自室の居間に座ってテレビを見ている楓の背中にもたれ掛かる桃は、顎を肩に乗せて片手間に頭を撫でられていた。
たしっ、たしっ、と畳を叩く音が静かに響き、頭頂部の三角錐がピクピクと揺れる。部屋に遊びに来ていた杏里が、傍らでお茶を啜ってから一息ついて口を開く。
「──そろそろツッコミ入れていい?」
「どうぞ」
「なんでちよももに猫耳が生えてんの」
バリッ、とお茶請けの煎餅を齧りながら問う。杏里の視線の先にあったのは、楓に寄り掛かる桃の頭に生えた髪と同じ色の耳と、スカートの中から伸びている同色の尻尾だった。
楓に撫でられて機嫌がいい桃は、それこそ猫のように喉を鳴らせそうなくらいにリラックスしている。呆れた面持ちで、杏里が聞いた。
「いつからこうなったのさ」
「わからない。朝起きた時には既に桃はこうなってたし、昨日の夜までは普通だった」
後ろから抱きついて肩に顎を乗せ直す桃に無言でねだられ、撫でる動きを続ける。
眠そうにぼんやりとしている桃は、杏里の言葉に気だるげに返す。
「別に困ってないし、大丈夫でしょ」
「いやまあ、今日は日曜だからね。明日の学校はどうするの?」
「…………あー」
そういえば、と思い出す。
人間の方の耳辺りをくすぐるように指先で撫でながらそんな事を考えていると、桃の吐息が首に当たった。横目でちらりと見ると眠たそうにまぶたを細めている。
「桃、もしかして眠いの?」
「……んー、んー。ん」
「あぁ~、猫って夜行性だしね」
ふすふすと鼻を鳴らして楓の首筋を嗅ぐ桃は、落ち着いた様子でまぶたを閉じる。それから数分も経たずに穏やかな寝息が聞こえてきた。
「──ともあれ放っておくわけにもいかないし、小倉を呼んでまた調べてもらうか」
「小桃ちゃんの時みたいに欲求不満なだけなんじゃないの?」
「そうだとしても、なんで耳と尻尾が生えたのかの説明にはならないだろう」
そう言って連絡を取ろうと携帯に手を伸ばした瞬間、ふと玄関のチャイムが鳴った。
ビクッと体を震わせた楓と杏里は目を合わせ、動けない楓に代わって杏里が対応する。
ドアノブを捻って開けた先に居たのは、連絡しようとした件の相手──小倉しおんその人だった。まるで話を聞いていたかのような手際のよさに、杏里は頬をひくつかせて反射的に後ずさる。
「……今呼ぼうと思ったんだけど」
「私の知識を必要としていそうな気がしたんだよぉ。不思議だよねぇ~」
等と言いながら手元のバッグに小さいトランシーバーのようなモノとイヤホンを入れる様子を、杏里は見なかったことにした。誰だって命は惜しいのだから、仕方がないのだろう。
──あれよあれよといつものメンツが集まって、楓の膝に頭を乗せながら器用に体を丸めて眠っている桃を観察していた。
「うーん……異常なし、だねぇ。寧ろこれ以上ないってくらい健康かな~。
前回の小桃ちゃんみたいに、千代田さんが満足すれば数日で消えると思うよぉ」
「そうか。それなら、一先ずは安心だな」
猫の耳辺りの髪を撫でる楓が、眠りながら尻尾を揺らす桃を見下ろす。
その隣で桃の猫耳を見て目を輝かせているシャミ子が呟いた。
「それにしても、あの桃がこんな可愛らしいものを装備するとは……写真に残したいですが、起こしてしまいますね」
「後で撮っておくから送るよ」
やったー! と小声で喜ぶシャミ子を窘めつつ、勝手にティーポットを台所から持ってきてレモンティーを作って寛いでいる杏里と小倉、ミカンたちにも静かにするよう言っておく。
「桃がこの時間に寝てるのって、やっぱり猫が夜行性だからなのかしら。夜に眠れなくなってしまうとなると学校が大変になるわね」
「俺たちはクラスが違うからなぁ。頭はいいんだし、どうしても授業を受けられなさそうなら皆で復習すればいいんじゃないか?」
それもそうね、と返したミカンは桃の髪と耳を撫でて表情を緩めている楓を横目で見やる。呆れたような、微笑ましいものを見るような顔で二人を見守っていた杏里と小倉が小声で言う。
「楓、完全にデレデレじゃん」
「デレデレしてるねぇ」
うるさいと暗に無言で伝えた楓は、身動ぎする桃が起きるまで延々と撫で続けていた。
──翌日、桃は自分のクラスで自身に起きた異常を当然のように受け入れられていた。
そもそもの話で、この町は魔法少女とまぞくの共存する町なのだ。リコやウガルルのような獣寄りのまぞくが居る時点で、桃に起こった問題はさほど問題にならないらしい。
「さっき休み時間にこっそり見に行きましたけど、桃のあの猫耳と尻尾にツッコミを入れる人は居ませんでしたね。順応性が高過ぎます」
「大騒ぎされるよりはよっぽどマシだろうけど、もう少し危機感を抱いてほしいよ」
