連中だろうが、もしひとたび話したならば、その強烈な個性でもっと忘れられなくなるだろう。

岡崎はふらふらと家路につく。私は、彼女の長い三つ編みが風に揺れて、時々見える小さな背中から目が離せなくなっていた。岡崎の背中はひどく小さく見える。きっと、彼女は私よりも何歩も遠くを歩いているのだろう。後藤先生もそうだった。私に物理を教えてくれたあの人に、もう会うことはできない。天才というものは私なんかを置いて、ひたすら学問の道を突き進んでいく。

 

 

 

次の日、岡崎は約束の時間に1時間も遅刻して私の研究室に現れた。

「先生ごめんなさい」

「まあ岡崎の遅刻はいつものことだから。僕ももう慣れました。それより、眠そうだけどどうしたの?」

「実はこれを書いてて」

岡崎はA4で2枚ほどのレポートを私に差し出した。こんな課題は出した覚えがない。

「『可能性空間における統一理論の成立条件』……」

「これを書いてて朝までかかりました」

岡崎は目元に真っ黒な隈を作っていた。声もどこか掠れて、生気がない。

「そうか、お疲れ様」

題名だけで心臓が飛び出そうなほど高級な内容だ。きっと読むだけで一苦労だろう。情けない話だが、岡崎の論文を読むときは、他の教授に手助けしてもらうことも多々ある。

「今日休んでいいですか?」

「ゼミは休んでもいいけど、講義のTAはダメです。僕と岡崎だけの問題じゃなくなるからね」

私と一緒に、岡崎は息も絶え絶えに教室へ向かう。岡崎は私の研究室の学生なので、大学院生の義務として私の講義のTAを頼んでいる。厳しいのであまり評判はよろしくない。一部の男子学生からは、よからぬ性的趣向を期待されているという噂も聞いた。叱られるのが好きだという、そんなモノ好きがこの世には存在しているらしい。

 

教室に来ると、年端もいかない学生たちが席についていたりいなかったり。大学生というのは、私が学生だったころと随分様変わりした。目の前の学生たちは、まだ9歳だ。

「では、今日は重力についてのお話です」

近年大規模な教育改革があり、大学は11歳、大学院は13歳で卒業する。大学入学は9歳。あどけなさの残る、いや、はっきり言って幼い顔立ちの学生たち。岡崎もそんな彼らの一人だった。天才を輩出しやすいシステムだと聞いていたが、まさか岡崎ほどの存在が現れ、しかも自分の手元で預かることになるなんて想像できなかった。

私の担当する講義は『統一理論入門』という。物理学はニュートンの時代で既に一応の完成を見て、アインシュタインがぶち壊した。その後も紆余曲折あり、今ではあらゆる事象が『大統一理論』で説明がつくとされている。入門と言いつつ、かなり難しい内容なのだが、9歳の大学生たちは意外にも理解が早い。

 

「というわけで、重力も見た目は違いますけど、一つの力として記述できるわけです」

講義の最中、岡崎は私の授業のノートを取っている。黒板を使って授業を進めるなど、我ながら古風なスタイルだ。黒板はしゃべる内容が決まってないゼミなどの場合は未だに有効だが、講義で黒板を活用しているのは物理学科で私ぐらい。だから記録係として板書を取る必要があるのだ。そして去年のこと、岡崎のノートが他の先生の目に止まり、その先生から出版社に話が通り、あれよあれよという間に本ができた。

著者名は私だが、実際に本を書いたのも、本にするために色々頑張ったのも岡崎だ。そして今では私の無視できない収入源として存在感がある。これがあるので私は岡崎に頭が上がらない。だからせめて、ゼミのたびにショートケーキを差し入れるのが私の恩返し。

 

「先生、お疲れさまでした」

「お疲れ様、岡崎もありがとう」

「研究室で寝ていいですか?」

「寝る場所なんかないけど」

「じゃあ寝袋買ってください」

「床に寝る気? 汚くないかな、あんまり掃除してないし」

「もう何でもいいです。とにかく寝たくて」

岡崎は私にもたれかかってきた。まだ学部生たちも教室にいるし、男女で引っ付いてたら色々問題なんだけど、岡崎はそういうところお構いなしなんだよなぁ。

「ああわかった、わかったよ。蔵元研あたりに聞いてくるから、先に研究室に行ってて下さい」

 

