私が研究室に戻ると、岡崎は既に中間テストの採点に取り組んでいた。
「あとちょっとで終わりますから」
どうやら学生たちを見回っている間に大体の点数付けの目星がついていたらしい。少し横を通ってチラリと見えただけで、恐ろしい理解力と記憶力だ。
私も担当教員として責任があるので、間違ってることはないだろうが、一応岡崎の丸付けが終わった解答用紙にざっと目を通す。まあ問題ない。丸の付け方で岡崎の感情がわかる。丁寧に丸が付いているのは、岡崎としても非の打ちどころがない解答だ。
一方、合ってればいいんでしょとでも言いたげな投げやりな回答には、下線を引いたりして粗を探した痕跡がある。
ただ、その手の回答でもツッコミどころがなければ渋々と言った具合に点数をあげているし、回答の『巧拙』では贔屓していない。あくまでもテストでは『正誤』のみが重要だ。『巧拙』については学者の間でも好き嫌いが分かれるところ。私や岡崎といった、たった一人の個人が〇×を判断してよい部分ではない。
「ふぅ、終わりました」
「お疲れさまでした。ありがとう」
私がコーヒーを差し出すと、岡崎は添えてあったミルクを二つ、シュガースティックを二本溶かして、ぐるぐるとかき回す。
「楽しかったです」
晴れやかな笑顔、人間のこんな表情を見るのは久しぶりかもしれない。
「よし、一時間休んだら、ゼミやるか」
「はい」
「僕はちょっと出かけてくるから、先に教室に行ってて下さい」
私は研究室を後にした。結局採点に至るまでほとんど岡崎任せになってしまったし、いつもより豪華な苺のケーキを用意してやらねば。
一週間後、中間テストの返却日がやってきた。このテストで成績の50%が決まる。単位取得の最低ラインは60%。もしこのテストで0点でも取ろうものなら、その時点で落第が確定だ。もっとも、そこまで落ちこぼれた学生は私の見る限りいなかった。点数の低い者でも、努力次第で巻き返せるだろうなと思う程度にはこの学年は優秀。
「テストの解説などは特にしません。皆さん自分で見直して、採点ミスなどがあった場合は申し出るようにしてください」
テストの結果で教室全体はがやがやとしていて、落ち着くまでは静観することにした。
「先生、ここなんですけど」
最前列に座っていた学生が私を呼んだ。テストについての質問だろうか。岡崎も他の学生の質問に捕まっていた。
「ああ、惜しいねぇ。『重力』ってちゃんと書けてれば良かったんだけど」
学生は肩を落とした。こんなテストの結果で一喜一憂する必要なんてないけれど、それはこの苦しみを乗り越えた先にいるから言える台詞だろう。テストには卒業がかかっている。教育カリキュラムが変わってから留年という制度はなくなり、必要単位に満たない場合は即退学となる。このプレッシャーは、10歳そこそこの学生たちにとって、やや酷なものかもしれない。
「あの、先生」
もう一人、私を呼ぶ声がする。金髪の髪を二つにしばっているのは、例の北白河ちゆりだった。
「なんで、この回答でバツなんですか?」
私は北白河の点数をちらりと見た。40点、自信満々の割には低いな。他の先生からの噂通りなら、もっと点数を貰えると思ったが。
「ああ、そうだなぁ」
最初の大問が全てバツになっていた。部分点もなし。気になる粗もいくつかあるが、そこまで眉を顰めるほどの物だろうか。これが合ってればギリギリ合格圏か。悔しいだろうな。
「まあちょっとこれは厳しいかもね」
私はちょうど学生から解放された岡崎を呼んだ。こういうときは、まず採点した人間と話をするのが手順だ。
「ここ、少し厳しくない?」
「そうですか? だってこの回答、最初から重力と電磁気力を混同してるように読めますよね」
「あぁ、はい、そうだね。そう、読めるね」
「この問題は、重力と電磁気力が一致することを示す問なのに、最初から一緒だと読める書き方するっておかしいですよね」
「はい」
「ということは、その途中経過の記述も、全部虚構ですよね」
