「初春! 佐天さん!」
一七七支部で風紀委員の仕事を手伝ってくれていた二人が昏倒したのを見て、黒子が救急車を呼んだ。
だが、繋がらない。外を見ると、道端に多くの人々が倒れているのが確認できた。
そこに降り積もる赤い雪……何らかのテロなのか。しかし、黒子には害がない。
連絡を取ろうとしたが、既に風紀委員の大半が被害にあっているようで緊急時の連絡網も意味をなさなかった。
「何が起きているんですの……?」
身震いが止まらない。だが、自分の務めは果たさなければ――幸い、警備員たちは健在のようで、人命救助が開始されていた。
動ける自分が率先して助けなければなるまい。そう決意する黒子に、ふと最愛の姉の顔が浮かんだ。
最近、多くの事件が発生して会える機会が少なかった。部屋に帰って見る美琴の顔は、どこか思い詰めていたように感じた。
「お姉さま、今どこにいるんですか」
●
「アンタ、誰よ……」
震える声で質すと、マリはふっ、と嘲笑した。
「お前が言ったじゃないか。多重人格じゃないの、と。その通りだ。おれはシンリが生んだ別人格だよ」
「だったら何で実体が……」
まだ判らないのか、とマリが蔑視の眼差しを向けた。憐れみすらあった。
「おれの届けた資料に書いてあっただろう。おれが六歳のとき、加工と称して人体実験がシンリに施された。
その想像を絶する激痛から逃避しようと、ある日、その受け皿となる人格が発生した。それがマリだ」
こいつが、あの資料を――美琴の中で記憶が繋がる。この一連の出来事は、こいつが作り上げた。
だが、まだ腑に落ちない。美琴がシンリを抱く腕に力を込めて睨めつける。
「シンリはここにいるじゃない。なのにアンタが」
「それはなぁ、おれも奇跡だと思うぜ。何せ、シンリは殆どをおれに任せて、日常生活では滅多に表に出なかった。
きっかけは、幻想御手でおれが取り込まれたことだ」
そうか、真理が幻想御手に取り込まれても動けたのは、マリの意識が木山に奪われたから。
美琴の中の謎が解れてゆく。マリは心底愉快そうに語りだす。
「取り込まれていたときは、おれも意識がなかった。だが、コイツは木山を打倒するために、おれの意識に『流転抑止』をかけた。
覚醒したおれはAIM拡散力場を束ね、独立した存在となった! 新たな発見もあって、自由を得たおれは、夢を果たすことにしたよ」
不敵な笑みが一方通行に向けられる。怪訝な一方通行に言う。
「そこの暫定一位を倒して、おれが学園都市の頂点に返り咲く。シンリが諦めた夢をおれが果たしてやる。なあ、ちまちま雑魚を倒してレベルアップするのも飽きただろ? 陰気な狂人気取り」
「テメエも数字がコンプレックスですかァ? 笑えるな、オイ」
嘲笑する一方通行にマリの唇が釣り上がる。美琴にはまだ疑問が解けなかった。
「何で、あたしに、このことを」
「シンリが来るからさ」
事も無げにマリが言った。
「独立はできても、おれはまだシンリのサブに過ぎない。シンリに会えば吸収される。分離する際に機能の大半を引き抜いたが、それ程に力関係がある。
そのため、シンリの人間関係の中で、もっとも学園都市の闇に関わり、自ら首を突っ込まずにはいられないお前に真実を教えてやった」
美琴を怒りと絶望が襲う。自分は、こいつの計画のために体の良いように利用されただけだったのだ。恐らくシンリが一方通行に殺されることも承知の上で。
この苦悩も現実も、マリが力を得るための餌に過ぎなかった。マリは酔いしれるように言う。
「おれがAIM拡散力場を停止させるのは知っているな? これは全てその応用さ。
そこで寝ているお前のクローンのように、おれは強能力者以下のAIM拡散力場を逆算して支配できる。
今、学園都市の大能力者以上を除く全てのAIM拡散力場の集合体が、マリって訳だ。理解できたか?」
哄笑する。
「シンリはこれが誘いだと分かっていた。なのに、馬鹿な正義感に走ったお前を庇うためにここに来ざるをえなかった。自分の愚かさを嘆くんだな」
「それだけの為に、全部を利用したっていうの」
「それだけ? 学園都市の存在意義はレベル6を生み出す以外にないだろうが」
一方通行を見る。彼も否定しなかった。表で華々しく生きる美琴とその他の超能力者では、絶対的に価値観が異なっている。
頂点に君臨する。その為ならば、他の全てが犠牲になることさえ厭わない連中の集まりが学園都市の闇だ。
美琴が恐慌して悲壮に叫んだ。
「そんなことの為に……学園都市のみんなとコイツを犠牲にしてまで叶えなきゃならないことのなの! これが!」
「当たり前だろ。お前は生きたくないのか? おれに死ねと言ってるのか? 肥溜めで生きるドブネズミにとって、這い上がらないことは死と同義だ。
