夜来の細雪が止み、ひんやりとした空気が頬を撫でる朝。小十郎は政宗の母、義姫のもとから、ゆっくりと帰路を辿っていた。
(早いところ、戻りてぇもんだが)
残してきた仕事を思うと、のんびりしているわけにもいかないのだが、何しろ持たされた土産が馬三頭分にものぼるもので、中には脆い菓子のたぐいがあるというから、むやみに急かすわけにもいかない。
(仲が宜しいのは結構な事だが、ここまでくると過保護だな)
義姫が根掘り葉掘り、息子の様子を聞きたがる様を思い出し、一人苦笑を口に上らせる。
本来ならこのような役目は、たとえば義直や左馬之介などが務めるはずなのだが、政宗が一番信を置く小十郎にこそ話を聞きたい、というのが義姫の要望だった。
『Ha、母上のたっての望みとあらばしかたねぇ。小十郎、土産をたんまり持っていって、喜ばせて差し上げろ』
政宗自身からも命じられれば、否やもない。小十郎は山のような進物を整えて義姫のもとへ向かい、下にも置かぬ歓待を受けた。
少し話をして辞するつもりが、是非にと強いられて一晩泊まることとなり、その次の日。
ようやく出立して帰途についたのが、辰の刻(八時)である。
(まぁ、昔のように険悪な状態であられるよりは、よほど宜しい事だが)
政宗が家督を継ぐまでの間にあったあれこれを思い出しながら、馬上に揺られる小十郎。その足下は半ば溶けた雪に濡れる山道で、耳に届くのは、蹄が枯れ葉を踏み分ける沈んだ音だけである。
(そろそろ春も近いな)
ぼそっ、ぼそっと重たい蹄の音を聞きながら、小十郎は考えに耽った。つい先頃まで雪に埋もれていた奥州も、命芽吹く春に向けて日一日、その化粧をぬぐい去りつつある。露に濡れる木々を見る小十郎の頭の中は、しかし戻った後に控えている仕事のあれこれに占められていた。
(文の確認と……土産の仕分け……田の手入れに……あぁ、孫兵衛が何か相談事があるといってたな)
伊達の家政も取り仕切る小十郎の要務は数多い。奥州をその背に負う政宗の負担を少しでも減らす為なので、どれほど忙しくても苦にならないが、こうして仕事から身を離している時は、政宗が不自由していないか、何か遅滞はないかと心配で心が曇る。
(近々、文七郎辺りに書の手伝いをさせるか)
そんな事を思いながら、馬を進めて下り坂にかかった時。
ずっ……
「!?」
不意に視界が揺れて、身体が前面に引っ張られた。ひぃん、と空気を裂く甲高い鳴き声が耳に届いた次の瞬間、馬体が勢いよく前のめりになる、否、踏ん張った馬の足ごと地面が斜面を滑り、その上三頭とも、荷物を背負った状態で連なっていたため、
「なっ!?」
さすがの小十郎も身動き叶わず、咄嗟に馬体を挟む足を締めてしがみつく事しか出来なかった。しかも悪い事に、緩く湾曲したその道の先に、旅装の女が視界に飛び込んでくる。
「あぶねぇっ、避けろ!!」
口から出た叫びに女が振り向く。笠の下に隠れた顔の表情までは見えなかったが、坂を滑り落ちてくる馬たちに驚いたのか、女はびくっとして後ろにとびすさった。だが、
「――あっ――!!」
足を下ろした先に地面が無い。きつく手綱を絞って馬の暴走を止めようとする小十郎の目の前で、女の姿は山道の端から、ぱっと消え失せてしまった。遅れて悲鳴と、枝葉の折れるばきばきばきっという音が、地滑りの合間に小十郎の耳へ届く。
「どーう、どうどう!」
坂を滑り落ちた馬が混乱状態であらぬ方向へ走り出しそうになるのを、小十郎はその膂力と卓越した手綱さばきで押さえ込んだ。道の端から飛び出しかけたところで何とか留まると、息を荒げる馬の上からひらりと飛び降りた。
(さっきの女は!)
