花のうへの露   作:なんじょ

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 ――それは朝顔がまだ、桔梗という名のしのびであった頃の事。

 

 群雄割拠の乱世。日ノ本ではそこかしこで戦が起こり、一つの国が滅び、一つの国が栄え、そしてまた滅んでいくのが日常である。しかしある時、織田信長という名の魔性が台頭し始め、戦は一方的な虐殺へとその様相を変えた。

 慈悲のかけらも与えず、ひたすらに蹂躙し、野火の広がるがごとくに勢力を拡大する織田軍によって数え切れぬほどの国が没し、生き残った者は皆、隷属を強いられた。

 天下布武の号令のもと、さながら地獄絵図のごとき天下統一が成される日は、いまや目前に迫っていた。

 

 宿敵、佐久を倒した鳴竹もその後、他国との戦に敗れてあっけなく滅びた。主を失った桔梗はその後も、頭の命じるままに様々な国を渡り歩く。

 しのびとはもとより、契約に従って仕事を行う技能集団であり、契約を越える忠誠など存在しない。

 幼い頃からしのびとしての生き方を叩き込まれてきた桔梗は、それゆえに、猫の目が変わるように主が入れ替わろうと、常に淡々と仕事をこなした。

 そこには何の感情も介在せず、例えどれほど冷遇されようと、逆にどれほど情をもって接せられようと、何も変わりようがなかった。

(草に心はいらない)

 桔梗は常にそう思っていたし、それが終生揺るがぬ真実だと信じていた。

 ――あの日、あの男に出会うまでは。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 空は真っ黒な雲に覆われ、激しい風雨を地上にこれでもかとばかりに振り下ろしてくる。

 ごうごうと強風が吹き付け、天が割れたかのような雨が降り注ぎ、常ならば人の行き交う山道に川を作って、ざぁざぁ音を立てながら谷間へと流れ落ちていく。

「うぅっ……あぁ、もう!」

 雨風吹き荒れる山中を、何とか乗り越えようと歩を進めていた桔梗は、目の前が見えなくなるほどの雨幕にとうとう観念した。泥にぬかるむ道を駆け、目に付いた木のうろに飛び込むと、

「はぁ……はぁ……はぁ、こりゃしばらく止みそうに無いねぇ……」

 ぽたぽた水滴をたらす前髪をかき上げながら、豪雨を中から見上げて息をつく。突然始まった嵐に見舞われたおかげで全身すっかり濡れ鼠になり、何とも情けない気分だ。

「日暮れまでに山を抜けたかったのに、困ったね」

 新たな雇い主のもとへ向かう途上だというのに、これではどうしても遅参する事になりそうだ。

(しかもしのび装束の他に服がない。人里に出たら、着替えを手に入れるしかないね)

 まさかこの格好で、新しい主人と対面するわけにもいかない。困ったもんだ、と口を曲げながら髪の水を絞った時、

 ……おぉぉぉん……

 嵐に混ざって、何かが響いた。

「……?」

 鋭敏な聴覚が拾い上げたそれに、桔梗は違和感を覚えて眉根を寄せる。最初は風の音か、と思ったが、

 ……あぁあぁ……

 すました耳に届いたのは、何かの声だった。

(獣? こんな嵐の中で?)

 それは動物の咆吼のように思われたが、しかし普通こんな天気の時は、どれほど獰猛な獣であろうと、ねぐらにこもって、嵐が過ぎ去るのを待つはずだ。

(何だろうね)

 と思いながら外を窺う。

 ……おぉぉぉぉっ!……

 ……どずん……どずんっ……どずん!……

 雨音にまぎれて距離がよく掴めないが、声と共に重たい振動が伝わってくる。何か大きなものが、この雨の中を移動しているようだ。しかも、こちらに向けて。

(ちょいと、もしかしてここにいたら、不味いんじゃないかい?)

 素早くうろの地面に耳を当て、それが確実に接近してきているのを確認した桔梗は、腰をあげた。

 なんだか分からないが、足音を聞くだけでも、相当巨大な生き物のようだ。雨に濡れるより、そんなものに出くわす方が怖い。

 そう思って膝をついて身を乗り出した時、それは突然やってきた。

 ず……どぉぉぉぉっ!!

「っ!?」

 不意に視界が激しく上下に揺れた。浮かび上がるような感覚、いや、本当にうろの中で体が浮き、ついで天地が逆さまになり、どしんと壁に叩きつけられる。

「なんっ」

(痛っ!)

 声を出した途端に舌を噛んだ。叩きつけた右半身が痺れたが、ここにいては危険だと咄嗟に判断した桔梗は、どちらが上か下かも分からず、ぐらんぐらんと木の葉のように振り回される中、壁を蹴ってうろから飛び出した。

 ざぁ、と雨が背中を打ち付ける。開けた視界で目にしたものに、桔梗は息を呑む。いったいどういう訳か、桔梗は木ごと空中に打ち上げられ、今まで登攀していた山を眼下に見下ろすほどの高さに投げ出されていたのだ。

(う、嘘だろ!?)