机の下に両手を伸ばし、顔を伏せてぐったりしている楓がシャミ子の言葉に気だるそうに返す。
心配した様子で楓の前の席から椅子を借りたシャミ子は、両手でくしゃくしゃと髪を撫で回しながら聞いた。
「どうしたんですか?」
「夜中ずっと妙に元気な桃にもみくちゃにされてた。髪をぐしゃぐしゃにされるし腕は噛まれるし寝るまでずっと匂い嗅がれるし」
「……た、大変でしたね」
労いの言葉を掛けるシャミ子が脳裏に部屋を走り回る猫の姿を想起して小さく笑い声を漏らす。楓には聞こえなかったのか、されるがままに頭を撫でられていた。
突っ伏したままの楓からは見えないシャミ子の目線が、楓から上に移る。
「…………ぅえ゛っ!?」
呻くような驚愕の声を上げ、ぎょっとした顔を原因に向ける。
異変を感じた楓が顔を上げて振り返ろうとした瞬間に、後ろから腕が首に回ってきた。
「──桃?」
「ん」
「……ビックリするから気配を消して後ろに立たないでくれるか?」
「消した覚えは無いんだけど……」
猫特有のそれなのか、全く接近に気付けなかった楓は後ろから抱き締めてきた桃の頭に手を置く。振り返られないせいで見えないが、尻尾が揺れているのだろう、後ろの机の上をパタパタと何かが左右する音だけが聞こえている。
「それで、教室ではどうだった?」
「特に何も。皆そこまで驚いてなかったけど、気になるのかちょくちょく話しかけられてた。あと、ものすごい眠い……」
「頑張って。帰ったら仮眠していいから」
頬を楓の頭に擦り付けてうつらうつらと船を漕ぐ。相当眠いのか、徐々に楓に体重を預けてきた桃に体を揺することで抗議した。
「こら、寝ない。本当に猫みたいになってきてるぞ、おーきーろー」
「んーんーんー、わかったから……」
眠たげに唸る桃は腕を上に伸ばして眠気を覚まそうとしていた。授業が始まるチャイムの音が鳴り、だるそうにしながらも桃は自分のクラスに戻っていった。
「大丈夫かなぁ」
「……まあ、大丈夫ですよ。たぶん」
心配している楓は、桃の眠気が移ったのかあくびを漏らす。
それを見たシャミ子がクスクスと笑い、痛くない程度に頬を引っ張られていた。
──夜、爛々とした瞳を輝かせる桃に腕を齧られながら、楓は布団の上で横になっていた。何が楽しいんだと聞こうとしたが、楓自身も意味もなく桃の古傷を触るのが好きなため何も言わない。
「なあ桃」
「……なに?」
「今回は何が不満だったんだ?」
「──わからない」
「えぇ……?」
楓と向き直るように寝相を変えて、首筋に顔を埋める。三角錐の桃色の耳が眼前に来て、先端がピクピクと痙攣するように揺れた。
「今は、普通に満ち足りてるし、特に不満は無いから……なんでこうなったのかわからない。多分、何か忘れてるのかも」
「忘れてる……ねぇ」
桃の背中に手を回し、お返しとばかりに髪に鼻を近づける。果物の桃の香りがふわりと漂い、服の中に手が伸びた。
「ん──楓、触り方がやらしい」
「散々匂いを嗅いだり噛んだりしてきた人の台詞がそれなのか」
じわじわと背中の肌が熱を持ち始める。吐息が熱くなり、呼吸が深くなる。
横になりながら足を絡めてくる桃と顔の距離が縮まり──不意にあることを思い出した楓が、あっ……と声を漏らして起き上がった。
続きを期待していた桃が若干ムッとしながら続けて起きると、楓にしなだれ掛かり聞く。
「どうしたの?」
「思い出した。猫だよ。厳密には虎」
「…………うーん?」
「動物園にまた行こうって約束して、それからずっとすっぽかしてたんだよ」
それはいつぞやの口約束。
動物園で虎の赤子とのふれあいコーナーを逃した桃に言った言葉だった。楓はそのことを思い出して当時の話をし、桃はすとんと胸につっかえていた違和感が腑に落ちる。
「──ああ、そっか。
そういえば、そうだったね。色々忙しくて……すっかり記憶から抜け落ちてた」
ふ、と笑い、ぐりっと頭を胸に擦り付ける。そんな約束をしていたな、と思い出して、懐かしくて──長い付き合いになったのだと自覚して漏れた笑みを、見られたくなかった。
「……ね、楓」
「なに?」
「今度、デートしよっか」
「──そうだな。二人きりで、出掛けよう」
胸元に顔を置く桃ごと背中から敷布団に倒れ込み、暗くなった室内に、くつくつと二人の小さな笑い声が木霊する。
──それから数日後にデートを挟んで、些細な問題はあったが、円満に事が進んで桃の耳と尻尾は綺麗さっぱり消えてなくなった。
何だかんだと桃の猫耳が可愛くなかったわけでは決してない事もあり、少しだけ──ほんの少しだけ勿体ないなと思ったのだが、楓は終ぞそれを口にすることはなかった。
えげつないレベルのももかえ過剰供給でクラスメート胃もたれしてそう