アハハハーーーアハ、ーーアハハ、ーウフフーーーー……
……どこからか、少女の哄笑が聞こえる。
ソロソロと目蓋を上げると、見慣れた部屋はまだ暗く、妙に肌寒いようであった。辺りに人の気は無い。春の到来、と言うには些か無理があるような寒朝である。
ーーおかしいな……。
徐々に明瞭となっていく意識とともに、疑問が頭を擡げてきた。ガバリと布団を跳ね飛ばし、今の状況を確認していく。部屋を見渡した。己の服装を見た。時間を見た。妖力を這わせた。スキマを覗いた……。
ーーますますおかしい……。
この肌寒さから思惟するに、きっと今は冬だ。平常ならば未だ冬眠している時期であろうが、有事により目を覚ますことは珍しいことではない。だが、そのような時は必ず私の式が傍らに侍っていた。今回のように誰もいないというのは、初めてだ。それに、この部屋には結界が貼られているようである。妖力を這わせても、それに阻まれてどうも上手くいかない。感触からするに、かなり強力な結界だろう。藍が全力で張って漸く、と言った程度だ。更には、スキマも上手く繋がらない。スキマ自体は使えるのだが、覗いてみることが出来るだけで、それ以上はどうにも出来ない。結界の所為だという可能性もあり得るが、まさか私が結界に及ぼされるなどとは思えない。博麗の巫女なら万一があるが……。もしや彼女の叛乱なのかしらん。だとしたら、非常に面倒な事だ。いや、そもそも叛乱なんぞ起こされる謂れはない筈ーー。そこまで考えて、ふと、違和感を覚えた。
ーー思い出せない。私は一体何をしていたのだろう。
私の記憶がスッカリ消えてしまったという訳ではない。私は誰だとか、此処は何処だとか、そんな詰まらない物ではない。だが……冬眠前の記憶が全くというほど残っていないのだ。
記憶というのは、自己の証明に繋がるものだ。それは、客観的な……精神的な存在である私達妖怪にとって自らの根本とも言える、最も肝要たる物なのだ。自らの存在証明には欠かせない、己を己と決定付ける、最後の砦……。
一部とは言え、それを亡くした私は大いに狼狽した。今までに、冬眠があろうとその前後の記憶が亡くなるなんて事は一切なかった。増してや、この状況だ。最悪の事態も想定できてしまう。
……だが、此処で焦燥に駆られてはいけない。妖怪の賢者たる私は、常に冷静で無ければならない。
まずは、一呼吸。駆け巡り廻る思考を落ち着かせる。そして、彼方此方に散らばるそれらを纏め上げ、統制し、あらゆる思索を展開させていく。……やはり、月の連中だろうか。こうも厭らしい手口は、如何にも彼奴等らしい。すると、あの酒の恨みか?もしそうなら、ちゃんと彼奴等の鼻を明かせたというわけだ。そうして考えてみると、とても愉快な気分になってきた。思わず口角が上がってしまう。
段々と余裕が生まれてきた。そう、これこそが私だ。賢者とは、常に冷静で余裕綽綽たらなければならないのだ。さあ、思考に片が付いたら後は行動だ。兎にも角にも情報が足りない。何時も通りの所作で着替えを済まし、扇子や日傘を手に持って襖へ手を掛ける。確かに、強力な結界だ。だが、私にとってそれを解く事は造作も無い。……物の数秒で解けてしまった。
よし、先ずは情報収集、そして協力者集めをしよう。もし本当に月の仕業だとしたなら……その時は、また連中の鼻を明かすだけだ。第三次月面戦争だって引き起こしてやろう。そう意気込みながら勢いよく開けてーー。
「……は?」
ーーその先の光景に、その感覚に、絶句してしまった。
……幻想が、消えていた。
全く、幻想を感じることができなかった。あの唯物的思想に支配された下らない世界と同じだ……何もかもを否定する力が、どうどうと押し寄せてくる。
ーーなんという事だ……。
最悪の想定が、現実になっていた。私の愛する幻想郷が……消えて無くなってしまっていた。何故だ。また、無数の疑問がボコボコと湧き出してくる。
結界はどうしたのか。博麗の巫女はどうしたのか。私の式神はどうしたのか。私の友人達はどうしたのか。他の賢者達は。他の人妖共は。
ーーどうして、こうも私は冷静なんだ?
