(読まなくても問題)ないです
やっぱり読め(豹変)
「がーうー。オレにも食わせロ」
「分かった分かった、少しだけだぞ」
台所で鍋のうどんを掻き回している楓と、後ろから抱き付いてねだるウガルルを、ミカンはちゃぶ台に肘を突いてぼんやりと眺めていた。
ほんの数分前まで寝ていたらしい楓の遅い夕食の準備を待つ傍ら、その後ろ姿を見ていると、不意に先の光景が脳裏を過る。
「っ──」
びくりと体を跳ねるように震わせて、小さくため息をつく。少し過敏になっているのでは──と考えてから、ちゃぶ台の横に畳まれた布団に体を預ける。畳と、太陽と、消臭剤。
「……楓くんの匂い……」
決して臭くない、どこか懐かしさを覚える優しい匂い。近くに居るとふわりと香るこれが、ミカンは堪らなく好きだった。
「──ミカン、もしかして眠い?」
「……だ、大丈夫よ」
いつの間にか戻ってきていた楓とウガルルに不思議そうな顔で見られていた。気恥ずかしさに頬を染めながら、座り直して頭を振る。
「寝る前だから少しだけだけど、二人の分も用意したよ。食べる?」
「折角だし貰うわね、ありがとう」
ここで食べないと言えば全てウガルルの胃に入るだけだろう。渡されたお椀の中で、出汁に収まるうどんが湯気を立てていた。
──食べ終わり、歯磨きを済ませた三人は、夜のニュース番組をBGMに客人用の布団を押し入れから引っ張り出す。畳に置いたそれを、ミカンは楓の布団の真横に広げた。
「……ミカン。もう少し離さないか」
「どうして?」
「節度の話だよ」
あっけらかんとした顔で掛け布団をめくるミカンと、二つ並べた布団の右側を占領するウガルルを見ながら楓が言う。
「──ごめんなさい。貴方が近くに居ないと、不安で仕方なくて……」
「そう言われるとだなぁ」
事が事だった為に、あまり強くは言えない。布団の上でゴロゴロしているウガルルと、反対の左側に座るミカンを見下ろして、深く息を吐いた楓は仕方ないと呟く。
「わかった、俺は真ん中で寝るよ。それに──俺も一人が心細かったからさ」
「……チョロ過ぎて心配になるわね……」
「なんて?」
「いえなんでもないわ」
ミカンの呟いた言葉に首をかしげながらも二つの布団の間に座り、楓はリラックスした猫のように布団の上で体を伸ばしているウガルルに両手を伸ばして脇腹をくすぐる。
「もう遅いんだから暴れるのはやめなさーい」
「んがー! やーめーロー!」
Tシャツの上から指でまさぐられ、ウガルルは未知の感覚にきゃっきゃっと笑いながら悶える。そしてがうがうと唸ると、楓のくすぐる腕を掴んで指に噛み付いた。
「……がう、がっ、あぐあぐ」
「こらウガルル、噛んじゃ駄目じゃない」
「甘噛みだから大丈夫、痛くないよ」
寝転がりながら、楓の指を甘噛みする。尖った犬歯を避けて、人差し指の腹を奥歯で噛んでいた。途端に大人しくなったウガルルが楓を見上げ、応えるように噛まれていない手で顎を撫でる。
「……ぐるるるるる」
「まるで猫だな」
「すっかり甘えちゃって……」
とろんと目尻を緩めて眠そうにするウガルルの口から指を抜いて、拭ってから布団を被せて頭を優しく撫でて言った。
「ほら、お休み」
「──おやすミ……」
「ミカンもそろそろ布団に入ってくれ、電気消したいし」
「ええ、そうね」
「暑かったら肌掛け出すから言ってよ」
「うん。ありがとう」
横になって、布団を被る。電気を消して暗くなった室内に、自分以外の穏やかな呼吸が二つあり、嗅ぎ慣れない花のような匂いと──柑橘類の香りが、楓の眠気を吹き飛ばしていた。
──数時間してから、不意にミカンの小さく囁いた声が楓の耳に届いた。
「──楓くん、起きてる?」
「……ああ、起きてるよ」
お陰様で。と続けようかと思ったが、楓は言わないことにした。横から身じろぎする音が聞こえ、楓の耳元に吐息が掛かる。
「眠れないの?」
「いいや、もうそろそろ眠れそうだ」
「……そっか。邪魔しちゃったかしら」
「大丈夫。寧ろ少し……安心した」
夜の暗闇は、
まぶたを閉じた暗さも、月明かりが僅かに入り込む室内も、あの時の暗さと比べたら──あまりにも明るすぎる。
慣れれば少女から漂う柑橘類の香りも心地よく、それから少しして、楓は小さな寝息を立てて眠り始めた。静かなそれは、死んでいるのかと疑うほどだった。
「……眠った……の?」