なまじ堕ちるところまで堕ちて、中途半端に力を得た雑魚の末路を知ってるか? 知らねえだろうな、何でも与えられると思ってるお嬢様には」
美琴を否定し、貶したマリは、美琴から関心をなくした。美琴が抱きかかえるシンリの身体に目を移す。
すると、シンリの身体が宙に浮き、マリの元に吸い寄せられる。
「シンリ!」
美琴が手を伸ばすが、またしても見えない壁に遮られた。シンリの身体に、マリが同化する。
心臓の鼓動の音が、離れた美琴の耳にも届いた。
「く、くく……」
喉を鳴らして、シンリの顔が笑みを象る。青白かった肌が血の気を取り戻し、瞳の濁りは一層強く、迸るAIM拡散力場の波動が肌で観測できるほどに強壮だ。
シンリとマリが同化した途端、赤い雪がピタリと止んだ。空間が軋む。
「ヒャハハハハハハハハハハハハッ!」
狂ったように哄笑したマリの右肩甲骨から、二翼が発生した。白と赤の羽根が同比率で編まれた血の斑模様の翼が、意思を持つように嘶く。
濁った紫が二人を見下した。不協和音が気が狂いそうなほどに耳朶を叩く。その中にあって、マリの声は不思議なほどに響く。
「ホメロスの詩集を読んだことがあるか? その主人公は神々に運命を決められていて、その定められた道筋を歩む。残酷な物語だ。だが、彼らはその運命の中で己の意志を持って進んでいく。大いなる存在に命運を定められてなお、己の力と知恵で道を切り開いてゆくんだ。
おれたちも同じだ。アレイスターの計画(プラン)に人生を決められた哀れなピエロ――でも、おれはそうはならない。自分の人生は自分で切り拓くものだ。
他人の決めた路線の上でしか生きられないテメエは、頂点に居る資格はねえんだよ、一方通行!」
「ギャハ! いいねェ! その無謀な馬鹿さ加減、最高だぜ! テメェはどこぞの神話の神様みてェに二目には見れねェオブジェにして飾ってやる」
異界の扉が開く音が聞こえた者が、その場にいただろうか。頂点と最下位が交錯する。
美琴は――何もできなかった。
●
「マリは、自分がない子」
赤い雪で視界が狭い中、食蜂操祈はシンリから別れた人格をそう評した。
「シンリさんが現実から逃避する為に、痛みの受け皿となった人格。主体性がなく、気弱で、臆病で、空気が読めなくて、何をするにも空回りして裏目に出る。そんな子」
「さっきから話を聞いていると、人格が三つあると超思えるのですが」
質問する絹旗に操祈が艶美に唇を釣り上げた。
「その通りよぉ。シンリからマリが生まれて、マリから凶暴な人格が発生した。主人格がシンリさんなのは変わりないけど、精神の比重はマリが多くを占めていて、普段はマリが表で行動しているの」
「何でそんな簡単に人格が分裂するんだ?」
「多大なストレスに晒された人が取る行動は二つ。精神が壊れて人格障害を患うか、適応する人格を作り上げるか。大雑把に分けてこの二つの行動を取る。
幾度なく加工されたマリは、その苦痛を乗り越える人格を作り上げた。暴力に曝されると、凶暴なマリという状況に適応した人格と入れ替わる。普通は自分とかけ離れた人格に悩むものだけど、マリは自分がないから、都合の悪いことは忘れるの。
しばらくして、本当のマリと凶暴なマリの主従関係が逆転した。マリが危機に瀕した時にだけ現れるけど、二人の間のサブがマリって言う風にね」
「? 結局どういう訳?」
フレンダが首を捻った。
「要するに、シンリさんとマリは別人で、マリと凶暴なマリが本来の意味での二重人格。二羽真理の肉体にシンリさんが二つ目の精神を能力で作って、今はそのマリにシンリさんは肉体を乗っ取られた。ここまで分かればいいわ」
「あ、分かりやすい」
「講義じゃねえんだぞ」
ポンと手を叩いて感心するフレンダに麦野が睨み、操祈には釘を刺した。殺す相手の人格など興味はない。
本題を話せと目で促すと、操祈は勿体振った口調で語りだした。
「シンリさんの能力を見て、科学者はこの能力を事象に永続的な効果を付与するものだと判断した。
温度や速度のような、特定条件下で状態を保つ類似系はあったから、皆その上位互換だと誤認したのよ。
でも、変じゃない? 何で、エネルギーは生まれ続けているのに、その元となる分子すら観測できないのか」
尤もな話だ。化学反応を永遠に繰り返すのに外的要因を一切遮断し、さらに不変性まで加える。
それは、この世界の原理ではありえない。つまり、
「――『第八位』の能力は、観測不可能な物質を、外から生み出し、この次元に固定すること」
すべては、存在しないが故の勘違いに過ぎなかったと。