岡崎はまたフラフラと教室を後にした。線の細い後ろ姿は、ただのか弱い女性に見える。もちろんそんなことはない。彼女は体力の配分が不得意なだけで、それ以外のところは誰よりも優秀だ。私が保証する。

さて、講義が終わった足で『蔵元研』へと顔を出す。物理学科の中でも居残り・徹夜上等で実験を行うのが彼ら。院生の中には数か月単位で家に帰ってないものもいるらしい。そんな彼らなら、きっと寝袋の一つも持っているだろう。そう期待して、院生の詰め所へ向かう。

勘違いしないでほしいが、別にこれは悪口ではない。むしろ褒めているのだ。物理学は実験をしてなんぼなので、本来この姿勢が正しいと私は思う。けれど、私たちの専門分野である『可能性空間論』ではそうも言ってられない。なにせどのような装置を使えば可能性空間が観測できるのか、その一切が不明だからだ。存在だけは後藤先生の天才的手腕で証明できたが、どんな観測装置をくみ上げればよいかさえわかっていない。実験など不可能である。

 

蔵元研は物理学科の入っている建物の一階に実験室を構えている。物理学科内では一番待遇の良いところだ。

「失礼するよ」

「あ、おはようございます」

蔵元研の扉をくぐると、学生の一人が私に気づいて頭を下げた。彼は南部君と言って、蔵元研のエース。ま、岡崎ほどじゃないが。性格は非常に温厚でとてもいい人だ。けれどお昼過ぎもいいところなのに、寝ぐせのままでおはようございますもないだろう。生活リズムがめちゃくちゃだ。それはウチの岡崎も似たようなものか。

「寝袋が余ってたりしないかい?」

「使うんですか?」

「ああ、岡崎がどうしても欲しいと」

「ええ、岡崎ですか……」

岡崎の名前を出した途端、南部君の顔が曇る。そういえば、南部君は岡崎に苦手意識があるとか言ってたっけ。

「岡崎に変な物渡すと後から散々罵倒されますから」

そうか、君も岡崎の犠牲者なのか。岡崎は結構口を鋭く他人の間違いを指摘するきらいがある。私の講義では時々具体的な問題を解く時間をとる。その際に岡崎も私と一緒に学部生たちのペンが止まっているところに声をかけ、質問を受けたりするのだ。けれど、岡崎は数いる院生の中でもとびきり厳しいと評判で、授業アンケートを取ると岡崎の悪口で埋め尽くされている。

「なるべく綺麗で匂いが無かったりするものを探します」

「頼むよ」

南部君は研究室のロッカーやら荷物置やらを漁り、なんとか彼のお眼鏡にかなった寝袋を引っ張り出してきてくれた。少なくとも見た目は綺麗だし、これで何か文句を言うならば、私からも一言言ってやろう。

 

 

研究室に戻ると、岡崎は私の机で伏せっていた。小さな寝息が、狭い室内によく響く。妙な緊張感が流れた。岡崎を起こしてはいけない。せっかく持ってきた寝袋だが、使う機会はなさそうだ。しかし、今後どうしたものだろう。岡崎を起こさないのはいいが、この後も事務仕事やら今後の授業計画やら、そして自分自身の研究やら、やりたいことはあるのに。岡崎に遠慮して自らの部屋を出ていくというのは少し違う気がした。

そうだ、この前事務方に頼んでおいたものがあるのを忘れていた。私は部屋の隅の、普段は影になっているところからそっとパイプ椅子を引きだした。この部屋には椅子が一つしかなかったが、それが不便なのでとりあえず椅子をもう一つ、と。そう頼んだらしばらくはこれで我慢してくださいと言われて、とりあえず受け取った。ちゃんとした椅子は来週に届くらしい。

これまた簡易なテーブルを広げて、なんとか最低限のスペースは確保できた。さて、やるか。

 

と思ったところまではよかったのだが、岡崎が寝息を立てるたびに、私の集中はひどく削がれた。いびきがひどいのではなくて、むしろ小さい。ただ、そのかすかな音が、岡崎の存在を雄弁に物語っている。この小さな寝息が聞こえるほどに近くにいるというのが、なんだか不思議な気分だった。私はこういうとき、ふと岡崎の顔を眺めてしまう。

