パキ──という軽い音が足元から響いて、楓は渋い顔をしながら踏んでしまった伊達眼鏡……の姿を取っていた葉っぱの残骸を拾う。
「……やってしまったな」
なんだかんだと長い間使っていたそれを感慨深く見つめながらも、ゴミと化しては手元に置いておく理由の無くなったそれを捨てる。
幸いにもミカンとウガルルは部屋におらず、楓が葉を顔に乗せていたという間抜けな真実を知るものは──これを渡してきた一人以外は楓を除いて誰もいないだろう。
「折角だし、普通の眼鏡でも買うか」
元はシャミ子たちが着ていた浴衣が幻術であると見破ってしまったとある一件から親切に渡されたものを付けていた為、そもそも無いからといって困るわけでもないのだ。*1
ラフな服装に着替え、財布などを入れたショルダーバッグを肩に提げて部屋を出る。鍵を閉めて振り返ったその時、楓の視界に三角錐の毛むくじゃらが入ってきた。
驚きつつも目線を下げると、銀髪の少女が片手で狐のジェスチャーを作り、指先をツンと楓の口許に押し当ててくる。それは葉っぱの眼鏡を渡した張本人であるリコだった。
「──心臓に悪いからやめてくれ」
「んふふ、そこ行くお兄さ~ん。ウチの贈り物、壊してしもたんやねぇ」
何が楽しいのか、ふさふさと豊かに伸びた尻尾を左右に揺らし、こめかみの辺りを指でそっと押すように触れる。くつくつと喉を鳴らして小さく笑うリコに、楓は言った。
「……うっかり踏んじゃってね」
「まあまあ、ええよ。あんなん葉っぱを化かしてるだけやし」
足元の葉をつまみ上げ、それを楓の使っていた眼鏡に変えてから葉に戻して捨てる。
「そうか。これから普通の眼鏡を買いに行くつもりだけど、リコは俺に用でもあったのか?」
「あぁ~…………せやねぇ。
ウチの術が途切れたからなんかあったんかなぁ思うて、心配になって見に来たんやわ」
リコが同居人と共に使っている部屋は楓の部屋の隣な為、見に来ようと思えばいつでも確認できる。しかしリコが楓の言葉を聞いて、一瞬目を光らせたのは恐らく見間違いではない。
「…………」
「────」
会話が途切れ、無言が続く。
にこにこと笑いながら自分を見上げて尻尾を揺らすリコの笑顔が妙に威圧的に見えて、楓は不承不承といった様子で聞いてみた。
「……一緒に来るか?」
「──あらぁええの? そんな情熱的に誘われたら断れないわぁ。
楓はんったらしゃあないなぁもう」
「そんなに強く誘った覚えはない」
わざとらしく頬に手を当て、くねくねと尻尾を揺らす。呆れて物も言えない楓は、言い終えると歩き出した。指摘せずとも、リコは勝手に着いてくるだろう。
──多魔市、桜ヶ丘にある眼鏡専門店。飾られた見本の眼鏡の数々を見ながら、リコは興味深そうに声を漏らしていた。
「はぇ~。眼鏡って色々あるんやねぇ」
「君は付ける必要ないでしょ」
「たまにはウチだっておめかししたいの」
リコは適当な眼鏡を掛けてから振り返る。アンダーリムのそれが似合う程度には美人であるリコに、楓は思わず口を一文字につぐんだ。
「ところで、お金は持ってきてるのか?」
「買う予定は無いから持ってきてまへん」
掛けていた眼鏡を元の場所に戻すリコは、どこか惜しいようにちらりと見てから違う場所を見に行った。戻されたアンダーリムの眼鏡を一瞥して、楓は自分用の眼鏡を探して歩き回る。
店内を歩いて数分。前のものと同じ黒縁の眼鏡を選んだ楓は、眼鏡ケースやクリーナーと纏めて会計することにする。
すると、レジを担当した女性が何を思ったのかこんなことを言ってきた。
「当店ではカップル割引を行っておりますので、会計は──円となります」
「えっ」
「どうかなさいましたか?」
「……誰と誰がカップルですって?」
「──お客様と、あちらの狐耳のお客様は付き合っているんですよね?」
