Prologue
『──あれ? おかしいなぁ、ここの家は夫婦の二人暮らしって名簿に書いてあったのに』
『……ああ、そっか。君、魔族の血が入ってるのに魔力がないんだね!』
『ごめんね、キミのご両親殺しちゃった。
どうしよっか……人間の君まで殺せないし、でもこのまま放っておくのは可哀想っ! これはいけない! なんとかしなきゃねっ』
『──仕方ない、君の記憶を消すしかないね。何事も臨機応変に対処してこそだよっ!』
『本当なら君を可哀想な目に遭わせたくないし、一緒に殺してあげるべきなんだけど……名簿に名前がないイコール人間だから、殺すに殺せないんだ。だってそんなの正しくないでしょ?』
『……あれ、この写真の子って、もしかして君のお友達? 名前は……えー、折角だし教えてほしいなあ。ねっ、【話して】?』
『……ふうん、杏里ちゃんかあ。君の記憶だけを消したら矛盾が生じちゃうかもしれないし、こっちの家族の記憶も消さないと──』
『おっと、急に掴み掛かるなんてビックリした。……勇敢だね、お友達を狙われたから怒ったんだ。……正しいよ、君は優しい子だ』
『……そんな目で見ないで欲しいな、ぼくは決して化物じゃないんだよ? ほら……分かるかな、ぼくの心臓がドクドクってしてるでしょ』
『血が通ってて、温かくて、こうして生きてるんだよ。でもね、ぼくには叶えたい願いがあるんだ。ぼくは世界から『かわいそう』を無くしたい。その為には君のご両親を含めて、この町にいる魔族には糧になってもらわないと』
『だけどこうやって例外が出てきちゃうと、悲しくて、苦しくて、可哀想。だから、ぼくは何周目かのご褒美に『忘れさせる力』を貰ったんだ。そうすれば、一旦は悲しくなくなるからねっ』
『ほら……暴れないで、大丈夫。痛くないよ、君が忘れたら、今度はお友達の番。辛くなるだけの記憶には、蓋をしちゃおっか』
『君のご両親の残骸は粗末にしないし、君はこの事を思い出せなくなる。それだけだよ。……よしよし、力が抜けてきたね……』
『曲がりなりにも魔族と人間のハーフなんだし……出来るだけ深く力を使うよ。……ね、お姉さんと、約束してね。絶対に、何を忘れているのかを探らないこと、そして思い出さないこと』
『万が一にも思い出せちゃったら、辛いだけなんだから。……ごめんね、君が魔族だったら、ご両親と一緒に殺してあげられたのに』
『──ぼくの願いが叶えられさえすれば、君が忘れた記憶を思い出すことも、その必要も無くなるから。ぼくももっと頑張るよ』
『だから、ちょっとだけ……お休み』
『……ええっと、君の名前は……秋野────
────楓くん!」
柑橘系の香りと共に、聞き慣れた声が届く。貼り付くように閉じられていたまぶたを開けた楓の眼前に、焦った様子のミカンが居た。
「っ──、ぅ、あ、あ゛ぁっ……!」
「楓くん、落ち着いて、大丈夫よ」
「……はっ、はっ……ミ、カン……?」
破裂するのではないかと言うほどに心臓が早鐘を打ち、仰向けに寝ていた楓は、肩をミカンの手に押さえつけられている。
「……なんだ、どうした?」
「どうした、って……貴方がこんな時間に呻き始めたんじゃない。しかも寝ながら泣いてたし、暴れそうになったから押さえていたのよ。酷い汗……嫌な夢でも見たの?」
肩から手を離したミカンに起こされ、目元に指を持っていった楓は目尻の滴を掬う。
「……いや、大丈夫だ」
「大丈夫なわけ──」
「いいんだ、どんな夢を見ていたのか
寝汗で湿った上着を着替えて、タオルで顔の汗を拭う楓があっけらかんと言い放つ。
「……ねえ、楓くん、何か変よ。シャミ子に見てもらったらどう?」
