――八月八日。
幻想御手事件が解決し、昏睡状態にあった学生も目を醒ました。未だに体調不良を訴える者がいることが気がかりだが、一応は幻想御手事件終結したことになっている。
美琴は街を歩くたびに好奇の視線を向けられることに苛立ちを覚えていた。自分が有名人であることは自覚している。
それによって生じる嫉妬、羨望、憎悪の感情を浴びることは寛容しよう。
だが、それに審議不確かな噂がつくと、我慢ならなくなる。それが、自分のクローンが密かに作成され、軍事利用されている。ましてやその実物を見たなどという輩まで現れる始末。
――あの日以来、美琴の心から疑念の燻りが消えてくれることはなかった。
真理の記憶に現れた食蜂操祈にそのことを問い質そうと思うも、操祈は茶化して会話にならない。
真理の記憶には齟齬があったはずだった。だが、その肝心な部分が、どうしても思い出せない。
『流転抑止』に『超電磁砲』が手も足も出ずに敗北したこともそうだ。
あの『流転抑止』が木山による一万人のネットワークがあったからこそ出来た離れ業であることは、重々承知している。
承知の上で、尋常を逸した能力としての差があることを悟ったのだ。
あの奇妙な赤子の悍ましさを、美琴は今でも時折思い出す。夏だと言うのに寒気で凍えるほどに、恐怖が染み付いていた。
木山が語ることなかった『流転抑止』の真の能力と真理の過去。それをちらつかせられた美琴の心境たるや、餌を前に手を出すなと命令された犬の心情に近かった。
喉から出かかっている齟齬が判れば、この気持も晴れそうなのに。と、その苛立ちの渦中の人物に街中で遭遇してしまった。
「……髪切りなさいよ」
「美容院に出向くのが億劫でな」
制服姿の二羽真理は、鬱陶しそうに蓬髪を描きあげた。やつれた――ひと目、真理を見た感想がそれだった。美琴が見上げた真理の顔色は青白く、きわめて不健康であった。
実を言えば、幻想御手以降で真理とひとりで会うのは初めてだった。何となく、顔を合わせづらかった。
今日は、あのオドオドした人格ではないようだ。いつぞや挑発と意味不明な喩えで美琴を怒らせた、いけ好かない方だ。
しかし、今は覇気がない。寝不足らしくはっきりと涙道は隈で縁取られ、猛暑の暑さで体力が消耗しているのか、立っているのも辛そうだ。
「久しぶりね」
「今日はいつもみたいに喚き散らさないんだな」
ほら出た。皮肉めいた語りになぜか安心している自分に美琴が気づく。
真理は目線を美琴から逸らして言った。紫紺の瞳は、眠気でまぶたが重そうだった。
「うるさい。佐天さんが会いたがってたわよ。暇なら、その辛気臭い顔でもいいから見せに行ってあげなさい」
「佐天涙子が? なぜだ」
「あたしに訊くな」
薄々、感づいてはいるが、他人の口から語るのも憚れる。美琴には涙子の気持ちがさっぱり理解できない。
身近な超能力者への憧れが転じてしまったのだろうか。それにつけても、真理に対して先立つのは不気味、不審等の負の感情だと思うのに。
――そういえば、真理に『素養格付』の存在を匂わせたのは、この人格だった。
彼なら、自分のクローンの噂についても何か知っているのでは? 事実にせよ、捏造にせよ、情報は必要だ。
「ねえ、ちょっと話さない? 少し涼しいところで」
「……少しなら」
さすがに暑さが堪えたのか、真理が誘いに乗る。空調が強そうなコンビニとも考えたが、真理が見咎めて手近なカフェになった。
「で、なんだ?」
アイスコーヒーを注文して早々に真理が切り出した。この人格は、愚鈍な人格と比べて妙に聡い。
思えば、超能力者らしくオドオドした人格も聡明な一面を見せたことはあったが、あっちは人の心の機微に疎い部分が多々見られた。
だが、こちらの人格は、意図的に人を怒らせているように見える。上条当麻と親しそうだったのは、この人格だったのだろう。