「その通りでございます」
私は北白河に向き直った。
「やっぱりダメだって」
それを言った瞬間、北白河の表情が豹変した。色白の顔が一気に赤くなって、髪の毛も逆立っているように見える。
「は? なんでですか? 先生が良いって言ったのに」
「あんたさ、誰に口聞いてるの? 私が間違ってるって言ったら間違ってるんだよ。あんたに反論の余地ないから」
岡崎はその小さな体で、もっと小さな北白河を恫喝していた。私は黙って、北白河を見つめるしかない。学問においては、正しいやつが偉いのだ。ぱっと見とはいえ、答案の致命的なミスを見抜けなかった私に、岡崎に意見する資格はない。北白河も気迫では負けてないが、学問においては、岡崎に敵わない。
「大体、『混同して読める』って何ですか? 主観じゃないですか」
「わかってる人なら、ちょっとでも混同して読める書き方は避けるよ。当たり前じゃん」
「じゃあもういいです」
そういうと、北白河は乱暴に答案を投げ捨てて、自分の席に戻っていった。
「なにアイツ? 意味不明なんだけど」
私は咳ばらいをして、とりあえず教壇にあがった。テストについての質問も出きったようなので、今日の分の講義に入る。
「さっきのやつ、ほんと何なんですか? 何もわかってないくせに」
講義が終わっても、岡崎の怒りは収まらない。
「まあその辺にして。あの手のは居るんだよ。色々と器用にこなしてきたから、自信もたっぷりあるわけ」
「でもおかしくないですか。それにしては論理がめちゃくちゃで」
「一年生の中じゃ、あの子が一番優秀だっていう先生もいるくらいだよ」
「そんなの絶対おかしいのに」
岡崎はその後、講義の度に北白河を蛇蝎のごとく嫌い、その態度を隠さなくなった。北白河のほうも、負けじと目つき鋭く岡崎を睨み返していた。授業中、特に問題を解く時間は一触即発の空気が流れているが、案外これでいいのかもしれない。心なしか、北白河の授業態度が改善されたと他の先生から噂が聞こえるようになった。何かしらの反骨心に火をつけたのかもしれない。着火剤は間違いなく岡崎だ。
岡崎の笑った顔は講義ではもはや見られない。ゼミの度に私の差し入れを食べる様だけが、私の心のオアシスとなっていた。勉学については自他ともに厳しい岡崎だから、一度でも不真面目な態度を取った北白河はどうしても許せないだろう。かといって、このままでは余計なストレスが双方にかかることになる。岡崎は言わずもがな、北白河も学年内ではトップレベルの才覚があるので、できればのびのびと勉強をさせてあげたいところだ。
そんな悩みを抱えていたころ、一回だけ講義を休むことになった。可能性空間論に関する勉強会が開かれるためだ。会場は大阪、全4日間行われる会合は『可能性空間論ゼミ』と題されている。元々は後藤先生が音頭を取って結成した会合なので、私は絶対に出席しなければならない。私の兄弟子や弟たちも全国から集まってくる。可能性空間論を専門としている私や岡崎にとって非常に重要な勉強会だ。ある意味で物理学会よりもこちらのほうが大事。
「先生、大阪のホテル取りました?」
「まだだよ」
「これから生協の観光課に行くので、ついでに取ってきましょうか」
「ああ、ありがとう。あ、そうだ。岡崎には学生の渡航費補助が出るから、7万円以内だったらタダになるよ」
「あれ? 去年は10万円だったような」
「額が変わったらしいから気を付けて」
「はい」
岡崎は不服なのを隠さず表情に出す。こればかりは私も当然だと思う。勉強会に出席させることについて、学生に金を出させるなどあってはならない。7万なんて一年で一回どこかに遠征すれば二回目は無理な金額だろう。学生に負担をかけたくはない。特に岡崎のように優秀な人間には、いくら金をかけても構わないと私は思う。