店員が見た方向に居る、狐耳が飛び出るように穴を空けたキャスケットを被っているカーディガンを羽織ったリコを見て楓は言う。
「俺とあの娘は付き合ってませんよ」
「えっ」
「……単なる隣人の友人ですので」
「単なる隣人と……眼鏡を買いに……?」
そんなに変か……? と呟く楓は、既に割り引かれた値段を見て店員に声をかける。
「あの、その割引ってキャンセル出来ないんでしょうか」
「──あー、いえ、こちらの早とちりが悪いので……そうですね。今回はサービスとさせていただきますよ」
「……いいんですか?」
「ええ。もう計算を終えてしまってるので会計し直すのも二度手間ですし……」
まあ、それなら。そう言って楓は会計を済ませる。商品を袋に詰める店員が、楓に聞こえない声量でぶつぶつと呟いた。
「こいつぜってぇ彼女居るだろ……紛らわしいんだよボケェ……ッ!」
「なにか?」
「いえお気になさらず~~~~~?」
ビキッ──と額に青筋を浮かべながら言った。なにか殺意的な何かを感じ取った楓が、渡された袋を受け取って会釈してから店を出る。
その際、自動ドアの奥でリコが楓の腕に自分の腕を絡めているのを見てしまい、店員は客が居ないのをいいことに叫びながら倒れた。
「ウガガガガ──────!?」
「店長! ──さんが泡吹いて倒れた!」
「カニなんでしょ」
──帰り道を歩く楓がリコの腕を払おうとして、あまりの力強さに断念してから数分。若干詐欺紛いの割引をさせてしまった事への罪悪感にため息をついていた。
「楓はん、まぁたため息。
幸せが逃げたらどうしますの?」
「……ちょっとした罪悪感がね」
「それにしても、楓はんの素顔久しぶりに見た気がしますわ。また眼鏡にちょちょいっと術掛けた方がええかもしれまへん」
「そうか? もう必要ないと思うが」
「必要だと思います」
突然立ち止まり、リコはそう断言して真顔で楓を見上げた。雰囲気の変わったリコに、楓は冷や汗を頬に垂らして聞く。
「……どうして?」
「楓はんの『眼』は、自分でも気付いてないくらいに弱く──それでも確かな力があるんやと思うわ。それを遮って普通に見せかけてるのがウチの幻術なんやけどな……」
つい、と指を、背後の路地裏に向ける。
それを追って暗がりの奥を見た楓の視界に、不意にチリ──と火花が散った。
そして、蝋燭の火を切り取ったような物体が浮遊していることに気付く。
『それ』には目も鼻もないが──確かに楓に気付いたらしく、かなりの速さで飛んできた。
楓とぶつかる寸前で、脇の下から伸びたリコの手がそれを掴み取る。
「──なんだ、これ」
「人魂やね。消しても問題ない──悪霊一歩手前の浮遊霊の類いやろなぁ」
ぼしゅっ、と音を立てて握り潰されたそれの残骸を払い、リコはにこりと笑う。
「『こういうの』を見てしまえるのに、対処する力は無い。せやから、ウチの術で認識出来なくするのが最適なんよ」
「……俺の眼は、変なのか……?」
「寧ろウチには綺麗に見えるけど──まあ、余計なもんは見なくていいなら見ないに限ります。帰ったら、眼鏡貸してもろてええ?」
また術掛けるさかい。
そう言うと、リコは楓の手を引く。
「……君はやけに俺に構うな」
「ウチは自分と自分の気に入った相手以外には興味あらへん。その中の一人が、たまたま楓はんだったってだけの話ですわ」
断言する言い方に、楓は違和感を覚える。
その考えがあまりにも閉鎖的で危険であるということは、楓でも理解できる。
シャミ子に説得されて多少緩和されたが、それでもリコというまぞくは『こう』なのだ。ばんだ荘が見えてきた辺りで、楓はリコに聞く。
「リコ。君はそれでいいのか? 狭い輪の中で交遊関係を終わらせて、他は全てどうでもいいというのは……君のためにならないぞ」