膝をついて下を覗き込む小十郎の目に映ったのは、一丈ほど下がった場所にある茂みに埋もれた女の姿だった。腰の辺りを中心にめりこんで、笠はどこかに吹っ飛び、着物の裾が膝までめくれて、あられもない格好になっている。
「おい、あんた大丈夫か!!」
まさか死んだか、と肝を冷やした小十郎が良く響く声で呼びかけると、
「……あぁ……いたたっ」
女は顔をしかめながら、茂みから抜け出そうともがいた。意識はあるようだが、腰がはまっているせいで、身動きが取れないらしい。
「少し待ってろ、今行く!」
下手に動けば、女を支えてる枝が折れて、更に落ちるかも知れない。小十郎は腰の刀と羽織を地面に置き、未だ落ち着かない馬たちを木立に繋いだ後、慎重に土の斜面へと足を踏み出した。
石や木の根っこを手がかりに、足先から斜面を滑り降り、小十郎は女のもとに辿り着いた。
「よし、あんた、起きられるか?」
「あぁ、まぁね……ん、しょっと」
小十郎が来るまで大人しく待っていた女は、その手を借りてゆっくりと身を起こした。足を踏ん張った小十郎が両手を使って引き寄せ、
「俺に掴まれ。このまま上にあがる」
茂みから引き出した女の腕を首に回させる。大丈夫かい、と女が眉根を寄せて苦笑した。
「あたしは結構重いよ?」
「これくらい、どうということもねぇ。良いからしっかり腕に力を入れろ」
「分かった。頼んだよ、旦那」
そう言って女は小十郎にぎゅっとしがみついた。小十郎はその腰に手を回し、片手と足だけで登り始める。日々鍛錬を怠らない小十郎にしてみれば、女の身体は重さなど感じないほどだったが、一点だけ、……密着した女の胸元が、相当に立派なものだったので、そこの質量だけは意識せざるを得なかった。
(……こんな時に何考えてんだ、俺は)
前田の風来坊じゃあるまいし。己を恥じた小十郎は、浮かんだ雑念を振り払うと、斜面を登る手先、足先だけに意識を集中して、女の香しい匂いにも気づかないよう特に努める。
「むっ……!」
そうして女を抱えたまま、小十郎は斜面を登り切った。淵に手をかけて一気に身体を持ち上げ、まず女を、次に自分の身を道の上に戻し、一息吐く。
「大事ないか、あんた。驚かせちまってすまねぇな」
多少崩れて目の前に一筋落ちかかった髪をかきあげながら、小十郎は女を見、そして息を飲んだ。
あちこちに土や葉をまとわりつかせた女は、年の頃、小十郎と同じくらいのようだ。
声をかけられてこちらを見上げる目はぞろりと細かいまつげに縁取られ、ぬばたまのごとく黒々とした瞳が小十郎を映している。そのいかにも柔らかそうな肉厚な唇、その肩に落ちかかるしっとりとした長い髪、着物の上からも分かるほど女らしい肉付きで、しなだれるように曲線を描く身体……見た目の何をとっても艶を含み、ぞくりとするような色気が見て取れ、小十郎は秘かにたじろぐ思いがした。
(こんな山の中にいるような女じゃねぇな)
地味な紺の着物を身につけているが、どちらかといえば、花鳥風月を派手にあしらった華やかな衣装が似合いそうな、いかにも町の女という風である。
「あぁ……ありがとうよ、旦那。何とか無事だよ」
小十郎の問いかけに答えた言葉遣いは、蓮っ葉で女の風体にも良く合う。乱れた着物を直し、あぁ驚いた、と言いながら立ち上がろうとして、
「っ!!」
女は不意に顔をしかめて地面に尻を落とした。ぎょっとして小十郎は女の腕を掴んで支える。
「おい、大丈夫か!」
「ああいや……大丈夫といいたいけど、ちょっと無理だね、こりゃ」
「怪我したか。どこが痛む」
「足が……」
「見せてみろ」
途端、女は困惑の表情を浮かべた。
「そんな、見てもらうほどのものじゃないよ」
「だが、立てないんだろう。安心しろ、悪さはしねぇ。簡単な手当なら俺にも出来るし、あんたが怪我したのはこっちのせいだ。少しは楽になるだろうから、看させてくれ」
「……ふう。分かった、じゃあ頼むよ、旦那」
不承不承と苦笑いを浮かべ、女は右足のすね辺りを示した。
小十郎がその足下に膝をつき、不作法にならないよう注意しながら着物の裾を少し開くと、白い足が露わになる。普通の時ならこれもまた目の毒になりそうな綺麗な足だが、落ちた時に打ったものか、あちこちに打ち身らしき赤い跡がついていて、見るも無惨だ。
(いや、それだけじゃない。これは……刀傷?)