そう、私はこの状況に陥っておりながら、頗る冷静であった。少なくとも、先程の、最悪の想定をしていた時よりも……ともすれば、平常以上に冷静な私であった。どうしてかは分からない。相変わらず疑問は留めなく湧いてくるが、それでも思考は非常にクリアな状態だった。今までに無い、奇妙な感覚だ。自分はこの状況を最も恐れていたというのに、いざそこに立ってみると恐怖も動揺も消えてしまった。焦燥のあまり、逆に冷静さを手に入れてしまったのかしらん……そんな思考が出来る程度には余裕ができていた。
明らかに、おかしい。だが、いくらこの身を精査しようとも異常は見受けられない。何かしらの術か、魔法か、或いは結界か……そんな痕跡は見つけられなかった。己の目を掻い潜ってそんなものを掛けられる存在が居るとも思えない。
ーーああ、おかしいナ……。
ーーこれは、本当に私なのだろうか……?
ーーこうも薄情な……幻想郷を失くして冷静で居られるような存在だっただろうか……?
ーー自分の記憶さえ定かでは無いというのに……。
ーー私を、私と決定付ける確固たる証も無いというのに……。
ーーそもそも、これが現実という証も無いではないか……。
ーー或いは、今までの全てが夢だったのやもしれぬ……。
ーー分からない。
それは、私の妖生に於ける、初めてとも言えるかもしれない“分からない”だった。この己の、この半生の何もかもを不明瞭にさせる“分からない”だった。言うなれば、全てを包括した上で、全てを肯定するか、或いは全てを否定してしまうような、そんな“分からない”だった。
イヤ、いけないいけない……思考を遊ばせ過ぎてしまった。そんな事は、どうでもいいのだ。そう、まずはこの状況をどうにかしなければ……。また思考に囚われていてはいけない。今は行動あるのみなのだ。
そうして部屋を出てみると、屋敷の様子は酷いものだった。壁には幾つもの大穴が空き、腐りきった床が所々剥げ落ちている。天井が落ちている箇所もあれば、柱は軒並み折れてその役目を果たさなくなっていた。辛うじて残っている数本がこの家を支えているようだ。一歩足を踏み出してみれば、ギシリ、と大きく軋む音が響き渡る。その拍子に、ヒュッ、っと風が吹いたものだから、その冷たさに体を縮こまらせてしまった。
ーー随分と寒いな……。
私には、その冷たさはある種の暴力性すら感じられた。風が吹く度に無防備な躯を撫でまわされ、蹂躙された。しかも、そんなやつが絶え間なくずっと吹いてくるのだ。堪ったものではない。
本音を言えば、今直ぐにでもスキマに引き篭るか、部屋に戻って布団に潜ってしまいたかった。今にして思えば、そんなものは、直面している全てが一夜限りの夢で、眼を覚ませば何時も通りの暖かい春先に、傍で藍が侍っているような、そんな淡い希望を持ち合わせてた願望だったのだろう。
廊下を歩いていく。ギシリギシリと軋む音が止む事は無い。時折、バキッ、と床が抜けてしまう。風もずっと吹いてくる。
ようやっとの思いで屋敷を出ると、やはり世界は厳冬を極めていた。幻想も、全く感じられない。
空気は淀み、山はやつれ、中空を彩る幻想少女はそこに無く、灰煙を散蒔く詰まらない鉄の塊が大空を支配する……ああ、何という唾棄すべき世界か。唯物のみを肯定し、科学のみに信仰を捧げ、あらゆる幻想を駆逐する……低劣堕落の極みだ。
だが、こんなところで嘆いていたってしようがない。それを、今からどうにかせねばならないのだ。
世界は灰色に染まっている。雪も降っていないし、草木も枯れ果てて立ち並ぶだけだ。何色もそこには映っていない。
だからだろうか……その紅は、よく目立つ。
紅魔の牙城が、そこにあった。