どちらも人付き合いが下手だが、無意識、意識的の違いがある。そうなると、あのツンツン頭はどれだけ懐が大きいんだと、普通に会話できていたことを思い出してちょっと引いた。
美琴には、想像もつかない。
「最近、妙な噂を聞くのよ」
美琴は、自分のクローンの噂の真偽を尋ねた。彼は、学園都市の深い闇に触れた人物だ。
断片的に触れた記憶から、その確証は得ている。美琴についての情報を知っていてもおかしくはない。
少しは期待していたのだが。
「……いや、知らないな」
真理はアイスコーヒーのコップを揺らし、揺蕩う氷を見つめながら言った。
表には出さないが、落胆する。
「そ。ま、元が信憑性皆無の週刊誌の都市伝説だから、しょせん噂だってのは承知してるけど、傍迷惑な話よね」
ストローでアイスコーヒーを吸う。ガムシロップは入れたのに、苦味が強く口内に残った。
「女はそういう根拠の無い話が好きだな。元々、女は論理的な思考が苦手らしい。超能力者の女性は三人だが、全国的な理系の女子の数から見ると多く感じるな」
「その超能力者の女全員にアンタは成績で負けてるでしょうが」
女性を愚弄する言葉に美琴が侮蔑で返す。真理は自嘲するように微笑むだけだった。拍子抜けする。
万全なら、この人格は憎まれ口と減らず口を並べ立て、美琴を激高させるまで罵倒するはずだ。
やはり、体調が思わしくないのだろうか。
「具合悪そうだけど、あれ以来、体の調子が変だったりするの?」
被害者の何人かが、事件後も気を失って病院に運ばれたニュースは美琴も知っている。真理もそれが原因の体調不良なのか。
真理はかぶりを振った。
「捜し物をしているんだ。大切なものを落としてしまってな」
「ふーん。手伝おうか?」
「いや、いい。見られると恥ずかしいものなんだ」
そこまで言われると、否が応でも先に見つけて秘密を握ってやりたくなったが、真理の思い詰めた表情を見て、その気も失せた。
何か違和感がある。調子が狂う。怒りよりも心配が先立つ真理など、美琴の知る真理ではなかった。
真理が視線を上げる。
「お前も、根も葉もない噂に乗せられて厄介事に首を突っ込むな。一日にも盛大にやらかしたらしいな。蓮っ葉な女だ」
「うるさいわね」
いつもの真理だった。だが怒鳴る気にもなれず、コーヒーに手を伸ばした。
真理の容態は、素人目に見ても患っているのは明らかだった。衰弱してゆく姿を見ているのは忍びない。
だが、この人格は強引に病院に連れ込んでも受診を拒否するだろう。そういう性格だ。
だから、ぶっきらぼうに言った。
「他人に迷惑かける前に病院に言って見てもらいなさいよ。また佐天さんが悲しむから」
「彼女もお前と同じで無謀な馬鹿だ。夏休みの補修にふたりで行ったらどうだ」
「アンタ、病人じゃなかったら張っ倒してたわよ」
あのとき何と言ったのかとか、能力の詳細とか、食蜂操祈との関係についてとか、垣間見た記憶の齟齬についてとか、問い正しいことは山ほどあった。
そのすべてを心の奥に流し込んで、美琴は席を立った。
この日ばかりは、これが正しいと思えた。
●
――八月九日。
朝になり、ゲコ太のケータイに流れるニュースを見ると、学園都市の研究施設が三軒も昨夜のうちに破壊されたとの記事がトップニュースとなって報じられていた。
「物騒になったものね」
幻想御手事件以降、学園都市の治安は目に見えて悪化している。元々、子供に強大な力を持たせることによって凶暴性が増したことが原因の衝動的な事件は多かったが、計画的な犯罪が最近になって増えた。
学園都市のセキュリティが施された研究施設を一晩のうちに三軒も襲撃するのは、多人数で周到に計画を練ったものに違いない。
そのような組織を警備員や風紀委員で事件を解決できるのか不安だが、黒子に咎められている。