平日だったのでチケットはすんなり取れた。私たちが普段いる京都から大阪までは電車で30分程度の道のりしかない。私は窓の外を眺めながら今日の勉強会のことを考えていた。岡崎とは別行動。自由席の代金しか大学は出してくれないので、偶然出会わない限りは隣の席になるということはない。それよりも、座りやすさを考えて端から待ち合わせなどせずに現地で落ち合うほうが楽だ。
今日の勉強会は特に若手が集まる会合だ。発表会ではなく勉強会なので、学部では触れないけれども、研究者としては当然知っておくべきことを確認するというのが一番大きい。自分で勉強しろという話ではあるんだが、この手の刺激がないと、完全独学では基本的な誤解を残したまま学問を進めてしまう危険もある。指導教官も一から十まで本人の理解を確認するわけでもない。それに、ここで交流しておけば将来的に研究者同士の人脈もできる。
岡崎の発表もあるけれども、新たなものではなくて基本的な部分について述べる手はずだ。講義をする側になるというのも大事な経験。現状のままで行けば、確実に大学で職に就くだろう。その時のための予行演習として、私は位置付けている。
大阪の活気あふれる人込みをかき分け、ようやく会場の大学に着いた。都心にあるキャンパスはやたら縦に高い。案内図を今一度確認する。会場はこのビルの20階だ。エレベーターで上がる途中、眼下に見えた人がどんどん小さく見える様に少し足のすくむ思いがした。
「ああ、おはようございます!」
「入間くん、お久しぶりです」
エレベーターが開いた瞬間、関係者が目の前にいた。この少し小太りなメガネの男は入間くん、私の弟弟子にあたる。今回の勉強会の主催者だ。
「岡崎さんはいつ来ますかね? 一応発表の仕方とかについて確認しておきたいと思って」
「さあ、けど、もうじき来るでしょ」
私は時計を見た。もうすぐ正午、勉強会は初日のみ午後2時スタートなので、そろそろ来るだろう。
私はとりあえず会場となる教室に荷物を置いて、既に会場に来ていた他の研究者の先生方にあいさつをして回っていた。そうこうするうちに時間は午後1時半、少し不安になってきた頃、あの燃えるような赤髪はやってきた。
「おはようございます」
「おはよう、今日は遅刻しなかったの」
「他の先生たちもいますから」
「僕なら遅刻してもいいみたいな言い方だけど」
「だって、先生は許してくれるじゃないですか」
ぐさりときた。まるで見透かされているように、的確なところをついてくる。
「ああ、岡崎さん待ってたよぉ」
「入間先生、お久しぶりです」
岡崎はやや下を向いていた。
「まあいいから、機材の説明とかあるからこっちにきて、ね!」
入間くんは小走りで会場の前のほうに岡崎を連れていく。なんだかめんどくさそうについていく岡崎、態度に出るのはいつものことか。
入間くんは正直言って少しズレている。たった一分かそこらで終わる説明でも手順を踏まなければ気が済まないタチで、しかも岡崎の発表は今日じゃない。そんなあくせく説明しなくても当日でいいのに。なんでこう、『私は忙しいです』、『仕事してます』みたいな雰囲気を醸し出すのだろう。岡崎はそれが嫌で、つい表情や態度に出てしまう。幸い入間くんはそういうのに鈍いので問題にしないが、他の先生方に同じことをすると大変だ。やはりどこかでちゃんと注意すべきだろうか。
「お疲れ様」
私は岡崎に会場の外で買った缶ジュースを差し出した。
「いちご牛乳! 珍しいですね」
「だよね、中々見かけないから買ってみた」
「ありがとうございます」
岡崎は笑顔でプルトップを開け、口を付けた。少しは機嫌が直っただろうか。いや、機嫌を直すとか問題はそこではなくて、機嫌が表に出てくるのがダメだとはっきり言わなくては。
「そういえば
「あの、岡崎夢美さんですか?」
「そうですけど、あなたは?」
「僕は名大高橋研の神田竜司といいます。実はこの間岡崎さんの論文を読みまして」
私が話そうと思ったのに、岡崎は二人で話し始めてしまった。まさにこういう若い交流が主目的なので、無下にするわけにもいかない。私は結局、岡崎が話しているのを横で見ているしかなかった。
