とある一人の真理到達   作:コモド

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翼の計画

 

 七月に入り、初夏の猛威が学生を襲い始めた。燦々と照りつける日差しの強烈さは、如何に学園都市の科学力が優れていようと解決しようがない。

 だが、施設内で言えば世界有数の快適な空間が、外界の数十年進んだ空調技術によって確保されている。

 学園都市では部活動も盛んだが、専ら能力者による無能力者の蹂躙劇と化しており、部活動に汗を流すよりも、能力向上に費やした方が論理的と言う風潮が形成されていた。

 精神論は廃れ、身体よりも頭脳を鍛える方が強くなるからだ。だから、運動部なのに机で勉強をしているなんて姿も多々見られた。

 

 その学生の頂点に君臨する第三位の御坂美琴は、今日も常盤台の図書室で書物を読みあさっていた。

 積み上げられた本は十冊の山が二つ。数時間で読破するには多すぎる量だが、超能力者の明晰な頭脳では容易い。

 彼女は数ヵ月、この古書の匂いに満ちた空間で学園都市関連の書物を探し求めていた。

 黒子に違法行為に釘を刺され、仕方なしに正攻法で目当ての情報を得ようと努力している。が、成果はない。

 やはり、真理の虚言だったのか。あの紫の双眸と無駄に整った顔が思い浮かぶ。学園都市に無数にある都市伝説の類だとすれば悪質極まりない。開発を受けた時点で将来が決まっていると宣伝する悪質なものだ。

 超能力者になろうと努力する生徒の日々は無駄だと切り捨てる技術が存在していることになる。そう、もしに仮にこれが真実だとするならば、学園都市の上層部は絶対に漏らさぬように隠蔽するだろう。

 生徒の目につく場所には情報を置くはずがない。判ってはいるのだ。だが、黒子に監視されている身の上では大っぴらな行動は取れない。

 他にも真理の能力についての疑問もある。トゲトゲ頭の高校生の右手についても気になる。明晰な頭が回らなかった。

 

「あらぁ。御坂さぁん、なにしてるのぉ?」

 

 間延びした、男に媚びるような甘い声に美琴の顔が曇る。美琴は無視を決め込んだ。

 

「ふふ。なぁーんて。本当は知ってるけどぉ。連日、調べ物で大変みたいねぇ、御坂さん」

「図書館内の私語は厳禁って知らないの?」

「噂で聞いたんだけどぉー。何だか最近、御坂さんは長点上機の超能力者さんと仲良くしてるとか?

 それって常盤台への背信行為だと思うのねぇ」

 

 鼻がひくついた。美琴は関心がないのに、向こうは敵対心を持って接してくる。自然と身構えてしまう。

 能力の卑賤さ、厄介ぶり、下衆な手口は、美琴の知る限りで彼女を上回るものはいない。

 超能力者第五位、食蜂操祈。腰元まで伸ばした流麗な金髪を靡かせ、中学生離れした婀娜な肢体と麗しい容貌を振りかざす、いけ好かない女は、不遜な笑みを浮かべて美琴の隣に座った。

 

「で、実際はどうなのかしらぁ? お友達? 恋人?」

「アンタには関係ないでしょ」

 

 あれと親しい間柄と疑われるだけで虫唾が走った。だが、わざわざ教えてやる義理もない。

 冷淡な声音であしらうと、食蜂操祈は人差し指を唇に当て、「んー」と喉を鳴らした。

 

「人には言えない関係なのぉ?」

「んなわけあるか」

「じゃあー。私が盗っちゃっても文句ないわよねぇ」

 

 美琴が双眸を眇め、一瞥する。頬杖をつき、こちらを見つめる、星の瞬きに似た虹彩と眼が合った。

 

「常盤台の超電磁砲と長点上機の流転抑止が激突。学園都市の生徒が胸躍る最高の見世物だと思わなぁい?」

「相変わらず下卑た発想ね。やれるものならやってみなさいよ」

 

 業腹だが、手を出すわけにはいかない。しかし、気性から挑発には煽りで返してしまう。

 美琴が睥睨すると、食蜂操祈はくすりと笑った。

 