赤い髪、澄んだ肌、小さくふるえる唇。背も女性の平均より小さい。12歳という年齢を考えると、たぶんこれ以上は伸びないだろう。どこから見てもただの女の子なのに、学問においては既に私よりも高い次元にいる。そんな存在と同席しているのが、なんだかむず痒いような、そんな気がしてならない。

岡崎を見ていたら、なんだか少し寒そうに見えたので自分が着ていた上着をちょっとひっかけてみた。なんで自分はこんなことをしているのだろう。もし私が学生の頃、後藤先生の机で寝ていたのなら、後藤先生からたたき起こされたに違いない。後藤先生も厳しい人だったからそのくらい当然だ。私もその程度には厳しくしていいと思うのだが、どうして岡崎には甘くなってしまうのだろう。本の印税の為だろうか。いや、それはきっと本質じゃない。おそらく、私は本能的に岡崎を畏れている。一人の学者として、たぐいまれなる才能を持つ岡崎に余計な干渉をしたくない。そんなことを心のどこかで思っているんじゃないだろうか。

岡崎はぐっすり寝ているが、この体に触って揺り起すのにもかなり抵抗がある。別に性的な意味ではなくて、私ごときが触れていい存在だと思えないのだ。岡崎に対してはいつもこうだ。何故か変なブレーキをかけてしまう癖がある。

 

 

 

「あ、おはようございます」

「おはよう」

窓の外はすっかり暗くなり、夕暮れのオレンジさえ地平線の彼方となった。私がようやく岡崎の寝息に慣れてきたころ、岡崎は目を覚ました。

「ジャケット、ありがとうございます」

「いいよ別に」

私はいそいそと岡崎の肩から自分のジャケットを回収すると、またパイプ椅子に座り、ノートとにらめっこを再開した。今やっているのは、先ほど提出された岡崎のレポートの確認作業。たった2ページだが私の専門外の知識が多く要求されているので、実際のところは他の先生に相談する部分の洗い出しである。

「先生の机で寝ちゃってすいません」

「大丈夫ですよ。岡崎の勝手はいつも面白いから」

面白いと思っているのは本当、厄介だとも思っているけど。

「あの先生、実はちょっと考えてたんですけど」

「何?」

「いつも先生に査読をお願いして、それで先生は自分の研究の時間が取れないんじゃないかって」

「確かに君の論文は難解で読むのが大変だけど、それが僕の仕事だから」

「でも、せめて何かできないかと思って」

「何か?」

「今度の1年生の中間テスト、私が問題作ります」

「ほう」

正直ありがたい。しかし、それをやると岡崎の時間もまた失われるし、何よりテストの問題を作ることについては私に『責任』がある。諸手を挙げて任せるわけにはいかない。

「そう言ってくれるのはすごく嬉しいけど、講義を持ってる人がその責任でテストはしなくちゃいけないから」

「じゃあ、私が何問か用意するので、先生がその中から選ぶのはどうですか」

「なるほど」

「それなら、先生が作ったテストになりますよね」

「そう……だね」

「じゃあ、全部で10問作ってくるので、その中から5問。一問20点で考えましょう」

「うん」

結局、押し切られてしまった。

「そしたら私、家で考えてきます」

岡崎は立ち上がると、荷物をまとめて帰り支度に入った。

「過去問のデータいる?」

「先生が学部の頃に出してくれた問題は全部覚えてます」

岡崎はそう言い残すと、研究室を後にした。扉が閉まる音がしたあとは、岡崎が早足でエレベーターまでかけていく音だけが聞こえる。

 

私はパイプ椅子とテーブルをしまうと、自分の椅子に座り直した。椅子から窓を眺めて、下の様子を見る。岡崎の後ろ姿は、寝ていた分元気そうだ。

 

「全部覚えてます……」

岡崎の言葉を繰り返す。少しだけ心が熱くなった。学者をしていれば、一生忘れられない問題に出くわすことがある。そういった問題は自分の学問の転機として、学者を続けていくうえで大事な思い出なのだ。岡崎の場合、優秀すぎて雑多なことまで覚えているだけかもしれない。しかしそれでも、自分の作った問題が彼女の中に息づいている。あの天才の中に、私自身の足跡も確かにあるのだと思ったら、こんな凡人が学者をしていた意味もあったのかもしれない。

 

 

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