「L.R.S」のレッスンから戻ってきた夏樹さんと柑奈さんが、騒然とした事務所に呆然としていた。「なにかあったんでしょうか?」柑奈さんが怪訝としていたが、当然ながら夏樹さんも分からなかったようだ。
事務所のソファーに座っていた私は、二人に頭を下げた。
「お、おはよう、ございます……」
「おはようございます」
「おはよ、輝子」私に挨拶をしたが、やはり夏樹さんは困惑しているようだった。「なにがあったんだ?」
「フ、フヒ……」
夏樹さんとは涼さんと三人で「ハードコア☆ヘヴンズドア」というユニットを組んでいて、プライベートでもとてもお世話になっている。なにがあったのか、私が口下手だから上手に説明できたか分からないけれど、夏樹さんならきっと大丈夫だと思う。柑奈さんは、ちょっと自信がない。
プロダクションでも話題になっていた、私と瓜二つの子。
彼女がついにネットニュースになってしまったらしい。
私は親友に話をされたばかりで詳しいことは知らないし、たぶん親友もまだ全部は分かっていないと思う。親友や、プロダクションの社員さん達は事実確認や、ぽつぽつとあるプロダクションへの問い合わせの対応をしていた。
事務所の片隅では、りあむさんがなにやらちひろさんと話をしていた。
彼女がネットニュースになった発端は、とあるまとめブログ(まとめブログというものを、私はよく知らないけれど)が、彼女の動画や配信を無断でアップロードしたからだ。当然、りあむさんはまとめブログの管理者でもないが、ちひろさんに絞られてからもどうやらりあむさんは彼女と関係があったらしい。ちひろさんは彼女の素性などをりあむさんから確認しているが、配信を観ていただけだからと、りあむさんも詳しいことは知らないようだった。
「うへー、ちかれたー……」
またちひろさんに説教されるのかと戦々恐々していたが、解放され、ソファーでたれぱんだ(菜々さんが好きらしい)のようだったりあむさんも嬉々としていた。
「無断転載するなら、ボクだったらもっと上手くやるけどね!」
余計な一言はりあむさんの愛嬌かもしれないが、ちひろさんには許されなかった。ちひろさんの「可哀相だけど明日の朝にはお肉屋さんの店先に並んでいる」養豚場のブタを前にしたような表情に、りあむさんは正座をしながら「ぶひぃ……」と呻いていた。
親友達が情報収集に追われているときにも、事態は悪化していた。
最初は動画が無断転載されたニコニコ動画を運営する、ドワンゴのネットニュースだけだったが、スマホひとつあれば、ネットに疎い私でも情報を拡散できる時代だ。後発のネットニュース、SNS、匿名掲示板(ときどきニュースにもされているそれを、5ちゃんねるという名前だと私は知らなかった)にまとめブログと、次々に彼女の動画が拡散されていた。
彼女に非はない。
問題は、彼女が私だと誤解されたときだ。私が勝手にネットで活動しているということになるからだ。
親友は「プロダクションの、アイドルへの管理意識が、世間から問われかねない」と危惧していた。ときおり、ネットで炎上しているアイドルとしてりあむさんが話題になっていることも一因かもしれない。りあむさんにも非はないけれど、どうにも彼女はいつもタイミングが悪かった。ちひろさんにまたも怒られ、りあむさんは事務所の片隅でふごふごと泣いていた。
「この方が、私は輝子ちゃんじゃありませんって、言ってくれればいいんですけど……」
言葉とは裏腹に、柑奈さんの表情は悩ましかった。たぶん、それは難しいと分かっているのだと思う。
彼女が私と別人だと証明すれば、事態はたぶん簡単に終息すると思うが、やはりネックになるのがネット社会だ。彼女の個人情報が拡散され、プライバシーが脅かされるかもしれない。彼女もそれを恐れないはずがないと、柑奈さんも理解していた。
能天気なのはりあむさんだけだった。
「ウチで囲ったらいいじゃん」
「ん?」
「うひ」
夏樹さんにメンチ切られたと思ったのか、りあむさんは呻いた。
「だ、だってだって、輝子ちゃんに似てンだよ。ばつ牛ンに。スカウトしない手はないってぼくは思うな」
正論ではあるが、楽観的なりあむさんらしいなと思った。夏樹さんの苦々しい表情が、なによりも雄弁だった。「それができれば、誰も苦労しない」
「いや、いいかもしれないな」
