花のうへの露   作:なんじょ

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 それは、山間の小さな寺だった。

 斜面に伸びる、細く急な石段を登りきると、門が目の前に現れる。その敷居をまたいで入った境内は、小さな寺社を取り囲むように、紅葉の青い枝葉が覆い被さっていた。

 はらりはらりと気まぐれに落ちる葉を、小坊主が一人、箒で払い集めている。少年はこちらに気づくと、にこりと笑顔になった。

「こんにちは、今日は良いお天気ですね、薬師様」

 相手へ歩み寄る合間にも、背に負った薬箱の中でかちゃかちゃ、瓶の触れあう音が鳴る。桔梗もまた微笑み返して、口を開いた。

「ほんにまぁ、えぇお天気どすなぁ。山歩きにはようようどすわ」

 しかしそこから漏れた言葉遣いは、常とは大きく異なるものだった。なめらかな京都弁に、小坊主は何の疑問も持たずに話を続ける。

「京からおいでになったんですか? 途中で雨降りがひどかったでしょう」

「へぇ、頭からずぶぬれになりましたわ。その前がからっからどしたから少しくらいのおしめりは歓迎どしたけど、あんまりいっぺんに降られても困りますなぁ」

 世間話をしながら笠を脱ぐ桔梗。その容姿はしかし、普段のそれとは全く異なっていた。身に纏う旅装は薬師のゆったりした着物、目鼻立ちのはっきりした顔立ちは、人の良さそうな、しかも一見して中年の男に見えるほどの別人になっているのである。

「小坊主さん、こちらの和尚はんにお会いしたいんどすけど、今日はおいでどすか」

 京都弁を繰(く)るその声音も外見と合わせて、高音を押さえた男のものに変わっていて、もはや桔梗の面影はほとんどないくらいだ。

 桔梗を知る者とて容易に見破れぬ変装を、むろん初対面の小坊主が看破できるはずもない。

「えぇ、いらっしゃいますよ。ただ、今はお客様のお相手をなさってます。お急ぎなら、お声かけしてきましょうか」

 桔梗は少し考え、いやいい、と首を振る。

「そんなら、先にお参りをしてきまひょ。小坊主さん、ちぃとお聞きしたいんどすけど、こちらに、杉原はんちゅう方のお墓がおまっか」

「杉原様、ですか?」

「へぇ、名はねね、ちゅうらしいんどすけど」

「あぁ、その方なら分かります。ご案内しましょうか?」

 知った名を聞いたからか、少年は気安い調子で申し出てきた。それなら頼む、と頷くと、小坊主は箒を階段に立てかけ、

「こちらです、どうぞ!」

 ぱたぱたはしっこく先導していく。その後に続いて、境内脇の細い道に分け入り、葉を茂らせる竹林を左手に歩いていくと、不意に視界が開けた。低い石垣で囲った狭い墓地には、境内と同じように紅葉の木が、ずらりと並ぶ石柱の上に柔らかい日陰を作っている。

「杉原様のお墓は……あぁ、こちらですよ、薬師様」

 そのうちの一つを、小坊主が手で示した。それはこじんまりとした小さな墓だが、雑草一つ無く綺麗に掃除され、まだ火のついた線香と花が飾ってあった。桔梗は手を合わせて、しばし黙祷した後、目を開けて質問を口にする。

「……小坊主さん、うちの他にどなたか、ねねはんのお参りにいらっしゃったんどすか」

「えぇ、ちょうど先ほどおいでになったばかりです。今、和尚がお相手しているお方ですよ」

「へぇ、そうどすか。もしかして、ねねはんの良いお人どすか」

 風に揺れる花を見ながらさらに尋ねるが、小坊主は否定する。

「いえ、ねね様と生前親しくされていたご友人だそうです。ねね様をこちらへお連れ頂いたのもそのお方なんですよ」

「それはまた、ずいぶん縁の深いお人なんどすなぁ。そのお人にも、ねねはんのお話聞けたら、よろしゅうおすに」

「へぇ、あんた、ねねの知り合いかい?」

 不意にさわやかな声が割って入り、小坊主と一緒に振り返る。小道から小柄な老僧ともう一人、大柄な男がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。入った途端、視線が吸い寄せられる。