「なら、自由にやらせてもらうわぁ。御坂さんが吠え面かくのが楽しみ」

 

 お嬢様らしい言葉使えよ、と、立ち上がって踵を返す食蜂操祈に内心で毒づいた。

 自分が言えた義理ではないとは思わなかった。

 ふと、別の疑問が生じたからだ。

 

「アイツに『精神掌握(メンタルアウト)』って効くのかしら……?」

 

 

 放課後、真理は気温が落ちてなお蒸し暑い第七学区の一画を歩いていた。

 帰路につく生徒で賑わう街中を、フラフラと歩く真理の様子は浮浪者極まりなかった。

 容姿も数ヶ月前とは一変し、伸ばし放題の黒髪は蓬髪となって鎖骨にかかり、学生に埋没することなく浮いていた。

 それでも不潔な印象を与えないのは、生来の優れた容姿のおかげである。陰気な空気を撒き散らす真理に、華美な少女が正面からぶつかった。

 

「すいません」

「いぃえー。大丈夫ですよぉー」

 

 真理はいつものように視線を合わせることなく頭を下げた。敵意のない可憐な、間延びした声に顔を上げる。

 操祈が嫣然な微笑を浮かべ、真理を見据えた。

 

「お久しぶりです、真理さん」

「……ゴメン、誰?」

 

 ピキリ、と操祈が固まった。次の瞬間、叫ぶ。

 

「ハァーッ! ハァーッ!? 何で忘れてるの!? ありえないしぃ!」

「え……ゴメン。おれたちって顔見知りだったの?」

「私に! 精神疾患治療を依頼してきたでしょぉッ!?」

 

 自身を飾るのすら忘れ、取り乱す操祈に小首を傾げていた真理だったが、しばらくして唖然となりながら口を開いた。

 

「もしかして、運動音痴の?」

「最悪な覚え方なんですけどっ! 真理さんだって運痴じゃない!」

「ゴメン……」

 

 久方ぶりの再会が台無しだった。落ち着いた操祈は、コホンと咳払いをすると、羞恥から赤くなった頬を隠すように顔を背けた。

 

「相変わらず、人をイラつかせることだけは一人前ねぇ……ところで」

 

 向き直った顔には、人を食ったような微笑が張り付いていた。

 

「その眼、まだ見えてます?」

 

 紫色の瞳――薬物で後天的に変異させられた眼の下に、真理が手を添えた。憫笑する。

 

「うん。見えてるよ。視界は、狭くなってるけれど」

「気をつけないとダメですよぉ? 私だからいいですけど、真理さんは弱っちいから、こわーい人に絡まれてやられちゃうもの」

「あはは……」

 

 既に幾度となく絡まれている。その度に正気を失い、返り討ちに合わせる日々を思い出す。

 遡れば、お互いに眼がコンプレックスで打ち解けたことも、記憶の片隅にあった。成長期の恐ろしさを味わった気分だった。

 真理の知る操祈は、こんなに大人っぽい少女ではなかった。常盤台の教育の賜物かと、勝手に納得した。

 思い出に浸る真理を、操祈は無表情で見つめる。

 

「真理さんは、変わってないですね」

「うん。成長してないよね。ゴメン」

 

 苦笑して、夏には暑くて仕方ないであろう蓬髪を持ち上げた。操祈は嘘をついた。しかし、それに気づいていなかった。

 操祈の瞳から光が失せる。真理は不意に操祈の後ろを見て、声を上げた。

 

「御坂さん」

「うげっ」

「? 誰ですか?」

 

 視線の先には、美琴と黒子、そして柵川中学の制服を着た女学生が二人いた。美琴は顔を引きつらせ、黒子も露骨にげんなりさせた。

 が、真理と共にいる人物を見て、美琴と黒子が警戒心を表に出す。操祈は対照的に、優雅に髪を撫でた。

 

「アンタ、あれ、本気で……!」

「あらぁ、御坂さん。ご機嫌よう。こんな所でお会いするなんて奇遇ねぇ」

「白々しいですわね……」

 