打ち身を慎重に調べながら、小十郎の目にそれが映った。右足の脇から前面にかけて、傷痕が長く伸びている。
(躊躇ったのは、このせいか)
恥じらいというより、困っている風だったのは、これを見られたくなかったのかもしれない。無理強いしてかえって悪い事をしたか、と思ったが、小十郎の手が足首近くの痣に触れると、
「いつっ!」
女がびくんと大きく震えた。
「ここか。……これは……いけねぇな。捻挫どころじゃ済まなさそうだ」
小十郎は医術を学んではいないが、鍛錬の合間に行う手当は慣れたもので、怪我の具合もある程度ははかれる。どうやら足の骨に異常を来しているらしい。
「折れてや……しないだろ?」
いつつ、と呻く女は言葉こそしっかりしてるが、その額に汗が浮かび、いかにも辛そうに顔を歪めている。
「あぁ、だがおそらく、骨にひびが入ってる。これじゃ歩ける訳がねぇ」
小十郎は衝撃を与えないように女の足を静かに下ろす。羽織を着、刀を腰にはいてから馬達のもとへ向かうと、下ろした荷物の中から小太刀と紐を取り出した。女のところへ戻り、細い足首に添え木代わりと結びつける。
「とりあえずこれで我慢してくれ。この先に里がある、そこで医者に診せよう」
「そうかい、そりゃ助かる……うわっ!?」
そして腕を女の背中と足の下に回して、ふわりと抱き上げた。突然の事に女が驚いて暴れかけ、しかし足から激痛が走ったのか、いぃうううう~、と奇妙な声を漏らして縮こまる。
「おい、暴れるんじゃねぇ。馬に乗せるだけだ」
「あぁ、はい、分かった……。だけど旦那、頼むから、何かする時は、予告しておくれよ……びっくりするじゃないか」
「それは、悪かったな」
「そうだよ。馬が落っこちてくる前にだって、今から落ちるぞとか言ってくれりゃいいものを」
無茶言うな、と小十郎は眉根を寄せた。確かに注意散漫だったかもしれないが、地滑りの予想などつくものか。むっつりしながら、荷物を下ろした馬の鞍に女を座らせると、女が不意に小十郎の顔を覗き込んで、
「やだねぇ、冗談だよ。旦那にも馬にも、怪我がなくて良かったね」
黒々とした目を細めて笑った。間近で見た柔らかい笑顔、それと同時に、ふわりと何か甘い匂いが鼻をくすぐり、小十郎は一瞬身が強ばるのを感じた。
「……っ」
何だこれは。出会ったばかりなのに、驚くほど強烈に、女を感じる。支えにとくびれた腰を掴んだ掌に、吸い付くような柔らかい肉付きが伝わってきて、それが更に鼓動を早めてしまう。
「……旦那? どうかしたのかい」
馬の上で支えた姿勢のまま硬直してしまった小十郎をいぶかしみ、女が首を傾げる。その声で我に返った小十郎は弾けたように女から手を離すと、
「い、いや、何でもねぇ。早いところ行くぞ、そう時間はかからねぇからな」
自分も馬上の人となり、ざわつく心の裡を無視して、手綱を取ったのだった。