真理にも釘を刺された。だが、それも性分なのだから仕方ないだろう。扉がノックされる。返事をして扉を開けた。
「御坂、届け物だ」
「届け物?」
部屋を訪れた寮監だった。行為能力者揃いの常盤台中学で恐れられている彼女は、怪訝な面持ちでA4サイズの白い封筒を手渡した。
相当に分厚く、表には美琴の住所が書かれているだけで差出人の名前はなかった。
「早朝に寮に置かれていたらしい。開封はしていないが、どうやら不審物は入っていないようだから、お前に渡しておこうと思ってな」
「はあ」
この手の類のものを貰うのは始めてではない。手紙は何通も渡されたことがあるし、資料を研究施設から届けられることもある。
だが、これは郵便局を経緯しておらず、直接寮に届けられたようだ。美琴宛ということもあり、寮監は重要な極秘書類と判断したのかもしれない。
黒子は朝から風紀委員の仕事で出かけており、一人きりの美琴は、寮監が去ったあとで封を切った。
資料は少なくとも五十枚近くあり、ずしりと重量が手に負担をかける。
「質の悪いイタズラじゃないでしょうね……」
半信半疑で目を通す。その一枚目のタイトルを目にした途端、美琴は凍りついた。
『絶対能力(レベル6)進化計画について』
太字で書かれた文字を見つめ、時間だけが経過する。
「レベル6……?」
与太話としか思えなかった。学園都市の最高位はレベル5の第一位だ。それより高位を作り出すなど――子供の空想としか思えない。
そう否定する心とは裏腹に、美琴の指は資料を捲った。一枚目をめくると、その書かれた内容の異常性にまた手が止まらず、全容に目を通してしまう。
「実験には、第三位の劣化クローンを使用する……絶対能力に到れる超能力者に二万人を殺させる実験……」
正気の沙汰ではない。この計画を企画した人物は確実に狂っている。人道を冒涜しているし、この計画が正しい保証もない。
なのに、これを実行している輩がいる……? 美琴にはとても信じられなかった。
だが、
「あのとき――!」
思い出す。幼かったころ、病気の子供の治療のためにという名目でDNAマップを提供した。
まさか、それが転用されたのか。
「……続きがある」
計画の全容の他にも、まだ二十枚ほど残っていた。研究施設と思しき写真とその名前が記されている。
その名前には憶えがあった。すぐさま携帯を取り出し、トップニュースを確認する。
やっぱりだ。昨夜襲撃された施設は、絶対能力進化計画に関与している。
だが、疑問が残る。これを作成した人物は何の目的で、この資料を美琴に届けたのか。
この実験を知った美琴が必死になって止めようとするのを見越してのものか。
もちろん、真偽を確かめて、事実なら止めるだろう。だが、思い通りに操られているようで癪に障る。
美琴はさらにページをめくって、手を止める。最後の三枚は、次の事柄について纏められていた。
『万能物質の生成方法と人為的な原石の変異過程』
●
資料をすべて見終えた美琴は、直ちに真理に電話をかけた。しかし、繋がらない。
舌打ちすると、制服を着て寮を飛び出した。どうしてこうもあの男はこうも間が悪いのか。
昨日の真理が脳裏に過ぎる。
『捜し物をしているんだ。大切なものを落としてしまってな』
確かにそう言っていた。寝不足なのも、事件と関連付けると説明がつく。
これを届けたのも、事件の犯人も、真理以外にない。あの男は、美琴に何らかのメッセージとして、これらの事件を起こしたのだ。
必ず捕まえて、思惑を白状させてやる。
真理のマンションに向かう。まだ寝ているのかもしれない。部屋に呼びかけても出ないので、セキュリティを破って部屋に忍び込んだ。
もうなりふり構っていられなかった。しかし、寝室を覗いても真理の姿はない。この時間から外出したのか?