 睨み合う常盤台の三人をよそに、真理はフラフラと四人に歩み寄った。美琴が紫電を出して牽制する。

 

「近寄らないで! アンタ、コイツに何かされてないでしょうね?」

「何かって?」

「酷いわぁ、御坂さん。私を疑うなんて。心が穢れてるんじゃないのぉ?」

「この……どの口が言うか!」

「イヤーン、こわぁい☆ 二羽さん助けてぇ」

 

 怒りの矛先が向いた途端、真理の背後に隠れた。ちらりと顔を見せ、舌を出すのも忘れない。

 美琴の怒りのボルテージがハイになった。

 

「胸かぁ? そんなに胸がデカイ方がいいのかぁ!」

「お姉さま! お心を確かに! 街中! 学生が多い時間帯に超能力者三人が喧嘩なんて洒落になりませんわ!」

「? ムネ?」

 

 

「オホン。こちらが超能力者第八位の二羽真理さんと、」

「第五位の食蜂操祈でぇす。よろしくねぇ」

 

 ケッ、と美琴が吐き捨てた。場所はいつものファミレス。美琴、真理、操祈の三人が並び、対面に黒子、佐天涙子、初春飾利が座っている。

 自己紹介を済ませた面々の反応は六者六様だった。黒子は気疲れして肩を落とし、初春は顔を輝かせ、涙子は感嘆の吐息を漏らし、美琴は不機嫌さを隠しもせず、操祈は眩い笑顔、美琴と操祈に挟まれた真理は困惑していた。

 初春は声を震わせて言った。

 

「は、八人しかいない超能力者の三人に会えるなんて、感激です……!」

「あの、握手してもらってもいいですか?」

「いいわよぉ」

 

 手を差し出す涙子に操祈は快く応じた。美琴の機嫌がさらに沈んだ。

 

「その、ついでと言ったら何なんですか、アドバイスとか、伺ってもいいですか?」

「アドバイス?」

 

 正面の真理が聞き返した。涙子は姿勢を正して首肯した。

 

「私、レベル0で……どうしたらレベルが上がるのか、この学園都市で一番優秀な方々に聞けばコツみたいなものが解るかなって思いまして」

 

 自虐を多分に含んだ嘆願だった。よりにもよって、真理に訊くのかと、美琴は苦渋に満ちた表情で涙子を見た。

 『素養格付』と言う、レベルの上限を測定するシステムが真に存在するとしたら、努力を否定することになる。

 勉強、特訓、練習。低い強度の者が超能力者の地位に恋焦がれて、研鑽する意味を水泡に帰す都市伝説。

 初めから超能力者だった真理に、コツなどわかる筈がない。何か失礼なことを言ったらぶん殴るつもりで真理の言葉を待った。

 

「君は、友達いる?」

 

 友達? 意外な第一声に全員が面食らった。動揺しながらも、涙子は頷く。

 

「え、は、はい」

 

 横の初春を見た。実際、涙子は友達が多い。親友の初春の他にも親しい者が沢山いる。

 真理は、「そう」と抑揚のない声音で言った。

 

「おれはいないよ。この二人もね」

「アンタと一緒にすんな」

「失礼ねぇ」

 

 反駁しようとする二人を無視して、真理は続けた。

 

「友達がいるってことは、周囲に埋没できるってことだ。つまり、自分を持っていないってこと。

 人に合わせて生きている。自分だけの世界が確立していないってことだ」

「え? えと……」

「『自分だけの現実(パーソナルリアリティ)』のことを言ってますの?」

 

 戸惑う涙子に黒子が補足するように質問した。真理が頷く。

 

「高位能力者になるほど、強烈な自我を持っている。同時に『自分だけの現実』も確固なものとして観測し、能力の土台としている。

 無能力者がなぜ無能力者かと言うと、普遍的な現実しか見ていないからだ。現実から乖離した、自分だけの世界を見つめられない者。つまり、正常なんだよ。良くも悪くもね」

「何よ。あたしたちは異常ってわけ?」

「精神病を患っているのと同義だよ。『自分だけの現実』を持ってるって言うのはね。

 普通の人は現実しか見ていない。妄想に逃避しない。でも、おれたちはその妄想の比重が大きいんだ。妄想と現実の区別がつかなくなるほどに能力は強くなる。高位能力者に変人が多いのは、その所為だ」