 一目で分かるほど鍛え抜かれた見事な巨躯もだが、更に目を引くのは、墓場には場違いなほどに色鮮やかなその衣装だ。

 長く伸ばした髪を頭頂近くで結んで鷹の羽根を刺し、纏うは白い毛皮で縁取った、袖無しで鮮やかな山吹色の着物で、片方脱いだその裏地は粋な紅。鎖帷子を帯びた分厚い胸板と腕を堂々と晒している。しかもその背に、男自身の長身さえ越すほどの大剣を負っていて、きわめつけには、小さな猿が危うげ無く肩に鎮座していた。

(これは、また……派手な男が来たもんだ)

 京にはばさら者も数多く、しゃれを気取って着飾る若衆が後を絶たないが、ただ派手なだけで悪趣味としかいいようのない、どぎつい格好になりかねない。

 しかし今目の前に現れた男のそれは、華美ではあるが余計な飾りがなく、生地の光沢からして上等な布を品よく仕立て、嫌みがない。しかもそれを鍛え抜かれた体躯に纏っているのだから、何とも見栄えがよく、惚れ惚れ見とれるほどの男ぶりだ。

「和尚様、前田様」

 つい言葉を無くしてしまったこちらの代わりに、小坊主がさっと間に入り、

「こちらの方が、和尚様にお話をお聞きしたいと」

 白い髭を顎にたっぷりたくわえた和尚は、好々爺の微笑みでこちらを見る。

「ほぉ、それはそれは。ねね殿の縁の方で?」

「あ、へぇ、知り合いいうほどのものじゃありまへんが……」

 我に帰って答えるが、和尚よりどうしても、後ろの男のほうが目立って気になる。桔梗のそわそわしたまなざしに気づいたのか、男がへぇそうかい、と会話に加わってくる。

「それなら俺も、輪に加えてほしいねぇ」

「前田殿、お帰りはよろしいので」

「なぁに、急ぎの用なんかありゃしないよ。なぁあんた、俺が邪魔しても構わないかい?」

 そういって人懐こい笑みを浮かべる男の申し出を、桔梗はもちろん、と即座に応じた。寺の者に少しでも話を聞ければ、と思ってきたが、ねねの友人と出会えたのなら、より詳しく故人を知る事が出来よう。

「うちのほうからもお願いします、えぇと……」

 呼びかけようとして、名が分からず口ごもると、男はニッと口の両端をあげ、

「俺は加賀の前田慶次っていうんだ。そんでもって、こっちが夢吉」

「ききっ!」

 小猿が肩の上でくるっと一回転して挨拶してみせる。ずいぶん人慣れした猿だ、何とも愛らしい。思わず知らず顔を綻ばせながら、桔梗もまた名乗った。

「うちは慈恵(じえい)言います。どうぞよろしゅうに」

 その外見と同じく、常とは異なる名前を、だが。

 

 墓場で立ち話をする事もなかろう、と住職の計らいで、桔梗と慶次は客室へと案内してもらった。小坊主が茶を出した後、

「ご足労頂きましたのに申し訳ございません。拙僧はつとめがあります故、これにて失礼致します。お二方とも、どうぞごゆるりとご歓談なさいませ」

 和尚も退室する。襖がぱたん、と閉まる音を機に、残った客人達は改めて話を再開した。

「それで、慈恵さん。あんたは、ねねと何処で知り合ったんだい?」

 最初に口火を切ったのは慶次だ。桔梗はふーふーと茶を冷ましながら、

「いえ、うちは会った事はあらしまへん」

「え?」

「まぁ話せば長い事ながら……」

 前置きして、まるきり嘘の話をさも真実であるかのように、さらさら語り始める。

「うちは見ての通り、薬売りを生業としてましてな。有り難い事にご贔屓にしてくださるお客様もぎょうさんおるんどすが、そのうちのお一人が、生憎、重い病の床についてしもたんどす」