「それでは、そろそろ始めたいと思います。開会宣言がありますので、一度席についてください」
入間くんの間延びした声が、スピーカーに乗って会場に響き渡る。
「じゃあ、僕はこれで」
神田くんも自分の席に戻った。
「今の人、知ってます?」
「ああ、高橋先生のところの神田くんだね。岡崎と同い年だってよ。信じられないくらい優秀だって聞いたことがある」
「そうですか、そんなに」
本人に会ったのは私も初めて、第一印象でもやはり聡明な若者に見えた。まぁ、岡崎ほどじゃないが。ここ一年くらいで頭角を現している。論文も確か一本あったはず。岡崎がいなければ、間違いなく可能性空間論で世代のトップに立てたであろう逸材だ。
「彼の発表が今日と明日とあるみたいだよ」
「楽しみですね」
開会のあいさつ、入間くんの話は下らなかったので省略する。
「只今ご紹介いただきました神田です。それでは僕のテーマ『可能性空間上における三角圏』について、今日と明日を使ってお話していこうかと思います」
入間くんの話が終わったところで、いよいよ本題にバトンタッチ。神田くんは手慣れた様子で発表を始めた。このテーマは非常に基礎的な内容でありながら学部では触れられない。自習するしかない分野なので、痒い所に手が届くといった内容になっている。
横に座っている岡崎も、心なしか真剣な眼差しを前に向けていた。
「……なので、これら三つの座標を結んだ三角形の内側だけが、可能性空間の成立条件を満たすわけです」
会場からいくつかのため息が聞こえた。これは感心せざるを得ない。神田くんは独学でこの理解にたどり着いただけでなく、それをこうもわかりやすく説明して見せたのだ。参加している他の学生たちは、きっと昨日と今日でこの話題についての理解度が段違いだろう。
「なるほど」
岡崎も思わず感心している。いくら岡崎が優秀とはいえ、こういうことがなければ連れてきた意味がない。実に心地よい気分で一日目はお開きとなった。
「先生、行きましょう」
岡崎は踊りだしそうなくらいソワソワしていた。今日貰った刺激はそれだけ貴重だったということだろう。
「神田くんの発表、面白かったです」
「流石だよね」
「最初の導入から、考え方が違うというか」
「そう、あれは元々渡辺流の考え方だから」
私たちが後藤流というなら、神田くんは渡辺流。渡辺先生ももう鬼籍の方だが、後藤先生とほぼ同時期に可能性空間の存在を証明した。同じ学問ではあるがアプローチが違う。ありていに言えば、流派が違うのだ。一刀流と二刀流のようなもの。違う流派だからこそ、受けるものも多くなる。
何かを急いでる岡崎の歩調に合わせると、自然と早歩きになってしまう。大阪の喧騒を颯爽と駆け抜けて、私たちはホテルについた。
「荷物置いたら夕食でも食べる?」
「そう……ですね」
どこか上の空だ。私は、岡崎に準備ができたら部屋に来るように言って、自分の部屋に向かった。302号室。岡崎は303号室。
………………来ない。
まあそんなとこだろうとは思った。きっと今まで積み上げてきたものを渡辺流で見直しているのだろう。学問の交流は旅に似ている。同じ出発点、同じ目的地でも、道程が異なれば学問も異なる。歩いて見える世界と、自転車に乗って見える世界は違う。世界の見え方ひとつで、理解の仕方も変わる。新しい視点を手に入れたときは、まるで生まれ変わったように世界が違って見えるのだ。
そのときめきは、初恋にも似てあらがい難い。きっと今の岡崎は、新しい世界に一人酔いしれているに違いない。
私は既に渡辺流を知っていたのでそれほどの感動はなかったが、それでも得たものは多い。さて、今日の神田くんの発表を基に、三角圏のノートを作ってみるか。どの道、岡崎の次の学生を受け入れたら使うことになる。若いもんにやる気で負けてたまるか。いや、そんなセリフは、まだ早いかな。