 

 不満そうに口を挟んだ美琴を閉口させた。美琴以外のレベル5の人格が破綻している噂を思い出したからだ。

 黒子にしても、露出の激しい下着を好んだり、レズビアンの気があったりと常人とは言い難い。的を射ている。

 

「自分を曲げないから、高位能力者に付き合える人は少ない。自然、友達も少なくなる。

 君にその覚悟はある? 好きな人との折り合いも付けられなくなって、みんな君から離れてゆくけど、それでもいいの?」

「う、あ……その、いきなり言われても、私……」

 

 長い髪の隙間から除く紫色の瞳に射抜かれて、狼狽する。止めようとする美琴。が、真理は瞑目し、柔らかい声音で告げた。

 

「なら、友達を大事にした方がいい。能力は短い間だけ威張れる要素に過ぎないけど、友達は一生の宝物だ。おれにはないものだから、自慢していいよ。御坂さんにもいないんだから」

「え、えと……は、はい!」

「ひとこと多いのよアンタは!」

 

 ちょっとは良いこと言うじゃん、と見直したらこれだった。どうも気に食わない。

 やはり真理は、自分よりも深いところにいる。そのモヤモヤとした疑念と憔悴が真理への印象に直結していた。

 それは、純粋にそりが合わない操祈とは異なるベクトルの嫌悪感だった。

 

 

「御坂さん、お願いがあるんだケドぉ」

「知らないわよ」

 

 翌日。銀行強盗を逮捕したり、操祈に挑発された美琴がブチ切れたり、それに黒子も参戦して取り返しのつかない事態になったり、巻き込まれた真理まで切れて危うくアンチスキルが出動しかねない事件に発展したりした、てんやわんやの騒々しい前日があった美琴は、昨日の今日で馴れ馴れしく話しかけてきた操祈を冷然と突き放した。

 向き合うと、また激昂してしまいそうだった。が、次に操祈が発した言葉に足を止める。

 

「二羽さんの秘密、知りたくない?」

「なに……?」

 

 振り返る。いけ好かない顔が、気に食わない笑顔を貼り付けていた。

 

「やっぱり興味あるんじゃなぁい。素直じゃないのねぇ、御坂さんは」

「うっさいわね。本題を話しなさいよ」

 

 苛立ちながらも先を促すと、操祈は笑うのをやめた。薄い唇が淡々と動く。

 

「彼の家に行きましょう」

 

 

 

 

 

 

 

「ちょ、ちょっと。本当に大丈夫なんでしょうね?」

「二羽さんはまだ授業中だから、心配ないわよぉ」

 

 学校を抜け出した二人は、第七学区にある真理のマンションを訪れていた。超能力者なだけはあり、学園都市でも有数の高級マンションだった。

 広大で豪奢なエントランスを堂々と通り、エレベーターに乗る。セキュリティは操祈の『精神掌握』で警備員を洗脳し、美琴の能力で電子機器系統を操作して抜けた。

 彼女たちがいれば、抜けられないセキュリティは皆無に等しい。問題は、家の主に遭遇しないかだけ。

 エレベーターが目的の階層で止まる。先に歩き出す操祈の背中に声をかけた。

 

「良く知ってたわね、アイツの家なんて」

「以前から調べてたもの。当たり前でしょー? 私の調査力甘く見ないでよねぇ」

 

 さも当然とばかりに言う操祈に、美琴の中で二人の過去に何かあったことを悟った。同時に真理の言葉を思い出す。

 

『多重人格ではないよ。医学的にも、科学的にも、それは否定されてる。精神系の能力者に治療されたこともあるけど、効果はなかったな。まぁ、おれがおかしいってだけ。ごめん』

 