 桔梗はその人を、とある呉服屋の隠居した老人だと言う。

「うちもお医師のせんせも、色々手を尽くしたんどすが、いよいよあかんようになりましてなぁ。終いに何やしてあげたい思うて、何ぞ心残りはあらしまへんか、と聞いてみたんどす」

「そうしたら、なんて?」

「へぇ、最後にもう一度、どうしてもお会いしたいお人がおる、言わはったんどす」

「それが、ねね?」

 桔梗はこくりと頷いた。人の良い中年男の顔を、真実味を込めて曇らせ、

「聞けばそのご隠居が昔旅先で、胸の発作を起こした時、たいそうお世話にならはったそうどす」

 ねねは倒れたご隠居に声をかけ、家に運んで医者に診せた後、昼夜問わず看病をしてくれたのだと続ける。

 しかし、その話に慶次は少し首を傾げた。

「話の腰を折ってごめんよ、慈恵さん。そいつはいつ頃の話だい?」

「確か十年前かそこいらやったと思います」

「……おかしいな。その頃なら俺もねねとは良く一緒に居た。そんな事があれば当然、俺も知ってるはずだ。そのご隠居さんの名前は?」

(まずいね、思ったより縁深いんじゃないか、このお兄さん)

 ひやりとしながら顔色を変える事無く、桔梗はすらすらと名を告げる。

「へぇ、石ノ塚 五兵衛はんどす」

「五兵衛か。五兵衛、五兵衛……うーん、やっぱり聞き覚えがないな。そのお人を疑うわけじゃないが、本当にねねに会ったのかい? 人違いをしてるんじゃないか」

 そう言われましても、と桔梗もまた困り顔を作って、首を捻る。

「ご隠居はんは、確かにねねはんやと言うてたさかいなぁ。うちには何とも言えまへんけど、慶次はんの知らんとこで、ねねはんが人助けなすったんとちゃいますか。

 一緒に居たゆうても、ほんまに四六時中、くっついとったわけあらしまへんやろ」

 慶次は頭をかいた。

「まぁ、そりゃそうだな。あのころはあいつと一緒に、あちこち遊び歩いて、家を空ける事も多かったし……」

「あいつ?」

 話の流れからして、ねねとは違う人物だろうか。そう思って聞き返すと、慶次の顔にさっと緊張が走った。これまでまっすぐだった視線を横にそらし、

「……いや。俺とねねともう一人、幼なじみだった奴がいてね。よくそいつと悪さをして回ってたもんだから」

 なにやら重い口調で言う。気にかかったが、それより自分の話をなんとか本当らしく見せる方が先決だ。なら、と微笑み、

「慶次はんがちょうどおらへん時に、ご隠居はんがねねはんのお世話にならはったんでっしゃろ。ほんの二、三日の事やったそうどすし、ねねはんもわざわざ、慶次はんに知らせる事もない思ったのかもしれまへんなぁ」

「うーん……まぁ、そうかもな。もしかしたらあいつには言ってたのかもしれないし……」

 後半は独り言だったが、漏れなく聞き取った桔梗はそこでぴんと来た。

 あいつ、とはどうやら、慶次よりもねねに近い人物らしい。友人より親しい相手となれば、家族か恋人。であれば、それはもしや秀吉の事ではないか。

(秀吉様とねねが、それほど古い仲だったか分からない。けど、もしそうなら……この兄さん、二人のことを詳しく知ってるに違いない)

 素早く考えを巡らせながら、慎重に話を続ける。

「ご隠居はんは結局迎えが来て、そのまんま帰ったそうどす。ほんでも、ねねはんに親切にしてもろたのは、えらい感謝しとったそうで、家に着き次第、お礼の品を店の者に持たせたんどす。