 いくら嵐がひどいからといって、目がくらむような高さまで、桔梗ごと木を運び上げるはずがない。しかも目まぐるしく回る視界には、同じように打ち上げられた木が何本も宙を舞い、互いにぶつかりあってどか、ばきっと派手な音を立てながら木っ端をまき散らしている。

 びゅう!!

「つあっ!」

 さらに高い場所は風の強さも違う。凶悪な突風に煽られ、体が紙切れのように吹き飛ばされそうになって、ぞっと寒気が背中を駆け下りる。

 このままでは地面に叩きつけられて、ぺしゃんこになるか、風に煽られ乱れ飛ぶ木に激突してお陀仏になるかのどちらかだ。

(あれに、何とかっ……!)

 号と迫ってきた木の胴体を蹴って避けながら、桔梗は手中の針を、まだ地面に根付いている木へ投げつけた。

 鋭く風を裂いて飛来する針はその後ろに鉄線をひき、根本から頭まで、太い幹に深々と突き刺さる。

「くっ!」

 吹き荒れる嵐の中、その糸をたぐり寄せ伝う。雨で手が滑るわ、風になぶられて天地が分からなくなるほどくるくる回る羽目になるわ散々だったが、何とか枝を掴み、それをたどって幹にしがみついた。そこからすべるように地面へと下り立った。文字通り地に足がついてほっとするも、顔を上げた途端に愕然とする。

「……こりゃぁ……なんだい……」

 上空からは雨風に遮られて見えなかったが、山道の景色が一変している。先ほど桔梗が共に吹っ飛ばされた木の周辺の地面が大きく抉られ、火薬で爆発したような大穴がいくつもあいている。

(地滑り? いや、でもこれは……)

 落下してくる木の下敷きにならない位置に移動しながら考えたが、地鳴りのような前触れはいっさい無かったし、こんな穴があくのもおかしい。

「何なんだい、いっ……」

 濡れて頬に張り付く髪をはがして一人ごちた台詞が、途中で切れる。不意に視界がふっと暗くなったと思った次の瞬間、

 ぶわっ……ずぅぅんっ!!

 黒い巨大な塊が空から降ってきて、たたらを踏むほどの振動と爆風をもって、地面に着地したのだ。

「んなっ……!」

 よろけつつも何とか足を踏ん張った桔梗は咄嗟に針を握り込んだ。が、目の前にそびえ立つ巨魁にぽかんとして、思わず呆然と見上げてしまう。

 ウゥゥゥ……オォォォ……

 それはゆっくりと立ち上がり、全身から湯気を立ち上らせて唸り声をあげた。

 先ほど桔梗が聞いたのとまさしく同じそれは、地を這うほどに低く、途方もない怒りが込められていて、間近で聞くと全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。

 しかも立ち上がったその体はまるで天をつくような巨大さで、野太い呼吸と共に分厚い筋肉に覆われた全身が獰猛にわななくのが見て取れた。

(大猿……いや、人!?)

 あまりにも巨大すぎて全容がつかめぬまま、桔梗はそれが獣などではなく、人間の男だと判じた。雨さえも触れた先から蒸発させるほど鬼気を放つそれは、確かに人の姿形をしていた。しかし、その巨体の上に乗った顔には、理性など欠片も存在せず、阿修羅がごとき憤怒のみが表れている。

「オォォォ……ヌァァァァネェェネェェェ!!」

 怒りの像は大きく胸を開き、空も裂けよとばかりに怒号をあげた。声に圧され、それだけで吹き飛ばされそうになり、

「うっく!」

 桔梗は咄嗟に膝をついて、風圧に耐えた。逃げなければ、と理性は告げている。しかしあまりにも強大な存在感に足がすくみ、

(恐ろしい)

 生まれて初めて芽生えた恐怖が、体を縛り付ける。

「ゴァァァァァァァァッ!!」

 絶叫をあげながら嵐の中、巨大な拳で大木をなぎ倒し、地面に巨大な穴を穿ち、憤怒のままに暴れる男がすぐ間近まで迫ってきても、

(死ぬ)

 目の前に迫った確実な死に抗う事さえ思いつかないまま、目を見開いてその場で凍り付いてしまった。視界が男の黒い影に覆われ、桔梗の体などあっけなく砕いてしまうだろう、巨大な拳が頭上に迫ったその時、

 ……ゴォォッ……

 桔梗の耳が、更なる異音をとらえた。それが何を意味するか理解した瞬間には、

 ……ドドドドッ……ゴォーーーーーッ!!

 山ごと崩れ去るのではないかと思うような激震が起こり、そこで桔梗の意識はぷつり、と途絶えた。

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