「……もしかしてさ。アイツを治療した精神系能力者って、アンタのこと?」

 

 美琴の問いに操祈は足を止めた。美琴も追随して足を止める。操祈は小さく嘆息した。

 

「口が軽いって言うかぁ……そんなこと話しちゃうんだ。がっかりぃ」

 

 両手を広げて肩を竦めた。表情は窺えない。声音は平素と変わらないが、美琴には落ち込んでいるように聞こえた。

 

「そうですぅ。私が治療を担当して、治せませんでした。何か文句あるの?」

「いや、ないけど」

「だってだって! 二羽さん私の能力が効かないんだもん! 効かないのにどうやって治せって言うわけぇ!? ワケわかんない!」

「……アンタの能力も効かなかったんだ」

 

 素で取り乱す操祈よりも、その事実に驚いた。操祈の『精神掌握』は、学園都市最高の精神系能力だ。精神に関する事柄なら不可能はないとされる、十徳ナイフに例えられる程の正真正銘の超能力。

 それすら効かないのは――例えば、あのトゲトゲ頭の高校生の右手のような、科学を超えた不可解な何かなのではないか。

 半べそをかく操祈に、美琴は険しい表情で質した。

 

「アイツの能力について何か知らない? 前にアイツ、あたしの電撃も打ち消してた。絶対に物質に永遠性を付与する、なんて能力じゃない。AIM拡散力場にも干渉してるし、アンタの能力にも効かないなんて、おかしすぎるわ」

「……知ーらない。知ってても教えなぁい」

 

 くるりと背を向き、そっぽを向いた操祈に怒鳴るのを、美琴はギリギリのところで堪えた。

 本当に知らないのかもしれなかったし、或いは彼女も治せなかったことを悔いているように見えたからだ。

 操祈がある一室の前で立ち止まる。表札には、『二羽』とあった。真理の部屋だろう。

 

「開錠、お願いねぇ」

「はいはい」

 

 電子ロックを解除し、何事もなくドアが開く。目配せし、短く頷いて中に入ると、妙な臭いが鼻についた。

 生ゴミ等の不快な悪臭ではない。だが、嗅ぎ慣れた匂いでもなかった。最近、嗅いだ覚えがある。初めて入る異性の部屋に緊張しながらも足を踏み入れると、広々としたリビングが目に入った。

 何もない。最低限の家具以外は、ゴミひとつ落ちていなかった。清潔というより、無機質な部屋……どことなく、研究施設を連想させる、寂しい部屋だった。

 

「何か……小奇麗だけど、生活感がないっていうか」

 

 キョロキョロと物色していると、操祈が大型冷蔵庫を開けた。中には、大量の同一メーカーのミネラルウォーターが隙間なく詰められていた。他には何もない。

 背筋に薄ら寒いものが走った。やはり、異常だ。偏執的な悍ましさを感じる。美琴が引いている中で、操祈は無表情で淡々と探索を進めていた。

 トイレ、風呂と順々に見て回る。誇りひとつ、汚れさえもない。臭いの大元はここではないようだ。

 ベランダで家庭菜園をしているらしく、ハーブが大量に栽培してあった。また、どれも同一の種ばかりだった。

 鼻をつく臭気は――カメムシ臭だ。この葉の名前は何と呼ぶのだったか。思い出せない。室内に充溢する匂いは、これでもない。

 私室に入る。十二畳の洋室にはベッドと机があるだけだ。が、枕元に数冊の本を見つけた。どうやら読みかけのようだ。タイトルを見る。

『錬金術大全』、『ホメロス』、『魔女の森』とあった。西洋の、オカルトものが多かった。

 

「なにアイツ。こんなのが好きなの?」

 

 手に取り、頁を捲る。眉唾物の如何わしい陳述に頭が痛くなった。科学の街では、このような物事は好まれない。

 都市伝説が語られるのとは別の次元で信じられていないからだ。操祈は、それらをじーっと見つめていたかと思うと、やおら別室のドアを開けた。

 すると、入っていた時より感じていた臭いが急に強くなった。どうやら、臭いの大元は此処のようだ。美琴も入る。

 