「眼で観測した事象と同一のエネルギーを放出し続ける全く新しい物質を、十一次元を介して誕生させ、三次元に作り出す。
この世に存在しないので物質は観測できず、この次元の原理で動いていない為に枯渇しない万能物質(エリクサー)。
無数の宇宙の原理を地球の次元に固定化、凝固させるのが、第八位の能力」
それが永久機関の正体。地球の物理学で不可能な事象を別の宇宙の原理で生み出す。
「もちろん、そんな莫大な演算を人ができる訳がない。原石のシンリさんは、原理も分からずにできたみたいだけど、マリは本来の持ち主じゃないから使えば脳が処理しきれずにシャットダウンする」
コンピュータと同じだ。だから木山が用いた方法を取った。
「今のマリは、学園都市の強能力者以下の者すべての脳とAIM拡散力場を束ねて実体を得た『人工天使』の紛い物。
それがシンリさんの脳髄を得て、完全な能力を行使する。今はまだ、規模と慣れの問題から全駆動させた三分の一くらいの出力だけど、時間が経てば幾らでも万能物質を生成出来るようになる。倒すなら今しかない」
「ちょ、ちょっと待ってよ! それって虚数学区!? マジなら勝てるわけないじゃん!」
喚き散らすフレンダに操祈は冷ややかな目を向けた。
「取り引き成立だゾ☆ 言うこと聞かない子には『精神掌握』しちゃうからネ!」
「ふざけてる場合じゃないっつーの! さっきでさえ全然歯が立たなかったのに、そんな能力の敵に勝てる筈ない――」
「行くぞ、滝壺」
「ええええッ!?」
悠々と歩き出す麦野にフレンダが目を見開いて絶叫する。仕方なく後を追いながら、フレンダは麦野を引き留めようとする。
「ね、ねえ麦野。無理に面子を保とうとしなくていいんだって話聞いてた? 永久機関だよ、永久機関。結局、天使で人外だったわけで、私たちの手に負える相手じゃ」
「逆です。今しか勝てません」
「え?」
絹旗が否定して、フレンダが少しだけ冷静さを取り戻した。
「奴はまだ万全じゃない。そして原理が複雑極まりない能力を行使せざるを得ない今が無二のチャンスだ」
「ど、どゆこと?」
「万能物質しか作れない、ってこと」
滝壺が補足し、「あ」とフレンダが得心する。
「弱点も判明した。どこまで信用していいか分からねえが、借りは絶対に返す」
鬼女の如き形相で、「ブ・チ・コ・ロ・シ・か・く・て・い・ね」と唇が動く。
味方の時は異常に頼もしい麦野の自信に触れて、なぜかフレンダもやる気になった。
遠く離れてゆく『アイテム』の面々を見届けて、操祈がつぶやいた。
「これでいいんですよね、シンリさん」
操祈の足が破壊された研究施設に向く。彼女の意向は、まだ不透明だった。
●
「ハハッ、ハッ!」
砂利を蹴りあげ、一方通行が散弾と化した石の群れをマリに放つ。
マリは微動だにしない。ただ見ているだけだ。それだけで、無数の礫が弾かれた。
「!?」
一方通行の顔に、初めて動揺が生じた。まただ。この不可解な感覚は。
彼の能力は、観測した現象から逆算して限りなく本物に近い推論を導き出すというものである。
学園都市最高の頭脳を誇る彼の真骨頂。それが機能していない。マリの能力が観測できないのだ。
「アテネの国立美術館にあるアガメムノンのマスクを知ってるか? あれは三千年前の代物だが、未だに酸化することなく純金の艶を保っている。人々は金に永遠を見た。錬金術が永遠性を追求していたのも、金が永遠の象徴だったからだ。黄金は朽ちない」
不敵――そうとる他ない人の神経を逆撫でする笑みで、一方通行を見遣る。
一方通行も嘲笑した。
「錬金術ゥ? 時代遅れのオカルトだな。金が酸化しにくいだけってこたァ科学的に証明されてるだろうが」
「あぁ、その通りだ。科学が進歩して、あらゆるオカルトが現実に堕とされた。だがな、第一位。憶えておけ。それはただの思いあがりって言うんだ」
嗤う。不意に風が吹いた。微風程度の幽かな揺らぎだったが――それが、一方通行の肌を撫でる。
「な――」
ありえない出来事だ。彼は無意識に有害なものと無害なものを選択し、有害なベクトルを反射している。これは有害に選択されるべき風だ。
事実、現象として発生しているのに観測できない異常現象に目を見開いた。
「がっ……は……ッ! !? ッ!?」
何が起きたのか理解できなかった。腹部に衝撃を受け、全身が宙に浮き、背後のコンテナに叩きつけられたのだ。
脳に酸素が回らず、久しく味わっていなかった痛覚が動転し、思考が停止する。
追撃の刃が一方通行の胴を切り裂いた。左肩から腹部までの切り口から血が噴出し、倒れる。
勝負は、呆気無く終わった。
「く、ははは! ははははははは! ははははははは! ざまあねえな、一方通行!