「こんな時間に起こしたら迷惑だし、大丈夫だよ。ほら、早く寝よう。ウガルルまで起こしちゃったら
ふと、自分の言葉に違和感を覚える。
何か絶妙な既視感が脳裏を掠め、しかして端から薄れ消えて行く。
夢を見ても忘れてしまうのは、人間の仕方の無い機能である。だが、それでも──拭いきれない焦燥感が、楓の胸にしこりを残した。
──数日経過したとある休日、楓は言いようのない感覚に従って住宅街を歩いていた。
偶然居合わせた杏里を連れて歩き始めて数分、
「──何も、無い」
「あれ? 楓、知らなかったっけ」
「いや、待て、おかしいだろう。どうして
家と家の間に、ぽっかりと何もない土地が広がっていた。大きさは周りと同じちょうど一軒家分で、故にこそ、その違和感は強烈だった。
「なんでって……
「────」
「楓? どしたの?」
「……いや、なんでもない」
土地の地面に染み付いたようなドス黒い何かを見ながら、楓は言葉を返した。
不思議そうに楓を見る杏里は、どうやら、この『何か』が見えていないらしい。
「なあ、杏里」
「んー?」
「俺って、ずっと前から、シャミ子達が使ってるアパートで暮らしてたんだよな?」
「……まあ、
「──記憶、か」
そこでようやく、楓は合点が行く。楓は今まで、『何かを忘れている』という事実そのものを記憶から抹消されていたのだ。
「──忘れていたこと自体を忘れていた、という感覚を覚えたことはあるか?」
「あー……印鑑使ってたら昔の印鑑を思い出したけど、どこに仕舞ったか忘れた。的な?」
「大分違うと思うが、まあそんな所だ」
「うーん……やっぱりそういう時は、原点に立ち返るのが一番でしょ。思い返しながらさ、一歩ずつ、ゆっくりと……ね?」
楓を見上げて、ふっと口角を緩める。
その笑みに、楓はずっと救われてきた。
「原点、か。ああ……そうだな」
──収穫は、あった。あとは……この情報を誰に明かして、誰と協力するか。
「……前途多難だが……ようやく、俺は俺を知ることが出来るみたいだ」
「……中二病?」
「全く違うが」
ウソウソ、と言って笑う杏里に、楓は怒れないでいる。帰るか──そう言って楓は、杏里へと手を差し出す。それから、杏里は問う。
「どこに?」と。
楓は小さく笑ってから、答えを出した。
「うちのアパートに決まってるだろ?」
帰路を歩く楓が、それとなく天を仰ぐ。見上げた先には、不可思議な、それでいてどこか安心感を覚える半透明の『膜』が広がっている。
それを千代田桜の結界だと理解するのに時間は掛からない。そして
「楓くん」
「……ミカン」
「あら、杏里も」
「どーもー」
それとなく手を離した杏里が、鉢合わせたミカンに手を振る。目尻を下げてさぞや嬉しそうに駆け寄ってくる彼女に、楓は頬を緩めた。
「どこに行ってたの?」
「……まあ、少し、考え事をね」
「私はそれに付き合ってたんだよ」
「そうだったの……ね、楓くん。今日の晩御飯はお鍋にしない? 杏里も一緒に、皆で」
「おっ、それなら良い鶏肉持って来るよ」
「決まりねっ」
……どう? と聞いてくるミカンを前にして、楓の頭に断る選択肢は無かった。
「うん、いいよ。じゃあ……帰ろうか」
──少し、過敏に考えすぎていたのかもしれないと、楓は思考する。
複雑に考える必要は無いのだろう。こうして自分に関わってくれる人が居て、心の拠り所になるのだから、普通でなくとも……異常であっても──楓は『秋野楓』なのだ。
「……今度、小倉に頼ってみるか」
「なんて?」
悩んでないで、前に進もう。
どんな結末を迎えようと、受け入れるだけの覚悟が、楓にはあった。
次→原作で那由多誰何と和解したら