夜の暗闇に、鮮やかな橙色が輝いていた。爛々としたその瞳は、楓の寝顔を捉えている。何度か問うように囁いてから、完全に寝入ったのを確認してモゾモゾと動いて楓の布団に入り込み──熱い吐息を吹き掛けるような距離から言う。
「──楓くん、好きよ。貴方が好き」
自分の手を楓の手と絡め、二の腕の辺りに顔を埋める。楓はここにいる。しかし手の届かない場所に消えたあの瞬間がフラッシュバックし、ヒュッと喉が鳴って唾液を飲み込む。
「……好きなのよ……ずっと、ずっと前から……。もしも貴方に、この想いを伝えられたら──」
ぐり、と額を肩に押し付ける。
出会ってから数ヶ月で『単なる親切な友人』という枠は『気になる男子』に変化し、封印に巻き込まれた一件で、抑え込んでいた感情が完全に溢れていた。
一度抑えていた以上、もう二度と止められない。歯止めの効かない感情は、もう既に爆発寸前まで膨れ上がっている。
「こんなにも醜い私は……嫌いになっちゃうかしら。でも、もう……我慢でき──」
「…………ミカン」
「っ────!!?」
不意に掛けられた声に、ミカンは反射的に楓の腕を握り締める。そっと顔を上げた先にあったのは、寝ぼけ眼のウガルルの顔だった。
「ど、う……したの?」
「……トイレ」
「あー、えっと……下の部屋のトイレはあっちよ、ちゃんと手を洗ってね」
んが、がう……とぼやきながら、フラフラとした足取りでトイレに向かうウガルル。ほっと一息ついて布団に座り直したミカンは、バクバクと荒ぶる心臓を落ち着かせようと深呼吸する。
「はぁー……」
「──ミカン」
「……えっ?」
ふと聞こえてくる楓の声に、ミカンのすっとんきょうな声が返された。
起き上がった楓と座ったミカンの目線が合わさり、頬に冷や汗が流れる。
「起きてたの……?」
「君に腕を握られた時に起きたよ」
あっ……と呟く。
当然だがあれだけ強く握れば痛みで目が覚めるだろう。そこまで考えたミカンは──そっと楓に抱き締められて目を丸くする。
「……楓くん」
「酷い顔をしてるよ。何かあったんだな」
「この暗さで……私の顔が見えるの?」
「見えるさ。ここは封印空間よりもずっと……ずっと明るいよ」
とんとんと背中を叩きながら言ったその言葉は、震えていた。楓は間違いなく、あの時の暗闇を思い出して怯えているのだ。
「夜の暗さと、まぶたを閉じた暗さは、まだまだ明るいんだ。だけどあの空間には一切の光が無かった。顔の前に手を持ってきても、その輪郭すら分からないんだよ」
「……そんな所に封印されてたのね」
「体感ではほんの数分でも、永遠に感じる程だった。その間──俺はずっと君の事を考えていた」
ミカンの背中に回された腕の力が増し、声の震えが強まった。ため息をついた楓は、決心したようにミカンに言う。
「──ミカン、待っててほしい」
「……なにを?」
耳に直接吹き込むように言い、逃がさないと言わんばかりに抱き締める。
「自分の感情に、気持ちに──君への想いに答えを出す。あともう少しだけ、待っててくれ」
「──うん。少しだけ、待っててあげる。だけど本当に少しだけ。約束よ?」
グツグツと沸き立つ愛情は、楓の言葉ですっと冷めて行く。しかしそれは急場凌ぎにしかならないだろう。我慢に我慢を重ねたミカンは、抱き締められたまま、抱き締め返したまま、お互いに布団へと倒れ込む。
「このまま眠ってくれたら、我慢できそう」
「…………ミカン」
「──いいのよ楓くん、
「ぁ──っ、ぅ」
背中を優しく叩かれたお返しにと、ミカンの手が後頭部を撫でる。優しい手つきと声色に、楓は胸元に顔を押し当てながら鼻を啜った。
「んー……楓? ミカン?」
「ウガルル、こっちにいらっしゃい」
横になりながら戻ってきたウガルルを手招きして、楓の後ろに寝るよう促す。
「楓くんにくっついて、三人で寝ましょう?」
「がう」
軽やかな足取りで音もなく布団に戻り、背を向ける楓におずおずと体を預ける。
一つの布団に三人が入り込み、狭くも感じる暖かさにまぶたが重くなる。
『無』とも言える暗黒に閉じ込められた楓は、無意識のうちにそれをトラウマとしていた。
その日のうちに悪化を止められたのは、僥倖に他ならないだろう。
少女に抱き締められたそんな青年を情けないとからかう者は、その場に居ない。
暗闇に差し込む月の光が──窓の外から、並んで眠る三人を見下ろしていた。
次→最終回