重苦しい沈黙を破ったのは、ワイシャツの上にブルゾン姿の、小柄な男のひとだった。背丈は柑奈さんよりも低いかもしれない。彼はなにやら思案しているようだが、体格の所為か、あまり威厳はなかった。
唐突に現れた彼は、呆然とする私達を余所に、ぶつぶつとなにか呟きながら唐突に去っていた。
「誰?」
りあむさんの疑問は、もっともだった。
○
小柄な男のひとは、キッズアイドルを中心に活動している部署のプロデューサーだった。彼は「
あらゆるメディアコンテンツを企画、制作する一大芸能プロダクションでありながら、まだYouTubeを開拓できていない。これを機にYouTubeでもコンテンツを展開し、彼女をスカウトできれば私の疑惑も払拭される。「まさに一石二鳥だ」彼は気炎を上げていた。彼が担当しているキッズアイドルもよくYouTubeを観ているから、YouTuberの影響力を馬鹿にはできないと生まれたアイディアだった。それはプロダクションの上層部も同じだったらしい。とんとん拍子にMCN部門が新設されていた。
後日。
設立のきっかけになった私達は、新調された部屋に集まっていた。元は倉庫だったらしい。綺麗にされていたが、名残があった。
「いやただのトカゲの尻尾切りでしょ」りあむさんが嘆息した。「もしこのプロジェクトが失敗したらあのちっこいのは責任者として切られるね。上は責任の所在ってのが欲しかっただけだよきっと。俺は詳しいんだ。汚いなさすが大人きたない」
「#陰謀論に自信ニキ #イキリオタク #オタク特有の早口」
「グエー」あきらさんに繊細なハートを抉られたのか、りあむさんは悶絶した。「死んだンゴ」
集まっていたのは当事者である私と、ある意味で関係者のりあむさん。それと、りあむさんの同期の砂塚あきらさんだった。MCN部門を設立したのに配信者がいないのでは意味がないと、アイドルになる前から動画配信をしていたあきらさんにどうやら白羽の矢が立ったようだ。二足の草鞋は大変ではないかと思ったが、あきらさんはアイドル砂塚あきらとしてオフィシャルに配信できるのを喜んでいた。
「Japanese小池サンに会いたいデスね」
「誰?」
りあむさんの疑問は、もっともだった。
あきらさんによれば、Japanese小池さんはFPSのプロゲーマーだった。彼が主に活動している「コール オブ デューティ」シリーズでは、国内で負けなしと評されるほどの伝説的なプレイヤーらしい。「へえー」饒舌なあきらさんに、りあむさんは相槌をしていたが、視界の隅の飛蚊を追っているかのような表情だった。
「興味ないデスね?」
「うん!」
満面の笑顔で返事をしたりあむさんは、あきらさんにぶん殴られていた。仲睦まじい二人の姿に私がほんわかしていると、部屋のドアがノックされた。「はーい」カーペットのようにぺちゃんこに潰れているトムりあむさんの上で、ジェリーあきらさんが返事をした。
入ってきたのは、MCN部門を担当することになった親友だった。
「あれ? 尻尾ってちっこいのじゃないの?」
「しっぽ?」
「りあむサン」
「ごえ」
失言に、りあむさんはまたあきらさんにぶん殴られていた。幸いにも、親友はどうやらりあむさんの言葉の意味を分かっていなかった。分かったらそれはそれで勘がいいってレベルではないと思うが。
まずは、親友のブリーフィングから始まった。
もともとMCN部門を設立するついでに彼女をスカウトする魂胆だ。もっとも都合がいいのは私のプロデューサーである親友だった。親友が私と彼女のスケジュールを一括に管理すれば、二人は同一人物だという疑惑も払拭しやすいはずだとプロダクションが判断したからだ。
「それはいいんデスけど、このひとに断わられたら元も子もないんじゃ?」
あきらさんの疑問にも、親友の表情は変わらなかった。「彼女からは既にいい返事を貰っている」とのことだった。さすがのあきらさんも驚嘆しているようだった。
「早いデスね、仕事」
「ほぼちゃんもこの状況、困ってたっぽいし」
「ほぼチャン?」
私も「ほぼちゃん」はどうかと思うが、りあむさんの言葉に追従するように、親友が頷いていた。無断転載から陥ったこの事態をどうにかしたいと、彼女もプロダクションの提案を了承するつもりのようだった。まだ悩んでいるが、彼女と「ガブリアむ」というアカウントで連絡を取っているりあむさんによれば「あともうちょい」らしい。この事態に、別アカウントをちひろさんに許されたりあむさんは無敵だった。