 でもねねはんは、『当然の事をしたまでで、そのお気持ちだけで十分です。お体お大事に』と言いはって、どうしても受け取らへんかったそうどす」

 すると慶次の顔がふっと和らいだ。

「それは、ねねらしいな」

「へぇ、何とも奥ゆかしいお人だったんどすな。ご隠居はんはそれで仕方なく引っ込めはったんどすけど、何とかお礼をしたいとずうっと考えとったそうどす。

 それで床についていよいよの時、せめてもう一度お会いしたいて、言わはったんどすな」

 語りながら、桔梗は薬箱を開けた。一番上にある桐の箱を取り出し、

「うちもご隠居はんには、えらいお世話になりましてなぁ。こっちはあちこち出歩く気軽な身分どす。そういう事ならうちが、ねねはんを連れてきましょ、と願い出たんどす」

 それを畳の上に置き、けど、とまた顔を曇らせる。

「どこに居てるかと調べてみたらあいにく、ねねはんがもうお亡くなりになっとると分かりましてなぁ。

 それをご隠居はんにそのまんまお伝えしたら、がっくり気落ちしはるやろ思うて、もし事情で連れてこれなかったらどうしましょ、と相談したんどす。そうしたら、じゃあせめてこれを渡してほしいと託されましてん」

 そうして恭しい手つきで箱の蓋を開けると、慶次が身を乗り出し、おお、と声を漏らした。

「こいつは……すごいな、見事なもんだ」

 見てもいいかい、と言うのに頷くと、慶次は慎重な手つきで簪を取り上げた。煌びやかな金を下地に、翡翠の粒を足に掴み、羽根を大きく広げた鳥の透かし彫りも精緻な一品である。

「前もこうしたもんを渡そうとして、断られてしもたそうどす」

「そりゃ、こんな高そうなものを寄越されたんじゃ、ねねも恐縮しただろうなぁ。こいつは大名のお姫さんも喜びそうな代物じゃないか」

「へぇ、それだけご隠居はんも感謝してはるんどす。末期の老人を気の毒に思うのなら、せめてこれだけでも受け取ってほしいと言われましてなぁ」

 慶次は簪をそっと箱の中に戻し、でも、と眉根を寄せた。

「慈恵さんも知っての通り、ねねはもう居ない。こいつは持って帰ってもらうしかないな」

「そしたらご隠居はん、がっかりします。ここで会うたのも何かの縁、よかったら慶次はん、これ受け取ってもらえまへんか」

「え、俺が?」

「へぇ、それをどうするかは、慶次はんにお任せします。ご隠居はんの気持ちを組んで、どうか、お願いします」

 全て嘘の演技ではあるが桔梗は役に入り込み、真実、病人の願いを叶えに来た薬売りの心境だ。真剣な声音で言い募り、深々と頭を下げて懇願する。と、慶次はしばらく悩む間をおいた後、

「……分かった。そこまで言うなら、ご隠居さんの為にも、こいつは預からせてもらうよ。だから頭を上げてくれ、慈恵さん」

「ほんまどすか!」

 ぱっと上体を起こし、桔梗は中年の顔を綻ばせた。あぁよかった、と胸をなで下ろす。

「これでご隠居はんに喜んでもらえます。そりゃあもう、ずうっと気にかけてらしたからなぁ」

「ねねも、そんな風に思ってもらえて、嬉しかったと思うよ。とても喜んでいたって伝えてくれ」

 そういって慶次は箱を受け取り、大事に懐へしまった。ほっとした、と茶を飲み、桔梗はさりげなく続けた。

「それにしても、ねねはんが亡くなりはってたとは驚きました。よいお人のようでしたのに、残念どしたなぁ。うちもお会いしたかったどす」

「……あぁ、まぁね」

 途端、慶次の顔が暗くかげった。ここが肝要だ。桔梗はわざと無神経さを装って尋ねた。

「まだお若かったらしいのに、何で亡くなりはったんどすか。ご病気か、戦に巻き込まれはったとか……」

「…………」

 しかし慶次はそれまでの快活さが嘘のように、黙り込んでしまった。

(ここでも、ねねの名は禁忌のようだね)