 ――果たして、中にあったのは、視界一杯に堆く積まれたダンボールの山だった。書斎と思しき部屋は、足の踏み場もないほど隙間なく大小無数のダンボールで埋め尽くされていた。

 個数は数え切れない。物置としても限度がある。愕然とする美琴の横で、操祈は近くにあったダンボールを開き、中身を確認した。

 詰まっていたのは、本だった。年代はバラバラで、日焼けし傷んでいるものから真新しいハードカバーまで、ダンボール一杯に詰め込まれている。

 他のも同じで、どうやら此処にあるのは全て本のようであった。そこでハッとなる。

 この匂いは、図書館の匂いだ。この家は、紙の饐えた匂いが充満している。いったいどれほどの書物が貯蔵されているのか、想像もできない。確認していない部屋にも同量の本が置かれているのだろうか。

 もしかしたら、本当に小規模の図書館に匹敵する量があるかもしれない。真理が集めたのだろうか。だとすれば、何の為に?

 

「変わってるとは思ってたけど、ここまでとはね」

 

 つまりは、真理も超能力者だと言うこと。先日、自ら高位能力者に変人が多いと言ったことに偽りはなかった。

 この部屋には狂信めいた執着が充溢している。真理の異常の一端を垣間見た気がした。

 美琴がダンボールの数から蔵庫の冊数を推測していると、操祈は一冊の本を手に取った。そのまま動かない。

 気になった美琴も表紙を覗き見る。手垢に塗れ、煤にくすんだように色褪せたカバー。タイトルは、『Agamemnōn』とある。洋書であろうか。美琴には縁がないものであるので、さしてそれに興味をもてなかった。

 真理のオカルト好きが奏した収集癖によるものと結論付け、微動だにしない操祈に目を遣った。

 美琴は息を飲む。その美貌に浮かぶのは、美琴の知る操祈の顔ではなかった。悲哀と怒り、そして諦観に濡れた不安定な瞳が揺れている。

 この著書に何の意味があるのか。推し量ろうとする美琴に一瞥すらくれずに、本に視線を固定したまま、操祈は呟いた。

 

「そうね……変わっちゃったわ」

 

 すると、その本を小脇に抱えて、操祈は書斎をあとにした。慌てて美琴もあとに続く。

 

「ちょ、ちょっと! それ片付けなくていいの!?」

「大丈夫よぉ。読んでないから」

 

 そんなわけあるか、と叫びたいのを堪えて踵を返し、せめて体裁だけは取り繕う。一見しては誰かが入ったかはバレない筈だ。

 マンションを出るまで、二人は無言だった。所在なさげな空気の中で、意識は操祈の手にある本に注がれている。ボロボロの本と真理に何の接点があるのか。

 意を決して、美琴は尋ねてみることにした。

 

「ねえ、それ――」

「あげないわよぉ」

「要らないわよ!」

 

 ダメだ。どうしても売り言葉に買い言葉で喧嘩に発展してしまう。今の遣り取りで興味も失せてしまった。

 美琴は大仰にため息を吐き、学校をサボり、犯罪を働いてまで得た収穫が、本一冊と益体のないものだったことを後悔した。

 真理が変人だという確証と、食蜂操祈とは馬が合わないがはっきりとしただけ。無駄骨だったと嘆きたくなる。

 マンションを脱し、帰路につこうとしていたときになって、ようやく操祈は口を開いた。空は曇っていて、真夏なのに涼しい風が吹いていた。

 

「さっきの問いだケド」

 

 本についてか。気まぐれな彼女がまともな答えを口にするなど期待せず、話半分に耳を傾けた。

 

「二羽真理の能力は、永遠を実現するもの。それは間違ってない。問題はぁ、『眼』よぉ」

「眼?」

 

 もしや、食蜂操祈はかなり真実に近い……?

 詳細について訊こうと思った矢先、操祈は思わせぶりなことだけ言って帰ってしまった。

 追いかけて質問攻めしたが、はぐらかされた。不信感が鬱積した。

 

 


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