途端に、あきらさんの眉間に皺が寄った。
「信用ならないんデスけど」
「いや大丈夫だって絶対」
「りあむサンの絶対はマジで信用できないデス。プロデューサーサン、このひと外したほうがいいデスよ、プロジェクトから。ホントに」
「やむ!」
この事態の関係者ではあるが、彼女をスカウトできたらりあむさんはお役御免だった。ネットで炎上ばかりしているりあむさんが、あきらさんのようにMCN部門を兼任することはもともと検討されていない。一緒に呼ばれていた為か、どうやら二人とも早合点していたようだ。
親友の話に、あきらさんは安堵していた。
りあむさんは絶望した。
「ぷ、プロデューサーサマ! ぼくもゲームしてオタクどもにチヤホヤされたい! だからお願い! なんでもしますからぁ!」
ゲームをすれば仕事になるという夢のような環境が絶たれ、親友の足元に縋りつきながらりあむさんは慟哭した。あきらさんの表情には軽蔑があった。
実に平穏な、MCN部門の第一歩だったと思う。
○
彼女の返事を待つ日々だったが、意外と不安はなかった。能天気なのはりあむさんだけだと思っていたけれど、私もかなり能天気なようだった。
ただ、親友はどうなのか分からなかった。
私を心配して、不安になっているかもしれないと思った。MCN部門の担当になったのも、もし私を守る為だったら嬉しいけれど、それだけ親友の仕事を増やしているということでもあった。私が不安になれば、きっと親友の負担にもなる。それだけは嫌だったから、能天気でよかったのかもしれない。
親友が無理していないと、嬉しいな。
今日は小梅ちゃん幸子ちゃんとのレッスンだった。
モデルとしても活躍しているまゆさんや、バラエティー番組に出演している幸子ちゃんのように、ソロでメディアに出演することが、私にはあんまりない。レギュラー番組があれば、それを軸にスケジュールが組まれるので、私のスケジュールは基本的に流動的だった。ソロでライブやイベントに出演することもあるけれど、私は「カワイイボクと142's」や「ハードコア☆ヘヴンズドア」のような、ユニットでの活動がほとんどだ。
「フヒィ!」
ふと、休憩していた私の首筋に、冷たいものが触れていた。私は、たぶんアイドルにあるまじきマヌケな悲鳴を上げていた。お茶目なイタズラを成功させた小梅ちゃんが、ペットボトル片手に笑っていた。ポカリスエットだった。
幸子ちゃんも一緒だったが、小梅ちゃんに呆れていたようだった。
「随分と上の空でしたねえ」
「フヒ……」
図星だ。
幸子ちゃんは微笑んだ。子を心配する親のような、優しい表情だった。バンジージャンプやスカイダイビングをさせられている姿からは想像もできないかもしれないが、きっと仲間である私達しか知らない表情だ。プロダクションの後輩でもあるシンデレラプロジェクトのひとがロケで苦戦していたときも、この表情をしていたと友紀さんが話していた。ひとつ年下だけれど、幸子ちゃんは私よりもよっぽどオトナだ。
「プロデューサーさんが心配ですか?」
「う、うん。……で、でも、いつも通りなのが、一番だなって……。親友も、心配しないと、お、思うから……」
私の言葉に虚を突かれたような幸子ちゃんだったが、満足したとばかりに頷いた。
「分かっているじゃないですか。さすがは輝子さんです」
「フ、フヒ……」
「フフーン」
赤面した私に、幸子ちゃんはいつものように笑った。私も一緒に笑った。
「フギャ!」
ふと、幸子ちゃんがアイドルにあるまじきマヌケな悲鳴を上げていた。目を白黒させながら、幸子ちゃんは首筋をしきりに触っていた。お茶目なイタズラを成功させたのかは分からないけれど、小梅ちゃんがなぜか不機嫌になっていた。手はいつもの袖口の余ったパーカーに隠れ、なにも持っていなかった。
幸子ちゃんは顔面蒼白になった。
「小梅さん!」仔鹿のようにぷるぷるしながら、幸子ちゃんが叫んだ。涙目だった。「あの子はダメっていつも言っているじゃないですかあ!」
「知らない」
「小梅さん!」
「知らない、もん」
かわいい。
デートをすっぽかされた女の子と、男の子のワンシーンのようだなと思った。「フヒ」必死になっている幸子ちゃんの姿とさっきまでのギャップに、私はつい笑ってしまった。
二人から睨まれた。
「ゴ、ゴメン……」
私は、二股がバレた男のワンシーンのように謝った。