 その死にふれた途端、秀吉、半兵衛、そして慶次も皆、腫れ物にふれるような態度になる。一体何があったのだろう、と桔梗は敢えて更に踏み込む事にした。

「それに、ねねはんは豊臣秀吉はんの正室やったて、ほんまどすか?」

「!」

 びく、と慶次が震えて目を見開いた。その肩の上で、今まで大人しく菓子をかじっていた夢吉が、キッと鳴いて主人を心配そうに見上げる。

「うちの聞いた話じゃ、ちょうど秀吉はんが旗揚げしはった時に亡くなりはったそうどすな。今や飛ぶ鳥落とす勢いの秀吉はんの奥方どしたら、どんな贅沢も思いのままどしたろうに。秀吉はんもさぞ気落ちしたやろ、ほんにまぁお気の毒な事で」

「……がう」

 しんみり語っていると、不意に慶次が鋭く言葉を発した。下向きになっていた視線がきっとこちらを見据え、表情も険しく、

「違う。そうじゃない」

 強く言い放つ。突然の堅い態度に戸惑いの表情を浮かべ、桔梗は何がどすか、と反問した。

「うちが聞いたのは噂にすぎまへん。何が違うんどすか」

「ねねは……」

 慶次はぎりっと歯を食いしばった。膝の上で拳を握りしめ、

「……ねねは、秀吉に、殺されたんだ」

 一言一言、胸をえぐられるような苦痛を声に乗せて、呻く。

 

(…………え?)

 

 その瞬間、桔梗は硬直した。思いもかけない言葉に思考も止まり、目を見開いて慶次を凝視する。

 手から湯飲みが滑り、畳の上にとっと落ちた。中身のないそれは倒れて、くるりと回って動きを止める。

(秀吉様が……妻を、殺した?)

 同じように停止した頭の中で慶次の言葉を繰り返し、繰り返した途端に男の声が突き刺さるように蘇る。

『木下、藤次ろーう!! ねね様が敵、死ねええええ!』

 あの戦の折り、ただ一人で秀吉に刃向かった男は、確かにそう叫んでいた。

「何……で、どすか」

 蘇った記憶で更に頭を殴られたような衝撃を覚えながら、桔梗は辛うじて薬売りの口調で問う。

「どうして、秀吉はんが、奥方を……」

「……分からない」

 頭を振り、慶次は怒りに顔を歪めた。

「俺にはもう、あいつが何を考えてるかなんて、分からない。天下の為に、弱いものはいらない……そんなふうに、言っていたけど、俺には理解できない」

『この国を強き国とする。そのためには力が必要なのだ、何者にも覆される事の無い、絶対的な力が』

 秀吉の強い言葉がよみがえり、桔梗は知らず震えた。

(あれは……あの言葉の意味は……弱きはいらぬと……)

 強くある為に、己の弱さを捨てる。その為に、己の妻を手に掛けたと言う事なのか?

「……大丈夫かい、慈恵さん」

 事実に至れば、思い当たる事はいくつもある。血の気が引く思いでそれらを思い出していると、慶次が心配そうに声をかけてきた。桔梗はハッと我に返って、

「あっ、へぇ、すみません。何しろ思いもしない事で、驚きました」

「そうだよな。ごめんよ、俺もつい口がすべっちまった。ご隠居さんにはこのこと、伝えないでやってくれるかい。知ったらきっと、悲しむだろうしさ」

 転がった湯飲みをとん、と立てて、慶次は優しく言う。見も知らぬ老人を労る言葉は優しいが、しかしその表情にはいまだ、暗い影が下りている。

(このお人にとっても、ねねという女は、特別だったんだろうか)

 悲しげな表情に、なぜかこちらの胸が痛む。主人の悲しみを感じ取ったのか、小猿が労るように、慶次の頬を撫でるのを見ながら、

「……へぇ、そうさせてもらいます。慶次はん、つらい事どしたやろ、無理に話させてすんまへん」

 演技ではなく沈んだ声で謝罪すると、慶次は苦い笑みを浮かべた。

「いや……こうしてねねの事を話せる人がいるのは、嬉しいよ。そのご隠居さんには俺からもよろしく言っておいてくれるかい」

「へぇ、確かに。きっと喜ばれますわ」

 そういって桔梗も笑い返す。それはおそらく慶次と同じように、少しひきつった笑みではあっただろうけども。

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