おれが頂点だ! 学園都市第一位だ!」
勝鬨をあげるマリを、美琴は呆然と見つめる。こんなにもあっさりと、美琴が初見で敵わないと悟った第一位を――
息が上がり、平静を保てない美琴をマリが振り返る。
「さて、下準備は済んだな。退け」
美琴の後ろには、赤い羽根に埋もれた9982号が眠っていた。今は、マリに意識を奪われ、起き上がることも敵わない。
美琴は彼女を一瞥して、マリに言った。
「この子を、どうするつもり……?」
「殺すに決まってんだろうが」
一縷の躊躇いもなく、マリが断言する。美琴の瞳に激情が宿った。
「殺す、ですって?」
「当然だ。こいつは絶対能力進化計画の為に作られたお前の模造品。活かしておくだけで反逆の芽になる。殺さなければならない」
「どいつもこいつも……」
美琴の周りを紫電が走る。怒りに身体を奮わせ、正面からマリを睥睨した。吼える。
「殺されて当然の命なんてあるわけないでしょうがッ! たとえ造られた命でも、生きてるのよ、この子たちは!
それを踏み躙る奴は、誰だろうと赦さない!」
「いるだろ。そこに」
睨み合う。マリは眼を眇めて、絶望的な戦力に抗う少女を見た。
「あ、いた!」
「しっ」
戦場から約三十メートル程離れたコンテナの上で、『アイテム』の面々はマリと美琴を視認した。
滝壺の案内にしたがって、マリの死角を突けるポジションを確保する。
状況を把握しようと一望して、二翼を生やしたマリと対峙する美琴。そして離れたところで倒れ伏す人影を見つける。
「あれ、第一位じゃないですか?」
「げ、第一位までやられちゃったの?」
フレンダの顔が陰る。やっぱり無理かもしれない。圧倒的な能力を有する第八位の前に最強の第一位ですら敗れる。
本当にこの四人+第三位で大丈夫なのか。不安が過ぎるそこを、ソニックブームが襲った。
「くっ……」
「な、なに?」
「第二位……」
超音速で過ぎ去った白い翼が、マリの頭上で制止して、眼下の怨敵を睨む。
「探したぜ、クソッタレ」
「ハッ、良いツラだな。おれの猿真似でも覚えたか?」
額から血を流した壮絶な形相の帝督を鼻で嗤う。現在の帝督の翼は一翼十五メートルほどまでに展開し、天界の光を想起させる神々しい光を放っていた。
奇しくも翼の生えた超能力者が相対する。さらに、
「ここかぁ! 悪党がいると言う場所はッ!」
空に垂直に立ち昇る爆発とともに、白い学ランを羽織った男子生徒が登場する。
「むっ! お前はあのときの!」
ナンバーセブンス、削板軍覇。学園都市最大の原石。かつての同僚。
マリが笑った。我慢できないと言わんばかりの、底抜けの笑いだった。
「こんな愉快なことがあるか! 雁首揃えて餌がやってきた!」
そして両手を広げ、天を仰いだ。
「見ててくださいますかぁ! あなたたちの失敗作は! 今! 世界の頂に座します!」
超能力者のAIM拡散力場に共鳴するように、翼が嘶く。
最後の決戦の火蓋が落ちる。見守る操祈は、手向けのように、手袋を投げた。