出ようとして――今日は、あのカメムシ臭がしないことに気づいた。あのハーブは、後に調べてわかったが、コリアンダー、もしくはパクチーと呼ばれるハーブらしい。
前は鼻が曲がるかと思うほど強烈な匂いがしたが、今はベランダでも栽培していないようだ。
なぜ彼がコリアンダーを栽培していたのか分からないが、興味もなかった。
それ以外の目ぼしい変化のない部屋を出る。生活感は、相変わらず皆無だった。
美琴が部屋を出ると、空を赤い羽根が舞っているのを見つけた。
珍しい。学園都市では生き物の痕跡を見かけることさえ難しいからだ。
ゴミが発生すると、機械が掃除をしてしまう。稀に野良猫など見かけるが、美琴の発生する電磁波を嫌って逃げられる。
しかし、日本に赤い羽根を持つ鳥が日本にいただろうか。一抹の疑問が湧いたが、すぐに忘れた。
●
美琴が真理の居場所を突き止めたのは、正午を過ぎてからだった。
思いついた場所を幾ら探しても、真理の姿は見えない。学校に登校もしておらず、手がかりがなくなった美琴は学園都市へのハッキングを敢行した。
そして、真理が昨日から入院していることを突き止めた。入院した時間は、美琴と別れてしばらくしてからだった。
病院で真理の部屋を尋ねると、自然と早足になる。制服は汗だくで、逸る足が抑えられない。
引き戸を開ける。真理の病室は個室で、カエル顔の医者と上体を起こして話していた。
「アンタなんでしょ……」
顔を見ると、まずその言葉が口を突いた。真理は突然の来訪者に目を丸くして、すぐに無表情に戻った。
「何のことだ」
「惚けないでよ! 朝の資料のことよ!」
はぐらかされたと憤慨し、大股で真理に歩み寄る。カエル顔の医者が立ちはだかった。
「面会謝絶と掛札に書いてあったはずなんだがね?」
「いいです、先生。で、何の話だ」
真理が促すと、医者も道を開けた。間近で見た真理の顔色は蒼白で、健常とは言い難い。
話の腰を折られても美琴の興奮は収まらなかった。声が荒くなってしまう。
「三日前からの研究施設の襲撃事件の犯人、アンタなんでしょ!?」
「人聞きの悪い奴だ。勝手に人を犯罪者にするな」
「アンタ以外にありえないのよ!」
ヒートアップする美琴を見かねてか、カエル顔の医者が口を挟んだ。
「彼が犯人というのはありえないよ? 彼は昨晩、ずっとここにいたからね?」
「こいつには幻想御手のときも病院を抜け出した前科があるじゃない!」
「うん。でも昨晩は検査のために一晩中脳波を測定していたんだよ? 幻想御手被験者の子供が続々と倒れているからね?
彼も例外ではないから。その検査記録もあるが、見るかね?」
「なっ……」
真理ではない。その決定的な証拠を突きつけられ、美琴の頭が真っ白になる。
真理ではないなら、いったい誰が? 真っ先に思いついたのは食蜂操祈だが、彼女は真理に関しての情報を教える気はない、の一点張りだった。
このような方法でも、仔細に記すとは考えにくい。美琴は一歩後退して、
「……ね、ねえ。『エリクサー』って、なんなの」
問われた真理は一瞬、険しい顔になったが、すぐに戻った。視線を外に向けて、抑揚のない声で言う。
「馬鹿な研究者が架空の存在を作れると騒いで、全部が机上の空論で終わった笑い話だ。聞きたいなら、一から十まで聞かせてやる」
「いい……」
もう知っている。美琴は踵を返して走り去った。静寂を取り戻した室内で、医者が言う。
「その目、移植するならいつでもやってあげるんだがね?」
「気に入っているんで、いいです。見えなくなったら考えますよ」
白い羽根が病院の外で風に舞った。
急患のようだ。ため息をついて退出する医者を見届けて、真理は外を見た。
羽根はゆっくりと地に引かれていった。