「──あんさん、ウチに説教してるん?」
まぶたを細めて、尻尾をぶわりと逆立てる。
それは敵意というより、信頼を裏切られているのではという不安から来ているように見えた。
「心配してるだけだよ。だってリコ、そもそも友達少ないでしょ」
「──居ますぅ」
「じゃあ、誰?」
「…………紅ちゃん?」
「多分向こうはそう思ってないぞ。和解はしたけど元から友達ですらないでしょ」
うっ、と声を詰まらせる。
目線を右往左往させて、楓を見上げた。
「じゃあ、楓はん……?」
「……そうやって言葉が詰まる程度に、君は人と親しくないんだよ。
少しずつでいいから、せめてばんだ荘の住人とだけでも仲良くなってみな」
キャスケット越しに頭に手を置いて、歩みを再開する。言われたことを脳裏で反芻しているのか、少ししてからリコは楓について行く。
下の部屋に繋がる扉の前で、袋から出した眼鏡をリコに渡して、術をかけ直してもらう。何かを呟いたリコがフレームを指でなぞり、それから一分もしない内に楓に返した。
「……ん。これでええよ」
「ああ。ありがとう、リコ」
ふり、と尻尾が揺れる。ピクピクと耳の先端を反応させてから踵を返したリコに、楓は袋に手を入れながら呼び止めた。
「リコ、ちょっと待って」
「どないしたの?」
振り返ったリコを見ながら、楓は袋から違う眼鏡を取り出して渡す。
それは、リコが店内で付けて見せてきたアンダーリムの眼鏡だった。
「──これ」
「案外気に入ってたんだろう? だから、こっそり買ってきた」
「あ、う……お金、返さんとね」
「要らん。ただ壊さないようにしてくれ」
「せやけど、施しは受けられまへん」
別売りの眼鏡ケースに入れられた件の眼鏡を渡されながらも受け取れないでいると、楓がリコにケースを握らせながらその手ごと優しく両手で包み込んで話す。
「これは『施し』じゃなくて『プレゼント』だ。いつか君も、誰かに何かをプレゼントする日が来るかもしれない。
リコからすれば自分以外は信用ならない相手で、施されるのは嫌で仕方ないんだろうけど──」
リコの手から眼鏡ケースを取り、中のアンダーリムを顔に装着させて伝える。
「桜
──リコの事が好きではない人は居るだろう。しかし、『敵』は居ない。ただ、リコが壁を作って周りを見なかっただけなのだ。
パチパチとまばたきを繰り返し、楓を見やるリコは、数拍置いてするりと離れて背中を向ける。先程とは違う様子で慌てて、そそくさと自室の扉を開けてしまう。
「じゃあ、また明日」
「……楓はん」
「うん?」
「……ぁりがとう」
レンズ越しの瞳が、自室へ繋がる扉を盾にした向こうから覗いてくる。
どこか耳の内側が赤くなっているようにも見えたが、一瞬のことで判別できない。
「──不味いことになった気がする」
嫌な予感にぶるりと身震いして、楓は扉が閉まるのを見送ってから自分も同じように部屋に帰った。暫くして帰って来たミカンとウガルルに眼鏡を変えたことが一目でバレたりといった一幕があったが、その後は特に問題なく日が進む。
それから数日後、ばんだ荘に開かれたあすらの支店に眼鏡の似合う可愛いまぞくが居るという噂が広がり、結果的にリコと楓のお陰で客足が伸びたのは余談である。
──調理担当の機嫌がいい時に、キッチンの奥から可愛らしい声色の鼻歌が聞こえてくるのは、決まって隣人の男子高校生がバイトに来ている時らしいが……真相は定かではない。
――店員は激怒した。必ず、かの女たらしを除かなければならぬと決意した。
店員には恋愛がわからぬ。店員は、眼鏡店の正社員である。レンズを拭き、夫婦連れの子供と遊んで時間を潰して来た。
けれども男女間の恋愛感情に対しては、人一倍に敏感であった。(20代後半独身、前世が蟹)